パウロ伝  

第3章 パウロの回心

37-50節
  迫害の過酷さ
  突き棒を蹴る
  キリストの姿
  回心がパウロの思想に及ぼした影響
  回心がパウロの生涯に及ぼした影響
  
37.迫害の過酷さ
・・キリスト教を根絶することがこの迫害者の望であった。しかし彼はキリスト教の特質を僅かし
か知っていなかった。キリスト教は迫害の上で繁栄する。繁栄することがキリスト教の命取りに
なることはしばしばあるが、迫害によってはけっしてそうならない。国外に散らされた人々は、
その行った先々のどこにでも神のことばを伝えた。
その時まで教会はエルサレムの城壁の中にとどまっていた。しかし今や福音の光はユダヤと
サマリヤの全土、離れたフェニキアやシリアに、多くの町や村にともされ始め、闇の中にきらめ
いた。そして二人、三人と互いに二回座敷で会い、聖霊による喜びを分かち合った。

38.私たちは、踏みにじろうと望んだ熱狂的信仰が急激に増える兆候に、迫害者の怒りがい
かに燃え上がったかは想像に難くない。しかし彼はためらっている様な人物ではなかった。彼
が憎んでいる対象を最も分かりにくい離れた場所からさえも駆り立てるために向かった。彼は
宗教審問官という役職を武器として、血なまぐさい目的を実行するために次々と新しい町に現
れた。
シリアの首都ダマスコは多くの人々が隠場を求めてやってきたところであり、彼らがその町に
いる多数のユダヤ人に宣伝していることを聞いて、彼は祭司長の所に行き、パレスチナ以外
のユダヤ人に対しても国内と同様の宗教審問権を与えられ、新しい方法で彼らを見つけ次第
捕らえてエルサレムに連れてくるための紹介状をもらった。

39.突き棒を蹴る
・・・私たちが彼のこの旅の出発を考えるとき、それは非常に素早く、彼の心の状態はどのよう
なものであったか、疑問に思うのは当然である。
彼は高貴な天性と優しいこころを持っていたが、彼がついた仕事は、最も野獣のような人物に
のみ、なしうるものであったと思われる。それでは彼のこころに良心の呵責が訪れなかったの
だろうか?見た目にはそのようなことはなかった。彼が生け贄を追跡する範囲に外国の町を
加えた時、彼は彼らに対して怒り狂っていたと私たちは知っている。そして彼はダマスコを選ん
だときにも迫害と虐殺に息をはずませていた。
彼は、異端によって危険に晒されている事柄に対する崇敬の念を、疑いに対する隠れ蓑にし
ていた。そして、血なまぐさい仕事をするために彼の自然の感情を押し殺さなければならなか
ったとしたら、全部ひっくるめても彼の利益とならなかったのではないだろうか?

40.しかしこの旅の途上、ついに疑いが彼のこころに忍び込んだ。百六十マイルを越える長
旅であった。当時使うことが出来た移動の手段はのろいもので、恐らく少なくとも六日は必要だ
っただろう。砂漠を越えなければならない部分もすくなくなかった。自分で思い返す以外にここ
ろを引くものはなにもなかった。
この暇を強要されて疑いが起こってきた。主が彼を迎えたことば「突き棒を蹴るのは痛いこと
だ。」でほかに何を意味することができようか!会話に用いられたもの東洋の国々の習慣に由
来した、先端に尖った鉄片を取り付けた長い棒を牛追いが用いるもので、それで動物が道か
らそれないように追い立てるものである。突き棒を蹴ると自らが傷つくことになるのである。
これは良心の呵責に傷つき、悩んでいるひとの生き生きとした表現である。彼が行く無慈悲な
道に反対し、自分は神に敵対しているのではないかとうすうす感じさせるものが、彼のうちにな
にがしか残されていた。

41.このような疑いがどこから起きてきたか思いつくのは困難ではない。彼は、クリスチャンを
放置しておくようにとサンヒドリン議会に忠告をした人間性と寛容を支持するガマリエルの門下
生であった。そのような恐ろしい仕事のすべての不愉快さに心をかたくなにするには彼はあま
りにも若かった。彼の宗教上の熱心さがひどく張り詰めていたとしても、ついには本性が叫び
出さずにはいられなかった。しかし恐らく彼の良心の呵責は、主にクリスチャンたちの品性や
振る舞いによって呼び覚まされたであろう。彼はステパノの気高い弁明を聞いた。そして議会
で彼の顔が天使の顔のように輝いていたのを見た。彼はステパノが地に跪き彼を殺す人々の
ために赦しを祈ったのを見た。
疑いもなく、彼は迫害をしていく中で同様の光景をみた。これらのひとびとが神の敵に見えるで
あろうか?彼が彼らを牢獄に引き立てるために入ったとき、彼は彼らの生活を一目見ることが
できた。きよらかな愛の光景が、闇の力で生み出されることがあり得ようか?彼の犠牲者たち
の顔にある静けさは、彼が虚しく長い間あえぎ求めていた平安ではないのか?
彼らの反論もまた彼自身のこころの内の声と同様に語ったかも知れない。彼はステパノが、救
世主は苦しみを受けなければならないことを聖書から立証しているのを聞いた。そして彼らは
イザヤ書53章のような趣旨を、彼らの審問のときにアピールしたが、それが初期のクリスチャ
ンたちの一般的な見解であった。そこにはナザレのイエスに類似する救い主の姿が予言され
ている。
彼は彼らの唇からキリストの生涯のできごとを聞いたが、それはパリサイ派によって伝えられ
てきた姿とは異なるものであった。そしてクリスチャンたちのことばには、彼らの主についてイ
エスが生きているものと完全に信じて語っている響きがあった。

42.彼は道を進むにつれて思いに沈み、そのようなものの反映が旅をする彼の心を攪乱した
かも知れない。しかしそれらはただの誘惑の暗示かも知れなかった・・・疲れたこころの病的な
空想とか邪悪な霊が天の奉仕から彼を引き離そうとささやいているのではないのか?砂漠の
真ん中に宝石のように輝いているダマスコの光景は、彼はわれに返った。
そこで、心の通じたラビ仲間のなかで、懸命な頑張りの興奮に、孤独が生み出したこれらの幻
想を彼のこころから追い散らしてくれるかもしれないと思った。
そこで彼は道を急いだ。そして東ではほとんどの旅人たちが耐え切れず、長い昼寝によって避
ける真昼の太陽が、町の門に向かう道を前進することを強行する彼を見下ろしていた。

43.キリストを見る・・・彼がくるより先にパウロがやってくるという知らせがダマスコに届いてい
た。キリスト者の小さな群れは、もしできることなら群れを荒らすために進んできた狼の前進を
阻んでいただけるようにと祈っていた。
しかしながら彼はどんどん近づいてきた。彼は旅の終わりの段階に到達していた。そして彼の
いけにえがいる場所の光景がいよいよ近くなり、餌食に対する食欲がさらに鋭くなった。しかし
善い羊飼いは震えている群れの叫びを聞いていた。そして彼らを救うために狼に会いに出か
けた。真昼にパウロと仲間たちがシリヤの太陽の炎天下を進んでいったが、まばゆい太陽の
光さえも色あせるほどの光が突然彼らの周りを照らし、衝撃が周囲の大意を振るわせたの
で、一瞬のうちに彼らは地面に打ち付けられていることに気づいた。
その後はパウロただ一人に対するものであった。ひとつの声が彼の耳に響いた。「サウロ、サ
ウロ、なぜわたしを迫害するのか?」そこで彼は見上げてまばゆい姿に向かって尋ねた。「主
よ、あなたはどなたですか?」答えは「わたしはあなたが迫害しているイエスです。」であった。

44.彼が後にこのできごとについて語ったことばは、それは単にイエスの幻を見ただけだとい
う考えを私たちに禁止する。彼は復活された救い主が弟子たちに会うために現れた最後のひ
とに自分を数える。そしてそれをペテロやヤコブ、十一人の弟子たち、そして五百人に現れた
ものと同列に置いた。事実、そのとき現れたのは、いま彼が座しておられる仲保者の座が宇宙
空間のどこにあるとしても、この選ばれた弟子にご自身を示すためにいったんそこを去ってこ
られた、栄化された人間性をまとわれたキリスト・イエスであった。そして太陽をも消し去るほど
の明るい光は彼を包んでいる栄光以外のなにものでもない。
パウロに向けて語られたことばがその証拠を示していた。それらはヘブル語か、あるいはイエ
スが群衆に湖の岸で説教したり、弟子たちと会話した時に使ったのと同じ言語であるアラム語
で話されたことであろう。(訳者註:ヘブル語でした。使徒の働き26:14)
そしてイエスは肉体をとっておられた日々に、口を開いてよく譬えを話されたが、ここでも衝撃
的なたとえで彼を責められた。「突き棒をけることはあなたにとって辛いことだ!」

45.パウロの思想への影響・・・この一瞬にパウロのこころに起きたことを、どんなに強調して
書いても書きあらわすことは不可能であろう。私たちは、時計の発達によって分、時間、日、年
に時を分けることができるようになったが、そうやってはかられた時間の各部分が、長さが同
一であればどの時間も同じだとすることは馬鹿げている。日常の用には十分であるかも知れな
いが、もっと繊細なはかり方が存在し、均一な測り方では誤りに導かれる。
時の空間の真実の大きさは、その時間に含まれる魂の経験の量によってはかられるべきであ
る。どの一時間も他の一時間と同じではなく、時には一時間が数ヶ月より大きい。
そのようにはかると、恐らくパウロにとってこの一瞬は彼のこれまでのすべての年よりもおおき
かったことであろう。外からの光が彼の肉体の目をくらまし、彼が盲目となったのと同様に、啓
示の輝きは非常に強烈で、彼の理性の目を焦がし、彼の生涯を焼き尽くすのに十分であった
であろう。彼の同行者たちが彼らの指導者を振り返って、彼が光を失ったことを発見した。そこ
で彼らはパウロの手を引いて町に入った。
なんという変化であったことか!
高慢なパリサイ人は、宗教裁判官の華麗さをもって乗り進んでいく事に代えて、打たれた人と
して、震え、手探りし、導く人の手を握りしめて、接待のために備えられた家に到着したが、い
そいでその部屋でひとりにしてもらうことを求め、そこで暗闇に沈んだ。

46.しかし、外的には暗かったが、内には光があった。
盲目は、彼を外界の妨げる物事から引き離し、内なる目が示してくれる対象に集中することが
できるように与えられたものであった。
同じ理由から彼は三日間何も食べず、飲みもしなかった。彼は、彼を厚く固く取り囲んでいた
思想を急速に理解した。

47.この三日間に、それは彼が述べたと信じられていることであるが、彼は少なくとも全信仰
の一部分を得、後にそれを世界に宣べ伝えた。というのは、彼の全神学は彼自身の回心なし
には説明がつかないからである。
まず第一に、彼のこれまでの生涯は粉々のかけらとなって彼の足下に落下した。
それは一つとなっていて、見事に完全であった。
それは彼が知った最高の啓示からの推論と合致している結論であって、それが不完全であっ
たとしても、神のご意志の線上に置かれているものであると彼には見えていた。
しかし、神の意志と啓示の正反対に突進していたことに代えて、今は立ち止まり、衝突によって
粉々に砕かれた。それは彼が完全に仕えることと従順さに表わされた。そしてそれは彼の魂
の冒涜と罪のない血を流した罪悪感を含んでいた。
それは律法の働きによる義の探求のできごとであった。彼が長いこと望んできた潔白についに
達すると見え、義とされる正にその瞬間に、啓示の炎が彼を捕らえ、ただの暗黒の切れ端が
宙に舞った。つまり最初から最後まで誤りであった。
義は律法によって得られるものではなく、律法は罪責とし断罪をもたらすものに過ぎなかった。
これは誤りのない結論であった。それがパウロの神学のひとつの柱となった。

48.しかし、彼のこれまでの人生の原理が粉々に砕かれた一方で、それ自体が彼の理性を
呼び覚まし、同時に彼を反対側につかせる経験となった。
ナザレのイエスが彼に現れたのは怒りや復讐のためではなく、彼の信条に対する決定的な敵
としてであったのかも知れない。
イエスの最初のことばは懲罰を求めることであったかも知れない。そしてそれは最後のことば
でもあった。しかし、それにもかかわらず、イエスの顔は慈愛に満ちそのことばは迫害者に対
する配慮に満ちていた。正にその瞬間に神の力は彼を捕らえ地の上で彼は神の愛に包まれ
た。
これは彼が虚しいことに葛藤した日々に対する報いであった。そして今まさにその瞬間にその
葛藤は神に対する闘いであったことを見いだした。神の愛の腕は倒れた彼を引き上げ、和解
し永遠に受け入れた。時が経過するにつれ、彼はそれをますます確信した。
キリストにあって努力によらず平安を得、虚しく過ごしたときに勝る志気の強さを得た。そしてこ
れが彼の神学のもう一つの柱となった。・・義と力は人の努力によるのではなく、神の恵みを単
純に信じる信仰によって、神のたまものとして与えられることを、キリストの内に見いだした
この二つに数多くの事柄が含まれていてそれらには時間と労が必要であったが、彼が後に考
察したことがらはこの二つの柱を極として回転した。

49.彼の前途に与えた影響
・・・暗闇の三日間は、彼がもう一つのことを知るまでは終わらなかった・・・それは、彼の生涯
はこれらの見いだしたことを宣伝するために献げられなければならないということであった。い
ずれにせよ、彼はそれをしなければならかった。パウロは宣教者として生まれ、そのような革
命的な真理を広めることなしに、その所有者となっていることはできなかった。おまけに、彼は
感謝に深く心を動かされる熱いこころを持っていた。彼が冒涜し、この世から抹殺しようとした
うとしたイエスが、彼をそのように神の愛をもって扱われ、失われた人生を彼に返し、常に彼に
人生の誉れであると思っていた地位に彼を置かれたことに対して、彼のすべての力をもって仕
えることに身を置く外なかった。
彼は熱烈な愛国者であって、ずっと先の未来に来る救い主の望みは長く彼のこころを占めて
いた。ナザレのイエスが彼の国民と世界を救う救い主であることを知ったとき、もちろんこれを
世に知らしめることに生涯を用いなければならないということが続いた。

50.しかしこの定めは、外部からもまた彼に明確に告げられた。
アナニヤは恐らく、ダマスコの小さいキリスト者仲間の指導者であったであろう。彼は幻の中で
パウロに起こる変化を告げられた。そしてパウロが再び見えるようになり、洗礼によってキリス
ト教会に彼を迎え入れるために遣わされた。この神の僕が彼のいのちを奪おうとこの町にやっ
てきた人物に近づいた方法ほど麗しいものは世にない。この事例の状態を知るやいなや彼は
彼の敵のすべての罪を赦し、彼を抱くためにキリストの愛の腕を広げた。三日間のうちに、パ
ウロの内なるこころの世界に、赦しを受けた証拠あったことは確かであった。外の世界に対し
て再び目が開かれたときに彼が最初に見たものは赦しと完全な愛の表情で彼の上に身をか
がめたひとの顔であったことに、彼は元気づけられたことであろう。彼はアナニヤから、自分の
将来について救い主が自分を指名されたことを知らされた。彼はキリストによってその名を異
邦人に、王たちに、イスラエルの子らにもたらす器に指名されたことを理解した。彼は無制限
の敬虔をもって使命と、その時から死に至るまでただひとつの望み・・・自分をとらえられたキリ
スト・イエスをとらえること・・・のためにそうすることを受け入れた。


第4章へ


戻る
戻る