パウロ伝  

第2章 パウロの自分の仕事に対する無意識の備え

13-36節
   生まれた時と場所   都会に対する彼の愛着
   家庭
   教育
   ローマ市民権
   天幕造り
   ギリシャ文学に関する知識
   ラビ教育  ガマリエル   旧約聖書の知識
   道徳と宗教に関する成長
   律法
   エルサレムから去り、また戻る
   キリスト教会の状態
   ステパノ
   迫害者


13.神の計画
・・・成人してから回心した人々は、それ以前の時期を回顧し、悲しみと恥を感じ、存在する記
録の汚点を消したいと願うことが普通である。パウロもその思いを強く感じていた。彼はその生
涯の終わりにいたるまで、過去の日々のできごと思い浮かべた。そして自分は使徒の中の最
も小さい者であるといつも述べた。彼は、自分は教会を迫害した者であるから使徒と呼ばれる
のには価しないと。
しかしこの暗い気持ちはほんの部分的に正当なのである。神の目的はもっと深いところにあ
り、パウロが神を知らなかった経歴のあと、イエスを知っているのみでなく、イエスは豊かにみ
のり実を結ぶ種をまく方であることを知ったのであった。パウロは、彼の回心に先立つ日々が
存在し、続く生涯にふさわしい備えがなされなかったなら、彼のように働きをなした人には決し
てなれなかったであろう。
彼は自分が備えられていることを知らなかった。彼の意図と神のそれとは異なっていたのであ
る。しかし、私たちの目的を形造られる神の配剤があり、彼自身はそれに気づかなかったので
あるが、彼は神の矢筒の磨き上げられた矢に造り上げられていたのであった。

14.誕生とその場所
・・・パウロが生まれた日は正確には知られていない。しかし実際の目的に足りる程度の正確さ
の推測は可能である。ステパノに石を投げた人々が上着を彼の足下においたのは紀元33年
であって、そのとき彼は「若者」であった。事実ギリシャ語におけるこの用語は、英語のそれと
同様に幅が広く、20歳以下から30歳を越えるまでの年齢を意味する。この事例では恐らく前
者(20歳以下)よりも後者(30歳以上)を意味したものであると思われる。なぜならこの時ある
いはすぐ後に信ずべき理由がある。彼は・・30歳以上でなければなることのできなかった・・サ
ンヒドリンの議員であった。そして直ちにクリスチャンを迫害する許可をサンヒドリン議会から受
けているから、ずっと若い男であったとは信じられない。
紀元62年、ステパノ殺害のおよそ30年後に、彼はローマで、ステパノが迫害を受けたのと同
じ理由で死の宣告を待つ囚人となっていた。そしてピレモン宛ての彼の最後の書簡をしたため
た時自分を老人と呼んだ。この用語も同様に広い範囲が含まれるが、あれほどの激しい困難
に遭遇して実際の年齢よりも老け込んでいたとしても、60歳前に「老人パウロ」という語を使う
ことはほとんどあり得ない。
これらの分析によって私たちは彼がイエスと同じ頃に生まれたという結論に達する。
イエスがナザレの通りで遊んでいた時、遠く離れたレバノン山脈の反対側の、自分が生まれた
町の通りで少年パウロは遊んでいたのであった。彼らは全体としては異なる経歴をたどったよ
うに見えた。しかし神の不思議な配剤によってこの二人の人生は、反対側の流域の流れがあ
る日一つの川となって互いに混じり合うことに似ていた。

15.パウロが生まれた場所はタルソであったが、そこはキリキヤの首都で小アジアの東南に
あった。それは海岸から2,3マイルの肥沃な平野の真ん中にあり、頂上に雪を冠するタルソ
山の近くから流れ下っているキドヌス川の両岸に建てられていて、町の住民たちは夏の夕方に
彼らの家の平らな屋上から夕映えが広がるのを眺めることができた。
町の上方あまり遠くないところに岩の上から巨大な滝となって川が注がれていた。しかし、その
下流では航行可能であって、町の川岸には埠頭が連なっていた。その上に様々な国の商品が
積み上げられていた。そして様々な人種の船乗りや商人たちがそれぞれの国の衣服をまとい
異なる言葉で話し合っていて、その光景は町の通りでいつも見られた。
町はその地で豊かに生産される木材や近くの山々で飼育されている幾千の山羊の長い美しい
毛の大きな商売で潤っていた。山羊の毛は粗い布地の一種に加工され、それを用いて様々な
商品が生産されていた。その一つに後にパウロがそれを縫うために雇われた天幕があった。
その天幕は地中海のすべての沿岸で多量に売り買いされる物品であった。
同時にタルソは大きな交易の中心地でもあった。その理由は町の背後に有名なキリキヤ門と
呼ばれる峠道があり、その道は山を越えると小アジアの中心の国々につながっていた。そして
そこを通ってタルソにそれらの国々の産物が運び込まれる倉庫があり、それらが東西に出荷
された。
町の住人は数が多く富んでいた。彼らのうちの多数を占めるのはキリキヤ人であったが、最も
裕福な商人はギリシャ人たちであった。タルソは独自の自治を持つ特権が許されていたが、そ
の主権の印が首都から離れることはなく、その地方もローマの支配下にあった。グラスゴー市
に似て、タルソは商業の中心地であるだけでなく学問の中心地でもあった事実によって、住民
たちの人数と人種はさらに増え続けていた。
そこは当時の主要な三つの大学のある町の一つであって、他のふたつはアテネとアレクサンド
リアであるが、知的輝きにおいて他を凌いでいると言われていた。多くの国々の学徒たちが通
りで見かけられ、その光景は若者たちの学ぶことの価値と目的に関する考えを呼び覚ました。

16.異邦人への使徒が誕生するのにこの場所がいかに適切であったか分からない人がいる
だろうか?
彼は成長するにつれて、意図することなくあらゆるクラスの人々や人種に出会ったので、人間
の天性や多様性に共感し、もっとも異なる気質や習慣を観察することができた。
後の生涯において、彼は常に都会を愛した。
一方彼の主、イエスはエルサレムを避け、山際や湖の岸で説教することを愛した。
パウロは常に大きな都会から都会へと移動した。古代世界の首都、アンテオケ、エペソ、アテ
ネ、コリント、ローマが彼の活動の舞台であった。
イエスのことばには田舎の香りがし、その美しさや家庭的な労苦の描写に満ちている・・・野の
百合、羊飼いについていく羊、畑に種をまくひと、網を引く漁師たち;しかしパウロの言葉には
都会の雰囲気が染みこんでいて、通りを忙しく歩く足音があらわされている。
彼の抱くイメージは人類のエネルギーと文明化された生活の情景から取られている・・・甲冑に
身を包んだ兵士、競技場の選手、家や神殿の建設、凱旋する将軍の行進など。
少年のときの環境はひとの生涯にわたって続く。

17.パウロの家庭・・・パウロは自分のうまれたところに確かな誇りを持っていて、ある機会に
自分は確固たる町の市民だと強調することによって自分を示した。彼は自然に最も熱く育った
愛国心を感じることによってそのこころが形成された。しかし、この燃えさかる愛国心は、キリ
キヤやタルソに対するものではなかった。彼はうまれた土地では外国人であった。彼の父は当
時の異邦人の世界の町に散らされ、貿易や商売を営む数多くのユダヤ人の一人であった。
彼らは聖地を去ったが、決してそれを忘れなかった。彼らは装い、食物、宗教や特有の様々な
習慣になどについて、自分たちが住んでいる土地の人々と決して混じり合うことはなかった。実
際のところ彼らは律法に関する宗教的視点や異邦人の習慣に対する寛容さについて、パレス
チナに残されているユダヤ人たちよりも厳格ではなかった。しかしパウロの父は、あいまいに
なった人物たちのひとりではなかった。彼は宗教についてもっとも厳格な派に属していた。恐ら
く彼の父は自分の息子が生まれる前にパレスチナを去ったのではなかったのであろう。なぜな
らパウロは自分自身をヘブル人の中のヘブル人と呼んでいる・・・その呼び方は、パレスチナ
のユダヤ人だけに属するものであって、パレスチナに非常に近く結びついている人々のもので
あった。彼の母については、私たちは完全に何もきいていない。しかし、すべてのものが彼が
育った家庭は多くの輝かしい宗教の教師たちの近くであったことを暗示している。・・敬虔な家
庭、品性、何かの厳格な規則、独特な宗教的な人々との強い接触というような。彼はその精神
を吹きこまれた。
彼は数多くの忘れることのない印象を生まれた町から受け取ったがのみでなく、彼のこころは
パレスチナとエルサレムの地と町からも受け、若い彼にとっての英雄像は、クルチウス、ホラ
チウス、ヘラクレス、アキレスではなくアブラハムとヨセフ、モーセ、エズラであった。過去を振り
返ってみたとき、彼が目を向けたのはキリキヤの混乱した年々ではなく、カルデヤのウルを起
源とするユダヤ人の歴史の明確な流れを凝視することであった。そして彼が未来に思いを向
けたとき、エルサレムで王位につかれ、国々を鉄の杖で治めるメシヤの王国であった。

18.彼が生活している周辺の大部分の人々よりも上であるという霊的な上流階級に属してい
る感覚は、彼の周囲の人々の宗教を見ることによって彼の内に深く刻まれた。
タルソは見かけは立派だが、口にすることをもはばかる堕落した品性のバアルを礼拝する人
種の中心であって、近隣の地域の全体のひとびとによって頻繁に行われる年ごとのある時期
での祭りの光景は、私たちの想像を越えるほどの道徳上忌まわしい楽しみである乱交パーテ
ィーを伴うものであった。もちろんこの罪の秘密の深みを少年が見ることはできなかったが、彼
の国民が格別に非難する偶像礼拝に背を向けさせるに十分であった。そして彼の家族がイス
ラエルの聖なるお方を礼拝する小さな会堂を、豪華な異邦人の寺院の栄光よりも遙かに勝る
ものと見るようになった。そして恐らくこれらの初期の経験は、人間の天性は堕落し、全能者の
贖いの力が必要であることを幾分かの程度の納得として、それが後に彼の神学の一部を形成
し、彼の働きを非常に促進させたのだと私たちは思い巡らすことができる。

19.貿易・・・少年がこれからやっていく事柄を決定する時期がついにやってきた・・
・誰の人生にもある転機の瞬間である・・・そして彼の場合は大きな意味を持つ決定を含んでい
た。恐らくもっとも自然な道は商人になることであったであろう。なぜなら彼の父は貿易に従事
していたのであるから。活気のある町は商人となる望をとりわけ賞賛していたし、少年自身の
能力も成功に価するものであったであろう。おまけに彼の父はローマ市民であって、それはユ
ダヤ人が商人となるために特別に有益なものを彼に与えることができる利点であった。この権
利を彼の息子に与えるならば、ローマのどこにおいても旅行の機会に彼を守るはずのもので
あった。パウロの父がどうやってこの権利を取得したのか私たちは知らない。金で買ったのか
あるいは州にめざましい利益をもたらしたことによって勝ち取ったのかも知れない。またあるい
はもっと他の手段によって得たのかも知れない。なにはともあれ彼の息子はローマ人として生
まれた。
これは価値のある権利であった。このことはパウロが効果的に使用していることによって証明
されている。彼の父が彼がそれを他のことに使うことを期待していたとしても。
しかし彼は商人にならない決断をした。その決断は彼の父の強い宗教的見解、あるいは彼の
母の敬虔な願い、あるいは彼自身の好みによったのかも知れない。しかし彼はラビ・
・・牧師、教師、弁護士これらをひとまとめにしたようなもの・・になるための大学に進んだこと
が分かっている。
それはこの少年の霊性と能力についての見地からみて賢明な決断であった。そしてそれが人
類の未来に計り知れない影響を及ぼす瞬間となった。

20.しかし、成り行きからは有望に見える世俗的な仕事への招きの機会から逃れたとはい
え、神聖な仕事の準備に入るために出かける前に、まだ彼は実業の生活上のいくらかの技能
を身につけなければならなかった。というのはユダヤ人の間では、すべての少年たちが従事す
ることの出来る何らかの職業を身につけることが決まりであったので、そのときのニーズにあ
った仕事を学ぶことができた。
これは次のようなことが含まれている賢明な規則であった。なぜなら暇がありすぎては非常に
危険な年代の若者に働く機会を与え、富に馴れるとともに、そうすることによって額に汗して自
分のパン代を稼ぐことに対するなにがしかの感覚を学び得たからであった。
彼が身につけた仕事は、タルソでもっともありふれた・・その地方で珍重されていた山羊の毛皮
を材料とする天幕を作ることであった。
この手触りの悪い物を扱い始めたとき、後にこの手工芸が彼にとってどんなに重要になるか、
彼とか彼の父も少しも考えなかったであろう。それはやがて彼の宣教旅行を支える手段となっ
た。そして彼が利己的な動機で宣教しているという嫌疑に、高貴にそれから離れていることを
示す手段となった。

21.教育・・・彼がラビとなるための訓練を受けるために家を離れる前に、タルソの大学に通っ
たのかどうかは、自然な疑問である。彼は賢者の泉の水をシオンの山の泉から飲むために座
す前に、ヘリコン山の流れから飲んだのだろうか?彼がギリシャの詩から2、3のフレーズを引
用している事実から、ギリシャ文学全体を知っていたと思われている。しかし、一方で、彼が引
用したのはギリシャ語を話す人々なら誰でも知っていて、機会があれば引用することばの断片
にすぎないということも指摘されている。そして彼の書簡の文体や語彙は、ギリシャ文学の類
型には従っておらず、散っていったユダヤ人の間に行き渡っていた七十人訳聖書、ヘブル語
聖書のギリシャ語翻訳版に準拠していた。
恐らく彼の父は、自分の息子が異教徒の大学に通うことを許すのは、罪ふかいことだと考えた
のであろう。偉大な学びの場に育ちながら、その地の大学のいかなる風潮も受けることのなく
彼が育ったということはありえそうもない。彼がアテネでした演説は、彼の著作にも勝って巧み
なスタイルを選ぶこともできたことを示している。そして彼がそのとき語った言葉の跡から、彼
がギリシャ文学に無知であるとは到底思われないであろう。

22.恐らくタルソで学ぶことによって彼の内に作られたと思われる印象が他にもある。タルソ
の大学はつまらない論争と抗争で有名であって、それはしばしば大学の静けさを乱し波乱を呼
んだ。修辞学者の欺きや、後の彼の著作にも記されている詭弁家たちのつかみ所のない論争
対する軽蔑が、彼の最初の印象となったことはあり得ることである。
若者の一瞥は明瞭で確かであった。上品ぶった言い回しが彼らの口に満ちているとき、彼らの
人生が何を意味し、彼らの魂がいかにちっぽけなものであるか、少年であったときにも彼はそ
れを理解したに違いない。

23.ユダヤ人のラビ教育の大学はエルサレムにあったので、およそ13歳のときにパウロはそ
こに送られた。
聖なる町への彼の到着は、イエスが12歳ではじめていったのと同じ年に起きたかもしれない。
記録にはないがタルソから来た少年の経験は、はじめて見る首都の光景によるナザレから来
た少年の圧倒的な感動と同じようであっただろう。すべてのユダヤ少年にとってエルサレムの
宗教的位置づけはすべての物事の中心であった。予言者や王たちたちの足跡が通りにこだま
し、聖く荘厳な愛着が壁や建物に記録されていた。そして無限の希望の魅力が鳴り響いてい
た。

24.その当時エルサレムの大学は、最も著名なユダヤ人教師の一人がいる好機であった。そ
れはガマリエルであって、彼の足下で学んだとパウロは私たちに語っている。彼は同世代の
人々に律法の美と呼ばれ、いまでもユダヤ人の間に偉大なラビとして記憶されている。彼は高
貴な性格と頭脳明晰な人物であって、祖先の伝統を堅く守っていたが、一部の狭量なパリサイ
派のひとびとのようなギリシャ文化への不寛容と敵意を示していなかった。
パウロの心の寛さには、そのような人物の影響が多大にあったことであろう。その生徒はしば
らくの間狭量な愛国者となっていたが、最終的には師匠の模範が偏見に打ち勝たせた。

25.ラビが経験する教育の過程は長く特異なものであった。それは聖書と賢人や聖書に精通
した人々の注解によって完全に構成されていた。聖書のことばと賢人たちの述べたことを暗記
した。異論のある点については討議がなされた。そして生徒たちも指導者同様になしうる矢継
ぎ早の質問によって、生徒たちの機知は研ぎ澄まされ彼らの視点が広げられた。後年明らか
となったパウロの知性の顕著な特質・・彼の驚くべき記憶力、論理の鋭さ、思想の計り知れな
い豊かさ、すべての物事に対する独創的な対処・・それらはこの学校で初めに示されたもので
あったものであろう。

26.彼自身はここで多くを学んだがそれは後の彼の生涯にとって大切な時であった。彼はとり
わけ異邦人への宣教に生きたが、彼自身の民族への宣教も同様に大きかった。どこの町を訪
問しても彼は会堂にユダヤ人訪問することを最初の公の仕事とした。
彼のラビとしての訓練は彼に語る機会を提供した。そして彼の振る舞いや思考はユダヤ人に
親密さを感じさせ、それが聴衆の関心を起こさせる最善の方法で演説することを可能とした理
由となった。彼の聖書知識は、彼の聴衆が最高の人であると認識している権威者たちからの
証明を引き出すことを可能にした。
その上、彼は偉大なキリスト教神学者、新約聖書の主たる著者となるよう定められていた。今
や新約が旧約から生まれ出た。旧約に含まれるすべての部分は預言であり、新約はその成就
である。そのためキリスト教だけでなく旧約聖書にも精通した人物が必要であった。それを引き
出すために、パウロはもっとも記憶力のある年代に彼の必要とするすべての旧約聖書の知識
を獲得した。彼の思想のことばのように律法、預言書、詩篇からいずれも同様にたやすく引用
し、彼の文書に記した。このようにしてこの戦士は、それを何の為に使うのか知らないうちに、
聖霊の鎧と武器を獲得していたのであった。

27.パウロの宗教生活・・・その間の彼の倫理や宗教の状態はどのようであっただろうか?彼
は宗教の教師になるために学んでいたが、彼自身は敬虔であっただろうか?両親によって聖
職につくために大学に送られたひとびと全員が、敬虔であるわけではなかった。世界中どの都
市にも若者たちの道に、その初期から人生を滅ぼすに至る誘惑が置かれていた。例えば聖ア
ウグスティヌスのような、教会の最も偉大な教師たちのあるひとは、彼らの半生を振り返ると
き、彼らの人生には悪行と罪の汚点の染みがついていた。
パウロは若い時代にそのような堕落に陥ることはなかった。彼の胸のうちをいかなる激情が悩
ませたとしても、彼の行為は常に清いものであった。当時エルサレムは、道徳に関して非常に
好ましいといえるところではなかった。エルサレムは外面的には神聖であったが、内は堕落し、
私たちの主は数年後に激しい毒舌を浴びせた。そこはまさに偽善の席であり、若者たちが宗
教によって、重荷を負うことなく利得を得ることを容易に学ぶことができた。しかしパウロはそ
れらの危険にまっただ中にあっても自身を保ち、後にすべての清い良心をもってエルサレムで
生活したと主張できた。

28.彼はひとが価値ある人生を送ることは、神の愛と慈しみに活きることであるという信念を
家をでるときに携えてきたが、それが彼の宗教生活の基盤を形成した。
この信念は年を追って熱情的となった、そして彼は先生たちにどうすれば賞を勝ち取ることが
できるのかと質問した。先生たちの答えは決まっていた・・律法を守ることによって、と。それは
恐ろしい答えであった。というのは律法は私たちがその語について知っていることだけでなく、
モーセの儀式に係わるものとユダヤ人教師によって付け加えられた幾千の規則を意味した。
それは弱い良心にとっては人生を煉獄とするようなものであった。
しかしパウロは困難に尻込みするような男ではなかった。彼は神の愛顧を勝ち取ることに心を
決めていた。それなくしては、自分は空白と永遠の暗黒の人生をおくることになると考えた。そ
して、律法に歩むことをよろこんで行うことを彼の目標とした。
しかしながら、彼の個人的な望みはこの中にあるのみではなく、彼の国民みなが同じように思
っていた。なぜなら救い主は律法を守る国民のところに来られる、国民の中のただ一人が一
日でも律法を完全に守ることによって来られると、ひとびとに広く信じられていたからであった。
彼が律法を守る価値は、彼らが待っている王を世に来たらせることにあった。それで、パウロ
のラビとしての訓練は、義の誉れを勝ち取る望みに最高点に達し、それを彼の人生の目的とし
て、学んだ神聖なる講堂を去ったのであった。孤独な学生の決心はこの世に対して重大な意
味を持っていた。というのは彼はこの救いの道が誤っていることを、はじめに密かに悩んだこと
が明らかであり、そしてそれによって、彼が人類のために見いだしたことを教えるに至ったから
であった。

29.エルサレムで
・・私たちはパウロのエルサレムの大学での教育が何年で終わったのか、またその後すぐに彼
がどこにいったのかを知らない。若いラビたちは学びを終えた後、私たちの時代の学生たちが
するのと同様に、ユダヤの各地で実際の仕事を始めた。
彼は恐らく故郷のキリキヤに戻り、そしてそこにあるどこかの会堂で職に就いたであろう。いず
れにせよ、彼は何年かエルサレムとパレスチナから離れていた。なぜならパレスチナではバプ
テスマのヨハネの運動とイエスの宣教があった時であったから、近くにいたらそれらの運動と、
支援者としてであれ敵としてであれ、関係なしには済まなかったことは確かである。

30.しかしまもなく彼はエルサレムに戻った。当時最高のラビとしての才能の持ち主がエルサ
レムに引き寄せられるのは同然であった。今日、文学や商業に関する最高の才能の持ち主が
大都会に引き寄せられるのと同様である。彼はイエスの死の直後にユダヤ主義の中心地にや
ってきた。そして彼がその地で起きたできごとと、そこで人生を終えた人物についての報告を、
パリサイ派の仲間たちが受けたことは容易に想像することができる。
彼が自分の宗教に対して何らかの疑いを持ったと想像する理由はなにもない。実際、私たち
は彼の書いたものを集めることによって、彼は既に精神的な悩みを過ぎてしまっていたように
思われる。人生の祝福は神の愛顧に達することにあるという思いは彼の納得として留まってい
たけれども、律法の遵守は彼を満足させていなかった。
逆に律法を保つことを努力すればするほど彼の内の罪の意識が働いた。彼の良心は罪の意
識で押しつぶされ、神によるたましいの平安は握った彼の手からすべり落ちた。
それでも彼は会堂で教えられていることに疑問を持たなかった。
その時にはまだ律法は彼にとって旧約聖書の歴史のひとこまであった。そこで聖人と預言者た
ちの姿が彼を見下ろしていて、その背後に彼自身に律法を与えた神を見たのであった。神と
の交わりの平安に到達できなかった理由を、彼は悪しきものとの戦いが不十分で律法の教え
に十分忠実でないことにあると信じていた。すべての不足を満たし、昔の偉大な人物たちが立
ち処とした恩寵をやがて勝ち取ることができる、そういう奉仕はないのだろうか?これがエルサ
レムに帰ってきた時の彼のこころの状態であった。そしてユダヤ人の救世主として十字架に架
けられたイエスを信じる一派の起きてきたことに驚きと義憤を感じた。

31.キリスト教会の状態
・・キリスト教は生まれてからまだほんの2,3年しか経っていなかったが、エルサレムで静かに
成長し続けていた。
ペンテコステのときの説教を聞いた人々が、各地の自分の郷里へと知らせを運んだこともあっ
たが、公の宣伝はキリスト教の生まれた町に限られていた。はじめから支配者たちがそれを咎
める傾向にあって、それを教えるひとが公に現れることをチェックしていた。しかしガマリエルの
忠告の働きで彼らは態度を変え、放っておけば自滅するだろうと信じ、それを無視することにし
た。
一方キリスト者たちは、神殿における礼拝に出席し、ユダヤ教の礼典を守り、宗教上の権威者
を敬い、宗教の外面的なことには可能な限り違反をしないようにして、律法に熱心で厳格なユ
ダヤ人であり続けた。そのことがキリスト教が密かに拡大するわずかな余地となったことは一
部真実であった。二回座敷に兄弟たちが集まり、パンを割き、昇天された彼らの主に祈りを捧
げた。それは最も麗しい光景であった。新たな信仰が彼らの間に天使のように降り、彼らの粗
末な集会に魂の平和が息づいて翼となり、彼らの魂からきよさが流れ出た。彼らのお互いへ
の愛は際限がなかった。彼らは発見した霊感の感覚に満ち、見えない彼らの主を真ん中にし
てできるかぎりしばしば集会を持った。それは地上の天国のようであった。彼らの周りのエル
サレムが世俗の者の普通の道と宗教的なとげとげしさを進んでいく間に、これらの僅かの卑し
い人々は、密かに互いを祝福し、今の人類と未来の世界の祝福がそれに含まれていることを
知っていた。

32.その状況は長くは続かなかった。そしてこれらの平和な光景はまもなく脅しと流血を見る
こととなった。
教会はそのような状況を保つことができなかった。なぜならそれには世に勝つ力があって、す
べての困難の中にあってもそれを広める力を発揮したからである。福音の新しいワインは醗酵
して、そのあとすぐにユダヤ教の形式を破ってしまったからである。
ついにそれらを具体化した熱心な傾向性の人物が教会の中に立ち上がってきた。
それはキリスト教会社会の一時的なできごとの対処のために指名された7人の執事のひとり、
ステパノであった。彼は聖霊に満たされた人であって、力を持っていた。その力は彼の生涯は
短かったのでそれを発展させることは、想像することが許されるのみであるが。彼は会堂から
会堂へと行き、イエスがキリストであることを説教し、律法のくびきからの自由を語った。正統
派のユダヤ教の教師たちが彼と議論したが、彼の雄弁さと聖なる熱心に勝つことができなかっ
た。議論に負けて、彼らは他の武器を掴み、権威者たちと民衆を殺人的な熱狂へと煽動した。

33.ステパノ・・
パウロの生国キリキヤのある会堂で論争が起こった。彼はこの会堂のラビでステパノと論争し
た相手の一人であったかも知れない。いずれにしても、論争はやがて暴力に変わり、彼はその
先頭にいた。証人たちが最初の石をステパノに投げたとき、それをするために彼らは上着を脱
いでパウロの足下に置いた。
裁判による殺人の分野の野蛮な光景の端に、私たちは彼の姿を垣間見る。少し離れて立ち、
するどく多数の迫害者たちを見ていた・・彼の足下には多くの色の外套が積み上げられ、彼の
目は、死に際して跪いて「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈った聖なる殉教者
に注がれた。

34.迫害者
・・この機会に、彼の熱心はその筋の注目を集めることとなった。それによっておそらく彼はサ
ンヒドリン議員の席を与えられたのであろう。私たちはそのあとすぐ彼がキリスト者に反対する
投票をしているのを見る。いずれにせよ、彼は当局者たちが決定したキリスト教を根こそぎに
する仕事を与えられた。彼はそれが神の仕事だと信じて彼らの求めを引き受けた。彼はもしこ
のまま放置してキリスト教が広まると、彼がもっとも神聖であると考えていたものを覆すに至る
と誰よりもはっきりと見て取った。
律法を廃止することは彼の目には唯一の救いの道を抹消することであって、十字架に架けら
れた救い主に対する信仰は、イスラエルの望である神に対する冒涜であると思われた。
その上、彼は個人的にその仕事に深い関心を持った。
これまで神を喜ばせる努力をしてきたが、自分の努力は足りないといつも感じていた。豊かな
奉仕の方法の一つによって、いままでできなかったものを満たすチャンスであった。
これは彼の魂の苦悩の棘のあるかせであって、彼の熱心に剣とエネルギーを与えた。
いずれにせよ、彼は物事を半端にはしない人物であった。そしてかれは彼の仕事に一途に打
ち込んだ。

35.続いて起こる光景は恐るべきものであった。彼は会堂から会堂へ、家から家へと巡りある
き、男も女も引き立てて、牢と刑罰に投げ込んだ。あるものはあきらかに死に追いやられた。
そして・・全員がひどい取り扱いを受け・・ほかのひとは救い主の名を汚すことを強要された。エ
ルサレムの教会は粉々に引き裂かれ、その教会員たちは迫害者の追求を逃れるために近く
の地方や国々に散らされた。

36.それがパウロの使徒としての経歴のための無意識の準備の最後の段階であったと呼ぶ
ことはあまりにも大胆であるように見えるかもしれない。しかしそれはまったくその通りであっ
た。迫害者という経歴に入ったのは、彼が自分が育ってきた信条のまっすぐな線上を進んだの
であったが、それはまことに不条理なものであった。
おまけに、悪いものからさえ善いものを引き出す神の最高の恵みの働きによって、この悲しい
行いからパウロは深い謙遜のこころをもって、これらの迫害を受けたもっとも小さい兄弟たち
にも喜んで仕える決意を持った。残された時間を惜しみなく使って失われた時を購うための熱
意をもった。これが後の彼の行動に対する永久の拍車となった。



第3章へ



戻る
戻る