神への道 

第9章 信仰の後退


「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったから
だ。」(ホセア書 14:4)

    ・二種類の信仰の後退者

ある人々は回心したことが全くなかったのです。彼らは形式的にキリスト者の群れに加わった
のですが、信仰を止めたと宣言するのです。しかし、彼らは「滑り落ちた」と表現するかも知れ
ませんが、もともと信仰を持っていなかったのです。
彼らは信仰の後退について語るかも知れませんが、真に新生したことは決してなかったので
す。
彼らは真の信仰の後退者・・・朽ちることのない種によって生まれたけれども、脇にそれてしま
った人々・・・とは違った取扱を必要としています。
 私たちは後者・・真の信仰の後退者たち・・を、彼らが最初の愛を捨てたその同じ道に帰って
くるようにしたいのです。
詩篇85:5に戻りましょう。
そこであなた方は読みます。「あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのです
か。  代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び
生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの
恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。」(85:5-7)
さあ更に見てください。「私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに
平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。」(85:8)

    ・信仰の後退者と神のことば

 信仰の後退者たちがなすべきことで彼らが神のことばを取ること以上によいものは何もな
い。そしてその神のことばは、新約聖書と同様に旧約聖書に満ちている。
エレミヤ書には、さまよう人々に対するいくつもの素晴らしい文節がある。
私たちが信仰の後退者たちに望むことは、彼らが神、主が言っておられることを聞くことです。
エレミヤ書6章10節をご覧なさい。「私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見
よ。彼らの耳は閉じたままで(耳に割礼なく)、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らに
とって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。」
これが信仰の後退者たちの状況です。
彼らは神の言葉はなんであっても喜ばないのです。
 かし私たちは彼らがもどることを期待しています。神はかれらの耳を残されました。
14節から17節までを読みましょう。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないの
に、『平安だ、平安だ』と言っている。
彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らな
い。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と主
は仰せられる。
 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを
尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。
しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。
また、わたしは、あなたがたの上に見張り人を立て、『角笛の音に注意せよ』と言わせたのに、
彼らは『注意しない』と言った。」
 これが信仰が後退していた時のユダヤ人の状態でした。
彼らは古い道から逸(そ)れていました
そしてそれが信仰の後退者たちの状況です。
彼らはよい古い書物(聖書)を捨てています。
アダムとエバは神のことばに聞き従わないことによって倒れました。
彼らは神のことばを信じないで誘惑する者のことばを信じました。
それが信仰の後退者たちが・・神のことばから離れ去って・・倒れる道です。

    ・「わたしはあなた方と言い争う」

 エレミヤ書2章に、父が一人息子に主張するように、神が彼らに主張しているのを見いだしま
す。
「主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く
離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。・・・そのため、わたしはなお、
あなたがたと争う。 ──主の御告げ── また、あなたがたの子孫と争う。・・・
わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をた
めることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」
さて信仰の後退者たちに注意を払って欲しいひとつのことがあります。それは神は彼らを決し
て見捨てなかった。しかし彼らが神を捨てたのだ!
主は決して彼らから去らなかった。彼らが神から去ったのだ!
そしてどんな原因があっても同じであった!
神は言われる、「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ
たのか?」
あなたがたが神のもとに来たときと同じ神ではないのか?
神が変わってしまわれたのか?
人々は神が変わられたと信じがちですが、彼らは誤っています。
信仰の後退者たちよ。私はあなた方にお尋ねしたい、「神にどんな不正があって、あなたがた
は神のもとを去り、神から遠く離れたのか?」
神は言われる。あなたがたは壊れた水ためを自分のために作ったが、それは水をためること
ができない。
世は新しく造られたものを満足させることができません。
天の性質を分かち与えられた魂を満足させることができる地上の泉はありません。
命の泉を味わった人々が、道に迷い、世の泉で新しくされること探し求めても、世の名誉、富、
快楽が彼らを満足させることはありません。
地上の泉は枯れてしまいます。
それらは霊的渇きを癒やすことができません。
32節で神はもうひとつ質問しておられます。
「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたし
の民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
これが、神が信仰の後退者に対して示しておられる罪です。
 彼らは「数えきれない日数、わたしを忘れた。」
私は若いご婦人方にしばしば驚かされる。
彼らに「友よ。あなた方は、主よりも自分のイヤリングについて考えておられるでしょう。」と言っ
たとき、
彼らの答えは「いいえ。そんなことはありません。」です。
しかし私が「それらのひとつをなくしても悩みませんか。それを探すことをしませんか?」と訊ね
ると、「ええ。はい。きっと探します。」と応えました。
しかし彼らが主から離れても、それが何の悩みも彼らに与えず、彼らは主を探し求めず、主を
見いだすことはないでしょう。
かつては仲間であり、日々主と交わっていたけれども、今は彼らの貴重な魂にまさってドレス
や香料を考えているひとびとがなんとたくさんいることでしょう。
母親たちは彼女たちの子どもが人のもとを去って、ひとことも書いてこないとか彼らに愛を示す
品を何も贈ってこなかったら、彼女たちは失望するでしょう。それで神は迷い出た愛する子ども
の親のように、信仰から後退したひとびと論争されます。そして彼らを自分のもとに帰らせよう
と試みます。
神は訪ねます。「わたしは、彼らがわたしを捨てて当然なことを何かしたか?」と。

    ・去っていることの苦さ

 新約聖書全体に見いだされる最も優しく愛に溢れたことばは、理由もなく主のもとを去った
人々に対する主のことばに見いだされます。
主がそのように強調していることばを聞きなさい:
「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめ
よ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことか
を。−−万軍の神、主の御告げ──」(エレミヤ書 2:19)
私が何百人もの去って行った人々に、帰ってきなさいと言ったのは決して誇張ではありませ
ん。そして彼らが主のもとをさって悪く苦いことを見いだしていないか訪ねました。
皆さんは主を知っていて、主から去ることの悪く苦いことを承知しない、真の背教者を見いだす
ことは不可能です。
ただ一人のさまよう人を連れ帰ることをテーマとした讃美歌を知らない人はいない。
あなた方は遠い国をさまよっているかも知れませんが、それがあなたを連れ帰るかも知れませ
ん。
ロトをご覧なさい。
彼はソドムで悪いことや苦いことを見つけなかったのでしょうか?
彼は20年間ソドムに住んでいましたが、一人の回心者も得ませんでした。
彼は世の中で富んでいました。
人々はあなた方に彼はソドムの中で最も影響力と価値のある人物の一人であったといったで
しょう。
しかし悲しいかな、彼の家族は滅びました。
年老いた信仰の後退者が真夜中に自分の子供たちに警告するため、ソドムの町を行くのを見
ることは悲しい光景です。しかし彼の子どもたちは聞く耳を持ちませんでした。
彼らの子どもたちがみな滅びたことが証明していること以外には、その人と妻が背教者であっ
たかは分かりません。
子どもたちは見せかけだけの宗教を持ち、両親をあざ笑っていました。「あなた自身の悪さが
彼らを正しくするだろうか。あなたの背教があなたを証明します!
ダビデはそれを見いださなかったでしょうか?
彼の叫びに注目しなさい。
「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよ
かったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(サムエル記U 18:33)
彼の息子がこの苦悩の原因となりましたが、彼が嘆いたのは死というよりもむしろ滅びであっ
たと私は思います。

    ・罪のために荒れた山々をさまよう

 私は何年か前にある老人とした会話に時間を割いたことを覚えています。
彼は罪のために荒れた山々を4年間さまよいました。
その晩彼は帰りたいと思いました。
私たちは祈りました、祈りました、そして祈りました、彼のうえに光が差し込むまで。そして彼は
喜んで帰っていきました。
次の夜、彼は私が説教している間私の前に座っていました。その時私はこれまでの人生でそ
のように悲しげで惨めに見えるひとを見たことがありませんでした。
彼は質問するための部屋に私についてきました。
「何が問題ですか?」
私は訪ねました。「あなたの目を救い主から離したのですか? 疑いが戻ってきたのです
か?」
「違います。そのようなことではありません。」と彼はいいました。
「私は仕事に戻りませんでした。代わりに一日中私の子どもたちを訪ねました。
彼らはみなこの町で結婚しています。
私は彼らの家から家へと行きました。しかし彼らは私をばかにしただけでした。
私の人生で最暗黒の日です。
私は自分のしてきたことに目覚めました。
私は子どもたちを世に連れて行きました。そして今彼らをそこから連れ出すことができませ
ん。」

主は彼の救いの喜びを彼に回復なさいました。しかし彼の背きは苦い結果を残しました。
あなた方は自分の経験を思い返すことができます。そしてそのような瞬間を繰り返し見いだす
ことができます。
何年か前にはあなたの町に神を仕えていた多くの人々が、自分の繁栄の中で神を忘れてしま
いました。そして彼らの息子たち娘たちはどこにいるでしょうか?
主を捨て、世の卑しいものに戻っていった父と母とをご覧なさい。彼らの子どもたちが滅びの道
を急いでいなかったら、私が間違えたのです。私たちが信仰深くあることを願うとき、これらの
後退者に警告します。それは危険を警告する愛のサインです。
私たちは敵にはほんの少しの間目を留めてみるかも知れません。しかし、真の友には警告の
声を上げます。
イスラエルにはモーセ以上の真の友はありませんでした。エレミヤ書に神はご自分の民を神に
帰らせるために泣く預言者を与えました。しかし彼らは神を捨てました。
彼らはエジプトから彼らを連れ出し、荒野を通り、約束の地に導き入れた神を忘れました。
彼らは繁栄すると神を忘れ背き去りました。主は彼らにどういうことが起きるか告げました。(申
命記28章)

そして何がおきたかごらんなさい。
神のことばを焼いた王はネブカデネザルに囚われ、目の前で彼の子どもたちは全員殺されま
した。そして彼は両目をくりぬかれました。そして青銅の鎖に繋がれバビロンの地下牢に投げ
こまれました。それが、彼が蒔いたものの刈り取りでした。まことに背信は悪く苦いことです。し
かし主は主のことばのメッセージによって、あなた方を神のもとに帰らせることに成功します。

    ・帰れという呼び声

 エレミヤ8:5に私たちは読みます。
「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつ
き、帰って来ようとしない。」
これが、主が彼らに思い出させていることです。
 「彼らは帰ることを拒絶している。」
「わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と
言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、
自分の走路に走り去る。 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、
自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。」(エレミヤ書 8:6-7)
 さあご覧なさい。「わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語る。」
家庭の祭壇はない!
聖書は読まれない!
密室のデボーションはない!
神は聞くために身をかがめる。しかし神の民は走り去る!
赦しと回復を望んでいる後悔している信仰の後退者がいるなら、あなた方はエレミヤ書3:12
に見いだすことば以上のことばは見つからないでしょう。
「行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。──主の御告
げ──わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。──主の御告げ──わた
しは、いつまでも怒ってはいない。」

さあ注目しましょう。
「背信の子らよ。帰れ。──主の御告げ──わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたし
はあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。」(エレミヤ書 3:
14)
神が来られて言っておられることを考えなさい。
「わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」
「わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。」
「ただあなた方の罪を認めよ。」
なんと多く繰り返してこの節を信仰の後退者たちに聞かせたことでしょう!

「罪を認めよ」、そうすれば、神は「わたしはあなたがたを赦す」と言われます。
私はあるひとがこう訊ねたのを覚えています。「だれがそう言ったのですか?どこでですか?」
そこで私は次の節を彼に聞かせました。「ただ自分の罪を認めなさい」、それでそのひとは跪
いて叫びました。「私の神。私は罪を犯しました」すると神は直ちにその場で彼を回復させなさ
いました。
もしもあなた方が彷徨っているなら、神はあなたがたが帰ってくることを望んでおられます。
神は別の箇所でこう言われます。
「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あな
たがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(ホセア書 6:4)
神の同情と愛はなんと素晴らしいことでしょう!
エレミヤ書3:22に、
「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあなたのもとに
まいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」
神は信仰の後退者の口にぴったりのことばを置かれます。
ただ帰ってきなさい、そして、あなたがたが帰るなら、神は恵みと愛をもってあなた方をそのま
ま受け入れてくださるでしょう。
ホセア書14:1,2,4に、

「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。
あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いも
のを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。・・・わたしは彼らの背信をい
やし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」
帰れ!帰れ!!帰れ!!!と言っておられることがこの節全体に鳴り響いていることをよく見
なさい。
さて、もしもあなた方が彷徨っているなら、あなたがた神のもとを去ったのであって、神があな
たがたから去られたのではないことを覚えておきなさい。
あなたがたが信仰の後退者たちの囲みからでたのなら、同じ方法でそこに入ることができま
す。
そしてあなた方が主のもとを去ったときと同じ道をとるなら、あなた方はどこにいても今直ちに
神を見いだすでしょう。

    ・信仰の後退者はキリストをどのように扱ったか

 もし私たちがキリストを地上の友のように取り扱ったら、私たちは決して彼から去らないでしょ
う。そして決して信仰の後退者にはならないでしょう。
もしも私がある町に一週間いたらそこでできた友人に握手し、彼らにさようならと言わずに去る
ことはないでしょう。
私が誰にも一言も言わずに列車に乗って去ったら非難されるべきです。
「いったいどうしたのだ?」と叫ぶでしょう。
 しかしある信仰の後退者が主イエス・キリストを訪ね、彼の私室に入って「さようなら、主イエ
スよ。私はあなたを、10,20,あるいは30年知っています。しかし私はあなたに仕えることに
くたびれました。あなたのくびきは容易ではありません。それにあなたの荷は軽くありません。
ですから私は世に、エジプトの肉鍋に戻っていきます。さようなら。主、イエス!お元気で」とい
うのを聞いたことがあったでしょうか?
あなたがたはそれを聞いたことがありましたか?
いいえ。あなた方は決してそれを聞かなかったし、今後も決して聞くことはありません。
 私はあなた方に言います。もしもあなた方が自分の私室に入り、戸を閉じて主と交わりを保
つなら、あなた方は彼のもとを去ることができません。
あなた方の心の声はこうです。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠の
いのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ 6:68)
あなた方がそのような方法で彼に対処するなら世に帰って行くことはできません。
それなのにあなた方は彼のもとから走り去りました。
あなた方が彼を忘れた日々は数えきれません。
今日彼のもとに帰りなさい。そのままのあなたで!
神が救いの喜びによってあなた方を回復なさるまで、あなた方のこころを休ませることのない
ようにあなた方のこころを奮い立たせなさい。
コーンウォールに住むある紳士が、かつてその通りで信仰の後退者であると彼が知っているあ
るキリスト者に会いました。
彼はそのひとのところに行き、言いました。「あなたと主、イエスとの間を引き離すものはなにも
ないのではありませんか?私に教えてください。」
その人はうなだれて、言いました。「その通り」

その紳士はいいました。「では、主はあなたになにをしてくれたのですか?」
その答えは溢れる涙でした。
 黙示録2:4−5に私たちは読みます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは
初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、
初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのとこ
ろに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
私はあるひとびとが「最初したことをまたしなさい」とうながす誤りについて皆さんに警告した
い。
 多くのひとびとが、そうすることによってまた同じ経験ができると思っています。
そのため何千もの人々がいつまでも平安なく過ごしています。なぜなら彼らは最初の経験の更
新を待ち続けているからです。
あなた方は主のもとにはじめて帰ったと同じ経験をすることは決してできないでしょう。
神はご自身で繰り返すことをなさいません。
地上の何百万のなかに二人のおなじ人は決していません。似ているか似ていると思うだけで
す。
あなたがたは二人のひとを区別できないと言うかも知れません。しかし彼らと親しくなったとき、
すぐに彼らの違いを見分けられるようになります。
同様に同じ経験を二回する人はひとりもいません。
もしも神が神の喜びをあなた方の魂に回復なさったとするならそれは神の方法を持いてなされ
たのです。
神があなた方を祝福される道を見いだし損ねませんように。
同じ経験を期待してはいけません。二年後あるいは二十年後にも。
あなた方は新たな経験をするでしょう。そして神はご自身の方法であなた方をお取り扱いにな
ります。もしあなたが方が、神の命じられた道からさまよい出た自分の罪を告白するなら、神は
神の救いの喜びをあなた方に回復されるでしょう

    ・ペテロの転落

 私はペテロが陥った振る舞いについて皆さんの注意を呼び覚ましたいとおもいます。それは
ほとんどすべてのひとが同じ道で失敗すると思うからです。
倒れていないひとびとへの警告の覚え書きを列挙したいと思います。
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリントT 10:13)
25年前−そして私が救われて5年経った時−私が20年間倒れずに立っていられたら、私が
倒れる心配はないといつも思っていました。
しかしあなた方が十字架の戦いの恐ろしさに近づきました。
サタンは高いものを狙います。
彼は12使徒の間にいって、イスカリオテのユダと使徒たちの頭ペテロを選び出しました。
倒れた最も重要な人は、その品性の面で最強の人でした。
最も険しい岩の上に建てられ、衛兵に警護されているエジンバラ城で、暗殺に成功するのは側
にいる人だけであると私は言っているのです。
もし誰かが悪魔にたいしていかなる点についても十分強く対抗できると思っているなら、それに
ついて格別に誘惑するものがやってくると特に警戒が必要です。
アブラハムは信仰の家族の頭として立っています。そして子どもたちの信仰はアブラハムの家
系を嗣いでいると言ったかも知れません。アブラハムはエジプトに降っていったとき、自分の妻
を否定しました。(創世記 12章)
モーセは柔和な人であったと記録されています。しかし彼の軽率な行為とことばのために約束
の地に入れませんでした。
そのとき神は岩に命じなさいと言われましたが、それを打って会衆に水を飲ませました。
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければなら
ないのか。」(民数記 20:10)

   ・エリヤの臆病

 エリヤは大胆さで著名でした。けれども臆病者のように荒野を一日路行き、レダマの木下に
座り死にたいと言いました、一婦人のメッセージを受け取ったために。
私たちは注意深くしましょう。
その人が誰であっても・・・彼は説教者かも知れません・・・問題でありません。もしも彼がうぬぼ
れていたら必ず転落します。
キリストに従う私たちは遜って祈り、謙りを保たなければなりません。
神はモーセの顔を他の人々がそれを見ることができるように光らせました。しかしモーセは自
分で知っていました。彼の顔が自分で光っているのではないことを。人は潔くなればなるほど
日々の生活と会話にそれが現れます。
ある人々は彼らが遜っていると語ります。しかし、もし彼らが真に遜っているならそれを公にす
る必用はありません。
それは不必要です。
灯台は時間毎に太鼓を打ち鳴らすこともトランペットを吹くことも必用ではありません。灯台は
それ自身で証明します。
同様に私たちは真の光を私たち自身が示します。
最も敬虔なひとが最も騒音を発することはありません。
小川とかスコットランド人がそう呼ぶ小さいな「細流」が、私たちの住んでいるところからあまり
遠くないところにあります。激しい雨の後に皆さんは遠くまでひびく逆巻く水の音を聞くことがで
きます。しかし、晴れた天気の日が数日続くと小川は全く静かに戻ります。
しかし私の家の近くに川があり、一年中深い荘厳な流路を流れていますが、その音を生活して
いる間決して聞くことがありません。
私たちは自分自身の内に神の愛をたくさん持っているなら、その事実を大声で宣伝しなくても
明らかになるでしょう。
 
    ・ペテロのうぬぼれ
 
 ペテロが転落した最初のステップは彼の自信過剰にありました。
主は彼に警告されました。
主は言われました。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞
き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈り
ました。」(ルカ 22:31-32)
ペテロは答えました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ 22:33)
「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マアイ 26:33)
「ヤコブとヨハネ、そして全部のものがあなたのもとを去っても、あなたは私を計算に入れるこ
とができます!」
「ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」」(マルコ14:
29)
しかし主は彼に警告されました。
「しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三
度、わたしを知らないと言います。」」(ルカ 22:34)
主は彼を叱責されましたが、ペテロは死に至るまで主に従う備えができているといいました、
そのおおぼらが転落にいたる前兆です。
私たちは遜って静かに歩みましょう。
私たちには強力な誘惑者がいます。そして警戒をしていないとき、私たちはつまづき倒れてキ
リストに恥をもたらします。
ペテロの転落の次のステップは寝込んでしまったことです。
もしもサタンが教会を眠りこけさせることができたら、彼は神ご自身の民によって働いたので
す。
ゲッセマネの短い時間見張りについていることに代えて彼は眠りに陥りました。そこで主は彼
に問いかけられました。
「そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」(マタイ 
26:40)
次に起きたことは彼が肉体の力で戦ったことでした。
主は再び彼を戒めて言いました。
「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ 26:52)
イエスはペテロがしたことをもとに戻されました。
次のできごとは彼が「遠く離れてついて行った」ことでした。
一歩また一歩と、彼は遠くに離れます。

神の子どもが遠く離れてついていくのは悲しいことです。
あなた方は世の友たちと懇意にし、その影響力を悪い方に投げかけている彼をみるとき、彼
は遠く離れてついていったのであって、それは遠からず古い親族の名に恥辱をもたらすでしょ
う。そしてイエス・キリストは彼の友の家で傷を受けることになるでしょう。
この男が、彼の例によって、他のひとびとをつまずかせ、誘惑に負ける原因となるでしょう。

    ・もう一つの誤った歩み

 次に、ペテロはキリストの敵たちと顔見知りで仲良くしていたことです。
ひとりの婦人がこの大胆なペテロの言いました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいました
ね。」
しかし彼はみんなの前で否定して言いました。「いや。私はあなたの言っていることが分からな
い。」
そして彼が玄関口から出ようとしたとき、他の女中が彼を見てそこにいた人々に言いました。
「彼はナザレのイエスと一緒にいた男です。」
すると再び彼は否定し誓いました。「私はその人を知りません。」
少し時間が経ちましたが、まだ彼は自分がどのような立場にいるか悟っていませんでした。もう
一人のひとが確信をもって主張しました。彼はガリラヤ人だ。彼の言葉はガリラヤなまりだから
間違いない。
それで彼は怒り、呪いをかけて誓い始め、再び主を否定しました。そのとき鶏が鳴きました。(マ
タイ 26:69-74)
彼はうぬぼれの頂点に立っていましたが、一歩一歩降って行き、彼の主を知らないと呪いを持
って誓ってしまいました。
主は彼を振り返り、彼に言いました。
「ペテロ。それは本当ですか。あなたはそんなにすぐにわたしを忘れたのですか?
あなたの妻の母が熱の病であった時、病を叱って彼女から去らせたのを覚えていないのです
か?
あなたは一網の魚に驚いて、「主よ。私から離れてください。私は罪深い男ですから」と言った
ことを思い出さないのですか(ルカ 5:8)?
あなたは「主よ。助けて下さい。私はほろびます。」と叫んだあなたの声に応えて、わたしの手
であなたが沈まないように引き上げたことを覚えていないのですか?
変貌の山で、やこぶとヨハネと一緒に、あなたはわたしに「主よ。個々にいることはよいことで
す。・・・私に三つの幕屋を建てさせて下さい。」と言ったことを忘れたのですか(マタイ 17:4)?
あなたは晩餐の席とゲッセマネにわたしと一緒にいたことを忘れたのですか?
あなたがそんなにもすぐわたしを忘れたのは本当ですか?
主はこれらの質問で彼をとがめられたかもしれません。しかし主は優しさ以外のなにもなさいま
せんでした。
彼はペテロの視線を投げかけました。それには大胆な弟子のこころを打ち砕く非常に大きな愛
がありました。それでペテロは外に出ていって激しく泣きました。
そして、キリストは死から甦った後で彼に会い、誤った弟子をいかに優しく取り扱われたことで
しょう。

    ・「弟子たちとペテロに告げなさい」

 墓で天使は言いました。「主の弟子たちとペテロに、言いなさい。」(マルコ 16:7)
ペテロは主を三度も否定しましたが、主はペテロを忘れはしませんでした。そしてその弟子が
悔い改めに進むことができるよう親切な特別のメッセージをなさいました。
なんと優しく愛の救い主であることでしょう!
友よ、もしもあなたがたが迷い出たひとりであるなら、主の愛のまなざしを見て戻りなさい。そう
すれば彼はあなたに彼の救いの喜びを回復してくれます。
終わる前に言わせて頂きたい、これらのページを読んで何人かの信仰の後退者を神はその信
仰を回復されたと信じていることを。回復したひとびとはやがて有益な社会の構成員となり、教
会の輝かしい飾りとなることでしょう。
もしダビデが回復されなかったなら私たちは詩篇の32篇を決して手にしていなかったでしょう。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」あるいは背信者が回復されたこ
とが書かれているあの美しい詩篇51篇を。
あるいはまたあるひとりの信仰の後退から回復された人物の説教によって3千人が悔い改め
たペンテコステの日の素晴らしい説教を私たちは持っていなかったでしょう。
神は他の信仰の後退者を回復させるために、彼が以前そうであったことを神の栄光のために
千回も用いられるかもしれません。






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