|
パウロ伝
51-67節
アラビア滞在
人の義の破綻
異邦人の破綻
ユダヤ人の破綻
破綻の究極的原因である堕落
神の義、新しいアダム、新しい人
パウロの福音の主導的特性
51.アラビア滞在・・・人は、パウロのように突然回心したら自分の身に起こったことを知らせ
たい強い衝動に駆られるのが常である。そのような証言は非常に印象的である。なぜならひと りの魂が見えない世界の現実性を垣間見たと受け止めるからである。それが抵抗しがたい現 実の感覚を生み出しているため、その証言は生き生きとしている。
パウロがただちにこの衝動に従ったのかそうでないのか、私たちは確かには言えない。
使徒の働きのことばでは「彼はただちに会堂でキリストを宣べ伝えた。」と言われていて、私た
ちもそう推測することに導かれる。しかし私たちは彼自身の書き物から、同時に彼に影響を及 ぼした他の力強い衝動があったことを学ぶ。そしてその二つの衝動のどちらに彼が先に従っ たのか不確かである。
このもう一つの衝動は、彼の身に起きたできごとの意味をひとりになって再考し、解き明かした
いという願いであった。
彼がそれを必要だと感じたことをいぶかることはできない。彼は以前信じていた信条を堅く信じ
ていて、すべてのことをそれによって判断した。それが突然粉々に砕け散ったのを見ることは、 強烈に彼を揺り動かしたに違いない。彼を照らした新しい信仰は、非常に遠大かつ革命的なも のであって、いっぺんにそれを受け入れることには耐えられなかった。
彼は思索家として生まれたので、何事も経験だけでは彼は満足できなかった。彼はそれを理
解し、自分の納得できる構図と適合することを求めた。それ故彼は私たちにこう告げている。 回心した後ただちにそこを去ってアラビアに行ったと。事実、彼は行った目的を言わなかった。 しかし、その地域での彼の説教の記録は存在しないが、福音起源についての熱烈な擁護の中 心にこの記述が置かれている。私たちは十分な確かさを持って、彼は詳細な思想を把握し彼 が受けた啓示を受け入れる目的でそこに退いたと結論できるだろう。
ひとり熟考することのなかに彼はその目的を達し、人々の間に戻ったときには、彼独特の、以
降の年々の彼の説教の核心であるキリスト教の全体像を把握していた。
52.彼が退いていた正確な場所は分からない。というのはアラビアは様々な意味を持っている
曖昧な語だからである。しかし、もっとも確実と思われるのは、それはアラビアを放浪したこと を示すものであって、その中心的な場所はシナイ山である。そこは啓示を受けた偉大な人々た ちの存在によって強く記憶される地点であった。
ここでモーセは燃える柴を見、山の頂上で神と会話した。
ここでエリヤは失望したときにさまよい、霊感の泉から新たに飲んだ。
この神の人が成功者たちについて黙想する上においてこれ以上の場所がどこかにあるだろう
か?マナが降った谷、エホバの足の下で燃える山の峰の蔭で、彼の生涯の問いを熟考した。 それはすぐれた模範である。新しく眞里を説くことは、それについてひとり洞察することにかか っている。
パウロは聖霊の特異な霊感を楽しんだが、彼自身の思考の必要性からくる活動に集中するこ
とを弱めることはなく、むしろ一層それを強めたのである。この3ヶ月の独立した考察は、彼の 福音を明確にし、確かなものとした。彼の隠遁は1年かそれ以上続いた。なぜなら彼の話では 最後のダマスコ出発の間に、3年の隔たりがあり、少なくともこの旅行がそのなかの一つであ ったからである。
53.この長い空白の期間を過ぎるまで、彼の福音の概要についての詳細な記録を私たちはも
っていないが、それが追跡できるようになった最初の時は、彼の回心の姿のみである。
そしてこの期間を過ぎた後、彼のこころは長く、力強く働き続けたので以下のことは疑いの余
地がない。ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙に示されている福音は実質的に彼が最初 に宣べ伝えたものと同一であることである。それで、これらの著作から、私たちが彼のアラビア での黙想を推測しても間違っていないのである。
54.人の義の破綻・・・パウロの思考の出発点はまだ、彼が子どもであった時からもっていた、
人の真の終着点と幸福とは神の愛顧を享受することにあるという、敬虔な世代のひとびとから 受け継いだ確信であった。それは義、神にあってのみ可能なもの、神の愛による平和と恵みを 通してのみ到達できるものであった。それ故、義に到達することが人間の究極の、第一の目的 でなければならなかった。
55.しかしひとは義に到達することに失敗し、そのために神の愛顧を損なって、神の怒りに身
を晒しているのである。パウロは異邦人とユダヤ人という二つの区分に対して、キリスト教以前 の人間の歴史を概観してこれを証明している
56.異邦人の破綻
事実、彼らは特別な啓示の利点を享受するという、義の追求に踏み入る基礎的な条件を全く
もっていなかったと推測される。しかしパウロは異教の人々も、義に続く責任を自覚するのに 足りる神の知識を十分持ちえたと主張する。彼の著作には神の自然の啓示がある。そして人 間の良心はこの義務に対して十分な光がある。しかし異教徒はこの光を用いず、故意にそれ を消し去った。彼らは神の知識にとどまり、彼らが知った純粋な神の知識が彼ら自身を抑制す ることを望まなかった。彼らは、不道徳な生き方がし易く感じるように神のかたちを破壊した。 その当然の報いは、彼らの知性の混乱と暗さの上にやってきた。
彼らは神の不滅の性質と栄光を、人間、獣、鳥や地を這う虫のかたちという、愚かなものと置
き換えてしまった。この知性の堕落には、より深い道徳性の堕落が続いた。
彼らが神を捨てたので、神は彼らを行くがままにさせた。それで神が抑制する恵みが取り去ら
れて、彼らは道徳的退廃に突き進んでいった。肉欲が彼を支配し、彼らの生き方は道徳的な 病の塊になった。
ローマ人への手紙一章の後半に彼らの状態の姿が、悪魔の住み家から借りてきたような色彩
で描かれている。しかし、それらは文献を取り上げれば、異邦人の歴史のページによって、当 時の異教国民の状況に証明されている。つまり、これは人類の半分の歴史であった。それは 完全に義から脱落し、人間のすべての不義に対する天から明らかにされている神の怒りに晒 されるに至った。
57.世界のもう一方の半分はユダヤ人であった。異邦人が破綻した点について、彼らは成功
したのだろうか?事実、彼らは異教の人々に遙かに勝る特権を有していた。なぜなら彼らは神 の啓示を持っていた。その中に人間の堕落によって理解しがたくなってはいたが、神の御性質 が示された。また神の律法が同じ形で平易に記されていたからであった。
しかし、彼らはその優位性に相応しかっただろうか?律法を知ることとそれを行うことは別であ
る。そして、義とは知ることではなく行うことである。彼らは彼らの知っていた神のみこころを実 行しただろうか?
パウロは、イエスが非難した律法学者とパリサイ人の堕落と偽善のユダヤ人のいる同じエル
サレムに住んでいた。彼は自国民の代表的な生き方をしていた人々を間近に見た。そして彼 は、多くのユダヤ人が異邦人と正に同じ罪を平気で犯しているとすることをためらわなかった。 それどころか、彼は彼らによって異邦人の間に神の名が汚されていると言っている。彼らは自 らの知識を誇り、真理の灯火を運ぶ者、異邦人の罪を明らかにする猛烈な炎であるとした。し かし、彼らの宗教は他人の行為を苦く批評するだけであって、同じ光をもって自らの行為が試 されていることを忘れていた。そして、盗んではならない、姦淫してはならない、と繰り返しなが ら、自らその罪を犯していた。
そのような状況で、彼らの知識は彼らに何の益を彼らにもたらしたのだろうか?彼らの罪に光
りがあてられたため、一層彼らが責められているだけであった。一方異邦人は彼らの罪につい てわずかしか知らなかったから比較的罪が軽かった。ユダヤ人の罪は知りながら図々しく犯し たものであった。彼らが優位性を吹聴したことは、彼らの劣悪さを示すものとなった。彼らは彼 らが軽蔑する異邦人の罪を非難すればするほど自らをより重い呪いに晒すことになった。
58.実際の所、異邦人もユダヤ人も両方とも同じ理由で破綻した。彼らの起源に立ち返ってこ
れらの二つの流れを追うと、最後には彼らが二つの流れではなく一つであることに行き着くで あろう。分岐が生じる前に、双方の破綻が決定づけられる何かが起きたのである。アダムにあ ってすべての人々が倒れ、異邦人もユダヤ人もすべての人がアダムからでていて、非常に弱 い性質も受け継いだので、義に到達するのは困難なのである。人間の性質は今や肉であり、 最高の霊性に到達するには適していないのである。
律法はこれを変えることができなかった。それは肉を霊的なもの変える創造的な力は持ってい
なかった。反対に、それは悪を増大させた。
それは確かに違反を増幅させた。なぜならそれが罪を明瞭で残りなく記述するからである。そ
れは生まれつきの感覚の比類ない導き手であり、病める者を誘惑に引き込むものであるから である。罪の確かな知識はそれを犯すことへと誘惑し、律法は罪を犯す天性の病に対して何 の働きもしないのである。違反を増大させ、過激にさせることが律法の効果であった。そしてそ れこそが神の意図であった。
神は罪の創作者ではなく、ときには病を癒やす前に、頭の痛みという道具をも用いる巧みな医
者のようであった。神は異邦人には自分の道を行くことを許し、ユダヤ人には律法を与えた。 人間の罪の性質は、神がそれを癒やすために干渉される以前は、すべての人が受け継いで いる性質であった。しかし、それを癒やすことは、神が常に持っておられた目的であった。神は すべての人を憐れむためにすべての人を罪の下に閉じ込められた。
59.神の義・・・人間の窮地は神の機会であった。事実、ある意味で、救済の一方法は失敗に
帰した。
神はもう一つの手段を工夫された。律法は神の意図された救いの道ではなかった。それはた
だ救いの必要を明らかにする手段に過ぎなかった。
律法は何世代にも渡る人間の試練を通しての神の教えの中に封印し続けられた神の手段で
あって、それが十分に示された時こそ、その完成の瞬間であった。
人間が罪に陥ることを許容するのは神の究極の意図では決してなかった。堕落した人間が自
分の努力によって義に到達することは決して出来ないことを実証するための時を許されたのみ であって、人間の義が失敗に帰したことが明らかになったとき、神は・・神の義という・・ご自身 の秘密を明らかにされた。
これがキリスト教であって、それがキリストの使命の総計であり核心であって・・人間が到達す
ることに失敗した、無くてはならない祝福を、無償の賜物として人間に与えるものであった。
それは神のみ業であり、恩寵であり、人間が自分では到達することに失敗したと認め、ただ神
からのものであることに同意することによってのみ与えられるものである。それは、ただ信仰の みによって得られるものである。
それは「イエス・キリストを信じる信仰により、ただ信仰のみよる神の義」である。
60.それを受け取った人々は、パウロが律法による義のために努力したゴールである、人間
の幸福のための神との平和と愛顧の関係に入のである。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神と
の平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によっ て導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
それがこの福音を知るように導かれた人々の、喜び、平安と望みの輝かしい人生である。
その中に試みがあるかも知れないが、あるい人の人生が真の目的に到達したときには、試み
は軽く、すべてのことが善いことのために共に働くのである。
61.神の義はすべての人の子のため・・ユダヤ人だけのためでなく異邦人のためでもある。神
の目的に沿って、人類の二つの区分の両方に対し、義に達することに対する人間の無能さが 明らかにされることによって、両方に同じように神の恩寵が与えられることを示されたことの表 れの完成であった。
キリストの働きはアブラハムの子らのためだけでなく、アダムの子らためであった。「アダムに
あってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
異邦人は救いを受けるために、割礼を受け、律法を守る必要がない。なぜなら律法は救いの
一部ではないからである。それは人間の破綻を示あらかじめ示し、この恵みが完成した暁に は消えていくように準備されていたものであった。
人間が神の義を受ける唯一の条件は、信仰である。そしてそれはユダヤ人同様異邦人にも容
易なことである。
これはパウロ自身の経験からの結論であった。パウロが回心にあたって取り扱われたのは、
ユダヤ人としてではなく、人間としてであった。救いの恵みをえるために、彼が与えられた時の 条件以上のものを求められる異邦人はいない。律法が救いに一歩でも近づけたというには遙 かに遠かった。そうではなくそれはパウロを異邦人以上に神から遠ざけた。そしてそれは彼を より深い罪に投げ入れた。それではどのようにして異邦人はこの恵みの位置に置かれるのに 相応しくなるのか?今彼が受けている義を得るために、彼は普通の人にできないようなことを 何もしなかった。
62.パウロに、キリスト教に対する無限の感嘆を抱かせたものは、福音の中に明らかにされ
た神のこの普遍的な愛であった。彼の共感は、狭い神の概念の中に閉じ込められていたので あったが、新しい信仰は彼のこころを解き放ち、自由で日の当たる大気の中へと導いた。彼に とって神は新しい神となった。彼は彼の発見したことを長い間、世々に渡って隠されていたが 彼と彼の仲間の使徒たちによって明らかにされた奥義と呼んでいる。それは彼にとって世々に 渡る秘密、新しい時代の導き手として定められており、この世がそれまでに見たいかなるもの にも勝って素晴らしいものに見えた。王たちも預言者たちも知らなかったものを彼が明らかに したのであった。それは新世界の夜明けのように彼に突然現された。今や神はこの上ない恵 みをすべての人に提供していた・・それは過ぎ去った時代にはむなしい努力に過ぎなかった神 の義であった。
63.この新時代の秘密は過去には全く予想されなかったかというと、事実そうではなかった。
それは律法と預言者たちによって証言されていたものであった。律法はその必要を明らかに するために、ただ負の面のみを証言した。
しかし預言者たちはもっと積極的に預言した。例えばダビデは、「行いによらない義を神に与え
られた人の幸い」について述べた。
アブラハムはもっと明瞭にそれを予言した。
彼は義とされた人であった。そしてそれは行いによるのではなく、信仰によってであった。・・
「彼は神を信じた。それによって彼は義と見なされた。」・・のであった。
律法はアブラハムが義とされるために何もなさなかった。なぜならそれは四世紀も前のことで、
律法はまだ存在しなかったからであった。同様に割礼もそれと一緒に何もしなかった。なぜな ら彼が義とされたのはその礼典が執行される前であったからであった。
手短に言うと、それはユダヤ人としてではなく人間としてであって、神によって取り扱われたの
であった。そして神は同じ方法ですべての人を扱うことがおできなる。
彼の前にアブラハムや預言者たちが歩んだという考えによって、律法による義のいばらの道
がパウロにとって聖なるもの思えた。しかし今や彼らの宗教生活の喜びと聖なる平安の讃美は 全く異なる経験によるものであって、彼のこころにも同様に天の平和が広がっていくことを経験 した。
しかし、それらについて記述しているほんの最初の一行によってでも、彼のこれまでの時が完
全に破壊される日となった。
64.古いアダムと新しいアダム・・・この救いの道に関してパウロが見いだしたことは、実際に
救われる経験をするということであった。彼はイエスの会った瞬間に、単純にイエスを知った。 そのキリストが長いこと虚しくあえぎ求めていた神との平和と愛顧の位置に彼を置いた。そして 時間が経つれて、彼ますますはその位置が人生の真の祝福を享受するものだと感じた。それ 以後彼の使命は、神の義の名の下に単純で確固たる現実のものとなったこの発見の使者とな る以外になかった。
しかし彼のようなこころは、キリストを所有することが彼にそんなにも大いなることをなした理由
を探し求めずにはいられなかった。アラビアの荒野で彼はこの疑問に注力した。そしてその後 彼が説いた福音の中にその輝かしい回答が含まれていた。
65.アダムの子孫はアダムから悲しい二つの遺産・・彼らが減らすことができず、絶えず増大
していく罪の負い目と、義であることを不可能にさせる肉の性質・・を引き継いでいる。これらは 罪に陥った人間の宗教的条件のふたつの姿である。そしてそれらは人間のすべての悲哀の 二つの源である。
しかし、新しいアダムであるキリストは、人類の新しい頭になり、信仰によって彼に結びつけら
れた人々は、まさしく正反対の種類のふたつの遺産を受け継ぐ者となるのである。
一方、丁度私たちの誕生はアダムの線上にあって、負債を引き継いだ家族にあいだに生まれ
た子どもの様に、私たちは必然的に絡みつく罪の性質を持っている。同様に私たちの第二の アダムの線上に誕生することによって、無限の富の資産を受け継ぐのである。それはキリスト が彼の家族の頭であり、その一員に同じ性質を造られたからである。
それが私たちの負い目と罪を帳消しにし、キリストの義にあって豊かなものとしている。
「一人の人の不従順によって多くの罪人が生まれたように、一人の人の従順によって多くの人
が義とされうることになった。」
一方、アダムが自分の子孫に罪の性質を伝えたように、神にとって異国人であり、義に相応し
くない人々に、新しいアダムは霊的性質の頭として子孫に分かち与え、神の民であり神の義に 与るものとした。
人間の天性は、パウロによれば普通、体、たましい、霊の三部分によって構成されている。
人間は、最初はそれらの間に明確な上下関係があって、霊は最上位にあり体が最下位にあ
り、たましいが中間の位置を占めている。
しかし堕落したことによってこの順序は混乱に陥り、肉体がかたましいや霊の占めるべき位置
を占めることによってすべての罪が引き起こされる。
罪に陥った人間は、人間の天性これらのふたつ優れた部分が、パウロが肉と呼んだものを構
成するにいたった。あるいは世と時に向かう人間の性質のその面が、人生の王座と完全な規 則を所有するものとなり、神に向かう人間の霊的な面は、王座を失い無能で死んだものとなっ た。
キリストは、ご自身の聖霊を人に所有させることによって失われた霊の優位性を回復される。
キリストの霊は人間の霊の内に住み、人の霊にいのちを与え、それを支え、より強くして人間 の成り立ちの各部分をより確かに統治させる。
人は肉的であることをやめ霊的になる。彼は神の霊によって導かれ、ますますすべての聖いも
の神的なものと調和するものとする。
事実、肉は、権威を捨てて従うことは用意ではない。それは霊を妨げ、活動を阻害し、権威を
再び所有しようとして戦う。
パウロはその葛藤を恐ろしい生き生きとした文章で記述した。その中ですべての世代のキリス
ト者が彼らを待ち受ける深い経験の姿を悟った。
しかしその葛藤の問題は疑いようが無い。罪の性質が、キリストの霊が住んでいる人々をふた
たび支配することはなく、神の愛顧の中に立っている彼らを押しのけることはない。死も生も、 天使も、支配者も、力も、今あるものもやがて来るものも、高さも深さも、他のいかなる被造物 も、私たちの主、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのである。
66.パウロの福音・・・それらが、パウロがアラビアでひとり黙想して持ち帰り、その後倦むこと
のない熱意を持って説教した福音のありのままの概要である。
彼のこころの中にあるものと彼の著作の中にあるものに、ユダヤ人としての彼の経験の特異
性が混じり合わないということはあり得なかった。そしてそれらがその中にある彼の教理の体 系の詳細な一部分を私たちが把握することを困難にしている。
彼が育った信仰は、ユダヤ人になることなく救われる人はいないということだった。そして彼自
身をそれから切り離さなければならなかった律法に関する概念は、現在の私たちが共感する ものから非常に離れたところにあった。けれども、彼の神学は、これらの異なる概念を対照す ること無く、彼の頭の中に形成されることはあり得なかった。
彼が長く絶え間ない戦いに労しなければならかったキリスト教会それ自身の中の一派の標語と
なって、以前の彼自身の誤りに自ら遭遇することは避けられなかった。この対立が彼の見方の 明確な表現をさせたけれども、現在の人々には興味のない感情と信仰への言及がそれらを分 かりにくくした。しかしそれらの障害があっても、パロの福音は人類にとって計り知れない価値 を持つものとなって残された。
人間の天性の堕落と欠乏に関する鋭い吟味、キリスト教世界以前の教育に神の知恵のすばら
しさ、その深さと普遍的広がりを持つ神の愛が、啓示の要素として示されている。
67.しかし、パウロの福音のキリストの概念は、不滅の栄冠を授けられている。
福音書の著者たちは、地上生涯の人間キリストイエスの麗しい感動的な姿を、数多くの単純
な筆使いで描いた。そしてそれらの中に、絶えず考えていなければならない人間の行為の模 範がある。しかしパウロには、神の子が人類の救いを完成されたみ業の、その高さ、深さを知 らせる仕事があった。彼は、ここかしこにそれをよく知っていることを明らかにしてはいるけれ ども、キリストの初期の生涯についてあまり言及しなかった。
彼にとってキリストは、ダマスコへの道で彼に現れ、天の栄光をもって輝き、彼を新しいいのち
による天の平安と喜びに入れた、栄光ある存在であった。
キリストの教会が、罪と死からの魂の救い主、教会と共にはたらくすべての信仰者を霊的にす
る存在、罪から救うために再び来られるすべてのものの主、として自分の頭について考えると き、それは聖霊によってこの使徒から仲介されることによって与えられた考えによって形造ら れているのである。
|