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パウロ伝
179-114 節
第1次伝道旅行
彼の同行者たち
キプロス。彼の名前が変わる。
小アジア本土
マルコの職務放棄
ピシデアのアンテオケとイコニオム
ルステラとデルベ
帰還
第2次伝道旅行
バルナバとの分かれ
記録されなかった旅行の半分
ヨーロッパに渡る
ギリシャ
マケドニア
女性と福音
惜しみなく与える教会
アカヤ
アテネ
コリント
第3次伝道旅行
エペソ、偶像崇拝との論争
第1次伝道旅行
79.パウロの同行者たち・・・キリスト教の説教者は当初から単独では無く、二人ずつ組になっ
て出かけた。
パウロがこの仕事についたとき、この慣例を改善して二人の仲間と出かけた。そのうち一人は
若い人で、恐らく旅行の装備を担ったものと思われる。
彼の最初の旅行は彼の同労者バルナバとバルナバの甥のヨハネ・マルコであった。
80.私たちはパウロの発見者と呼んでもよいであろうバルナバを既に見ている。そして彼らが
一緒に伝道旅行に行くことにしたとき、パウロの援護者としての地位であったであろう。なぜな ら彼はキリスト者の社会で重く見られていた人物であったからである。
バルナバはおそらくペンテコステの日に回心したのであろうが、彼は続くできごとのリーダーを
務めた。彼は高い社会的地位の人で、キプロス島の土地所有者であった。そして彼は引きつ けられた新しい運動にすべてを捧げた。初期のキリスト者のあいだで所有をお互いに分け合っ た熱心さが起きてきたとき、彼は自分の地所を売り払い、その代金を使徒たちの足下に置い たのであった。その後も彼は常に説教の仕事をし、顕著な雄弁の才能を有していて、慰めの 子と呼ばれていた。この旅行の後の段階で起きたできごとは二人の人物の姿を私たちに垣間 見せる。ルステラの住民たちが彼らを神だと誤解したとき、彼らはバルナバをゼウス(主神)、 パウロをヘルメス(牧畜、商業、幸運、音楽、競技などの神で、神々の使者をつとめる神)とみ なした。さて、古い絵画の中のゼウスは常に背が高く、威風堂々としていて慈悲深そうな姿をし ているが、一方ヘルメスは小柄で、神と人とのあいだを飛び回る伝令官として描かれている。 それ故、恐らく体格がよく慈悲深い父親のようなバルナバを旅行の長であり指揮官であると 見、パウロを背が低く熱心な従属者であるとみたのであろう。彼らが行こうとした方向もまた、 バルナバが自然に選びそうなものであった。彼らは最初、キプロスに行った。その島には恐ら くバルナバの多くの友人たちがいたことであろう。その島はセルキヤのアンテオケの港の南8 マイルにあって、そこについたら司令部を置くつもりであったかもしれない。
81.キプロス ・・・名前が変わる・・・しかし、バルナバは指導者として現れたけれども、お
そらくそのよい人は「彼は盛んになり、私は衰えていく」というバプテスマのヨハネのよく知られ ていることばを、彼の同行者に対して思ったことであろう。
すべての仕事について、それに取りかかるやいなや、彼らのあいだの関係にそのことが明ら
かになった。その島を宣教しながら東から西に通り抜けた後、彼らはパソスに到着した。そこ が主立った町で、彼らは最も濃縮した形でそれに直面することになった。
パポスは愛の女神であるビーナス(アフロディテ)礼拝の中心地であった。ビーナスは正にこの
地の海の泡から生まれたと言われていた。この女神への礼拝にはもっとも粗野で淫らなことが 行われていた。それがギリシャのモラルが退廃に落ち入った縮図であった。パポスももちろん ローマの支配下にあって、セルギオ・パウロという人が総督であった。この人は高貴な性格の 持ち主であったが、信仰を持っていなかったのは、最良の息子たちが深く必要とするものに出 会わせることにローマが無能であったことを示す縮図であった。
総督の宮廷で、エルマというユダヤ人の魔術師で偽医者が信用されていた。彼はユダヤ人の
最も低い深みに落ち込んだ人物の姿を示している。全光景が伝道旅行に遭遇する世の悪の 縮図の一種を示していた。この緊急事態に当たって、パウロは自分の内にある神の力を初め て使った。聖霊が彼を捉え、すべての障碍に打ち勝つ力を彼に与えたので、彼はユダヤ人の 魔術師を痛罵し、ローマ人の総督を回心させ、ギリシャの神殿に対抗するキリスト教の教会を その町に建てた。
その時からバルナバはパウロの次の席に下がった。そしてパウロが当然そうであるべき伝道
旅行の長の位置についた。それ故私たちはもはや「バルナバとサウロ」と言わない。常に「パ ウロとバルナバ」である。従者がリーダーになった。そして新しい人と新しい地位を得たことを 明らかにするため、彼はそれ以降、彼が生まれた地におけるユダヤ名サウロではなく、キリス ト者たちの間で知れ渡ったパウロという名で呼ばれるようになった。
82.小アジアの本土 ・・・はじめの旅行がバルナバによるものであったように、次の移動
は明らかに新しいリーダーによって選択された。彼はペルガに向けて海を渡った。ペルガは小 アジアの南海岸の中央近くの町であった。それから100マイル内陸にまっすぐ進み、次いでそ こから少し東へ進んだが、そこはタルソの真北にあった。
このルートは彼らをパンフリヤ、ピシデヤとルカオニアを通る半円形に彼らを行かせた。その
境界はキリキヤの西と北で、パウロの生まれた地方であった。もし彼が既にキリキヤで伝道し ていたのなら、今回は単に彼の領域の直近の周辺にその働きを進めたのであった。
83.第2次伝道旅行の出発点のペルガで、不幸な出来事に遭遇した。ヨハネ・マルコが仲間
を見捨てて、船で家に帰ってしまったのであった。恐らくパウロによって決められた新しいポジ ションは彼の気分を害したのであろうと推測される。寛大な伯父はそのような不満は全く持たな かった。それは彼の天性と神によるものであった。しかし、マルコが脱落したもっとありそうな理 由は、彼らが進んでいこうとしている道の危険さに怖じ気づいたためであろう。それらは固い意 志の持ち主であっても恐怖に打たれる可能性が十分あった。ペルガの背後には雪の壁を抱い たタウルスの山々がそびえ、そこを通り抜けるためには狭い山道を通らなければならなかっ た。勢いよく流れる急流をまたぐひどい橋や、通る旅人を見張っている強盗の根城が非常に入 りにくいところにあり、ローマの軍隊ですら彼らを絶滅させることができなかった。
これらの前段階とも言える危険を乗り越えたとき、次に予想されることは他でもない、この地方
の最も高い山の頂上より高いところに位置するタウルスの北の広大な台地にある国々は、人 里離れた湖が散在し、不規則な山々と荒野が広がっていて、そこには粗野で果てしなく変化に 富んだ方言を話す人々がいた。
これらの事柄がマルコを恐れさせたので、彼は引き返していった。しかし彼の仲間たちは、自
ら意を決して前進していった。彼らにとってそこに滅び行く多くのたましいがいることで十分であ った。それらの救いを必要としている人々に対して彼らが福音の使者であった。それからパウ ロは異邦人の地に少数の彼の同胞が散在していることも知っていた。
84.私たちは彼らが訪ねた町々でどんなことをしたか思い浮かべることができるだろうか?事
実、それは私たちが思い浮かべる姿よりも困難であった。私たちが彼らがどこかに入っていく 姿を想像してみるとき、私たちは自然とそこの最も重要な人物を思い浮かべる。私たちにとっ て彼らが入っていくことは、凱旋する車上の高貴な人物のように思えてしまう。しかしながら、事 実はそれと全く違っていた。彼らはどこの誰か知られていない二人の人として静かに町に入っ ていった。ある朝私たちがどこかの町に歩いて入るように。
彼らの最初の心配は泊まるところの確保であった。次に彼らを雇ってくれるところを探すことで
あった。なぜなら彼らはどこに行っても仕事をすることが必要であったから。
ありふれたこと以上のことは何も無かった。仕事を求めて天幕造りの業者を次々と訪ねている
旅で汚れた人が、その衣の下に世界の未来を運んでいたことを誰が夢見ることができるだろう か!安息日が来る度に彼らは仕事を止め、そこにいる他のユダヤ人たちと同じよう会堂に通っ た。彼らは他の礼拝者たちと共に讃美と祈りに加わり、聖書の朗読を聞いた。これらが済んだ 後、司会の長老が誰か皆に伝える勧めのことばがあるか尋ねた。
これがパウロの機会であった。彼は立ち上がって手を広げ、語りはじめた。ただちに会衆は彼
の語調によって彼が教養のあるラビであると分かり、聞き慣れない声は聴衆を引きつけた。
先に読み上げられた節を取りあげて、彼はすぐにユダヤの歴史の流れに話を進めたことであ
ろう。彼らの父祖たちの望みであり預言者たちによって約束されていた救い主が来て、救い主 は彼らの間に使徒たちを派遣されたことに関する驚くべき告知にみちびいた。
それからイエスの話が続いた。イエスはエルサレムの指導者たちに拒絶され十字架に架けら
れた。しかし、預言者たちに示されているとおりに、イエスが死から復活したことは、イエスが神 に派遣されたものであり、今、彼は王の位に就き、イスラエルに罪を赦す悔い改めを与える救 い主であることの証明であると示した。
そのような説教者からそのような説教が語られることがいかなる騒ぎを引き起こしたか、また
集会が終わって会堂から散っていった会衆の間の会話の騒ぎを容易に想像することができ る。彼らがその町で話したその週のあいだ、パウロは夕方の仕事が暇なとき、もっと聞くことを 望む人々と喜んで会話をした。
次の安息日にその会堂は人で一杯になった。ユダヤ人だけで無く異邦人も同様にやってき
た。かれらは珍しい旅人を見ようとした。そしてパウロはイエス・キリストによる救いはユダヤ人 同様異邦人にも与えられるという奥義を明らかにした。
このことは一般にユダヤ人にとっては受け入れがたい、神を汚す印であった。それでパウロは
彼らに背を向け、異邦人に向かった。しかしそうこうしているうちに熱狂がユダヤ人たちに沸き 起こり、彼らは群衆を扇動したり、当局者たちに旅人を危険人物と思わせた。それで群衆の騒 ぎの中、当局者たちの命令で福音の使者たちはその町から追い出された。
彼らの小アジアの内陸の最初に活動した場所であるピシデヤのアンテオケで同じことが起き
た。それはパウロの続く生涯に、百回も繰り返されたできごとであった。
85.彼らはそうたやすく出発できないことが度々あった。例えばルステラでは、多数の荒っぽ
い異教徒たちに囲まれた。彼らははじめパウロの魅力のあることばに引きつけられて説教者 たちの姿に感銘を受け、彼らを神だと思い、彼らに供え物を捧げたほどだった。
これに宣教者たちは恐れ満たされて、彼らは群衆の意図したことを極度に拒否した。群衆の
気持ちは急変し、パウロを石打ちにし、死んだと思って町の外に投げ捨てた。
86.そのようなことが、彼らがこの辺鄙な地域を通るときの興奮と危険な光景であった。しかし
彼らの熱心さは決して削がれることは無かった。彼ら決して引き返そうとは思わなかった。そし て一つの町から追い出されると他の町に向かって前進した。
そして、全体としては彼らが挫折することがしばしばあった。しかし彼らが、恐らく少数のユダヤ
人ともっと少数の改宗者と多人数の異邦人からなる回心者の小さな団体を残すことなく去った 町はなかった。
福音は、罪の重荷に後悔している人々、世と彼らが代々住んでいる地域に不満を抱く魂、同情
と愛に飢え乾く心もった人々に見いだされた。「信じた人々はすべて永遠のいのちに与った。」 そして彼らがどの町でもキリスト教会の核となった。
完全に打ち負かされたように見えたルステラにおいてさえ、信仰の心の小さなグループが町の
門のそとで使徒たちの周りに集まった。ユニケとロイスが優しい婦人の宣教者であった。若い テモテは、死にも負けない信仰の勇者である彼らの、青ざめ、血を流している顔を見て、彼の 心が彼らと永遠に結ばれることを感じた。
87.パウロは艱難と不正な仕打ちに対して、そのような人々の強烈な愛によって報いられたと
受け止めることができた。
ある人々が考えるようにこの地域の人々がガラテヤ教会の一部を形成したとすると、彼らがパ
ウロに与えた親切な愛を、パウロが彼らに当てた手紙によって私たちは知ることができる。パ ウロはこう言う。彼らは彼を神の使者として受け入れた、そればかりでなくイエス・キリストご自 身に対するかのように彼らの目を向け彼を受け入れた、と。
彼らは荒削りの親切さと向こう見ずな衝動の人々であって、彼らの土着の地域は興奮と感情
をあらわにした。そしてその性質をもって新しい信仰を迎え入れた。
彼らは喜びと聖霊に満たされていた。そして信仰復興は四方八方に急速に広がっていった。
小さなキリスト教徒の共同体からトロス山脈の斜面に沿って、ケストロス川、ハリス川の谷間に その声が響き渡った。パウロの温かい心はそのような愛のほとばしりを喜ばずにはいられな かった。彼は彼の深い愛を持ってそれに応えた。
彼らの訪問地のリストにはピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、そしてデルベの町々
が記録された。しかし、彼らの旅程を終え、キリキヤの門口に下り、タルソへの道が開かれ、ア ンテオケに戻ろうというときになって、これまで通った道を戻って帰ろうとした。彼が訪問したと ころすべて、差し迫る危険の代わりに、愛する回心者たちが彼に会った。そして彼らを励まし、 いさめることができた。そしてどの町でも長老を任命して彼らが不在のあいだ教会を守らせ た。
88.帰還 ・・・宣教した地を通り抜け、これらの高地から再び南の海岸に下り、出発地で
あったアンテオケに船で戻った。労苦と苦難に疲れたが、成功の喜びをもって終えることがで きた。彼らは彼らを送り出し祈りをもって彼らを支えた人々の前に現れた。彼らは、新しい国を 発見して帰ってきたように、これまで知らなかった地域の異邦人たちのうちに行われた神の恵 みによる多くの奇跡を報告した。
第二次伝道旅行
89.パウロの最初の旅行は彼にとって、ちょっと力を試してみただけだと言ったものであった
かも知れない。なぜなら彼の旅程は冒険的ではあったが、彼の生まれた地方の周辺に限られ ていたからである。
二度目の旅行では、もっとはるか遠くまで危険な飛翔を行った。事実この旅は、彼が企画した
最大の旅であるのみならず、恐らく人類の歴史上で最も重要な記録となったのであった。この できごとは、ギリシャ人の武力と文化をアジアにもたらしたアレクサンダー大王の遠征、あるい はブリテン(英国)の海岸に上陸したシーザー、新大陸を発見したコロンブスの航海に遙に勝 るものであった。けれども、彼がその旅に出かけたときは、彼はまだその大きさや進む方向と かを分かっていなかった。
最初の旅行を終えてから短期間の休息を享受した後、彼は伝道旅行にいった仲間たちに「ま
た行って、先に訪問した地で主の言葉を伝えた兄弟たちを訪ね、彼らがどうなっているか見て こよう。」と言った。
それは彼に引きつけられた霊の子どもたちに対する親としての願望であった。しかし神は遙に
広大な計画を持っておられた。そのことは彼が進むにつれて明らかにされた。
90.バルナバとの別れ ・・・不幸にもこの旅のはじめに、それを一緒に行こうとした二人の
友の争いによって損なわれた。その原因はヨハネ・マルコを彼らの仲間として連れて行くことに ついての意見の相違であった。疑いも無くこの若者は、パウロとバルナバが無事に帰還し、彼 が望んでいたものが彼らによって報告されるのを聞いた。それで彼は自分犯した過ちに気づ き、もう一度彼らに加わることによって自分の過ちを償いたいと願った。バルナバは当然甥を 連れて行くことを望んだが、パウロは全く拒んだ。一方の宣教者は優しい親切なあるひとであ って、赦しの義務と初心者を拒むことによる影響を強調した。しかしもう一方の人は、神への熱 心に満たされた人であって、頼るに足りない人を頼ることは危険をもたらすものであって、「困 難の時に忠実でないものは、折れた歯、関節のはずれた足のようなものだ。」と主張した。私 たちは彼のどちらが正しいとか、両者ともすこしずつ悪いのだとかいうことはできない。彼らは 両者ともそれに煩わされたが、パウロは怒って恐らく誰よりも恩恵を受けた人物から離れ、バ ルナバは当時の最大の魂から離れてしまった。
91.彼らが再び会うことはなかった。
しかしながら、これは非キリスト者たちの争いように続くものではなかった。というのは、情熱は
すぐに冷め以前の愛がかえってきたからであった。パウロは彼の著作に、バルナバを尊敬を もって記述している。そして彼の最後の書簡でマルコをローマにつれて来るようにと切望した。 彼の伝道にマルコが有益であるからと付け加えている。・・それはまさに以前は彼が信じること のできないことであった。しかしながらそのときは、彼らは別れて別行動をとった。彼らは宣教 する地域を分け、バルナバとマルコはキプロスに、パウロは小アジア本土を訪問することにし た。
連れとしてパウロはバルナバの代わりに、シラス又の名をシルワノを選んだ。そして新しい旅
があまり進まないうちに、マルコの代わりになる人物に出会った。それがテモテであって、最初 の旅の時のルステラでの回心者であった。彼は有能で温和な人であった。彼はパウロの使徒 としての働きの最後まで、忠実な彼の同労者であり続けた。
92.記録されなかった働き・・・彼が決めた目的を遂行するのに当たって、パウロは彼が関与
して立てた教会を再訪することからこの伝道旅行を始めようとした。まずアンテオケにそれから 北西の方向に進み、彼はその仕事をシリヤ、キリキヤその他の最初の旅行の対象とした地に 行った。しかし、人がその歩むべき道に立っているとき、あらゆる種類の機会が彼の前に開け てくるものである。彼が最初に訪問した地方を過ぎたとき、更に遠くに進みたいという新たな願 望が彼のこころに生じた。そして神のみこころが道を開いた。
彼はまだフルギヤとガラテヤと同じ方向に進んでいこうとした。ビテニヤは黒海とアジアの海岸
に沿って横たわっている大きな地方で小アジアの西部の人口の密な地方であり、彼らがそこに 入っていくことを望まれているように思えた。しかし彼らの歩みを導いておられた聖霊は、私た ちには分からない何かの理由で、その当時彼らに門戸を閉ざした。そして神の導きは彼らを別 な方向に行かせた。彼は小アジアの北西の町トロアスにいた。
93.こうしてパウロは小アジアの東南のアンテオケから北西のトロアスまで、その距離はラン
ズエンド(イングランド南西端にある岬)からジョンオグローツ(スコットランド最北端)まで(英国 (ブリテン)の端から端までの意=ユダヤ人が「ダンからベエルシェバまで」と表現するのと同じ ようなイギリス人向けの表現)までよりも遠く、その間ずっと伝道しながら旅をした。
それは何ヶ月も、恐らく何年もかかったことであろう。そのように長く、労多かった期間であるけ
れども、私たちはガラテヤ教会に宛てた手紙から収集することによって推測されるその教会の 人々との交わり以外には詳細な記録を持っていない。実際には使徒の働きに示されているパ ウロの経歴に関する記録は衝撃的であるが、この記録は非常に抜けが多く不完全なものであ る。そして彼の生涯は、ルカが私たちに解説していることより遙に多くの冒険があり、キリスト のための労苦と苦難に満ちていた。使徒の働きの目的は、各旅行の中で最も貴重で特徴的な 事柄のみを私たちに語ることであって、例えば彼が再び訪問した同じ場面はすべて省略してい る。そのように彼の生涯の記録されなかった部分の多くは、詳細に記述された部分と同様に大 いに興味がある。このことについて彼が書いた一つの書簡の中に驚くべき証拠があり、使徒の 働きによってその時期がカバーされている。
彼の使徒職への召命に関する主張は、顕著な出来事を列挙した際に、「彼らはキリストの使者
ですか?」、彼はこう問いかける、
「私は彼ら以上です。労苦もはるかに多く、決まりの上限まで(40回を越えない規則なので39
回)のむち打ち、度々の入牢、幾度も死ぬところだった。
ユダヤ人から40回より一つ少ないむち打ちを受けたことが5回。
棒で打たれたことが3回。
石打ちが1回。
難破したことが3回。
一昼夜海上に漂い。
何度も旅をし、水の危険、強盗の危険、自分の国の人々による危険、異邦人による危険、都
市の危険、荒野の危険、海の危険、偽兄弟の危険、疲労と痛み、たびたび監視され、飢え乾 き、しばしば飢え、寒さの中に裸でいたこともあった。」
さて、この特異な目録の事項に関して使徒の働きにはわずかしか記録されていない。
ユダヤ人の5回のむち打ちについては1回も書かれず。ローマ人に3回打たれたことについて
は1回だけ、石打ちの記録は1回、3回の難船については1回も書かれず、使徒の働きに十分 詳しく記録された難船は、ずっと後になって起きたことであった。
ルカには彼が描いていた英雄の姿を誇張する意図は全くなかった。彼の簡潔な文書と控えめ
な解説は実際よる遙に短く、数ヶ月あるいは数年の出来事を凝縮した単純な数語によって通り 過ぎる。労苦と苦痛に満ちた輪郭を少なくとも彼が忍んだ記憶と同等であるようにと、私たちの 想像力は忙しく働くことを要求される。
94.ヨ−ロッパへ渡る・・・トロアスに着いたパウロに彼が行こうとしていた方向にではなく、次
に別な方向に向かうようにと、聖霊によって彼の進むべき方向が明らかにされた。しかし銀色 に輝くヘレスポント海峡(今ではダーダネルス海峡と呼ばれている)越しに対岸のヨーロッパ大 陸を眺めながら、それが神の導きか疑わなかっただろうか?
彼は今、幾世紀に渡り文明が育つ場所となった魅力的な圏内にいた。そして戦争と冒険の物
語や愛と武勇の巨匠たちについて彼が知らなかったはずはなかった。それらは人類のこころ に永久に輝きと愛着をもたらしたものであった。
ほんの4マイル離れた所にトロイの平野があり、そこでホメロスの不滅の詩によって名高いヨ
ーロッパとアジヤの抗争が繰り広げられた。大理石の玉座に座ったクセルクセスはそんな昔 のことでなく、三百万人のアジア人がヨーロッパを彼の足下にもたらすために行軍した。狭い海 峡を挟んだ対岸にギリシャとローマが横たわっており、そこは学問と商業の中心地であり、そ の軍が世界を治めていた。
キリストの栄光のために彼のこころは非常に野心的になったことであろう。その望みによって
彼自身をこの要塞の上に身を投じたのか、あるいは聖霊が彼をこの冒険に導いていることを 疑わなかったのだろうか?
彼はギリシャ人たちが彼らのすべての知恵を傾けても、救いの知識に欠乏していることを知っ
ていた。それはローマ人も同じであった。なぜなら彼らは世界の覇者であったがやがてきたる 世の相続を勝ち取る道を知らなかったからであった。しかし彼の胸中には彼ら双方の求めて いる奥義があった。
95.彼のこころにおぼろげに去来した考えは、トロアスで彼が見た幻に彼自身を重ね合わせ
たか、あるいはその幻はまずヨーロッパに渡るという考えを引き起こしたのであろう。エーゲ海 の潮騒(しおさい)を耳にしながら眠っていたとき、彼は対岸に一人の人が立って手招きし「マ ケドニアに渡ってきて私たちを助けてください。」と叫んでいる幻を見た。その人物はヨーロッパ を示し、ヨーロッパがキリストの助けを必要としていると叫んだ。
パウロはそれが神の召しであることを悟った。そして正に次の落日にヘレスポントの黄金の光
を浴びて、彼の姿はマケドニアに向かう船の甲板に座っていた。
96.パウロのこのアジアからヨーロッパへの旅行には、偉大な摂理の決定があり、西洋の子
らであるものとして、私たちは深い感謝なしにはこれを考えることができない。
キリスト教はアジアの東洋人のあいだで起こり、ユダヤ人とその最も親近の人種の間に、はじ
めに広まることが予想されても不思議ではない。西に来る代わりに東に行ってもよかったので あった。今は偽預言者の信仰に支配されているアラビアの人々に普及してもよかったのであ る。中央アジアの遊牧民族を訪れ、狭い道を通り抜けて下りヒマラヤ山脈を越えて、ガンジス 川、インダス川そしてゴーダーヴァリ川の岸に神殿がそびえ立ったかも知れない。更に東に進 んで、支那(中国)の何百万の人の群れを、孔子(儒教)の冷たい世俗主義から救ってもよかっ たのである。もしもそうなっていたら、今、インドや日本からの宣教師が英国やアメリカに来て、 十字架の物語を語っていたことであろう。
しかし神の摂理はヨーロッパに第一の祝福を与えることであった。私たちの大陸の命運はパウ
ロがエーゲ海を渡ったときに決定された。
97.マケドニア・・・ギリシャはローマよりアジアの岸に近くにあるため、そこをキリストのために
勝ち取ったことが第二次宣教旅行に偉大な成果であった。
当時世の他の地域と同様ローマの統治下にあって、ローマ人は北部をマケドニア、南部をア
カヤに分けていた。従ってマケドニアはパウロのギリシャ宣教の最初の舞台となった。マケドニ アは大ローマの道路が東から西へ通っていた。その道路に沿って伝道が行われた。そして彼 の働きはピリピ、テサロニケ、ベレヤといった地が数えられている。
98.この北部のギリシャ人の品性は、南部の洗練された社会よりも、もっと退廃しているとは
言えなかった。マケドニアの人々の内には、4世紀前に世界を征服した兵士たちの活力と勇気 がまだ残っていた。パウロがこの地に建てた教会は、他のどの地域で建てた教会よりもパウロ に慰めを与えた。テサロニケ人とピリピ人に宛てた手紙以上に、喜びに溢れ愛情のこもった親 切な書簡は他にない。そして彼が晩年になって手紙を書いたとき、福音を堅く保つマケドニア 人の忍耐は、彼が最初に受けた歓迎を思い起こさせたことであろう。ベレヤで彼はユダヤ人の 会堂で、こころが寛く偏見のない人々に出会った。・・彼にとって希(まれ)な経験であった。
99.女と福音 ・・・マケドニアにおける働きにおける顕著な特徴は、女による働きが加わっ
たことであった。当時の世界全般に頽廃した宗教が一般に広まっていて、どこおいても多くの 女が会堂における純粋な信仰の中に、彼女たちの宗教的本能を満足させるものを探し求めて いた。マケドニアで、恐らく健全な風紀が保たれていたので、これらの女性改宗者は他のどこ の地域よりも多く、彼女たちの多くがキリスト教会に加わった。
これはよい前触れで、キリスト教が西洋の国々の多くの女たちに幸福な変化をもたらす啓示で
あった。男がキリストに多くの負い目がある(恩恵を被った)としたら、女は一層そうである。キ リストは女を、男の奴隷であり'なぐさみもの'であるという低い地位から解放し、男の友であり、 神の前に男と同等の地位に引き上げた。更に女性の細やかで品位のある特性が具現化した ことによって、キリスト教に新しい栄光が加えられた
これらの出来事は私たちの大陸におけるキリスト教の初期の足跡の中に生き生きと示されて
いた。ヨーロッパでの最初の回心者は女であった。ヨーロッパの地で開かれた最初のキリスト 教の礼拝に、心を開いて信仰を受け取ったルデヤのこころにあった。そしてキリスト教の影響 によってヨーロッパの女がそうなる姿を彼女が予表していた。
同時に、同じ町であるピリピで、福音が届けられる前のヨーロッパの女の状態の典型的な姿も
同様に見ることができた。占いの霊に憑かれ、その不幸によって男たちに利益を得させ、その 奴隷にされている哀れな少女をパウロは彼女を正気に直してやった。
彼女の哀れで貶められた姿は、当時の女たちの低い地位の象徴であった。一方ルデヤの優し
く慈愛に満ちたキリスト教徒としての品性は、女性の変貌を示すそれであった。
100.惜しみなく与える教会・・・ マケドニアの諸教会に明らかな輝かしいもう一つの姿は、惜
しみなく与える心であった。彼らは宣教師たちに欠乏している肉体に必要なものを供給するこ とに熱心であった。そしてパウロが彼らのもとを去った後にも、他の町にいる彼らの必要に適し た贈り物を贈った。ずっと後、パウロがローマで囚人となっていた時、彼らは彼らの教師の一 人エパフロデトをパウロの助力者として働くために派遣し、同じように贈り物を届けた。パウロ はこれらの高貴な心の好意を受け取った。他のところでは、骨の折れる指による仕事をして、 同様の好意を受けない様にしたのであった。
そればかりでなく、彼らの与える意思を値高い富であるした。反対に、彼らは大変貧しい中か
らそれをパウロの与えたのであった。
彼らの信仰は貧しい中で始まったが、彼らが耐えなければならなかった迫害によって一層貧し
くなった。これらはパウロが去ったあと非常に厳しかったが、彼らは長くそれを忍んだ。勿論そ の迫害は、はじめパウロ自身に加えられたものであった。
パウロはマケドニアで非常に成功したけれども、最後はどの町からもすべてゴミのように掃き
出された(追い出された)。それはいつもユダヤ人によって引き起こされたのであった。一方群 衆のパウロに対する熱狂もあったし、ローマの官憲による平和をかき乱したとか、皇帝に対立 する王を宣伝しているというとがめ立てがあった。
ユダヤ人たちは自ら天の御国に入らないのみか、他のひとたちが入ることを妨げた。
101.しかし神はご自分のしもべを守られた。
ピリピでは、主は彼を物理的な奇跡によって牢獄から救出された。その奇跡は更に残酷な看
守に恵みをもたらした。他の町ではもっと普通の手段で人々を救った。
激しい反対にも関わらず、教会は町から町へと建てられ、この喜びの訪れはマケドニア地方全
体に響き渡った。
102.アカヤ・・・マケドニアを去って、パウロは南のアカヤに進んだ。そこで彼は真のギリシャ
に入った。・・・そこは天才と著名な人々の楽園として名高かった。
その国の偉大さの数々の記念碑が、旅するパウロの周囲に聳(そび)えていた。
彼がベレヤを去るとき背後に、雪を頂いたオリンポス山を見ることができた。そこはギリシャの
神々が住んでいると想像されていた場所であった。
まもなく彼はテルモピレーを通り過ぎた。そこは不死身の300人が、数万人の異国人に立ち向
かった所であった。そして彼の船旅が終わりに近づいたとき、背後にサラミス島が見えた。そこ には再びその子たちの勇敢さによって滅亡から救われたギリシャ人たちがいた。
103.アテネ ・・・彼の目的地はギリシャの主都アテネであった。
彼がその町に入ったとき、通りに多数の像があることを意識しないではいられなかった。ここに
人間のこころをあからさまに示し、他のどこにもない華麗さを誇っていた。アテネはその歴史上 の最盛期には他のどの町にも勝って最も知的な人々がいた。今日に至るまでその名は栄光を 装っている。
けれどもパウロの時代には、実際のアテネは、それらは過去のものとなっていた。その最盛期
から400年を経て、それらの世紀の道のりは悲しむべき下降の経験であった。
哲学は詭弁に退化し、芸術は道楽に過ぎないものとなり、雄弁術は修辞法となり、詩は韻文作
りとなった。町は過去の上に生きるものとなっていた。それでもアテネはその偉大な名を持ち 続け、文化に満ち、学徒らがそこで学んでいた。様々な流派の学校があり教師たち、あらゆる 種類の知識の教授たちがいて、いわゆる哲学者たちが寄り集まっていた。当時の世のすべて の地域から集められた何千もの富んだ階級の外国人がいて、学びと知性の味わう喜びとのた めに生活していた。アテネはまだ世の人の人生の重要な要素のひとつである知的な訪問者に その役を演じていた。
104.すべての人にすべての事柄について対応できる驚くべき多彩さによって、パウロはそこ
の人々に対しても適応することができた。
市場の学者たちのロビーに入って、ソクラテスが5世紀前に同じ地点で行ったと同様に、学徒
たち、哲学者たちとの会話を始めた。しかし彼は出会った人々が、最も賢かったギリシャ人た ちにくらべ真理に対する嗜好さえなくなっていることに気づいた。そこの住民たちは、真理を愛 することに代えて知的な物珍しいことで満足していた。
それが彼らの前に新しい教説をもたらす人を誰でも彼らが喜んで迎えるようにしていた。それ
で単にパウロのメッセージの理論的な部分についてのみ、彼らは喜んで聞いたのであった。彼 らの興味は深まり、群衆はとうとう彼をマルスの丘(アレオパゴス)に招いた。そこは彼らの町 の荘厳さの全くの中心であって、彼らはパウロの信仰の信条を語るように求めた。(「マルスの 丘」はローマ人の呼び名、「アレオパゴス」はギリシャ人の呼び名。)パウロは彼らの望みに応 え、彼らに向かって壮大な説教をした。彼らの好奇心をも満足させ最も高貴な雄弁家の格言を 用い、唯一の神の偉大な真理を明らかにした。それはキリスト教の基礎として置かれている。 しかし、彼が聴衆の救いについて明らかにし、彼らの良心に触れ始めたとき、彼らは彼が語る まま残して、一斉に離れていった。
105.彼はアテネを去り二度とそこに戻らなかった。
彼がこれほど完全に失敗したところは、他のどこにもなかった。彼は激しい暴力的な迫害をも
耐え忍び、こころ軽くそれから立ち直るのが習慣となっていた。しかし彼のような熱烈な信仰に とって迫害よりももっと悪いものがある。そして彼はここでそれに出くわした。彼のメッセージは 興味も反対も引き起こさなかったのであった。例のアテネ人たちは彼を迫害する思いを持った のでは決してないが、彼らは彼をただのおしゃべりとしてしか思わなかった。それでこの冷たい 軽蔑は暴徒が投げる石や官吏のむちよりも深い痛手を彼に与えた。恐らく彼がそのときほど 意気消沈したことはなかったことであろう。彼はアテネを去った後、アカヤにあるもう一つの大 きな町、コリントに行った。そしてそのとき彼は弱り、不安で非常に恐れおののきながらそこに 着いたと彼は私たちに語っている。
106.コリント
・・・コリントにはアテネ人の精神と同じものが多分にあって、落ち込んだ感覚から容易に回復
することはできなかった。
コリントとアテネはグラスゴーとエジンバラの関係にそっくりであった。一方はその国の商業の
もう一方は知性の中心地であった。このふたつの都市のギリシャにおける位置も、例のスコッ トランドの二つの町にそっくりである。そしてコリント人もまた議論好きで、好奇心と知的傲慢に 満ちていた。
パウロはアテネで遭遇したのと同じような待遇を受けることを恐れていた。このような人々に対
しては、福音が何の使命も果たさないということがあり得るのだろうか?これは彼を恐れさせひ るませる質問であった。彼らには福音が入る余地がなく、彼らは福音に対する欠乏を感じるこ とがないように見えた。
107.コリントには落胆させる別の要素もあった。
そこは昔の時代のパリのようなものであった。・・・富み、豪華であって肉欲に満ちていた。悪徳
は恥じられることなく堂々と顕され、純粋なユダヤ人の心をもつパウロを非常に失望させた。 人々はそんな大きな悪徳の束縛から救われうるものだろうか?おまけに、ユダヤ人の反対が 通常ではない激しさで起きてきた。彼は会堂を去ることを強要され、そして強いことばを投げか けてそうした。
福音がギリシャ人の文化に一致しないからといってキリストの兵卒が戦場から逃げ去っていい
のか?それはそのように見えた。
108.しかし潮目が変わった。
パウロはその危機的な瞬間に、彼の生涯の最も試みとなる決定的な危機のときに与えられて
きた幻を見たのであった。
その夜主が彼に現れて言った、「恐れないで、語りなさい。沈黙していてはいけません。なぜな
らわたしがあなたと共にいるから。そしてあなたを傷つける人は誰もいない。この町にはたくさ んのわたしの民がいるから。」使徒は再び勇気を持った。そして失望は消え去った。
ユダヤ人たちは、暴徒たちとローマの総督ガリオの前に彼をせきたてて連行したが、総督は彼
らの訴えを馬鹿にし、尊大さをもって法廷から追い出したので、彼らの反対は潰えた。まさに会 堂の管理者自身がキリスト者になった、そして土地のコリント人が多く改宗した。パウロは彼の 同国人、真の心からの友、アクラとプリスキラの所有する家の屋根の下で平和なときを楽しん だ。
彼はその町に一年半とどまり、もっとも興味深い教会のひとつを建てた。こうしてアカヤ全土と
その地方に救いに至る神の力である福音の種は蒔かれ、世の知恵の中心地となった。
第3次伝道旅行
109.第2次伝道旅行から帰ってエルサレムとアンテオケでパウロが話した報告は、スリルに
満ちた物語であったに違いない。しかし彼は栄誉に安んじるような性格ではなかったから、程 なくして次の第3次伝道旅行の準備をはじめた。
110.アジアにて・・第2次伝道旅行でギリシャに福音を植え付けたので、第3次伝道旅行では
彼の主目的地(ローマ)にいこうとしていたであろうと推測することもあり得る。
しかし地図を参照してみると、最初の伝道旅行で宣教した小アジアと第2次伝道旅行で教会を
建てたギリシャ地方の中間の小アジアの西部に、アジアの人口の多い地域が見いだされる。
彼が第3次伝道旅行に下っていったのはその地方であった。その地方の首都であったエペソ
に3年以上滞在し、前の伝道旅行のギャップを埋めて効果をあげた。
事実この旅行では、先に建設した小アジアとその近隣のすべての教会と、また急ぎ足でギリシ
ャの教会を訪問した。しかし実際のところ使徒の働きの著者は、各旅行の新規な事柄が含ま れている部分以外はエペソに関係する詳細のみを私たちに提供している。
111.エペソ・・・この町は当時の地中海のリバプールであった。
そこには広い港があり、海上交通が集中していて国民のハイウェイのようなものであった。そ
してリバプールの背後に巨大な町ランカシャーがあるように黙示録に書かれている教会、・・ス ミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、そしてラオデキヤ・・があった。
エペソは巨大な富をもった都市であって、あらゆる種類の娯楽、その劇場と競技場は世界的
に有名であった。
112.しかしエペソは、宗教の都市として一層有名であった。
それは女神ダイアナ(ローマ人の呼び名、ギリシャ人はアルテミスという)礼拝の座であって、
その神殿は古代世界で最も崇拝されていたものの一つであった。この寺院は大いに富んでい て、非常に多くの祭司たちを擁していた。年の特定の季節には、周辺の土地から巡礼の群れ が集まり、様々な手段で行われるこの迷信の宣教によって、その町を繁栄させていた。金細工 人が小さな銀製の神殿に祭っている天から降ったと称する女神の像を造って売っていた。この 昔の遺跡の彫刻した神秘的な姿の模型はお守りとして売られていた。
この町には魔術師たち、未来を告げる者、夢を解き明かす者、その他それらと同様の連中が
群がっていて、この港に頻繁に出入りする船乗りたち、商人たち、巡礼たち相手に商売をして いた。
113.それゆえパウロの仕事は、迷信に対する反論の形式をとらざるを得なかった。
彼はイエスの名によって驚くべき奇跡をなした。あるユダヤ人の詐欺師たちがイエスの名によ
って悪霊を追い出そうと試みたが、その試みは彼らがインチキであることの証拠となってしまっ た。
他の魔術の教師はキリスト教信仰に改宗し、彼らの書物を焼き捨てた。その迷信に関する物
品で商売していた人々は、その商売が彼らの指の間から滑り落ちるのを見た。そういった事態 が拡大していったとき、その女神の祭典のひとつの時に、ことに打撃を受けていた銀細工師た ちがパウロの対して暴動を企てた。それは劇場で起こったが、うまく成功し、パウロは町を立ち 退くことを強要された。
114.しかし、キリスト教がエペソに確固として打ち立てられ、福音のかがり火がアジアの海岸
に明るくきらめくにいたるまで、彼は動かなかった。それに呼応してエーゲ海の他の岸にあるギ リシャにも福音の光は輝いた。
私たちは、エペソの周囲にある教会に彼の成功の記念碑を見ている。それらは数年後ヨハネ
が黙示録に記録した。おそらくそれらはパウロの直接の働きの実ではなかったであろう。そし て私たちはエペソ人への手紙に更に驚くべき記念碑を見る。
これはおそらく現存する最も奥深い本である。けれども著者は明らかにエペソ人がそれを理解
していると思っていた。もしもデモステネスの演説が、ナイフでも切り裂くことができない彼らの 固く包まれた論理を、彼らが喜んで聞いたギリシャ人の偉大な知性の記念碑であるとするな ら、またもしもシェイクスピアの演劇が曖昧で複雑な彼らの言葉と人生を深い観察をもって娯 楽の位置に輝かせたとしたら、エペソ人への手紙は、キリスト教の教えのもっとも深遠な響き、 キリスト教経験のもっとも広大かつ高貴なキリスト者経験を証明するものであって、パウロの回 心者たちがアジアの主都で彼の説教によって到達したのであった。
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