神への道 

第8章 すべてであり、すべてのうちにおられるキリスト


「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というよ
うな区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)

 私たちが、そうあっていただけるように努めるなら、キリストは私たちにとってすべてであられ
ます。私はこの「すべて」という語を強調したいと思います。ある人々はキリストを「砂漠の地か
ら出る根のように・・・私たちが見とれるような姿もなく、・・・私たちが慕うような見ばえもない」存
在としてしまいます。彼らにとって主は無です。彼らは全く主を求めていないのです。また、ある
クリスチャンたちは、とても小さな救い主像しか描いていません。彼らは主のすべてを受けよう
とせず、偉大で力強い御業を成していただこうとしないからです。しかし一方で、主を力強い救
い主として掴んでいる人々がいます。彼らは主を偉大で力あるお方であると信じているからで
す。

    ・罪からの救い主

 もし、キリストご自身が私たちに対してどうありたいと望んでおられるか、を知ろうとするなら、
まず第一に主を罪からの救い主として知らなくてはなりません。キリストが地上にお生まれにな
ることを告げ知らせるために、主の使いが天から降りてきた時に、主の名を告げて何と言った
か覚えていますか。「その名をイエス(主は救い)とつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその
罪から救ってくださる方です」と言ったのです。私たちは罪から分かたれているでしょうか。主は
私たちを罪の中で救うために来られたのではありません。罪から救うために来られたのです。
さて、私たちが誰かのことを「知っている」という時に3つぐらいの違った段階があると思いま
す。1つは、単に人伝に聞いただけ、という場合で、2つ目は、一度紹介された程度のことを指
す場合です。そのような人々のことは、ほんの少ししか知らないでしょう。しかし3つ目には、何
年もの間よく知り合っている場合というのがあり、そのような人のことは、深く知っていると思わ
れます。同様に、今日の教会の内外にも3種類の人々がいると思います。第1にキリストをた
だ本を読んだだけ、またはうわさを聞いただけで知る人です(そのような人々はキリストをただ
歴史上の人物としてとらえます)。第2はほんの少し個人的に主を知ろうとする人、そして第3
に、パウロがそうだったように、「キリストとその復活の力を知り」たいと渇望する人です。私た
ちはキリストを知れば知るほど、キリストを愛するようになり、より良くキリストに仕えることが出
来るようになるのです。
 十字架につけられたキリストを仰ぎ見、どのように主が罪を取り除いてくださったかを見ましょ
う。主は私たちの罪を取り除くために現れてくださったのです。ですからもし私たちが主を本当
に知るなら、まず第一に罪からの救い主として主を見なくてはなりません。ベツレヘムの野で御
使いが羊飼いたちにこう言ったのを覚えているでしょう、「今、私はこの民全体のためのすばら
しい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生ま
れになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ 2:10−11)。そしてもしあなたがキリスト聖誕7
00年前のイザヤに遡るなら、この言葉を見出すでしょう、「わたし、このわたしが、主であって、
わたしのほかに救い主はいない」(43:11)。
 また、ヨハネの第1の手紙4章14節にこうあります「私たちは、御父が御子を世の救い主とし
て遣わされたのを見て、今そのあかしをしています」。あらゆる異教の宗教は、人が神に到達
する道に精進することを教えます。しかしイエス・キリストの教えでは、神が人々を救い、罪の
穴の中から引き上げるために降りて来てくださることを教えています。ルカ19章10節ではキリ
ストご自身が、地上にいらした理由を「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
と人々に語っておられるのがわかります。ですから、私たちの出発点は、ゆりかごからではなく
十字架からなのです。キリストは御父への新たな生ける道を開かれ、その道からあらゆる躓き
となる障害を取り除かれました。ゆえにキリストを救い主として受け入れる人は皆、救いを受け
ることが出来るのです。

   ・救い主以上のお方

 しかし、キリストはただ救い主であられるだけではありません。
 仮に私が溺れかけている人を助け、早すぎる死から救ってあげられたとしても、恐らくそれ以
上のことはしてあげられないでしょう。でもキリストは救い主であられる以上のお方です。 
 かつてエジプトで、死の使いがイスラエル人の家を過ぎ越し、彼らが血の陰に隠されていた
時、血潮が彼らの救いでした。しかしもし彼らがエジプト人の奴隷のくびきから開放されていな
かったら、彼らはそれからも奴隷の監視役が鳴らす鞭の音を聞き続けなければならなかった
のです。ですからこのことは、神が彼らをエジプトの王の手から救い出されたということなので
す。
 私は、神が私たちを救うために世に降られて、私たちをつきまとう罪の奴隷として牢獄に放っ
て置かれるという考えには共感出来ません。いいえ、主は私たちを解放し、悪の性質、情欲、
肉欲に打ち勝たせるために来られたのです。
 あなたはクリスチャンであると告白していながら、つきまとう罪の奴隷になっていませんか。も
しあなたが罪の性質や肉欲に勝利を得たいと願うなら、より親しくキリストを知り続けなさい。主
は過去、現在、そして未来において開放を与えてくださいます。「神は、・・・救い出してください
ました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださる・・・」(コリントU 1:10)。

    ・目の前が暗闇のとき

 ちょうど紅海へ差し掛かった時のイスラエル人のように、いかにしばしば私たちは、自分の前
や後ろ、そして周りのもの全てが暗く見えて、どちらに向って行ったら良いかわからなくなり、落
胆させられることでしょう。ペテロのように私たちも「私たちがだれのところに行きましょう」と言
いました。すると神は私たちを開放するために現れてくださいました。主は私たちを連れてまっ
すぐに紅海を渡り、荒野を越えさせ、約束の地への道を開いてくださいました。しかしキリストは
私たちを開放する方であるだけでなく、贖う方でもあられます。それは私たちの救い主であられ
る以上の意味があります。主は私たちを買い戻してくださいました。「あなたがたは、ただで売
られた。だから、金を払わずに買い戻される。」(イザヤ 52:3)。「贖い出されたのは、銀や金のよ
うな朽ちる物にはよらず、」(Tペテロ 1:18)。もし黄金で私たちを贖うことが出来るのだったら、
主は無数の黄金の世界をお造りになれなかったでしょうか。
 神がイスラエル人をエジプトのくびきから贖い出し、紅海を渡らせた時、イスラエル人は荒野
へ向って歩き始めました。それで神は民のために彼らの道となられました。私は主が私たちを
暗闇に放っておかれたことなど無く、正しい道へと導いてくださったことに感謝しています。真の
いのちある人で道が分からずに闇の中を手探りし続けている人はいません。キリストは「わた
しが道・・・なのです」と言われました。もし私たちがキリストに従うなら、私たちは正しい道を歩
み、正しい教えを持っています。誰が全能の神ご自身のようにイスラエル人を荒野で導くことが
出来たでしょうか。主は行く先の落とし穴や危険を知っておられて、民を荒野の旅全行程を通
して約束の地への正しい道へと導かれました。もしあの忌まわしい不信仰がなかったら、確か
に彼らはカデシュ・バルネアからカナンの地へ入って行き、そこを占領することが出来たでしょ
う。しかし彼らは神のことば以外のものを求めたので、後戻りさせられ、40年の間荒野をさま
よわなければならなかったのです。
 今でも荒野をさまよっている多くの神の子どもたちがいることでしょう。もし彼らがただ喜んで
キリストに従おうとしさえすれば、主は彼らをエジプトの手から救い出し、直ちに荒野を通り抜け
て約束の地へと導き入れてくださったでしょうに。キリストはこの地上に来られ、荒れ地を平ら
に、暗闇を光に、曲がった道を真っ直ぐになさいました。もし私たちがただ主に導かれようと
し、主に従おうとしさえすれば、全ては平和と喜びと安息になるのです。

    ・道に目印をつける

 開拓地では、猟に出る時、手斧を持って行き、森を進むにつれて、木の皮に傷をつけます。
これを「道に目印をつける」といいます。深い森には道が無いため、帰り道がわからなくならな
いようにするのです。キリストはこの地上に来られ、道に目印をつけてくださいました。そして今
は天に帰られましたが、もし私たちが主の歩まれた跡を辿るなら、私たちは正しい道に保たれ
ます。
 あなたがキリストの跡を辿っているかどうかをどうやって知ることが出来るか教えましょう。も
し誰かがあなたを中傷したり、誤解したりしたら、あなたはその人を主がなさったであろうように
扱いますか。もしあなたが愛と赦しの心でこれらのことを耐えるのでなければ、世界中のあら
ゆる教会も牧師もあなたを正すことは出来ません。「キリストの御霊を持たない人は、キリスト
のものではありません」(ローマ 8:9)。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られ
た者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)。
 キリストは私たちの道であるだけではなく、道を照らす光です。「わたしは、世の光です」(ヨハ
ネ 8:12、9:5、12:46)。主は続けて言われました「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むこ
とがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ 8:12)。キリストに従っていて闇の中を歩むというの
はあり得ません。もしあなたの心が闇の中にあって、この世の霧や霞の中を手探りで歩き回っ
ているなら、それはあなたが真の光から離れてしまっているからです。闇を追い払うものは光し
かありません。
 ですから、霊的な闇の中を歩いている人々に、心の中にキリストを受け入れさせなさい。なぜ
なら主は光だからです。私は一枚の絵を思い出しています。かつてはその絵で多くのことを考
えたものです。でも今はより近づいて見ています。私は敢えて壁に顔を向けるのでなければ、
家の中にその絵を飾ろうとは思いませんでした。それは手に大きなランタンを持ち、ドアの前に
立って、ノックしておられるキリストを描いています。どうでしょうか。ランタンををキリストの手に
置くぐらいなら、太陽に掲げた方がましではないでしょうか。主は義の太陽です。そして雲無く
晴れ渡った太陽の光の中を歩くのは私たちの特権なのです。

    ・影を捕まえようとして

 多くの人々が、誰からもそうしなさいと言われたわけではないのに、光や平安や喜びを追い
求めています。もしキリストを心に受け入れるなら、それらすべてはひとりでにやって来ます。
私は子どもの頃、よく自分の影を捕まえようとして徒労に終わっていました。ある日私が太陽の
方向に歩いていた時、偶然振り返ってみると、影が私についてくるのに気づきました。私が速く
歩くと影も速くついて来ます。あんなに追いかけても捕まえることが出来なかった影から、私は
逃げ切ることが出来ませんでした。私たちが義の太陽の方向に向いている時、平安と喜びは
確かについて来るのです。
 しばらく前、ある人が私に言いました「ムーディーさん。あなたは信仰生活にどんな感動があ
りますか」。私が自分の信仰上の感情について気にしていたのは随分昔のことだったので、答
を出すためにしばらく立ち止まって考えなくてはなりませんでした。クリスチャンの中にはいつで
も自分の感情にばかり気を取られている人々がいて、そういう人は感動が薄れると、喜びが去
ってしまったと思うのです。もし私たちがキリストの方を向いており、心の首座を主に明け渡して
いるなら、私たちは、私たちの行く道にある闇や困難の外へ運び出されるのです。
 南北戦争が勃発した後の集会のことを思い出します。当時、戦いは6ヶ月も続いていました。
北軍はブルランでの戦いで敗れており、実際私たちは敗北しか無い状況で、あたかも北軍は
散り散りになったように見えました。それで私たちは落胆し、意気消沈していました。この集会
でも、各説教者たちは話し方を忘れてしまったかのようで、それは私の経験した中で最も暗い
集会の一つでした。
 最後にきれいな白髪頭の老人が立ち上がりました。彼の顔は本当に輝いていました。彼は
「皆さん。あなた方は真の王の子達のように語っていませんね。たとえ今ここが暗闇でも、どこ
か他のところに光があることを思い出してください」と言い、たとえ世界中が暗闇になっても、天
の王座には光があることを語り続けました。

    ・雲よりも高く昇れ

 東洋から来たひとが、一人の友人が登山をして夜を過ごし、翌朝太陽が昇るのを見た経験
に関して述べたことについて、私たちに話してくれました。
一行が山を登っている時、頂上に着く前に嵐がやってきました。この友人はガイドにこういいま
した。「私はこの登山を諦めるから、連れ帰って欲しい。」ガイドは微笑んで答えました。「もうち
ょっと登ればすぐ嵐の上に着くと思いますよ。」彼らは進んでいきました。するとまもなく夏の夕
べのように静かなところに行き着きました。
下の谷では恐ろしい嵐が荒れ狂っていました。彼らは雷鳴を聞き、稲妻が光るのを見ることが
できましたが、山の頂上ではすべてが静かでした。
「ですから、お若い友よ、あなたがたの回りがすっかり暗くても、もう少しお登りなさい。そうすれ
ば暗闇は去りますよ。」とその老人は続けました。私はしばしば勇気を失いそうになりますが、
そのときはいつも彼が言ったことを考えます。さあ、もしもあなたがたが下の谷で厚い霧と暗闇
のまっただ中にいるなら、もう少し高く登り、キリストにもっと近づき、もっと彼を知ってごらんな
さい。あなたがたは聖書の語ることを思い出しましょう。キリストが十字架上で息を引き取られ
た時、世界から光が取り去られました。
神は神の一人子を世の光として遣わされました。しかし人々は光を愛しませんでした。なぜなら
光は彼らの罪を明らかにしたからです。彼らがこの光を取り除こうとしたとき、キリストは弟子
たちになんと言ったでしょうか?
「あなたがたは私の証人となります。」(使徒 1:8)彼は私たちの執りなしのために更に高く昇ら
れました。しかし、彼はこの下の地で私たちが彼に代わって輝くことを望んでおられます。「あな
た方は世の光です。」(マアイ 5:14)ですから私たちの仕事は輝くことです。人々に自分に注目さ
せようとして、自分のためにラッパを吹き鳴らすことではありません。私たちがしたいことはキリ
ストを示すことです。私たちがどんな光を灯しても結局それは借り物の光です。
ある人が若いキリスト者に言いました。「悔い改めたって!それは月の光にすぎない!」若者
は彼に言いました。「図解を示していただいて有り難うございます。月は太陽から光を借り、私
たちは義の太陽から光を借りますから。」もし私たちがキリストのものであったら、私たちはこ
の地でキリストのために輝きましょう。やがてキリストは私たちに報いるため、彼の家に迎えて
くださるでしょう。

     ・盲人とランタン

 私は自分の傍らにランタンを灯して道ばたに座っていた一人の盲人について聞いたことを覚
えています。自分では光を見ることができないのになぜランタンを持っているのかと聞かれる
と、彼はこう答えました、ひとびとが彼に躓かないためだと。
私は他の多くの理由よりももっと多くの人々が、キリスト者だと告白する人々の矛盾に躓いてい
ると信じています。
 世の中のすべての無神論よりもキリストにもっと多くの害を与えるものは、冷たい、死んだ形
式主義、この世への迎合、持ってもいないものを持っていると主張することではありません
か?
世の人々の目は私たちの上に注がれています。ジョージ フォックスが国内の全クエーカー教
徒に、自分の周囲10マイルに光を照らしなさいといったことを思います。
もしも私たち全員が主のために輝いていたなら、私たちの回りにはすべて光が届き、天に喜び
の叫びが届くでしょう。
人々は「真理とはなにか知りたい」と言います。
お聞きなさい。「わたしが真理である」(ヨハネ 14:6)とキリストは言いました。
もしもあなた方が真理とは何かを知りたいなら、キリストについてよく知りなさい。
ひとびとはいのちがないと不平をいいます。
多くのひとびとが自分で霊的いのちを得ようと試みています。
あなたがたは自分を元気づけようと、いわゆる興奮の場に自分を投じるかも知れません。しか
しその効果は長続きしません。
キリストただひとりがいのちの権威者です。
もしもあなた方が真の霊的いのちを得たいなら、キリストを知りなさい。
多くの人々が霊的いのちを沸き立たせようと集会に行きます。
それは有益であるかも知れませんが、もしも生けるキリストに接することができないなら、何の
役にも立ちません。
キリストに接しているなら彼らの霊的いのちは断続的なものではなく、永続するもの、流れ続け
るもの、神のために実を結ぶものとなることでしょう。

    ・キリストは私たちを守られる
    だからキリストは私たちの保護者である

 非常に多くの若い弟子たちが約束を守れないのではないかと恐れています。
「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇 121:4)
けれども私たちは、あのお方はまどろむことも眠ることもない私たちの保護者であることを覚え
ています。
イザヤ書41章10節に私たちはこう読みます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろ
ぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の
手で、あなたを守る。」ユダ書の24節にも同様に私たちはこう教えられます。彼は「あなたがた
を、つまずかないように守ることができる。」
「私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」(ヨハネT 2:1) 

    ・私たちの羊飼い、保護者

しかし、キリストはなにかそれ以上のお方です。
彼は私たちの羊飼いです。
羊飼いの仕事は羊たちを見守り、食べ物を与え、彼らを保護することです。
「わたしはよい羊飼いです。」(ヨハネ 10:11)
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」(ヨハネ 10:27)
「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ 10:15)
ヨハネの福音書のすばらしい10章に、キリストは「わたしは」という名詞を28回も使って、彼が
どんなお方で何をしようとしておられるのか宣言しておられます。
28節に彼はこう言われます。「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼
らを奪い去るようなことはありません。」
しかしイタリック体で書かれた「ひと」という語に注目してください。
この節の真の意味を理解しなさい。「いかなる者もわたしの手から彼らをもぎとることはできま
せん」であって、悪霊でも人でもそれができる者はいないということです。
他の箇所で聖書はこう宣言しています。
「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ 3:3)
「なんと無事、なんと安全でしょう!」
キリストはこう言います。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。・・・そして彼らはわたしに
ついて来ます。」(ヨハネ 10:27)
東洋のある紳士が羊飼いについて聞きました。彼は自分の羊を全部名前で呼ぶことができる
と。
彼は行って、それは本当かと訊ねました。
その羊飼いはそのひとを牧場に連れて行き、そこで羊になかの一匹をその名で呼びました。
一匹の羊が顔をこちらを見、鳴いて返事をしました。一方他の羊は草を食べにいって何の反
応もありませんでした。
同じようにして、彼は彼の周りにいた1ダースもの羊を呼びました。
訪問客はいいました。「どうやって、あなたは一匹を他の羊と見分けるですか?
羊たちは全部完全にそっくりですね。」
「そうですね。あの羊のつま先は小さいですね。むこうのは曲がっています。もう一匹はちょっと
だけ毛がありません。ほかのは黒い斑点があります。更に他のは耳の外側に傷がついていま
す。」と羊飼いは言いました。
その人は自分の羊全部をその欠点によって見分けていました。なぜなら群れ全体に完全な羊
は一匹もいなかったからです。
私たちの羊飼いも同じ方法で私たちをご存じであると私は思っています。

    ・彼の羊は彼の声を聞き分ける

 かつて東洋の羊飼いが彼の羊は彼の声を知っていて、見知らぬ人が彼らを欺くことは決して
できないと言いました。
そこでその紳士は試しに何か言ってみたいと考えました。そこで彼はその群れの羊飼いのター
バンをつけて、杖を持ち、群れのところに行きました。彼は声を変え、できる限り羊飼いの話す
のと同じであるようにしました。しかしただの一匹の羊も彼について来ることはありませんでし
た。
彼はその羊飼いにどうして羊が知らないひとには決してついていかないのか訪ねました。
彼は、一応ついて行かないのですが、その羊が病気だと誰かについていくことがあります、と
答えました。
そこで非常に多くの信仰を告白したキリスト者も、彼らが信仰について病気かあるいは弱くなっ
ているとやってきた他の教師について行ってしまうでしょう。しかし、その魂が健康であるときに
は誤りや異端に連れ去られることはないでしょう。
彼は「声」が真実であるか偽りであるか聞き分けます。
それで彼は直ちに神と真実の交わりができます。
神が真の使者を使わされるとき、そのことばはキリスト者のこころに直ちに応答を見るでしょ
う。

    ・私たちの優しい羊飼い

 キリストは優しい羊飼いです。
あなた方はしばしば彼が非常に優しい羊飼いではないと考えるかも知れません。
あなた方は彼のむちの下を通り過ぎつつあります。
こう書かれています。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘ
ブル 12:6)
あなた方がむちの下を通っているのは、キリストがあなた方を愛していない証拠ではありませ
ん。私の友人のひとりが自分の子供たち全部を失いました。彼以上に家族を愛している人は
誰もいないほどでした。しかし猩紅熱が子供たちをひとりまたひとりと取り去りました。そして4,
5人の子供たちが次々と死にました。打ちのめされた哀れな両親は英国を去り、大陸の此処
かしこを彷徨いました。彼らはとうとうシリアにいきつきました。
ある日彼らは東洋の羊飼いが流れのそばに下り、彼の群れを渉らせているのを見ました。
羊たちは川岸に下り、水を見ました。そして尻込みし、羊飼いの呼び声に応えられない反応を
しました。すると羊飼いは小さなランプを一方の腕のしたに、もう一つのランプをもう一方の腕
の下につけ、流れを渉って行きました。年を取った羊はもう水をみてはいませんでした。彼らは
羊飼いについて行きました。そして数分後群れ全部が向こう岸にいました。そしてかれらはもっ
と新しい新鮮な牧場へと急ぎました。子供たちを失った父と母は、その光景を見て、それが彼
らにひとつの学課を教えていると感じました。
彼らは偉大な羊飼いが彼らの子羊たちをひとりまたひとりと、かなたの世界に連れ去られたこ
とをもはやつぶやいてはいませんでした。彼らは見上げ、やがて彼らが失った愛する子供たち
に続いて自分たちも行くことを前方に見ました。もしも以前あなたが愛するものを失っていたの
でしたら、あなたの羊飼いがあなたを呼んでいることを思い出しなさい。「あなたがたは、・・・、
天にあるものを思いなさい。」(コロサイ 3:2)
私たちがこの世にいる限り、キリストに信仰深くありましょう。彼に従いましょう。
そしてもし彼をあなたの羊飼いとしていないのでしたら、まさに今日そうしなさい。

    ・キリストに関する素晴らしい記述

キリストは私がこれまでに言及したことで全てではありません。彼は仲保者です。私たちの潔
め主です。私たちを義とする方です。事実、すべての個々の魂に彼が望むことを記すなら、そ
れを語るには万巻の書物が必要となるでしょう。
私が以前ある論文に目を通していたとき、キリストに関する以下の素晴らしい記述を読みまし
た。
私はその原文がどこからきたのか知りません。しかしそれは私の魂に非常に新鮮でしたので、
皆さんにそれをご紹介したいと思います。
「キリストは私たちの道です。私たちは彼の内を歩みます。
彼は私たちの真理です。私たちは彼を悟ります。
 彼は私たちのいのちです。私たちは彼の内に生きます。
 彼は私たちの主です。私たちは彼が私たちを支配されることを選びます。
 彼は私たちの主人です。私たちは彼に仕えます。
 彼は私たちの教師です。私たちを救いの道に導いてくれます。
 彼は預言者です。私たちの未来を指摘してくれます。
 彼は私たちの祭司です。私たちのための贖い代をお持ちです。
 彼は私たちの弁護士です。私たちの執りなしをするために常に生きておられます。
 彼は私たちの救い主です。限りなく救ってくれます。
 彼は私たちの根です。私たちは彼によって育ちます。
 彼は私たちのパンです。私たちは彼によって養われます。
 彼は私たちの羊飼いです。私たち緑の牧場に導いてくれます。
 彼は私たちの葡萄の木です。私たちは彼に宿ります。
 彼はいのちの水です。私たちは彼によって渇きをいやされます。
 彼は万人越えて麗しい方です。・・私たちは他のすべての人にまさって彼を崇めます。
 彼は父の栄光の輝き、父の人格の像(かたち)の現れです。私たちは彼に似たものとなるよ
うに努力します。
 彼は万物の維持者です。私たちは彼の上に休みます。
 彼は私たちの知恵です。私たちは彼に案内されます。
 彼は私たちの正義です。私たちは私たちのすべての不完全さを彼の上に投げかけます。
 彼は私たちの聖潔です。私たちは私たちが聖い生活をするためのすべての力を彼から引き
出します。
 彼は私たちの贖いです。彼は私たちを全ての汚れから贖ってくれます。
 彼は私たちの癒やし主です。私たちのすべての病を癒やします。
 彼は私たちの友です。私たちをすべての必要から解放してくれます。
 彼は私たちの兄弟です。困難の中で私たちを元気づけます。」

ゴットホールド氏によるもう一つの美しい抜粋
「私自身について言えば、私の魂は飢え乾いた子供のように、私が新しくされるために彼の愛
と慰めが必要です。
 私はさまよい失われた羊です。それで私は彼をよい忠実な羊飼いとして必要です。
 私の魂は鷹に追われて驚かされている鳩のようです。それで私は避難のための彼のラッパ
を必要としています。
 私は弱いぶどうのつるです。私は私を支える彼の十字架を必要としています。それに私が身
を巻き付けるために。
 私は罪人です。それで私は彼の義を必要としています。
 私はむきだしで裸です。それで私は彼の聖く、無垢の覆いを必要としています。
 私は無知です。それで彼の教えを必要としています。私は単純で愚かです。それで私は彼の
聖霊を必要としています。
 私はいかなる状況、いかなる時にも彼なしでは何もすることができません。
 私は祈るでしょうか?彼は私を促し、取りなしてくれます。
 私は神の法廷でサタンに罪を責められるのでしょうか?キリストは必ず私の弁護者になってく
れます
 私は苦難のなかにいるでしょうか?キリストは必ず救助者になってくれます。
 私は世から迫害されるでしょうか?キリストは必ず私を守ってくれます。
 私が見捨てられる時、キリストは私の支えとなってくれるに違いありません。私が死につつあ
るとき彼は私のいのちに、墓に葬られるとき彼は私の復活に。
 それで私の救い主よ、世のいかなるものも、世に含まれているすべてのものも、あなたにまさ
るものはありません。
 そして、神に感謝します!
 そしてあなたもまた私なしになにかを喜んですることがおできにならないことを私は知ってい
ます。
 あなたは富んでおられ、私は貧しい。
 あなたは豊に供給でき、私は不足です。
 あなたは正しく、私は罪人です。
 あなたはぶどう酒と油で、私は傷ついています。
 あなたは元気をつけるもの、リフレッシュさせるもので、私は飢え乾いています。
 それで、私の主よ、どんな目的でも、どんな方法でも、みこころのままに私を使ってください。
 ここに私の貧しいこころ、空っぽの容器があります。あなたの恵みでそれを満たしてください。
 ここに私の罪深い、悩んでいる魂があります。それをあなたの愛で力づけ、新にしてくださ
い。
 あなたが住むために私のこころをお使いください。あなたの御名の栄光を広めるために私の
口をお使いください。あなたを信じる人々の前進のために私の愛と力の全てをお使いください。
私の堅い信頼が常に決して揺らぐことがありませんように。常に私のこころから、「イエスよ。私
はあなたを必要としております、そして私とあなたがお互いにそのように語り合うことができま
すように。」



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