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神への道
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがた
が永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」
(ヨハネT5:13)
救いの確信を持っていない人々が2種類いると思います。第1は教会の中にはいるが救われ
ていない人、御霊によって生まれていない人であり、第2は神の御心を進んで行おうとしない 人、神が備えてくださった役割を喜んで行おうとせず、何か別の役目を果たしたい人です。
クリスチャンは皆救いの確信を持っていますか、と問う人もいるでしょうが、答えはノーです。
神に愛されているクリスチャンの非常に多くが確信を持っていないと思われます。しかし自分自 身の救いを、確信を持って知ることはすべての神の子どもに与えられた特権なのです。
疑いに満ちている人は誰も神に仕えるのにはふさわしくありません。もし自分自身の救いが
確かでないならどうやって他の人が神の国に入る助けをすることが出来るのでしょうか。もし私 自身が溺れそうで岸にたどり着けるかどうかわからない状態にあったら、他の人を救助するこ となど出来ません。まず私自身がしっかりとした岩の上に乗ってはじめて兄弟に助けの手を差 し伸べることが出来るでしょう。またもし私自身が盲目なのに他の盲人に見る方法を教えたとし たら、彼は「まず自分が治ってから私に教えなさい」と答えるでしょう。
最近私はある青年と会いました。彼はクリスチャンですが、まだ罪への勝利を達成していま
せん。彼は非常な暗黒の中にいました。そのような人は神の働きにふさわしくありません。なぜ なら彼は絶えずつきまとう罪を抱えているからです。罪に打ち勝っていないので、疑いにも打ち 勝つことが出来ないのです。
自分自身の救いが確実でない人は誰も神のための働きに時間も意欲も持っていません。彼
らは自分の出来る範囲で参加し、自分自身が疑いの重荷を抱えた状態でいるので他の人の 重荷を担ってあげることが出来ません。疑いや不安のあるところには安らぎも喜びも平和も無 く、自由も力もありません。
さて私たちが警戒しなければならないサタンの手段が3つあるように思います。まずサタンは
私たちをキリストがら引き離すために彼の国中を動き回ります。次に私たちを「疑いの城」に入 れるために腐心します。しかしそれでも私たちがサタンをものともせず神の御子のための澄ん で響き渡る証しを持つなら、彼は私たちの品格を汚し、証しを偽りとしてしまうために出来る限 りすべてのことをするでしょう。
・救いを疑うことは神を疑うこと
疑いを持たないことは傲慢だと思っているかのような人々がいます。しかし疑いは神に対す
る甚だしい侮辱です。 もし誰かが30年来の知り合いを信用していないとしたら、それはその 相手にとって非常な不名誉でしょう。同様にもし私達が神を10年、20年或いは30年もずっと 知り続けているのにそれでも神を疑うとしたら神の真実を損なうことではないでしょうか?
パウロや初代のクリスチャンたちや殉教者たちがもし疑いに満ちていて、火あぶりの刑の後
に、天国に行くのかそれとも地獄に落ちるのかわからなかったとしたら、あのようなことを成し 遂げ得たでしょうか。彼らは確信を持っていたに違いありません。
C.H.スポルジョンは言います。「私はいまだかつて、コウノトリがもみの木を見つけた時に、そ
こに巣を造る権利について異議を唱えられたなんて話は聞いたことがありません。またウサギ が岩の中に駆け込む許可を持っているかどうか問われたというような話も聞いたことがありま せん。なぜならこれらの被造物が、神の備えられたものを使う権利があるかどうかをいちいち 疑ったり恐れたりしていたらすぐに滅んでしまうからです。 コウノトリは『おや、ここにもみの木 があるぞ』とつぶやきます。そして彼の妻にこの木は巣を造り雛を育てるのに適しているだろう かと相談します。彼女はその考えに賛成し彼らは材料を集めそれらを組み合わせます。そこに 巣を造る権利についての審査は全くありません。ただ彼らは木の枝を集めて巣を造るだけで す。
断崖に住む野生のヤギは『私はここに住む権利があるのだろうか』とは言いません。しかし
彼はどこかには住まなければなりません。そして彼に丁度ぴったりの断崖があり、彼はその上 で飛び跳ねるのです。
しかしこれらの口のきけない動物たちが神の備えを知っていても、罪人は救い主の備えを認
識しません。彼は逃げ口上で『救いは私のためのものでしょうか』と問い、『救いは私のためで はないように思います』『それが私のために備えられているもののはずがないと思うのです』そ して『それはあまりに良すぎる話で信じられません』と言うのです。
コウノトリに向って『誰でもこのもみの木に巣を造る者は決してその巣が壊されることはない』
と言った人はいませんし、ウサギに『誰でもこの岩の裂け目に駆け込む者は決してそこから追 い出されることはない』というような神からの言葉がかけられたこともありません。しかしもしそう なら倍の確信となるでしょう。
そして罪人のために備えられたキリストがおられます。罪人の必要に真にかなう救い主で
す。さらに励ましの言葉が加えられています『わたしに来る者は決して退けない。誰でも望む者 にはいのちの水をただで受けさせなさい』」。
・ヨハネは何と言っているか
さて御言葉に戻りましょう。使徒ヨハネは福音書の中でキリストがこの地上で私たちのために
何をなさったかを語っています。また書簡の中では主が天において私たちの仲保者として何を なさっておられるかを語っています。ヨハネの福音書の中では「信じる」という言葉が登場しな いのはわずか2つの章だけです。その2つの章を除いてヨハネ伝のすべての章で「信じなさ い。信じなさい。信じなさい」と語られているのです。20章31節で彼は「しかし、これらのことが 書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなた がたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と語っています。それがヨハネ が福音書を書いた目的です。
一方ヨハネの手紙第1の5章13節を見てみましょう。そこにはこの手紙を書いた目的が語ら
れています。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは」 彼が誰に宛てて書いたのか注意してください。「神の御子の名を信じているあなたがたに対し てこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによ くわからせるためです。」この第1の手紙にはわずか5つの短い章があるだけですが、「知る」 「わかる」という言葉に関連する語が40回以上登場します。ですから「知りなさい。知りなさい。 知りなさい」と語られているのです。この書の鍵は「知りなさい」ということで、手紙全体を通して 繰り返し鳴り響いています。「私たちが永遠のいのちを持っていることを、私たちがよくわかる ためです」。
数年前の春に私はミシシッピ川を約2000キロ下りました。毎日、夕方丁度日が沈む頃、川
の両岸の土手に上る男の人たち――時には女の人たちのことも――を見ました。彼らは騾馬 や馬に乗って来たり、時には徒歩だったりしましたが、管理灯に灯りを燈すために来ていたの でした。そしてこの巨大な川のあらゆるところに、危険な航海の間、操舵士を導くための目印 がありました。今神は私たちに、私たちが神の子かそうでないかを教えるための灯りや目印を 与えておられます。私たちがしなくてはならないことは神が私たちに与えてくださったそれらのし るしをよく見極めることです。
・知る価値のある5つのこと
ヨハネの手紙第1の3章には、知る価値のある5つのことが記されています。
1つ目は5節に登場します「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなた
がたは知っています。キリストには何の罪もありません」。 これは人間の業ではなく、主の御業 なのです。主はご自分のこの伝道の使命に失敗なさったでしょうか。ご自身が地上に来られた 目的を果たすことが出来なかったのでしょうか。今までに神から遣わされたどんな人でも失敗 があったでしょうか。まして神ご自身の御子が失敗をなさるでしょうか。「キリストが現われたの は罪を取り除くためであった」のです。
19節に知る価値のある2つ目があります「それによって私たちは、自分が真理に属するもの
であることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」。 私たちは、自分が真理に 属するものであることを知り、そしてもし真理が私たちを自由にするなら、私たちは本当に自由 になるのです。「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自 由なのです」(ヨハネ8:36)。
3番目の知る価値のあることは14節にあります「私たちは、自分が死からいのちに移ったこと
を知っています。それは、兄弟を愛しているからです」。 生まれたままの人は神の民を好みま せん。またその仲間に入りたがりません。「 (兄弟を)愛さない者は、死のうちにとどまっている のです」。そういう人は霊的ないのちを持っていないのです。
4番目は24節に見られます「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちに
おられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊に よって知るのです」。 もし私たちがキリストの御霊――キリストに似た者とされる霊――を所有 するなら、私たちはどのような種類の霊を持っているかを見分けることが出来ます。程度に違 いがあっても、種類は同じなのです。もし私が柔和で、親切で、寛容であるとしたら、また平安 と喜びに満たされた霊を持っているとしたら、そしてもし私が忍耐強く温和であるとしたら―― 丁度神の御子のように――それが基準なのです。その方法で私たちが永遠のいのちを持って いるか否かを見分けることが出来るのです。
5番目の、そして最も大切なことは「愛する者たち。・・今すでに」というところです。「今すでに」
という言葉に注意してください。それはあなたが死にゆく時とは言っていません。「愛する者た ち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キ リストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのと き、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(2節)。
・クリスチャンは罪を犯すか
「それはすべてその通りだと思います。しかし私はクリスチャンになってからも罪を犯していま
す」と言う人もいるでしょう。しかし一体この世にクリスチャンになって以来一度も罪を犯さない 人間がいるでしょうか。皆無です。この世にクリスチャンとして生きている間、罪を犯さなかった 人あるいは二度と罪を犯さないという人は、今までもいなかったし、これからもいないでしょう。 しかし神は信仰者たちの罪のために備えをしていてくださるのです。私たちがその備えをする のではありません。神がしてくださるのです。それを心に留めておきなさい。
ヨハネの手紙第一2章1節で使徒はこう書いています「私の子どもたち。私がこれらのことを
書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、 私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストで す」。ここでヨハネは義とされた人々に対して書いています。「もしだれかが罪を犯したなら、私 たちには・・・」彼は自分自身をも含めているのです。「私たちには、御父の御前で弁護してくだ さる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」。何と素晴らしい弁護者でしょう。キリス トは、神の裁きの座というこれ以上ない重要な場で、私たちの弁護者として立ってくださるので す。
キリストは言われました「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなた
がたにとって益なのです」(ヨハネ16:7)。キリストは私たちの大祭司となられるために去って行か れました。そして私たちの弁護者となられるためにも。弁護が困難な場合はありますが、キリス トは決して一つの失敗もなさいません。そしてもしあなたが永遠の弁護を主に委ねるなら、主は あなたを「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせ」(ユダ24)なさるでしょ う。
・全き赦し
クリスチャンの過去の罪は告白した時にすぐに赦され、二度と言及されることはありません。
それは再び取り上げられることの無い議題なのです。もし私たちの罪が放棄されたなら、それ でおしまいなのです。それらの罪は二度と思い出されることは無いし、神もそれ以上追求なさ いません。これはとても明確なことです。
例えば私に息子がいて、私が留守の間に悪いことをしたとしましょう。私が家に帰った時、彼
は私の首に抱き着いて「お父さん、僕はお父さんがしてはいけないと言っていたことをしてしま いました。本当にごめんなさい。どうか赦してください」と言ったとすると、私は「わかった。赦す よ」と言って彼にキスをするでしょう。息子は涙を拭いて、喜んで飛び出して行くでしょう。しかし 次の日彼が「お父さん、昨日僕がした悪いことを赦してほしいんです」と言ったとしたら、私は 「なぜだい。そのことはもう解決したから、お父さんはもうその話しはしたくないな」と言うでしょ う。それでも彼が「でも僕は赦してほしいんです。お父さんが『赦すよ』と言ってくれたら僕は楽 になります」と言ったとしたら、これは私を尊重していることになるでしょうか。息子が私の赦し たのを信じないことで、悲しむことにはならないでしょうか。しかし彼を満足させるために私は再 び言います「お父さんはおまえを赦すよ」と。しかしもしその次の日も、彼がその古い罪を持ち 出して、また赦しを請うたとしたら、私は深く悲しまないでしょうか。ですから皆さん、もし神が私 たちを赦してくださったら、決して過去には言及しないようにしましょう。後ろにあるそれらのこと を忘れて、前にあるものに手を伸ばして行きましょう。そしてキリスト・イエスにあって、神が高く 召してくださる栄冠を目標に押し進みましょう。過去の罪を捨て去りましょう。なぜなら「もし、私 たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪 から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネT1:9)から。
この原則は裁判所でも認められていることを言っておきましょう。ある人が彼の妻とトラブル
を抱えていてそこの国の――場所は言わないでおきます――法廷で裁判が起こりました。しか し彼は妻を赦しており、その後で彼女を法廷に連れて来たのでした。そして彼が妻を赦したこと が明らかになると、裁判官はその問題は解決したと言いました。その裁判官は、罪は一度赦さ れたらそれで終わりであるという原則は、確かなものであると認めたのです。さて、全世界の裁 判官であられる方が私たちを赦してくださり、さらにもう一度裁判をお開きになるということがあ るでしょうか。もし神が私たちの罪を赦してくださるなら、それは永遠に消え去るのです。私たち がしなければならないのは罪を告白し、捨て去ることなのです。
・神の子であるかどうかの見分け方
コリント人への手紙第2、13章5節に「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身
をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられること を、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」とあり ます。
さあ、あなた自身を試してみなさい。あなたの信仰を試みてみなさい。それを試練の中に置き
なさい。あなたはあなたの敵を赦せますか。これはあなたが神の子かどうかを知る良い方法で す。あなたはキリストがなさったように、あなたを侮辱する人、中傷する人を赦せますか。あな たは、良いことをしたのにそれを咎められて、不平を言わずにいられますか。あなたは誤解さ れ、事実でないことを言いふらされて、なおキリストのような心を持ち続けられますか。
もう一つの良いテストは、ガラテヤ人への手紙5章を読み御霊の実に注目して、それらを持っ
ているかどうかを確かめることです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」。もし私が御霊の実を持っている なら、御霊を持っているに違いないのです。オレンジの木無しにその実が成るはずがないよう に、御霊無しに御霊の実を持つことは出来ないからです。キリストは言われました「あなたがた は、実によって彼らを見分けることができます」、また「木のよしあしはその実によって知られる からです」と。まず木を良くしなさい、そうすれば実も良くなります。御霊の実を実らせる唯一の 方法は、御霊をいただくことです。それが私達が神の子かどうかを試す方法なのです。
さらにもう一つ注目すべき聖句があります。ローマ人への手紙8章9節で、パウロは「キリスト
の御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言っています。ある方々は教会の一 員となるためにはこういうことが必要だ、と外面上の要件を考えます。たとえそれらの全てを首 尾よく切り抜けたとしても、神の子であるかどうかという問題を解決するのはこのパウロの言葉 であるべきです。パウロの生涯を読んでみなさい。そしてあなたの人生と比べてみなさい。もし あなたの人生が彼のものに似ていたなら、それはあなたが新しく生まれており、キリスト・イエス にあって新しく造られたものである証拠です。
・恵みの中の成長
しかし、新生した人でも、十分に成長したクリスチャンとなるには時間が必要です。義認は瞬
間的な業ですが、聖潔は生涯の業です。私たちは知恵において成長しなければなりません。ペ テロは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」 (ペテロU3:18)と書いており、さらに彼の第2の手紙の第1章では「信仰には徳を、徳には知識 を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛 を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たち の主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありませ ん」と書いています。ですから私たちは恵みには恵みを加えるべきです。
木は最初の年には完璧に成長したとしても、成熟に達しているのではありません。クリスチャ
ンも同じです。真に神の子ではあるでしょうが、完成したクリスチャンではないのです。ローマ人 への手紙8章はとても重要で私たちは絶えず親しむべきです。14節で使徒はこう言っています 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。丁度、兵士が隊長に、生徒が先生 に、旅行者がガイドに導かれるように、聖霊は全ての真の神の子たちを導いてくださいます。
・確信についてのパウロの教え
もう一つの事実に注目していただきたいと思います。パウロのほとんど全ての書簡における
あらゆる教えに確信の教理が浸透しています。コリント人への手紙第二5章1節で彼は「私た ちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知ってい ます。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」と書いています。彼は天の住いの 所有権を持っており、そのことを「知っています」と語っています。彼は半信半疑な生き方はしま せんでした。彼は「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」(ピリピ1:23)と言ってい ます。もし彼が半信半疑であったなら、そのようなことは言わなかったでしょう。コロサイ人への 手紙3章4節で彼は「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリ ストとともに、栄光のうちに現われます」と付け加えています。ワット博士の墓標にもこの同じ聖 句が掲げられていると聞きました。そこには疑いというものがないのです。
それではコロサイ人への手紙1章12節を開いてみましょう「また、光の中にある、聖徒の相
続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげること ができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に 移してくださいました」。そこには「私たちに与えてくださった」「私たちを・・・救い出して」「(私た ちを)移してくださいました」と3つの完了形があります。それは「与えようとしておられる」とか 「救い出そうとしておられる」とか「移そうとしておられる」とは言っていません。 さらに14節に は「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」とあります。私 たちは赦されている者でも、そうでなくても、私たちそれぞれが、天を見上げて「私たちの住ま いである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。そ れは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(コリントU 5:1)と言えるようになるまでは、休 息を得るべきではありません。
ローマ8:32を見てください「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡され
た方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありまし ょう」。もし神が御子をくださったのなら、御子が私たちのものであるという確信をもくださらない ということがあるでしょうか。私はこのような実例を聞いたことがあります。1万ドルの借金があ り、破産しかけている人がいました。しかし一人の友人が現れて全額を払ってくれたのです。そ の後で彼にはまだ2、3ドルの借金が残っていることがわかりましたが、彼はその友人があの 大金を払ってくれたのだから、その少額をも払ってくれるだろうことをほんの少しも疑いません でした。
私たちは、もし神が私たちに御子をくださったのなら、御子といっしょにすべてのものを私たち
に恵んでくださる、という確かな保証を持っているのです。そしてもし私たちが議論の余地なく 救いを得たいと願うなら、神は私たちを暗闇の中に放って置かれることはありません。
ローマ人への手紙8章は偉大な確信で終わっています「神に選ばれた人々を訴えるのはだ
れですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださ った方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのため にとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難で すか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたの ために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書 いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこ との中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、 御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほ かのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは できません」(ローマ8:33〜39)。
・救いの確信は確かな事実へ
前項で引用したこれらの聖句に、あなたのための保証があります。私は「知っている」ので
す。あなたは、私を義と認めてくださった同じ神が、私を罪にお定めになると思いますか。それ は非常に不合理なことです。人間も、御使いも、悪魔も、私たちや神ご自身に対してどんな非 難もすることが出来ないように、神は私たちを救おうとしておられます。神は御業を完全にされ るのです。
ヨブは私たちよりも暗い時代を生きていましたが、ヨブ19:25には「私は知っている。私を贖う
方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」とあります。
同じ確信がパウロのテモテへの最後の言葉を通して息づいています。「そのために、私はこ
のような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私 は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のた めに守ってくださることができると確信しているからです」。それは疑いではなく知識に至る種で す。「私は・・・知っており」「私は・・・確信している」とあります。「希望する」という言葉は聖書の 中では疑いを表すためには使われません。それはキリストの再臨や、体のよみがえりに関して 使われます。私たちは、自分がクリスチャンであることを「希望する」とは言いません。私はアメ リカ人であることを「希望する」とか、私は結婚していることを「希望する」とかいう言い方はしま せん。それらは定まっていることがらなのです。家に帰ることを希望するとか、会合に参加する ことを希望するとは言うかも知れません。でも私はこの国に来ることを希望するとは言いませ ん。なぜなら私はもうここにいるのですから。そしてもし私たちが神によって生まれたのなら、私 たちはそのことを知っていますし、私たちが御言葉を探し求めるとき、神は私たちを暗闇に捨 て置かれません。
キリストは、70人の弟子たちが戻って来て、旅の成功に得意になりながら「主よ。あなたの御
名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と言った時、この教えを語られました。主は 彼らをいましめておられるご様子で、真に喜ぶべきものを彼らに与える、と言われました。「だ がしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたが たの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と。
私たちの救いは確かであると、疑問の余地なく知ることは、私たち一人一人に与えられた特
権です。それを得た上で、私たちは他の人々のために働くことが出来ます。しかしもし自分自 身の救いが曖昧だったら、神の奉仕にふさわしくありません。
もう一つ、ヨハネ5:24にこうあります「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのこ
とばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがな く、死からいのちに移っているのです」。
審判の大いなる白い御座の前に出るまでは、自分が救われているかどうかは決してわから
ない、という人々がいます。しかし愛する皆さん、もしあなたのいのちがキリストとともに神のう ちに隠されているのなら、あなたは罪のために裁きの座に付くことはありません。私たちは報 酬のために裁きの座に付くことはあるかも知れません。このことは、5タラント預けられて、もう 5タラント儲け「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五 タラントもうけました」と言ったしもべに対して、主人が精算をした箇所で、明確に教えられてい ます。主人は彼に言いました「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実 だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:20 −21)。私たちは働きによって報酬が定められるでしょう。しかし救い――すなわち永遠のいの ち――は別の問題です。
神は、キリストが私たちのために既に払ってくださった負債の返済を、再度要求されるでしょ
うか。キリストが十字架の上で、ご自身の体に私の罪を負ってくださったのに、私も罪のために 同じようにしなくてはならないのでしょうか。
イザヤはこう書いています「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎の
ために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは いやされた」。またローマ人への手紙4章25節には「主イエスは、私たちの罪のために死に渡 され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とあります。私たちはキリスト を信じ、彼の完成された御業の恵みを共に受けようではありませんか。
イエスはヨハネ10:9で「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。
また安らかに出入りし、牧草を見つけます」と言われました。さらにそれに付け加えて、「わたし の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしに ついて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、ま た、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えにな った父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはで きません」(ヨハネ10:27〜29)と言っておられます。
考えてみてください。父と子と聖霊なる神が、私たちを守ると誓っておられるのです。御父だ
けでなく、御子だけでもなく、三位一体の神がそう言っておられるのがあなたはわかりますか。
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