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神への道
「神は、・・・どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)
悔い改めは聖書の基本的な教理の一つです。けれどもそれは同時に多くの人がほとんど理
解していない真理の一つでもあると思います。今日人々は恐らく他のどんな教理よりも悔い改 めや新生、贖罪といった基本的な真理について迷いと無知の中にいます。幼い頃から私たち はそれらについて聞いているにもかかわらず、もし悔い改めの定義について訊ねられたら非 常に多くの人がとても奇妙で間違った考えを答えるでしょう。
・人はいつ福音を受けるために備えられるか
人はその罪を悔い改め、それらに背を向けるところに来るまでは、福音を信じるために、あ
るいはそれを受けるために備えられてはいません。バプテスマのヨハネがキリストにお会いす るまで、彼は一つの言葉「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)しか持ってい ませんでした。しかしもし彼が人々に神の小羊であられるキリストを指し示すことをせずに、同 じ言葉ばかりを繰り返し言っていたのなら、彼は多くを成し遂げることは出来なかったでしょう。 そしてキリストが来られた時も同じ荒野の叫びを始められました。「悔い改めなさい。天の御国 が近づいたから」(マタイ4:17)と。主は弟子たちをも同じメッセージ――人々が悔い改めるべき こと――を与えて送り出されました(マルコ6:12)。主が栄光をお受けになって後、聖霊がお降り になったペンテコステの日にペテロも同じ叫びを発しました「悔い改めなさい」と。あの時あの驚 くべき結実が与えられたのはこの――悔い改めて福音を信じなさい――という説教だったので す(使徒2:38−47)。そしてさらにパウロがアテネに行った時、彼もまた同じ叫びを語っている のです。「神は、・・・今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」(使徒17:30) と。
・悔い改めでないもの
悔い改めについてお話しする前に、短く悔い改めではないものについて申し上げましょう。ま
ず悔い改めは「恐れ」ではありません。多くの人々はこの二つを混同しています。彼らは自分 が脅されて怯えていなくてはならないと考えて、何らかの恐れがやって来るのを待っています。 しかし真の悔い改めをしていない多くの人々が驚かされるようになるのです。あなたはひどい 嵐にあった船乗りの話を聞いたことがあるでしょう。もしかすると彼らは普段神頼みなど全くし ない恐れを知らない人たちかも知れませんが、危険が迫ると急におとなしくなり神に助けを叫 び求め始めます。しかしそれは悔い改めとは言えません。嵐が過ぎ去ってしまうと彼らは以前 と同じように不敬なことを言い出します。
神がエジプトの王と彼の国に大きな災いをもたらした時、彼が悔い改めたと思われる方がい
るかも知れません。しかしあれは全く悔い改めとは違います。神の御手が取り除かれた途端、 パロの心は以前よりも頑なになったのです。彼は一つの罪も切り捨ててはいませんでした。以 前と同じままの人でした。そこには真の悔い改めは全くありませんでした。
しばしば、家族の死を経験しているとき、あたかも遺族の皆が回心するために用意された出
来事のように見えます。しかし半年経つ頃には全てが忘れ去られるでしょう。これを読んでおら れる方々の中にはそのような経験をなさった方もおられるかも知れません。神の御手が彼らの 上に重くのしかかっているときあたかも彼らが悔い改めするのではないかと思われました。し かしその試練が取り去られると、よく見て御覧なさい、その印象は全て無くなってしまいました。 さらに悔い改めは「感情」でもありません。非常に多くの人々がある種の感情が来るのを待っ ています。彼らは神を信じたいと思いますが、この感情が来るまではそれが出来ないと思って います。
ボルチモアにいた頃、私は毎週日曜日に刑務所で九百人の受刑者を前に説教していまし
た。そこには自分が惨めであることを十分に感じていない人はほとんどいませんでした。彼ら は感情はたっぷりと持っていました。投獄された最初の一週間か十日は、彼らの多くが一日の 半分を泣き叫んで過ごすのです。しかし釈放されると、彼らの多くはすぐに元の道に戻って行き ました。真相は、彼らは捕まったことを非常に後悔した、それだけのことです。ですから裁判を 受けている人が非常に感情をあらわにするのを見たことがあるでしょう。しかしその多くは彼ら が罰を受けるからであって、罪を犯したからでも神の目に悪を行ったことで良心が咎めている からでもありません。あたかも裁判が真の悔い改めを導いたかのように見えますが、感情はい つでも消え去って行きます。
さらに悔い改めは断食や肉体の苦行ではありません。人は何週間も何ヶ月も或いは何年もの
間断食をしても一つの罪をも悔い改めないかも知れません。また悔い改めは良心の呵責でも ありません。ユダは首をつって死ぬほどひどい良心の呵責に苛まれていました。しかしそれは 悔い改めではありませんでした。私はもし彼が主のところへ行き、ひれ伏して罪を告白したなら 彼は赦されただろうと信じます。しかし代わりに彼は祭司のところへ行き、自らの生涯を終わら せてしまったのです。人はあらゆる種類の罪滅ぼしをしますが、そこには真の悔い改めはあり ません。そのことを心に留めておきなさい。魂の罪のために肉体の努力の所産を献げても神 の求めを満たすことは出来ません。そのような欺瞞を追い払いなさい。 悔い改めは認罪とも 違います。これはある方々には奇妙に聞こえるでしょう。しかしかつて私は夜も眠れないほど の深い認罪の中にある人々を見たことがあります。彼らは一度の食事さえ楽しむことが出来な いほどでした。そのような状態で何ヶ月もの間罪の自覚があったにもかかわらず、彼らは回心 しませんでした。真の悔い改めをしなかったのです。認罪と悔い改めを混同してはいけませ ん。
祈りもまた悔い改めとは違います。これもまた奇妙に聞こえるかも知れません。多くの人々が
自分の魂の救いが心配になると「祈ろう。そして聖書を読もう」と言います。それが求めた効果 をもたらすと思っています。しかしそうはなりません。非常に多く聖書を読むことも神への懇願 もなされていますが、決して悔い改めはなされないのです。多くの人々が大声で神に叫びます が、悔い改めはしないのです。
もう一つのことがらは、悔い改めはある一つの罪を捨て去ることでもないということです。非常
に多くの人々がこの誤りを犯しています。大酒のみだった人が禁酒の誓いを立てて酒を飲む のをやめることがあります。そのような一つの罪を捨て去ることは悔い改めではありません。一 つの悪行を捨てるということは、木全体が倒れようとしているのに一つの枝を折り取るのに似 ています。不敬虔な人が神を呪うことをやめても、その人が全ての罪を捨て去らないのならそ れは悔い改めではありません。それは魂に対する神の御業ではないのです。神が働かれる時 は木全体を切り倒されるのです。神は人が全ての罪から離れることを望んでおられます。仮に 私が船で海に出て船底に三、四ヶ所穴が空いているのを見つけたとします。たとえ私が行って 一つを塞いだとしても船はそれでも沈んでしまいます。或いは私が三、四ヶ所重傷を負ったとし て、そのうちの一つの傷の治療を受けても残りの二、三ヶ所の傷を放って置いたとしたら、私 の命はすぐに途絶えてしまうでしょう。真の悔い改めとは単にこれやあれといった特定の罪を 捨て去ることではありません。
・悔い改めとは何か
さて、そこであなたは問うでしょう。それでは悔い改めとは何なのか、と。良い定義をして差し
上げましょう。悔い改めとは「回れ右!」です。アイルランドの言葉では「悔い改め (repentance)」という語は「回れ右!」以上のことを意味します。それは一つの方向に向って歩 いていた人が単に回れ右をしたというだけでなく、正確に正反対の方向に向って実際に歩いて いるという意味を含んでいます。「悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは 死のうとするのか」(エゼキエル33:11)。人間はその時によって同情したりしなかったりするでしょ う。しかし罪から立ち返らない人に対して神は決してあわれみの心を持たれません。
悔い改めはまた「思い直すこと」とも言い表されて来ました。例えばキリストがお語りになった
たとえ話を思い出してください。「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、 『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。... それから、弟のところに来て、同じよう に言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言った」(マタイ21:28,30)。彼は「行き たくありません」と答えた後、よく考えて思い直しました。もしかすると彼はこう独り言を言ったか も知れません「僕はお父さんを敬わなかった。お父さんは僕に働きに行ってくれと頼んだのに 僕は行きたくないと答えた。僕は間違っていた」。しかしもし彼がこう言って、それでも行かなか ったとしたら、彼は悔い改めたのではなかったのです。実際の彼は自分が正しくないことを悟っ ただけでなく、すぐに畑に行き、鍬仕事や刈り込みをしたのです。それがキリストによる「悔い 改めの定義」です。もし人が「神の恵みによって私は罪を捨て去り、神の御旨を行います」と言 うなら、それが悔い改め――「回れ右」です。
ある人が言いました「人は神に背を向けて生まれて来る。しかしその人が真に悔い改める
時、回れ右をして神に向かい、古いいのちを捨て去るのである」と。
・悔い改めとは即時のものである
人はただちに悔い改めることが出来るでしょうか。確かに出来ます。体の向きを変えるのに
長い時間は必要ありません。同様に人が心を変えるのに半年は必要ありません。
しばらく前、一隻の船がニューファンドランドの海岸で沈没しました。船が岸に向っていると
き、船長がエンジンを逆回転させて後戻りするよう命令を出すことが出来た瞬間がありました。 もしその時にエンジンを逆回転させていれば船は助かったでしょうに。しかし遅すぎたのです。 そのようにすべての人の人生に、立ち止まって「神の恵みによって私はこれ以上死と滅びには 向わない。私は罪を悔い改め、そこから離れる」と言うことが出来る瞬間があると私は信じま す。そこまで十分に気持ちが高まっていないと言う人もいるでしょう。しかし自分が間違った道 を歩んでいることがよくわかったなら、回れ右をして「私はもはや今までして来たような不従順と 罪の道を歩まない」と言いなさい。
あなたが自分の意思で神の方へ向き直るまさにその時、救いはあなたのものとなるでしょう。
聖書に記されているあらゆるケースの回心は瞬間的なものであることがわかります。悔い改
めと信仰は突然やって来ました。その人が心を決めた瞬間に神は力をお与えになったので す。神はどんな人にもその人が出来ないことをするようにとはおっしゃいません。もし出来ない のであれば、神は「すべての人に悔い改めを命じ」(使徒17:30)たりはなさらなかったでしょう。 人が悔い改めず福音を信じないのなら、それは誰のせいでもなくその人自身の責任なので す。
・回心の記述
少し前、オハイオ州で福音に仕える優れた働き人の一人がご自分の回心について書いた手
紙を下さいました。
それはこの即時の決心という点を力強く例証しています。
彼は次のように書き出しています「私は19歳の時、バーモントでクリスチャンの法律家と一緒
に法律の勉強をしていました。ある日の午後、その法律家の外出中私が彼の家に入ると、彼 の奥さんが私に言いました。『今晩私と一緒に学校の祈り会に行ってクリスチャンになってくれ ないかしら。そうすれば夫が留守の時に家庭集会を導いてもらえるから』私は何も考えずに 『わかりました。そうしましょう』と言いました。私が再びその家に行った時、彼女はさっき言った 事は正直な気持ちかどうか尋ねました。私は『集会にあなたと一緒に行くということに関しては そうです。それはただ親切心で言ったのです』と答えました。以前にもしばしばそうしたように私 は学校の祈り会に彼女と一緒に行きました。12名ほどの人々が小さな校舎に集っていまし た。司会者が出席者全員に順番に語りかけ、私を含めて残り3人になりました。彼が私の隣の 人に語りかけていた時、彼は私に何か言いたいことがないか尋ねるだろうという思いが私の心 に起こりました。私は自問しました『私はいつかクリスチャンになろうと決心をしている。今がそ の時でもいいではないか』これらの思いが私の心を通り過ぎて1分も経たない内に、司会者が ――彼は私をよく知っていたので――親しげに話しかけました『チャールズ兄弟、何かおっしゃ りたいことがありますか』私は全く冷静に答えました『はい。私はたった今、わずかの間でです が、クリスチャン生活を始めることを決心しました。私のために祈っていただきたいのです』私 があまりに冷静なので彼は戸惑ったようでした。彼は私が真剣かどうか疑っていたと思いま す。彼はほとんど私に言葉をかけずに通り過ぎて、他の2人に話しかけました。少しの一般的 な会話の後、彼は私の方へ向き直って言いました。『チャールズ兄弟、閉会の祈りをしてくれま せんか』彼は私が公に祈ったことが一度も無いことを知っていました。この瞬間まで私は何も 感情がありませんでした。単なる事務処理のようでした。私が最初に思ったことは『私は祈れな い。辞退させてもらおう』でした。しかし次に『私は、クリスチャン生活を始める、と言ったではな いか。これはその一部なのだ』と思いました。それで私は『祈りましょう』と言いました。そしてい つしか私はひざまずき始め、私の膝が床に着いたその時、主は私の霊を新しくして下さいまし た。最初に口から出た言葉は『神に栄光あれ!』でした。その後何を言ったかわかりません。 それは問題ではありません。私のたましいはあまりに満たされて『栄光あれ!』以外に多くを言 うことが出来ませんでした」
この働き人はそして手紙をこう締め括っています「その時以来、悪魔も私の救いを疑わせよ
うと挑むことは決してありません。キリストにすべての讃美あれ!」
・感情についての忠告
多くの人々は、自分でも正確に何をとは言えないけれど、ある種の不可思議な感情が知らぬ
間にやって来て自分を包み込むのを待っています。それはある種怪しげな信仰と言えるでしょ う。
数年前、私はある人に伝道していましたが、彼はいつも同じ答えをするのでした。5年間私は
彼をキリストに導こうと努めましたが、毎年彼は「あれがまだ私の心を打ちません」と言いまし た。「どういう意味ですか。何があなたの心を打たないのですか」と私が問うと、彼は言いました 「私はあれが私の心を打つまでは、クリスチャンにはなるつもりはありません。そしてあれはま だ私の心を打たないのです。私にはあれがあなたに見えるようには見えていないのです」「しか しあなたは自分が罪人であることを知らないのですか」「私は自分が罪人であるとわかっていま す」「それならば、神があなたにあわれみをかけようとしておられること、あなたを赦そうとして おられることを知らないのですか。神はあなたが悔い改めてご自身のところに来るのを望んで おられるのです」「はい。わかっています。しかしあれがまだ私の心を打たないのです」
彼はいつもそこに戻ってしまうのでした。なんて哀れな人なのでしょう。彼は不決断の状態の
まま墓に入って行ってしまいました。神は60年もの年月を彼に悔い改めるために与えました が、それらの年月の終わりに彼が持っていた言葉は「あれはまだ私の心を打ちません」がすべ てでした。
皆さんの中で誰か、何かわからないけれども不思議な感情を待っている人がいませんか。聖
書のどこにも待つように言われた人はいません。神はあなたに「今」悔い改めるように命じてお られます。
・真実の悔い改め
神は赦されたいと思っていない人を赦すことがお出来になると思いますか。そのような心の
状態にある人を神が赦されたとしてその人は幸福でしょうか。もし人が悔い改めなしに神の国 に入ったとしたら彼にとって天国は地獄と化すでしょう。天国とは準備の出来た人々のための 備えられた場所なのです。
もしあなたの息子が悪いことをして悔い改めようとしないなら、あなたはその子を赦すことは
出来ないでしょう。あなたは彼に不正をすることになるからです。仮に彼があなたの机から10 ドル盗んだとします。そしてそれを無駄遣いします。あなたが家に帰って来た時、ベビーシッタ ーが息子のしたことをあなたに告げます。あなたはそれが本当かどうか尋ねますが、彼は否定 します。しかしついにあなたは確かな証拠を得ます。息子はこれ以上言い逃れは出来ないこと がわかった時でもそれが罪であると告白することをせず、逆にまた機会があったら同じことを すると言います。あなたは彼に「お前を赦すよ」と言ってその問題をそのままにしておくでしょう か。そんなことは決してしないでしょう。しかし人々は言うのです「神は全ての人を救う。その人 が悔い改めようと悔い改めまいと。酔っ払いも、泥棒も、売春婦も、売春仲介者も何の差別も 無く」と。そして「神はとても哀れみ深い」と言うのです。
愛する皆さん。この世の神に騙されてはいけません。あなたが真に悔い改め、罪から離れて
神に向う時、神はあなたに現れ祝福してくださるのです。真実の悔い改めがなされるまでは神 の祝福はありません。
ダビデはこの点について、彼に反逆した息子アブシャロムのことで恐ろしい誤りを犯しまし
た。ダビデはアブシャロムの心が変えられていないうちに彼を赦してしまいますが、息子に対し てこれほど大きな不正は他にありません。悔い改めがなされないうちは彼らの間に真の和解 はあり得ませんでした。しかし神はこのような誤りはなさいません。ダビデは彼の判断の誤りの せいで災いを抱えていきました。彼の息子はすぐに父親を王位から追放したのです。
悔い改めについての講演で、セントルイスのブルックス博士は適切に述べています。「悔い改
めとは、厳密に言うと、思いや目的の変化を意味します。したがってそれは罪人が、キリストの 死において表された神の愛の観点で、自分自身に宣言する裁きです。それは自分自身により 頼むことをすべて捨て去り、罪人の唯一の救い主に信頼することに結びついています。救いに つながる悔い改めと救いにつながる信仰はいつも相伴うものです。ですからもしあなたが信じ ようとするなら悔い改めについて心配する必要はありません。
悔い改めが十分かどうか確信が無い人々がいます。もしそれが、自分に対して神に憐れみ
深くなっていただくために悔い改めしなくてはならないということを意味するなら、すぐにそのよ うな悔い改めはやめたほうがいいでしょう。カルバリの十字架で十分に示されたように、神はす でに憐れみ深いのです。そしてもしあなたが自分の涙や苦悩が神を動かすと思うなら、それは 神の愛の心への悲しむべき侮辱です。「神の慈愛(goodness)があなたを悔い改めに導くことも 知らないで」(ローマ2:4)。ですから悔い改めに導くのはあなたの悪(badness)ではなく神の慈 愛(goodness)なのです。故に悔い改める真の方法は主イエス・キリストを信じることなのです。 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえら れたからです」(ローマ4:25)
・悔い改めは償いをもたらす
もう一つのことは、真の悔い改めがなされる時、それは結実を生むということです。もし私達
が誰かに罪を犯したとしたら、進んで償いをする思いを持つまでは、決して神にも赦しを願わな いでしょう。私が誰かに大きな不正を行ったとして、それを償うことが可能だとしても、喜んで償 う気持ちを持たない限り、神に赦してくださるよう願うことは無駄です。私が他人のものを盗っ たと想像してみてください。私は償いをするまでは赦しを期待する権利はありません。
ある大都市で説教をした時のこと、説教の終わりに身なりの良い男性が私のところに来まし
た。彼は大きな苦悩の中にいたのです。「実は・・・」彼は言いました「私は金にだらしの無い人 間です。雇い主の金を盗ってしまったのです。それを返さないではクリスチャンにはなれないで しょうか」。「あなたはそのお金を使ってしまったのですか」私が尋ねると、彼は全部は使ってい ないと答えました。1500ドルぐらい盗ったけれども、まだ約900ドル持っているそうです。彼は 言いました「その金で商売をして十分返せる分を稼ぐというわけにはいかないでしょうか」。
私は彼にそれはサタンの惑わしであること、盗んだ金で成功を期待することは出来ないこと、
彼は持っている全てを返し、雇い主のところへ行って憐れみを請い、赦してもらえるように願う べきであることを伝えました。
「でも彼らは私を刑務所へ入れるでしょう。どうにか助けていただけませんでしょうか」と彼は
言いました。
「いいえ。神からの助けを期待する前にお金を返さなくてはいけません」
「それは非常に難しいです」
「確かに難しいでしょう。しかし大きな間違いは最初に不正を行ったことにあったのです」
彼の重荷は耐えられないほどに重くなっていました。彼は私に950ドルといくらかの小銭を手
渡すと、雇い主に返してくださいと言いました。翌日の夕方、彼の雇い主二名と私は教会の脇 部屋で会いました。私はお金を差し出して彼らの雇い人の一人からであることを告げました。 私が彼らに事情を説明し、彼が二人の正義ではなく憐れみを求めていることを伝えると、二人 の頬には涙がこぼれ落ち、彼らは「赦しましょう。我々は喜んで彼を赦します」と言ったのでし た。私は階下へ降りて彼を連れて来ました。彼が罪を告白して赦しを得た後、私達は全員ひざ まずいて幸いな祈り会を持ちました。神はその場所で私達に現れ、恵みをくださったのです。
暫く前、私の友人の一人がキリストの御前に出て、自分自身と財産とを献げることを願いまし
た。しかし以前彼は政府と取り引きをして騙し取っていたのです。彼が救われた時にこのこと が浮かび上がって来て、彼の良心が彼を悩ませました。彼は「私は財産を献げたいのですが、 神が受け取ってくださらないように思えるのです」と言いました。彼は恐ろしい葛藤を抱えていま した。彼の良心が常に頭をもたげて彼を悩ませました。ついに彼は1500ドルの小切手を切っ て合衆国財務省に送りました。彼は私に、それを成し終えた時大きな祝福を受けたことを語り ました。それは「悔い改めにふさわしい実」を結んだのです。非常に多くの人々が神に光を叫び 求めているに違いありません。しかし不真実な故にそれを受けられないのです。
以前、私が説教をしていると、一人の人が私のところに来ました。彼はまだ32歳でしたが、
髪の毛が真っ白でした。彼は言いました「私は白髪頭ですが、まだ32歳であることをあなたに 知っていただきたいのです。12年に渡って大きな重荷を背負っています」。彼は誰かに聞かれ ることを恐れるかのようにまわりを見渡して小声で言いました「父が死んで、母に地域新聞社を 遺しました。父が遺したものはそれだけで、それが母の財産のすべてでした。父の死後その新 聞社は衰え始め、私は母が急速に困窮の状態に陥っていくのがわかりました。その建物と新 聞社には1000ドルの保険が掛けられていたので、私は20歳の時にその建物に火をつけて1 000ドルを手に入れ、母に渡しました。12年の間その罪が私を悩ませ続けています。私は快 楽や罪にふけることでそれを紛らわそうとしました。私は神を呪いました。私は背信に走ったの です。私は聖書が真実ではないことを立証しようとしました。私は出来ることはすべてしました。 しかしこの12年間ずっと苛まれ続けているのです」。
「そこから抜け出せる道がありますよ」私は言いました。「どうやってですか」と彼が聞きまし
た。「償いをするのです。さあ座って利息の計算をしましょう。そしてその会社にお金を払うので す」。
赦される道があることを見出した時の彼の顔の輝きはきっと出会った人をも幸せにしたことで
しょう。彼は言いました、もし赦されることが出来るのならば自分はむしろ喜んでお金と利息を 支払います、と。
今日、進んで罪を捨て去らず告白もしないことの故に、暗闇と束縛の中にいる人々がいま
す。私は、もし人が進んでその罪を告白しないなら、どうやって赦される希望があるのかわかり ません。
・今、しなさい
今、この生涯こそが唯一の憐れみの日であることを心に留めなさい。あなたは今悔い改め
て、恐ろしい過去を拭い去ることが出来るのです。確かに神はあなたを赦そうと待っておられま す。あなたをご自身のもとに連れ戻そうと探しておられるのです。ただ、聖書は明確に「この生 涯が終わった後には悔い改めがない」ことも教えています。死後の世界での悔い改めの可能 性について言う人もいるでしょう。しかし御言葉のどこにもそれは書かれていません。私は聖書 全体を注意深く調べてみました。しかし人が救われる別の機会があるということを見つけること は出来ませんでした。
なぜもっと時間を要求するのでしょう。今悔い改める時間が十分にあるではありませんか。も
し望みさえすれば、たった今罪から立ち返ることが出来るのです。神は言われました「わたし は、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・・だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル18:32)。
キリストは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来た
のです」と言われました。あなたは罪人ですか。それならこの悔い改めの呼び掛けはあなたに 向けて語られているのです。救い主の足元の塵の中に身を置き、自分の罪深さを認識しなさ い。古の取税人のように言いなさい「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と。そして いかに素早く神があなたを赦し祝福してくださるかを見てご覧なさい。そればかりでなく主はあ なたを義としてくださり、正しいとみなしてくださるのです。十字架の上でご自身の体にあなたの 罪を負ってくださった方の義の徳によって。
もしかすると自分は正しいと思っていて、それ故に悔い改める必要も福音を信じる必要も認
めない人がいるかも知れません。そのような人たちはたとえ話のパリサイ人のようです。彼は、 他の人々のように「ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではな いことを」神に感謝し、さらに続けて「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十 分の一をささげております」と言いました。そのような自分を義とする人へのさばきはどうだった でしょう。 「あなたがたに言うが、この人(哀れで罪を深く後悔し、悔い改めている取税人)が、 義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(ルカ18:11−14)。
使徒パウロは宣言しました「義人はいない。ひとりもいない」、そして「すべての人は、罪を犯
したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:10,23)と。誰も自分には悔い改めは必 要無いとは言えません。全ての人が自分にふさわしい立場――罪人という――を取るべきで す。そうすれば神は彼を赦しと義認の座に引き上げてくださいます。「だれでも自分を高くする 者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(ルカ14:11)のです。
心の中に真の悔い改めが見られるなら、どこでも神がそのたましいを迎えてくださいます。
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