|
神への道
「ふたりの人が、祈るために宮に上った」(ルカ18:10)
ここで私は二種類の人々について語りたいと思います。一つは救い主の必要を感じず、御霊
による認罪の経験のない人々、もう一つは自分の罪を認め、「救われるためには、何をしなけ ればなりませんか」と叫ぶ人々です。
すべての求道者は二つに分類することが出来ます。彼らは、助けを望まないパリサイ人の精
神か、救いに飢え乾く取税人の精神かのどちらかを持ちます。もしパリサイ人の精神を持った 人が集会の後に残ったならば、彼に語りかけるにはローマ人への手紙3章10節、11節を用 いるのが最もふさわしいでしょう。すなわち「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人 はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない』」パウロはここで 生まれつきのままの人について語っています。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者 となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」さらに17節以下にはこうあります。「『また、 彼らは平和の道を知らない』『彼らの目の前には、神に対する恐れがない』 さて、私たちは、律 法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、 すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」
・誰が罪を犯したか
22節の最後の部分からのところを見てみましょう。「何の差別もありません。 すべての人
は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」人類の一部ではなくすべてが「罪を 犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないのです。罪を認めさせるために非常によく 使われるもう一つの聖句はヨハネの手紙第一1章8節「もし、罪はないと言うなら、私たちは自 分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」です。
私たちが東部にある人口4万人ほどの町で集会をした時のことです。一人の婦人が私たち
のところに来て夫のために祈るよう頼みました。彼女は夫を集会後の個人伝道に連れて来た がっていました。私たちはあちこち旅をし多くのパリサイ人的な人に会いましたが、この人はあ まりに自分を正しいとするので彼を認罪に導く手がかりは針の先ほども無さそうでした。私はそ の婦人に言いました。「あなたの信仰を見させていただいて感謝です。が、私たちはご主人に はに近づけそうにありません。彼は私がかつて出会った中で最も独善的な人です」彼女は言い ました。「いいえ、どうしても近づいていただかなくてはなりません。もし夫が改心することなしに この集会の期間が終わってしまったなら、私の心は張り裂けてしまいます」彼女は夫を連れて 来ることに固執しましたが、私は彼を見ただけでほとんどうんざりしてしまいました。
・彼自身のために依頼された祈り
しかし30日間のその集会が終わろうとする頃、彼は私のところへやって来て震える手を私の
肩に置きました。集会が持たれた場所は幾分寒く、隣接してただガスだけが炊かれている部 屋がありました。彼は私に言いました。「ほんの少しの間こちらに来ていただけませんか」私は 彼が寒くて震えているのだと思い、私自身もこれ以上寒いところへは特に行きたいとは思いま せんでした。しかし彼は言いました。「私はバーモント州で最も悪い人間です。私のために祈っ てください」私は彼が殺人かもしくは何か恐ろしい犯罪を犯したのかと思って尋ねました。「何か 特別に重荷となっている罪がありますか」ところが彼は答えました。「私の人生すべてが罪でし た。私は思い上がった独善的なパリサイ人でした。私のために祈ってください」
彼は深い認罪の中にありました。人の力ではこの結果は導き出せません。しかし聖霊がなさ
るのです。午前2時頃、彼のたましいに光が差し込みました。彼は町の目抜き通りを行き来し て神が彼に何をしてくださったかを語りました。そしてそれ以来最も活動的なクリスチャンにな ったのです。
求道者を扱うためのキリストご自身が語られた御言葉がもう4ヶ所あります。「まことに、まこ
とに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ 3:3)
ルカ13章3節にはこうあります。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」
マタイの18章では、弟子たちが天の御国では誰が一番偉大かを知りたくてイエスのところへ
来た時に、主は小さい子どもを呼び寄せ彼らの真中に立たせて「まことに、あなたがたに告げ ます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれ ません」と言われました。(18:3) もう一つの大切な「条件」がマタイの5章20節にあります。 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決 して天の御国に、はいれません」
人は神の御国に入りたいと願うより先にそこにふさわしくされなければなりません。私は兄息
子と共に御国の外に居るよりはむしろ弟の放蕩息子と共にその中に入りたいと思います。兄 息子のような人にとって天国は地獄のようなものでしょう。弟の帰還を喜ぶことの出来なかった 兄は天の御国にふさわしいとは言えないでしょう。これは熟考すべき厳粛な問題です。幕が下 ろされると兄は外に残され、弟が中に入れられるのです。その兄に対しては別の状況で主が 語られた次の御言葉が当てはまるでしょう。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女 たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」(マタイ21:31)
・兄息子の弁護
ある時一人の婦人が私のところへ来て「私があなたの説に共感出来ないことを心に留めてお
いていただきたい」と言いました。私が「どんな点が問題なのですか」と尋ねると彼女は言いま した。「あなたが放蕩息子の兄を非難するのは全くひどいことです。彼は気高い人格者だと思 います」 私は、彼女が彼を弁護するのは喜んで聞くが、そのような立場を支持するのは重大 な問題であること、そして兄息子は弟と同じくらい悔い改めが必要であることを彼女に言いまし た。自分が品行方正であることを語ろうとする人々には、家に入ろうとしない息子に嘆願してい る年老いた父親の姿をよく見させるとよいのです。
ここで私たちが取り扱わなければならない別の種類の人々に移ろうと思います。この人々は罪
の自覚があってピリピの看守と同じように「救われるためには、何をしなければなりませんか」 と叫ぶ人々です。このような悔い改めの叫びを発する人々には律法を説く必要はありません。 まっすぐに御言葉へ導けばよいのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば・・・救われます」 (使徒16:31) 多くの人が顔をしかめてあなたに言うでしょう。「信じるとはどういうことかわかり ません」そして救われるために彼らが信じなくてはならないのが天の法則であっても彼らはそ の他に何かを求めるのです。私たちは何を、どこで、どうやって信じるかを彼らに告げるべきで す。
ヨハネ3章35、36節にこうあります。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しに
なった。 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見る ことがなく、神の怒りがその上にとどまる」(下線の強調点筆者)
・この人は理に適っているように見える
人は不信仰によって――神の言葉を信じないことによって――いのちを失い、私たちは信仰
によって――神の言葉を信じることによって――再びいのちを取り戻します。言い換えるとアダ ムが倒れたところで私たちが起き上がるのです。彼は不信仰という石につまずき倒れました。 一方私たちは信じることによって引き上げられてまっすぐに立ちます。信じることが出来ないと いう人々には御言葉を示してこの一つのことにまっすぐに向き合わせなさい。すなわちこの六 千年の間神は約束を破ったことがあっただろうか、ということです。悪魔と人間はこのことを示 そうと絶えず試み続けましたが、神がたとえ一つの約束でも破ったということを示すのに成功し たことはありません。もし神が語られた一言でも破られることがあったなら地獄で記念祭が行 われることでしょう。もし誰かが信じることが出来ないと言うのならこのことを力説すると良いの です。
今日私は自分自身の心よりも神を信じることが出来ます。「人の心は何よりも陰険で、それ
は直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ書17:9)私は自分自身よりもむしろ神 を信じることが出来ます。もしあなたがいのちの道を知りたいならイエス・キリストがあなた自身 の救い主であることを信じなさい。あらゆる教理や信条を切り離し、神の御子の心へまっすぐ に行きなさい。もしあなたが無味乾燥な教理で養われて来たとするなら、そのような糧による成 長はあまり望めません。魂にとっての教理とは、肉体にとっての「食事に招待してくれた友の家 に通ずる道」のようなものです。正しい道をたどれば食事の場所へ着くことが出来ますが、通り に佇んだままでは空腹は決して満たされません。教理で養われることは干からびた穀物殻を 食べて生きていこうとすることのようで、天よりのパンに与らない魂は依然として全く痩せ細っ たままに違いありません。
「どうしたら心が暖められるでしょう」と尋ねる人がいます。それは信じることによってです。神
を愛し仕える力は信じるまでは手に入りません。
使徒ヨハネは言いました。「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそ
れにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。 神の御子を信 じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とする のです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 そのあかしとは、神が私た ちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということで す。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」 (ヨハネT 5:9−12)
・人々の証しの価値
もし人々の証言を受け入れないとしたら、人間は当面する課題に行き詰まってしまうでしょ
う。もし私たちが他人の証言を無視するなら、どのようにして日常のお付き合いを続けていける でしょうか。社会的なことや商業的なことがらは2日ともたずに動きがとれなくなるでしょう。これ は次のような使徒の議論の流れです。「もし私たちが人の証しを受け入れるなら、神の証しは より偉大です」。神はキリストについて証しなさいました。しばしば嘘を言い、絶えず不誠実な姿 を見せるような仲間を信じる人が、なぜ神とその言葉を受け入れず、その証しを信じないので しょうか。
信仰とは証しを信じることです。誰かが言うような向こう見ずの行動ではありません。そのよう
なものは全く信仰ではありません。神は何も信じる対象を与えずに信じなさいというようなこと はおっしゃいません。何も信じる対象を与えないで信じなさいと言うのは、目を与えずに見るこ とを求めたり、耳なしで聞くことを求めたり、足なしで歩いたりさせるのと同じことでしょう。
カリフォルニアに行く時、私はガイドブックを手に入れました。その本が言うには、イリノイ州を
出発したならミシシッピ川を渡りミズーリを横切ってネブラスカに入り、ロッキー山脈をソルトレ イクシティーにあるモルモン教徒の居留地に向かって越えて行き、そしてシエラネバダ山脈の 道に沿ってサンフランシスコへと進みなさいということでした。私は旅を進むにつれてガイドブッ クの正確なことがわかってきました。しかしもし私が道のりの4分の3までそれが正しいとわか りながら、残りの旅ではガイドブックを信じないとしたなら、疑い深くしかも哀れな人間としか言 いようがないでしょう。
ある人が私に郵便局へ行く道を教えるときに10個の目印を示したとしましょう。私が進むに
連れて彼が示したとおりに9個までを見つけたとすれば、私は当然郵便局にたどり着けること を信じるでしょう。
そしてもし私が信じることによって今まで得たことの無い新しいいのちや希望、平和、喜び、
たましいの安息を得たとしたら、また自制心や悪に立ち向かい善を行う力を得たとしたら、私 は、神が設計し建設され、堅い基礎の上に建てられた都への正しい道を歩んでいることの力 強い証拠を手に入れていることになります。そして神の御言葉のとおりに物事が既に起こり、 今も起こりつつあるとするなら、これからのことも成就すると確信できます。それでも人々は疑 問を語っています。信仰とは無条件で御言葉によって神を受け入れることです。恐れのあると ころに真の平和があるはずがありません。「全き愛は恐れを締め出します」夫を疑う妻がいる としたら何とみじめなことでしょう。息子が家から離れていて、音信が無いことのゆえに、息子 の誠実な愛を母親が疑うとしたらなんと哀れなことでしょう。真実の愛は決して疑いません。
・知ること、同意すること、自分のものにすること
信仰にはなくてはならないものが三つあります。すなわち知ること、同意すること、そして自分
のものにすることです。
まず私たちは神を知らなければなりません。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの
神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3、下線の強 調点著者)。そして私たちは知っていることに同意するだけでなく、その真理に寄りすがらなくて はいけません。それを自分のものにしなくてはならないのです。もし人が単に救いのご計画に 同意するだけなら救われることはありません。キリストを救い主として受け入れなくてはならな いのです。主を受け入れ、自分のものとしなくてはならないのです。
信じることによって人生がどんなに影響を受けるか言い尽くすことは出来ないと言う人たちが
います。たまたま私たちが居合わせた建物で誰かが「火事だ」と叫んだとします。するとご覧な さい。どんなに素早く私たちはその言葉を信じて行動し、その建物から飛び出すことでしょう。 私たちはいつでも何を信じるかに影響されているのです。それはどうしようもないことなので す。ですからもし誰かが、神がキリストについてお与えになった記録を信じるなら、直ちにその 人の人生すべてに影響を及ぼします。
ヨハネの福音書5章24節をご覧なさい。その一つの節の中に、すべてのたましいが救いを
求めて寄りすがるのに十分な真理があります。それは疑いの影も許しません。「まことに、まこ とに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永 遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(強調点著 者)。
一人の人がキリストの言葉によく耳を傾け、御子を世の救い主としてお遣わしになった神を
心から信じ、この偉大な救いの御業に寄りすがり自分のものとするなら、裁きへの恐れは全く ありません。その人は「大きな白い御座」(訳者注:黙示録20章11節に記されている神の最後 の裁きの座)を恐れおののきながら見つめることはないのです。ヨハネが書いている通りです。 「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの 日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じよ うな者であるからです」(ヨハネT4:17)
もし私たちが信じるなら、私たちへの裁きも有罪判決も無いのです。それは私たちの後ろへ
と過ぎ去りました。私たちは裁きの日に大胆さを持つことが出来るのです。
・ポケットの中の恩赦状
死刑が確実な裁判の渦中にいたある人の話を読んだことがあります。彼には権力者の友人
が何人かおり、その友人たちは王から、彼がきちんと裁判を受け、有罪判決も受けるという条 件付きで恩赦状を手に入れました。彼はその恩赦状をポケットに入れて法廷に出ました。法廷 の雰囲気は彼に非常に不利でした。裁判官は彼の平然とした態度にこの場の人々は憤慨して いると言いました。しかし判決が下されたとき彼はポケットから恩赦状を取り出して提出し、自 由の身になって出てきたのでした。彼は赦免されたのです。そして私たちも同じです。
ですから死が来るなら来させなさい。私たちは全く恐れません。世界中のどんな墓堀人夫も
永遠のいのちを埋めるのに十分なほどの広さ、深さの墓穴を掘ることは出来ません。世界中 のどんな棺桶職人も永遠のいのちを入れるのに十分なほど大きく丈夫な棺桶を作ることは出 来ません。死は一度キリストに手をかけましたが二度目は決してありません。
イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死ん
でも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ 11:25〜26)。また黙示録の中でよみがえられた主がヨハネに語っておられます。「(わたしは) 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとの かぎを持っている」(黙示1:18)。死は再び主に触れることは出来ません。
私たちは信じることによっていのちを得ました。事実私たちはアダムが失ったものより多くの
ものを得るのです。なぜなら神の贖われた子供はエデンの園でアダムが思い描くことが出来た ものより、より豊かでより栄光に満ちた財産の相続人だからです。そうです。そしてその相続財 産はいつまでもなくならないのです。またそれは他人に譲ることはできません。
私はエデンの園に住むよりは遥かに神の内にキリストとともに隠されたいのちを持つことを望
みます。それはアダムがエデンに1万年住んだとしてもその後で罪を犯し堕落したであろうから です。しかしもしこれらのことが私たち信じる者にとって真実となるなら私たちはより確実なとこ ろにいるのです。これらのことを作り事とせず、事実としましょう。神がそう言われたのですから それで十分です。たとえ神を見出せないときでも神に信頼しましょう。次に「聖書の宝庫」の中 にある、簡潔ですが感動的な出来事を記します。そこに登場する少女マギーに見られるのと同 じ確信によって力を得ましょう。
・マギーの話
(「聖書の宝庫」の中の文)「私は数日間家をあけていたのですが、帰路わが家に近づくに連れ
て、最近やっと自分で座れるようになったばかりの幼い娘マギーが私を覚えているだろうかと 気になりました。それでそれを試すために私はこちらからは娘が見えるが娘からは私が見えな い位置に立って、いつもと同じような調子で「マギー!」と娘の名を呼んでみました。彼女は持っ ていたおもちゃを落とし部屋の中をぐるぐる見回した後、そのおもちゃに目を落としました。私 はもう一度「マギー!」と呼んでみました。彼女はもう一度部屋の中を見回しましたが、父親の 姿は見えなくて彼女はとても悲しそうでした。そして渋々とまた遊び始めました。さらにもう一度 「マギー!」と呼んでみました。彼女は遊び道具を床に落とすと突然泣き出し、繰り返し声のし た方向へ両手を伸ばしました。それはたとえ姿は見えなくてもお父さんがそこにいるに違いな いことを知っているからです。彼女は父の声を知っていたのです。
私たちは見る力、聞く力を持っており、そして信じる力を持っています。求道者にとって、信じ
ることが出来ないという暗礁に乗り上げてしまうことほど愚かなことはありません。信じる意思 があるなら信じることが出来るのです。しかしほとんどの人の問題は信じることと感情とを結び つけてしまうことです。感情と信じることとは何の関係もありません。聖書には「感じる者は、あ るいは感じて信じる者は、永遠のいのちを持つ」とは書いていません。そんなことはあり得ない のです。私は自分の感情を制することは出来ません。もし出来たら私は決して嫌な気分にはな らなくて済むし、頭痛や歯痛も無く、いつでも気分良くいられるでしょう。しかし私は神を信じるこ とは出来るのです。そしてもし私たちが足をこの岩の上に置くなら、どんなに疑いや恐れが来 ても、あるいは波が私たちのまわりに押し寄せて来ても錨が支えてくれます。
・正しい信仰
自分の信仰を四六時中チェックしている人々がいます。しかし信仰とは祝福を受ける手なの
です。私はある物乞いについてのこのような例話を聞いたことがあります。あなたが道端で何 年もの間いつも物乞いをしていた男に出会ったとします。あなたは彼に施しをしますが彼はこう 言います。「ありがとうございます。でもお金はいりません。私はもう物乞いではありませんか ら」あなたは彼にその訳を尋ねます。
「昨晩ある人が千ドル私にくれたのです」
「なんだって。それはちゃんとしたお金なのかい」
「私はそのお金を銀行に預けて通帳も持っています」
「どうやってそのお金をもらえたんだい」
「私がある紳士に施しを求めると、彼は私と話をし、その後で千ドルを取り出して私の手に渡
したのです」
「彼が正しい(right)手でくれたとどうしてわかるんだい」
「右(right)手でも左手でもいいじゃないですか。私がお金を手に入れたのは確かなのですか
ら」
多くの人は自分がキリストにより頼んでいる信仰が正しいかどうかいつも考えています。しか
しはるかにより本質的なことは、正しいキリストを見ているかどうかです。
信仰は霊の目です。完全に見えているにもかかわらず、目が正しいかどうかを調べるために
目を抉り出そうとする人がいるでしょうか。また、私の食欲を満たすのは私の味覚ではなく私が 味わっている食物なのです。ですから皆さん、ただ御言葉によって神を受け入れることが私た ちの救いの手段なのです。真理はいくらシンプルにしてもし過ぎることはないのです。
ある人がニューヨークに住んでいてハドソン川沿いに家を持っていました。彼の娘の一家が
冬を一緒に過ごすためにやって来ました。その冬の間にしょう紅熱が流行って、彼の小さな孫 娘が家族から隔離されて別室に入れられました。毎朝彼は仕事に行く前に孫娘のところへ「行 ってきます」を言いに行きました。ある時、その子はおじいさんの手をとって部屋の隅へ連れて 行きました。その子は一言も口をきかないでただ床を指差しました。そこには彼女が小さなクラ ッカーで綴った「おじいちゃん。私、絵の具が欲しいの」という文字がありました。彼は何も言い ませんでした。その日、仕事から帰ると彼は上着を掛けいつものように孫娘の部屋へ行きまし た。その子は自分の願いが叶えられたかどうか確かめることもせずに、おじいさんを同じ部屋 の隅へ連れて行き、同じように綴った文字を見せました。「おじいちゃん。絵の具ありがとう」そ うありました。その子はおじいさんがどんなことがあっても決して自分を喜ばせることをしそこな うことはないことを知っていたのです。それが信仰です。
信仰は御言葉によって神を受け入れることです。しるしを欲しがる人はいつも満ち足りない中
にいます。「神がそう言われた。信じようではないか」このようなところへ達したいものです。
しかし「信仰は神からの賜物です」という人がいます。空気もそうなのです。でもあなたはそれ
を呼吸しなくてはなりません。パンもそうですがあなたはそれを食べなくてはなりません。水もそ うです。でもあなたはそれを飲まなくてはなりません。ある種の不思議な感情を求めている人々 がいますがそれは信仰ではありません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストにつ いてのみことばによるのです」(ローマ10:17)。そこが信仰の根源です。不思議な感覚を伴って信 仰がそっと自分を覆うというようなことをじっと待つのではなく、神を御言葉によってとらえること です。そして人は信じるべき何かが無ければ信じることは出来ませんから御言葉を書かれた 通りにとらえ、それを自分のものとして握り締めることです。
ヨハネの福音書6章47、48節に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永
遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです」とあります。すぐそこにパンがあるので す。それを食べなさい。いわば家の中に何千個ものパンを持っていて、同じ数の飢えた人が待 っているようなものです。彼らはそこにパンがあるという事実は認めるかも知れません。しかし 彼らがそれぞれパンを食べ始めなければ彼らの飢えは満たされないのです。キリストは天の パンです。体が自然の食物で養われるようにたましいはキリストによって養われなくてはなりま せん。
・信仰の例話
もし溺れている人が自分を助けるために投げられたロープを見たならそれを握り締めるに違
いありません。そしてそのためには彼は他のものは全て捨て去るでしょう。またもしある人が病 気なら彼は薬を飲まなくてはなりません。ただ単にそれを眺めているだけでは癒されないから です。キリストについての知識は主を信じない限り、また主を唯一の希望として握らない限り求 道者を助けません。蛇に噛まれたイスラエル人は青銅の蛇が揚げられたことは信じたかも知 れません。しかし彼らが仰ぎ見ない限り彼らは生きなかったのです。
「そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々
が死んだ。 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しまし た。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために 祈った。 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につ けよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、 それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生き た。」(民数記21:6〜9)
私はある航路の汽船に乗れば海を渡ることが出来ると信じています。それは経験したことが
あるからです。しかし海を渡りたい他の人が私のその知識を聞いても、それに基づいて行動し ないならその知識は助けにはなりません。ですからキリストについての知識は私達がそれに基 づいて行動しない限り助けになりません。それが主イエス・キリストを信じるということです。そ れは信じることに基づいて行動することです。大西洋を渡るために汽船に乗り込むように、私 達はキリストをとらえ、たましいを主に委ねなければなりません。主は彼に信頼する全ての人を 守ることを約束しておられます。主イエス・キリストを信じることとはただ単に主を御言葉によっ てとらえることなのです。
|