結実  

3.聖書の示す世界観


 聖潔とは何かを考察するためには、人間を取り巻く世界はどのようなものであり、人間はど
のようなものであるのかを把握しておくことが大切です。本章では、まず人間が住んでいるとこ
ろの世界について次の事項について考察します。

 ・共存する二つの世界・霊界と自然界
 ・権威
 ・命
 ・死
 ・人格
 ・自我
 ・ことば
 ・光
 ・時間


3.1 共存する二つの世界・霊界と自然界

 聖書は明らかに「霊の世界」と「物質の世界」が存在することを示しています。

 物質の世界を「自然界」と呼ぶことにし、霊に属する世界を「霊界」と呼ぶことにします。この
二つは離れることなく、同じ「場所」に存在します。

 詳細は、第4章、聖書の示す人間観の箇所で論じますが、人間は自然界に属する肉体と霊
界に属する人霊を有するものですから、人間は自然界と霊界とにまたがって存在するもので
す。このことは自然界と霊界が同一の場所に存在する決定的証拠です。また人間に接触する
天使たちがいて、例えば「私(ダニエル)がまだ祈って語っているとき、私がはじめに幻の中で
見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づ
き、私に告げて言った…」(ダニエル書 9:21〜22)「御使いは(祭司ザカリヤに)答えて言った。
『私は神の御前に立つガブリエルです。…』」(ルカ 1:19)などに示されています。また「群衆の
中から、ひとりの人が叫んで言った。『…ご覧下さい。霊がこの子に取りつきますと…』」(ルカ 
9:38〜39)がその一例ですが、聖書には数多くの悪霊の記事があります。そして天使も悪霊
も、人間の目には見えませんが、地上でともにいることが許されています。人間の目に見えな
い霊界の戦いが繰り広げられていることをかいま見る記事もあります。「彼(ガブリエル)は私
に言った。『恐れるな。ダニエル。…ペルシャの国の君が、二十一日間、私に向かって立ってい
たが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので…』」(ダニエル書 9:13)
などがそれです。この戦いは霊界におけるものですが、地上の戦いであって、霊界と自然界が
同じところにあることを示すその一例となっています。

 霊界と自然界は、その包含する大きさが異なり、厳密に言えば霊界の方が大きく、自然界は
霊界の一部の場を共有して存在するのです。ここでは詳細には述べませんが、霊界は、天、
地、地獄に分けられ、さらに天にはパラダイス(ルカ 23:43)や第三の天(コリントU 12:2)などの
区分があり、地獄には、ハデス(ルカ 10:15)やゲヘナ(マタイ 5:22)などの区分があることが記
されています。人間が宇宙と呼ぶ自然界のすべては、霊界の「地」です。

「初めに神が天と地を創造した。」(創世記 1:1)と書かれているその「天と地」は自然界を指し
ています。ここに言う天は霊界の天ではありません。「神はその大空を天と名づけられた。」(創
世記 1:8)、「天の下の水は一所に集まれ。」(創世記 1:9)、「神はそれら(太陽と月)を天の
大空に置き、…」(創世記 1:17)、「鳥は…天の大空を飛べ。」(創世記 1:20)などがこのこと
を示しています。

 霊界は天地創造以前から存在しました。霊界の創造については、聖書には記されていない
ので分かりません。しかしその由来は書かれていませんが、天地創造の時点で、「地は形がな
く、…神の霊は水の上を…」(創世記 1:2)とありますから、霊界が存在することとそれが天地
創造の以前からあったこととを示します。エゼキエル書28章のツロに対する言及、イザヤ書1
4章12節「暁の子明けの明星よ。」以下の言及がサタンに対するものであるという見解は受け
入れうるものだと考えられます。人間が罪なく創造されたにもかかわらず、罪の存在となったと
同様に、霊界においても罪なく創造された天使の一部が罪の存在であるサタンと悪霊達に変
化したということは納得できるものです。

 人間の自然界に属する部分による精神活動や動物の精神活動の所産、即ち頭脳の働きに
よる思考、感情、意志の働きなどもすべて自然界に属します。「人は、新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3)と書かれてあることは、人間が自然界に属する
部分で、どんなに物を考えても決して霊の世界には到達しないことを示しています。


3.2 権威

 聖書の示している世界観並びに人間観の根底に、権威という命題があります。摂理、信仰、
救い、聖潔、交わり、宣教、婚姻、家庭、教会とその中における生活、教会の外における生活
…と、おおよそキリスト教の視点でこれらのことを考察するとき、権威が関わって来ない事柄は
ありません。聖書は全ての事柄を権威の関係から見るのです。

 聖書の示す信仰の場は、突き詰めて表現すると、「神と私」、「神と私、と隣人」、「神と隣人、
と私」の関係あるいは私と隣人が神の前に対等で「神、私、隣人」の関係から成り立っていま
す。神無しの「私と隣人」の関係は、信仰によるものではありませんし、実際には神無しの世界
は存在しないのです。人が神の存在に気づいていないだけなのです。それらの関係の中で、
神は権威そのものなのです。

「悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この国々
のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこ
れと思う人に差し上げるのです。…』」(ルカ 4:5〜6) サタンが堕落した後で世界を神から任せ
られたのか、世界を任せられてから堕落したのかは不明です。もし後ならば、サタンの堕落は
天地創造の後ということになります。ただサタンが世界を任せられているということ自体につい
ては、イエスもそれに反論されませんでしたから、本当なのです。サタンは世界を支配する権
威をもっているのです。パウロも「主権、力、この世の暗やみの世界の支配者たち…」(エペソ 
6:12)とそれを追認しています。

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている…こんな権威を人にお与えになった神をあがめ
た。」(マタイ 9:6〜8)中風の人の癒されたことを見て、人々はイエスの権威を知ったのです。

「私も権威に下にあるものですが…」(マタイ 8:9)中風の僕を持っていたローマの百人隊長は、
イエスの権威を知っていました。

「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありま
せん。」(ヨハネ 19:11)ピラトはイエスの権威に気づきませんでした。

 人間の世界に存在する場面ごとに、神はこの権威を特定の人に委ねられるのです。それが
教会の中における監督・牧師の権、長老の権、夫婦の間の夫の権、家庭の中での父権、親
権、などがそれです。一方罪人が救われて教会に加わるとき、神の子の権威「神の子どもとさ
れる特権」(ヨハネ 1:12)が与えられるのです。

 ですから、この権威というものは、人が救われること、潔められること、成長すること、聖霊の
実の結ぶことになどあらゆる信仰生活の面において、それを把握し取り組まなければならない
極めて重要な問題なのです。権威に服従することなく、それらの恵みを得ることはまずありえな
いと言ってよいでしょう。牧師が信徒を導くためには、教会における牧師の権の確立がなされ
ていなければなりません。家庭において子どもの中に信仰が根付くためには、父権、親権がそ
の中に確立していなければならないのです。その権威に服さない人は、教会の中の迷子とな
り、あるいは家庭にあって親に従うものに神の与え給う幸いを失うのです。

 信仰の立場でものを見るためには、この権威に関する視点がそのように重要なのです。


3.3 命

 ”命”という言葉は、聖書の中で二つの意味に使われています。
 一つは、通常の”生命”という言葉と同一に扱っている命です。
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ 10:11)とイエスが言われたのはこの意味
においてです。
 自然界の命は一種類、霊界の命も一種類のみ存在します。
 自然界は、命のあるものと、命のないものによって構成されています。自然界に生きているも
のは、人間、動物、植物、微生物などです。人間の命、動物の命、植物の命というような区分
をする人もいますが、自然界の命は一種類であって、それらの間に区別は存在しません。動
物も植物も多数の細胞の集合で構成され、その細胞群がそれぞれの機能を分担することによ
って成り立っています。細胞一個でできている生物もありますが、そのようなものになってくると
動物か植物かさえも区別がつかなくなるのです。微生物も皆命を持っており、その命は細胞の
集合体である動植物となんら変わるところがありません。これらのことは、自然界の命は一つ
であるという結論を導き出します。「すべての肉がおなじではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあ
り、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。」(コリントT 15:39)と書かれていますが、これは体に種類
があることを言っているのであって、自然界の命に種類があると言っているのではありません。

 同様に、霊界もまた命のあるものと命のないものによって構成されています。霊界には命の
ある物の方が一般的に知られていて、命の無い霊界に属するものというのはあまり意識されて
いません。「新しい天と新しい地」(黙示 21:1)「聖なる都エルサレム」(黙示 21:10)「いのちの
水の川」(黙示 22:1)などの記事が聖書にあります。これらは皆霊界に属しますが、それら自
体は命の無いものです。従って霊界にも命のない物があると結論されます。

 「霊」と呼ばれるものは、霊界の命を有します。聖書に登場する霊は、神、人間、天使、悪霊
です。セラフィム(イザヤ 6:2)は不思議な姿をしていますが、これは天使に属します。ただし例
外があって、霊ではないが霊界においていのちがあるであろうと推測される種類のものがあり
ます。すなわちそれは地上の植物に対応するものであって「わたしは神のパラダイスにあるい
のちの木の実を食べさせよう。」(黙示 2:7)「私は新しい天と新しい地とを見た。…聖なる都、
新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天か
ら下ってくるのをみた。…御使いはまた、私に…いのちの水の川を見せた。それは神と子羊の
御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸にはいのちの木があって、十二種
の実がなり、毎月実ができた。…」(黙示 21:1、2、22:1〜2)にあるいのちの木ですが、これは
霊ではありません。

 命の第二の意味は、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ 1:
4)と書かれてある命であって、十字架の贖いによって人に与えられる命です。

「それから、イエスは弟子達に言われた。『だれでもわたしについてきたいと思うなら自分を捨
て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのち(第一の命)を救おうと思うも
のはそれ(第二の命)を失い、わたしのためにいのち(第一の命)を失うものは、それ(第二の
命)を見いだすのです。ひとはたとえ全世界を手に入れても、まことのいのち(第二の命)を損じ
たら、何の得がありましょう。そのいのち(第二の命)を買い戻すのには、ひとはいったい何を
差し出せばよいでしょう。』」(マタイ 16:24〜27)この言葉に、第一の命と第二の命の意味合い
がよく解説されています。

 第二の意味の命についてもう少し考察しますと、その命という言葉は、聖書の中に沢山記さ
れています。たとえば、「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。そ
れは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ
 3:16)「永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ 4:14)「聖書の中に永遠のいのちがあ
る。」(ヨハネ 5:39)「永遠のいのちに至る食物」(ヨハネ 6:27)「わたしはいのちのパンです。」(ヨ
ハネ 6:48)「永遠のいのちのことば」(ヨハネ 6:68)「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまこ
との神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ 17:3)
「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行
い…ものには、永遠のいのちを与え…」(ローマ 2:6〜7)などがそうです。 この第二の意味の
命は、4.死の項で述べる、この世の生涯に於ける人間の霊の死に対応していて、その人霊
の死んでいる部分に与えられる新しい命です。この命を与えられた人は、「罪に対しては死ん
だ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者。」(ローマ 6:11)なのです。


3.4 死

 現在「死の判定」は社会問題となっていますが、聖書にはその定義が明確に示されていま
す。
 人間の死の判定:それは、”血液が死んだときその人は死んだと判定される。”のです。「血
は命だから…」(申命記 12:23)
 イエスの死について、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただ
ちに血と水が出てきた。」(ヨハネ 19:34)と記されていますが、これは、血液が既に血漿と血清
に分離し、血液自体が死んだことを示しています。ですからイエスの肉体は、完全に死んだの
です。
 死の判断には、脳死の人の処置をどのようにしたらよいかという社会問題に関わってきま
す。脳死判定の議論について触れるならば、脳死は肉体の死ではありません。しかし、脳死の
まま人を生かし続けているということは、”物質である体だけを、機械を用いて無理に生かし続
けて”いるのです。ですからそれは無駄なことあって、機械を止めてその人が亡くなった場合に
は、”殺した”のではなく、”死んだ”と理解すべきです。

 一方、霊界に目を向けて「霊にも死があるのか」と考えますと、それは明確には分かりませ
ん。「第二の死」(黙示 20:14)という言葉は、霊の死を暗示しています。しかし、その内容は肉
体の死の場合とはかなり違っていて、永遠の刑罰を受けることです。

 地上の生涯における人間の霊は特殊であって、人間の肉体に宿っている霊、すなわちその
人本人の霊は、「それ(善悪の知識の木の実)をとって食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
(創世記 2:17)という神の言葉が実現して、霊界においては死んだものです。「あなたは生き
ているとされているが、実は死んでいる。」(黙示 3:1)との言葉の通りです。しかし、サタンが
「あなたがたは決して死にません。」(創世記 3:4)と言った言葉も実現し、肉体が生きている
ことと、人が罪には生きている現実が観察されます。パウロは人間が救われた時、「罪に対し
ては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者。」(ローマ 6:11)としてい
ますが、救いに与る以前の人間は、ちょうどその逆で、神に対しては死んだ者、罪に対しては
生きた者です。

 このローマ人への手紙6章11節に示されていることが、4.3 命 の項で述べた、キリストの
贖いによって霊の死から命に移されて与えられる新生の命です。


3.5 人格

 人格と言う言葉は、聖書には出てきません。人格という言葉が、日常どのような意味合いで
用いられているかを考えてみると、以下の二種類の意味合いで使われています。その一つは
「人格の尊厳」という表現の中で使われる場合、もうひとつは、人の性格、品性、人柄、行動に
対する習性など、つまりその人が「自分を顕わす姿の総称」を示すものとして使われる場合で
す。どちらの意味で使われているかは、都度、会話や文章の脈絡から判断しなければなりませ
ん。

 「人格の尊厳」という使い方の意味する「人格」という言葉に当てはまる、つまり”人格である”
存在者は、神、天使、サタンと悪霊達および人間です。これらは、霊界において命を有する存
在者であって、「聖書に霊と呼ばれているものが人格である。」と定義するのが適切です。人格
とは、霊の別称に他なりません。人格を霊と同一と考えることは、ワイレーとカルバートソンも、
「神は人間を霊――…、即ち人格――として造られた。」(30)、「霊はそれ自体人格であり…」
(31)と述べ、これを支持しています。

 霊を人格と呼ぶときには、その霊の「自分の事柄に対する権威」に関する視点が根底にある
のです。

 天使、悪霊など人間以外の霊は人格であるにもかかわらず魂を持っていませんから、人格
を魂に関連づけて定義することには無理があります。

 キリスト者一人一人に対し、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」(ローマ 8:9)の
ですが、人間のうちに聖霊が宿って下さる内容をよく観察するならば、それは神と人とが一つ
の人格になってしまうことではなく、人自体の人格と、聖霊という人格とが、その人の魂のうち
に宿ることであると分かります。「私は神と合一した。」という考えは、ジョン・ウェスレーが熱狂
として厳しく反対したこと(32)に他なりません。このことはキリスト者の経験の上からも確かであ
って、救われた後また潔められた後も、確かに変化させられた自分がいることが分かります
が、同時に共におられる聖霊が、別の人格として魂のうちにあってささやいて下さるのを見い
だします。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うこ
とばを聞く。」(イザヤ書 30:21)と書かれてある通りです。

 「イエスのからだの神殿」(ヨハネ 2:21)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれ
る、神から受けた聖霊の宮であり…」(コリントT 6:19)というように、体が神殿であると書かれて
います。ですから、聖霊は人の魂の中に人霊とともに住むと考えられます。以下の箇所も同様
の示唆を与えています。「…父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助
け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。」(ヨハネ 14:16)「その方は真理の
御霊です。…その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ
 14:17)「…だれでもわたし(イエス)を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、
わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
(ヨハネ 14:23)「見よ。わたし(イエス)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞い
て戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに
食事をする。」(黙示 3:20)この戸は、人間の魂(心)についているものであることは明白で
す。

 アンドリュウ・マーレーは彼の著書「キリストの御霊」(33)の中で、人の肉体を神殿の前庭、
魂を聖所、霊を至聖所と考え、人霊のうちに聖霊が入られるとしています。それは、人間が自
分の権威の領域であるとしている人格そのものを聖霊に明け渡し、聖霊が自由に人霊の中ま
でもご覧になりそこを満たされる、霊も含め魂の内すべてを聖霊の意のままにされることに他
なりません。その経験は、S.A.キーンの「信仰の盈満」(34)に明確に示されています。

 人格という言葉は、しばしば「あの人は人格者だ。」と言うような用い方がされます。これがは
じめに述べた人格という言葉の第二の使い方であって、それはその人の、品性、人柄、社会
的能力などがすぐれて良いものであることを言っているのです。

 「人格の形成」という使い方もされますが、それは、存在しなかった人格が造り出されるので
はなく、人格の持っている姿即ち、品性や能力が変化していくことを指しています。従ってこの
使い方も、人格の第二の意味合いであることが分かります。

 人格を人間にある自然的神の像と定義する(35)(36)のも、第二の使い方に相当します。



3.6 自我

 自我という語も聖書の言葉ではなく、人間の哲学の用語です。自我とは「我」そのものであっ
て、人霊の自分に対する認識です。その認識はすべての霊、即ち神、天使、悪霊も人間同様
に持っています。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト記 3:14)
「私は神の御前に立つガブリエルです。」(ルカ 1:19)
「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから。」(マルコ 5:9)

 ハリソン・デービス(37)のいう、「自我とは、それ自身と、それ以外のものとの区別に気づくも
のである。また自我とは、それ自身の内と外との変化に気づくものである。これらの変化は経
験と呼ばれる。…自我は他の自我とは決して混同されないが、他の自我と親密に交わること
ができる。…自分自身と交わることができる。…自我は、経験によってそれ自身を知ることが
できるようになる。」は次のように理解されるべきです。

・人霊は、自分を「我(私)」として認識する。それが「自我」である。
・人霊は、自分と他を区別する能力を有する。
・人霊は、自分自身と他の人や物事の変化に気づく能力を有する。その気づくことが「経験」で
ある。
・人霊は、他の霊と交わることができる。
・人霊は、自分自身と交わることができる。

 人霊が自分自身と交わることができるというのは、「霊」と「魂」は別のものであって、霊と魂と
の間に交わりをもつことができることを意味しています。



3.7 ことば…霊界のことばは一つ

 自然界に属する人間がことばをもち、伝える情報を持っているのと同様に、霊界においても
ことばがあり、情報、意志意向などが互いに伝えられます。このことを示している聖書の記事
は数え切れないほどあります。

 たとえば、創造の初めに、神(父と子と聖霊)は相談して言われました。「われわれに似るよう
に、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記 1:26)

 そのほか、「ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て主
の前に立った。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて
言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』…」(ヨブ記 2:1〜2)

「私は…『ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。』と呼びかけて言っている人の声を聞い
た。」(ダニエル書 8:16)

「…この人は十四年前に、…パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていな
い、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。…」(コリントU 12:2〜4)などが
その例です。

 霊界の言葉は一つです。

 人間の言葉も霊界と同様もともとは一つだったのです。(創世記 11:1)それが多数の言葉
に分かれた由来はバベルの記事(創世記 11:1〜9)でよく知っていることです。



3.8 光

 自然界における光については論ずるまでもなく、私達がよく知っているものです。また、ここで
は電磁波がどうのというような、自然科学の領域には立ち入りません。

 霊界の光について、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むこと
がなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ 8:12)「光のある間に、光の子どもとなるために、光
を信じなさい。」(ヨハネ 12:36)とイエスが語られたことが記されています。ここで、イエスが「光」
と呼ぶものは、霊界の情景を示すものであって、イエスもこの霊界の情報に対する知覚を持た
ないものを「盲目」と呼ばれました。霊の目の開かれた人は霊界の光によって霊界の情景を悟
るのです。

 言葉はどちらかと言えば人間の思考、意志、感情など心の中を示すものであるのに対し、光
は場面の全体を情景として伝達します。霊界の光も自然界のそれに対比して理解されるべき
です。

 光には、まず霊界の真実の姿を知る意味合いがあります。その意味ではサタンと悪霊達も
光を持っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。…ですが悪霊どももそう信じ
て、身震いしています。」(ヤコブ 2:19)との聖言がそれを示しています。

 光には更に意味があります。それは「まことの光」(ヨハネT 2:8)とヨハネが呼んだものであっ
て、「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交
わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT 1:7)という光で
す。その光は、人間が罪と一緒に持っていることが出来ないものです。「光にいると言いなが
ら、兄弟を憎んでいる者は、今もなおやみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にと
どまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいる
のであって、自分がどこへ行くのかを知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからで
す。」(ヨハネT 2:9〜11)

 つまり光は、善悪、神の国と「暗やみの世界」(エペソ 6:12)と無関係に存在するのではなく、
良いものとして扱われています。光はことばとともに働いて人間の心を照らし、神の御心を悟ら
せるのです。



3.9 時間

 時間は信仰に関する大切な要素です。

 「神はひとりの人からすべての国の人々を造りだして、地の全面に住まわせ、それぞれに決
められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは神を求めさせるためであ
って…」(使徒 17:26〜27)ここに人間が時間と空間との中に生きるように定められていること
に対する、神の目的が記されています。

 信仰は、「神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。」と「命令できる」ことであって、命令に
対する応答は、意志的行為でなければなりません。また、「その子の父は叫んで言った。『信じ
ます。…』」(マルコ 9:24)などの記事が示すように、人間が信ずる応答をしている記事も明らか
に「意志的な行為」であることを示しています。人間は現在においてのみ「意志する」ことができ
ます。過去に遡って意志を働かせたり、未来の時間において意志を働かせたりはできません。
「明日、こうしよう。」というのは「現在の決心」なのです。従って、現在以外に信仰は存在し得ま
せん。贖罪は信仰に係わっており、救いも潔めも信仰によるのですから、現在以外にそれらは
存在しないのです。”永遠から永遠まで救われている”などと言うことは夢想に過ぎません。信
仰が失われるとき救いも潔めも失われます。従って、潔めは刻一刻キリストの贖いに結びつい
ているときにのみ成立しているのです。

 ただし、潔められた人間には、信仰は呼吸のように自然であって、免許取り立てのときに、い
ちいち考えながら操作をする自動車の運転のようなものではありません。一々考えなくても信
仰に生きているのです。

 以上の論議は、「信仰は意志的行為である」という命題の上に成り立っています。信仰につ
いてのその考えが聖書に立脚したものであること、また、他の考えに立つ人々の見解につい
て、後述の「5.救いの経綸」の中で考察します。



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