結実  

4.聖書の示す人間観


 人間はどのようなものであるのか聖書が示していることを把握しておくことは、聖潔を理解
し、それを与えられ、それに生きる上において極めて大切です。本章では以下の事柄について
考察します。
 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
 ・人霊とその機能
 ・魂とその機能
 ・良心について
 ・体とその機能
 ・欲求について
 ・肉という表現について
 ・人の誕生
 ・罪と罪の性質について
 ・罪の性質の遺伝
 ・自我の死は存在するか?
 ・地上生涯の価値
 ・いかにして己を知るか


4.1 人間創造の目的
 神が人間を創造された目的は、人間と人格的な交わりを持ち、「人間に神を知らしめること」
です。これを人間の側からみれば、「人生の目的は神経験にある」と言うことができます。人間
創造の目的をそのように考える理由は、人間がやがて到達する永遠の状態の中にあります。
 「…御座から声が出て言った。『すべての、神のしもべ達。小さい者も大きい者も、神を恐れ
かしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』…私は大群衆の声…が…こう言うのを聞いた。
『…私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。』…」(黙示 19:5〜8)とあるように、天国にお
いて人は神を讃美して永遠に至ります。その讃美は子羊の贖いの歌であって、イエス・キリスト
の贖罪による救いに与った者だけがその讃美をすることができます。「彼らは…新しい歌を歌
った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなか
った。」(黙示 14:3)これは直接的には、御座の前で歌われる新しい歌について言っているの
ですが、時と場を違えれば、贖いの歌は罪から贖われた人間全てに与えられるものです。一
方、悪霊達や贖いに与らなかった人間および天使にはこの歌が歌えません。天使は神を讃美
しますが、彼らの讃美は自らがそれに与った贖いの歌ではありません。天使が人間に及ばな
い理由は正にその点にあり、「私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないので
すか。」(コリントT 6:3)とパウロが指摘する論拠がここにあります。
 永遠に影響しないことは、人生の目的にはなりません。それらは「用いれば滅びる(尽きる)
もの」(コロサイ 2:22)であり、「火によって焼かれてしまうもの」(コリントT 3:12〜15)であり、「朽
ちるもの」(コリントT 15:53)、「虫と錆で、きず物に」(マタイ 6:19)なるものです。
 人間は贖いに与り、神と交わりを持つことによって神を知ります。


4.2 人間の構造
 人間は、「あなたがたの霊、たましい、からだが…」(テサロニケT 5:23)との聖書の言葉に示さ
れるように、霊と魂(心)と体から成り立っています。テサロニケ人への手紙5章23節の訳語に
は、文語訳聖書では「心」と言う言葉が用いられていましたが、新改訳聖書では、「たましい」と
いう言葉が使われました。いずれにしても、キリスト教の世界ではどのような意味で魂という用
語を使うかということを承知して置くことが必要です。
 人間のこの「体」、「魂(心)」、「霊」から成る三重の構造こそ神の傑作であって、人間は霊界
と自然界に跨る生き物となりました。
 人間のこの三部分のうち、霊界に属するのは、霊のみであって、魂は自然界に属します。
 この三重の構造をもつのは、人間とイエス・キリストのみです。


4.3 人霊とその機能
 「3.聖書の示す世界観 3.6 人格」の項の中で述べたように、人格とは霊の別称です。従っ
て人間は「霊」を有するものだから、人格なのです。おなじ引用箇所で述べたように、人格には
自分の事に関する意志決定をする権威を与えられています。それゆえ、自分の決定に対する
責任があります。
 人間の自分に対する責任は、人間の自然界に属する部分即ち肉体と魂にあるのではなく、
霊にあります。「私」という思いを持つのは、人霊の働きです。そして、「私はこうする。」と意志
決定します。それが人霊の基本的な機能です。
 人生に霊界に関わらないことは存在しません。「耳を植えつけられた方が、お聞きにならない
だろうか。目を造られた方がご覧にならないだろうか。」(詩篇 94:9)、「あなたがたの頭の毛
さえも、みな数えられています。」(ルカ 12:7)神はすべての人のすべての歩みをご存じで、そ
れぞれが行っているすべてのことを、その人の霊界の歩みと数えられ、裁きの日にその如何
を裁かれるのです。この世のことで神の許し無しに行われることはありません。ヨブの苦難も神
の許容された範囲のことだけが彼の遭遇した苦難でした。「主はサタンに仰せられた。『では、
彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。』」(ヨブ
記 1:12)「主はサタンに仰せられた。『では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには
手を触れるな。』」(ヨブ記 2:6)サタンが手をつけることができたのは、はじめは彼の持ち物だ
けでした。二度目は彼の体に病気を起こすことが許されましたが、ヨブを殺すことは許されませ
んでした。そしてその通りに事が運ばれました。これらの事例は、人生におけるすべての出来
事が神の許容のもとに行われ、霊界に属するものであることを示しています。
 神は人格の尊厳を認められ、人格の自分に対する決定を曲げることはなさいません。神が
特別に必要であると認められたごく希な短期間の出来事を除けば、神は何か事を行われると
き、必ず人間自身に意志決定させなさいます。そのごく希な短期間の出来事の一例を挙げて
おきます。「彼(サウル)もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま
倒れていた。このために、『サウルもまた、予言者のひとりなのか。』と言われるようになった。」
(サムエル記T 19:24)
 神はアブラハムへ「あなたは、…わたしが示す地へ行きなさい。…」(創世記 12:1〜2)と言
われましたが、アブラハムが神のその言葉に応えて、「行こう。」と意志決定したのです。また
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを…全焼のいけにえとして…ささげなさい。」
(創世記 22:2)と言われたときも、「ささげる。」意志決定をしたのはアブラハム自身でした。
 「4.2 人間の構造」の節で述べたように、体と魂は本来自然界に属するため、それらは肉体
の死とともに物質としては消滅し、霊の体に置き換えられます。従って地上生涯における人間
のこの三部分のうち、霊のみが裁きの日に神の前に立ちます。ですから、霊のうちに人生の全
てが刻まれると言っても差し支えありません。人生のすべての行動に対する義務、責任は霊が
負っているのです。私がこれこれを行ったのは私の体であって、私の霊ではないとするのは、
使徒ヨハネが戦わなければならなかったグノーシス派の考えと同じになります。
 霊と交わりを持つことができるのは霊であって、自然界のものにはできません。人間が神と
交わりを持つことができるのは、人間が人霊を持つ存在であるからです。霊同士は互いに交
わりを持つことが出来、機会、つまり神の許容があれば人間同士、人間と天使、人間と悪霊達
とは交わりを持つことができるのです。使徒信条に、「我は…聖徒の交わりを信ず…」というく
だりがありますが、その意味していることはこのような霊の交わりを言うのです。この「聖徒の
交わり」については、「7.教会と聖潔」の章で考察します。
 霊の死、霊の病こそがそもそも聖潔を必要とする原点であり、本人の意向を無視して救った
り、潔めたりはしない、つまり人格の自分に対する権威を認めつつその解決を与えることが課
題なのですが、このことについては「5.救いの経綸」の章で考察します。


4.4 魂とその機能
 魂は自然界に属しますが、人間の体を霊界と結ぶ役目をします。魂はそれを支配する霊の
姿を示します。優しい心(魂)を示す人は、優しい霊の持ち主なのです。怒りっぽい人は、怒りっ
ぽい霊の持ち主です。というよりもむしろ霊が人間なのですから、"人間(人霊)は自分の姿を
魂(心)の姿によって顕わす。"と言う方がよいでしょう。そして魂の姿は肉体を通して外部に顕
わされます。従って人霊の姿は、魂の姿によって分かるのです。「良い木はみな良い実を結ぶ
が、悪い木は悪い実を結びます。…実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ 7:
17〜20)魂の姿はその人の欲求や欲望、思い、行いを観察すると分かります。ですから人は、
「あなたの心を見守れ。」(箴言 4:23)との命令を守ると自分の姿が分かります。自分を知ら
ない人は、聖潔への渇きを持つことができません。
 人間だけでなく、神、天使、悪霊も霊ですが、人間の魂および体と調和を保って存在しうるの
は「人霊」だけです。
 聖霊は魂のうちに人霊とともに住んで下さいますが、自ら前面に立ちこれを勝手に支配する
ことはされません。必ず人霊の背後にあって語ることによって人を導いて下さるのです。"聖霊
の御支配に従う"ようにとの勧めがよくなされますが、聖霊は「助け主」(ヨハネ 14:16)であって、
魂の支配者にはなりませんから、人間は自らの意志(権威)をもって聖霊の示される勧めを行
わなければなりません。
 神(聖霊)が直接人間の魂と体を支配されると、人間は恍惚状態となります。その例は、モー
セに率いられて荒野を旅していたとき選ばれて神の霊を与えられた七十人の長老達は「恍惚
状態で予言した。」(民数記 11:25〜26)、予言者達例えば「予言者の一団が予言しており」(サ
ムエル記T 19:20)や「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い
ところに立って言った。…」(歴代誌U 24:20)など、また「4.3 人霊とその機能」の項に示した
サウルの例、ペンテコステの時イエスの弟子達「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊がはなさ
せてくださるとおりに、他国の言ことばで話し出した。」(使徒 2:4)などの姿に示されていま
す。それは人間にとってすばらしい経験ではあるのでしょうが、正常な人間の状態として常に存
在するものではありません。
 聖書の中に天使が人の心に住んだと言う記事は見当たりません。つまり天使は決して図々し
く人間の魂を占拠するようなことはしないのです。しかし悪霊達は人間の魂に住み、人間を支
配することをします。悪霊が直接人間の魂を支配すると、発狂状態となります。このことについ
ては、「ガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が…」(マタイ 8:28)や「…霊がこの
子に取りつきますと、突然叫びだすのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて
…」(ルカ 9:39)など多数の記事があります。
 聖書の観点から言う多重人格は、二人以上の人格がその人の中にいることですから、人の
魂に自分の霊だけでなく他の霊が住むことを意味しています。多重人格を引き起こす霊は、悪
霊だけです。悪霊が、人間の魂のうちに住み、魂を直接支配しているときは狂乱状態となり、
悪霊が魂を直接支配することをやめて、人霊に魂を任せるともとの普通の人に戻るものと考え
られます。それが、交互に現れると顕著な二重人格と呼ばれるものになります。パウロがピリ
ピで出会った「占いの霊に憑かれた若い女奴隷」(使徒 16:16)は、占いをするときは霊に憑
かれたものとしての姿を顕わし、普段は普通の人であったものと推測されますが、これも多重
人格の一例です。サウルが死の直前に自分の未来を問うたエン・ドルの降霊術師(霊媒)の女
(サムエル記T 28:7〜25)も降霊術を行うときは霊に憑かれた者の姿ですが、その時以外は普
通の人間のようであって、二重人格の一例だと言えます。
 一方、唯ひとりの人間(人霊)であっても、ときには各時点で異なった様々な姿の現れを示す
場合もあります。しかしその場合には多重人格ではなく、"いろいろな性格が現れる"と表現し
なければなりません。ハレスビー(38)が「人間の気質と信仰」に述べているように、人間の性
格、気質というものは時間的な変化だけでなく、年齢とともに変化することも知られています。
 通常人格の形成と表現されることは、人霊の姿の形成であると同時に、魂(心)の姿の形成
であるともいうことができます。肉体の形成が、生まれたときから摂取し続ける食物などからの
栄養素、生活習慣や睡眠、労働や運動などに左右されるのと同様に、人格の形成は経験によ
り大きく左右されます。当然それは長く、生涯を通じて行われますが、殊に幼少の時の影響は
大きく、幼少のとき親に服従を迫られて、人格と人格の対決がそこにあり、親に従うことを経験
することは、健全な人格、魂(心)の形成上欠くことの出来ない要素であるように見受けます。
それは成人になったときも、権威に服従することのできる人格の姿であることを、その経験をし
ていない人に較べてはるかに容易にします。信仰の根底には、神の権威に従うということが存
在しますから、親への服従の経験はその人が信仰を持つことができる素地が造られているこ
とを意味しています。幼少の時には、その経験の一切が親や周囲の人の技量に委ねられてい
ます。しかし、ある年齢に達すると、自分の心がけによっても、人格の形成が変わります。健全
な人格と呼ばれる魂(心)の姿は、バランスのとれた知情意の働き、良心の働き、人を愛する
ことができる品性、己を制御できる自制心、社会生活において他人と協調して生きることので
きる寛容さなどを持っていることです。「そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは
艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと
知っているからです。」(ローマ 5:3〜4)この聖句の示す内容は、自ら選択したことではなく他動
的に起きてくる事柄にどのような心で対処するかによって、品性が変化することを意味していま
す。また特に知識、生活習慣、友人などの領域では、自らの選択が決定的に作用します。
 精神科医が向精神薬を造ったり使ったりできるのは、脳の機能に作用する物質の研究が進
んだためです。頭脳の働きは魂の機能の一部を構成しています。そして魂の働きは頭脳の働
きと深く結びついていて、頭脳が働かないときは魂も働きをすることが出来ません。ここまでが
頭脳の働き、これは魂の働きと明確な線を引くことは困難です。このことはまた魂(心)が自然
界に属する証拠でもあります。
 「信仰は頭でするものではない、心でするものだ。」とよく言われますが、この言葉はその事
柄を「考えただけ」で信仰だと思ってはいけないと言う意味であって、信仰の中心は、思考にあ
るのはなく、心情と良心に裏付けられた意志決定にあることを言っているのです。もちろん、信
仰には最小限の知識、理解、思考というものが必要であることは言うまでもありません。パゼッ
ト・ウィルクス(39)はその点を分かり易く解説しています。
 心が健全であっても体は病気である事例は沢山あり、誰も異論を挟まないでしょう。同様に
霊は健全であっても、魂(心)を病んでいる場合があります。その場合残念ながら、その人の示
す信仰の姿が歪められます。
 魂(心)を病んだときに最初に現れてくる現象は、周囲の人の言葉を受け入れることができな
いこと、あるいは曲がって把握するつまり言われていることとは違う理解をすることです。また、
一旦聞き入れたように見えても、ほんの僅か時間が経過するともとに戻ってしまうこともその一
つです。信仰に生きるとき、神の言葉によって人格がよりよいものに変化させられていく経験
が要求されます。周囲のひとの言葉が魂(心)にとどまらない人は、信仰によって変えられるこ
とが困難です。
 実際に精神科医が出来ることは、体の病気の場合に熱が出たから解熱剤を投与し、痛いか
ら痛み止めを投与するというような対症療法に対応するようなものがほとんどで、本質的に病
気や不具等に相当する事柄を癒すことはかなり困難であるように見受けます。しかし、体の病
気を治すために、患者自ら医者に協力して、健康に悪い食物や酒煙草などの摂取を控えた
り、健康に良い食物や医薬品を摂取し、規則的な睡眠や適量の運動などをしていると、やがて
病気が本質的に癒される場合が多いのです。同様に魂(心)の病気や不健全さも、夜起きてい
て昼寝ているなどの魂(心)のために良くない生活習慣を避け、魂(心)の健康に良い生活習慣
を保ち、頭脳労働をやめて肉体労働をするなど魂(心)の負担を軽くして生活することがまず必
要でしょう。
 義しい人でも体の病気になるように、義しい人でも心を病むことが当然あるのですが、我が
儘から魂(心)に良くない生活をし、病に至る場合も多々あるように思われます。謙ってイエス・
キリストの救いに与り、霊の健康を頂いて、極力我が儘を排除し、魂の健康に良い生活をする
ことが、病む人に求められることです。しかし、体の病気でも自分では全く何も出来ない事態も
あるのと同様心の病の問題でも自分では全くなにも出来ない事態があることもまた事実です。
その場合は、医者と介護する人を必要とします。
 実際の場面では、どこまでが健康な人の性格的な問題であり、どこから病気であると言える
のか線引きは困難です。
 強調しておかなければならないことは、魂(心)を病む人の人格もまたその尊厳が認められて
おり、神の前にひとりの人間として値高く値ずもられていることです。
 魂(心)の持っている機能を整理してみますと、第一にこれまで述べた、人霊を肉体と結びあ
わせ、ひとつの存在とする働きが挙げられます。そして人間の自然界の部分の「知覚」「思考」
「感情」「意志」も魂の機能と位置づけられます。心の思い、感情、行いなどを通して、魂は霊の
姿を顕わします。さらに魂には「良心」という機能がありますが、この良心については次の項で
考察します。


4.5 良心について
 ・良心の定義
 良心という言葉は、新約聖書に沢山でてきます。「彼らの良心もいっしょになってあかしし、
…」(ローマ 2:15)「彼らの…弱い良心が汚れるのです。」(コリントT 8:7)「彼らは良心が麻痺し
…」(テモテT 4:2)「私は今日まで、全くきよい良心をもって神の前に生活してきました。」(使徒
 23:1)「執事は…きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人…」(テモテT 3:8〜9)「信仰
と正しい良心を保ち…」(テモテT 1:18)「私たちは正しい良心を持っていると確信しており、…」
(ヘブル 13:18「バプテスマは…正しい良心の神への誓いであり、…」(ペテロT 3:21)などがそ
の一部です。
 これらの箇所は、良心という言葉が人間の行為が神の前に正しいか否か、神に喜ばれるも
のであるか否かを判断することに関わっていることを示しています。
 良心とは何であるかの定義には二つの考え方があります。野球の審判を例にとると、その一
は、"「ストライク、ボール、ファウル、…」という判定を良心という。"と言う考え方で、もう一つ
は、"審判員を良心という。"という考え方です。前者の考えは、「3.聖書の示す世界観 3.10
 光」の項で述べた、「まことの光」と良心は同一だということになり、後者の考えでは、「良心は
まことの光を魂に取り入れる窓である。」と定義していることになります。
 判定を良心という考え方を採用するのは、ハレスビーやコッカーで、ハレスビーは良心を以
下のように説明します。「良心とは人間に、道徳律、或いは、神の聖旨に順応していることを知
らせる知識、または意識である。」(40) また、コッカーは「良心とは、善悪についての既知の
律法との関連から見た、自己の知識である。」(41)とします。
 アンドリュウー・マーレーは、良心をこのように説明しています。「良心は、部屋(魂、心)の窓
にたとえることができます。それを通して天の光は射し入り、またそこを通して輝きわたる大空
をながめまわすことができます。」(42)。この考えは、良心を魂の機能の一部と見なすもので、
良心についての第二の考えに当たります。
 パーカイザー編著、キリスト教信仰の探求(43)にも、良心について記述されています。そこに
聖書の言語解釈、過去の諸説等にも触れられていますが、その解釈は、良心は「…とともに知
る」ものであり、「良心とは自覚自体を自覚する特殊意識である。」と定義されていて、第一の
考えに当たります。
 ジョン・ウェスレー(44)は、「良心とは、次のことをなす機能である、すなわち、これによって我
ら自身の思い、言葉、行いを直ちに意識させ、それが功か罪か、又それらが善か悪かを意識
させ、続いて、これらは称賛と非難の何れに値するかを意識させる。」としています。従ってアン
ドリュウー・マーレーと同じ第二の考えです。
 良心について触れている聖書の記事を読み比べてみるとき、良心は汚れたり麻痺したりする
ものであることが分かります。もしも良心を情報や知識であるとすると、情報や知識はそれ自
体が汚れたり麻痺したりすることがありませんから、矛盾に陥ります。ですから良心は情報や
知識や意識ではなく、魂の一機能であると理解できます。つまり第二の考えをとるべきです。

・良心の機能
 良心は、心の中にある基準に対して、実行した行為が適合しているかどうかの判定をしま
す。
 従って、心の中にある基準自体が誤っていれば、良心は誤った判定をします。
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」(エレミヤ書 31:33、
ヘブル 8:10)救いと、聖潔に与ると、神は心の中の基準を書き換えてくださいます。
 パウロが良心に従って潔い生活をしたことを、「私は今日まで、全くきよい良心をもって神の
前に生活してきました。」(使徒 23:1)と述べたように、潔い生活には良心に従うことが必要で
す。
 「彼らの…弱い良心が汚れるのです。」(コリントT 8:7)「彼らは良心が麻痺し…」(テモテT 4:
2)とあるように、良心は汚れたり、麻痺させられたりするわけですが、これはアンドリュウ・マー
レー(45)の表現を借りて言うならば、心の窓が曇って、善悪の判断をするための光が心のうち
に入らなくなることと言えます。良心の働きが機能しなくなるとこうなるということから逆に良心
が本来持っている機能が明かになります。

4.6 体とその機能
 体は人間の物質部分、自然界に属する部分であって、今の世界において、人が他に働きか
ける、あるいは他から受けとるすべてのことは、肉体を通して行われます。キリスト教とは関係
ない人の言葉ですが、「健全な精神は健全な肉体に宿る。」のも真実です。また「魂(心)の健
康」は更に大切です。
 健全な知覚、健全な思考、健全な肉体の欲求、健全な情緒、健全な良心、健全な意志決
定、人はこれらに支えられて健全な行動をとります。
 キリスト教の世界で、ある人々の間では「肉体は罪である」、「肉体の欲求は罪である」、「肉
体の欲求を満たすことは罪である」と言うような議論がなされてきました。しかし、信仰が霊の
意志決定にあるように、罪も霊の意志決定にあります。詳しくは次章「救いの経綸」の中で考察
しますが、このことは、肉体自体は罪でもなければ、罪を犯させるものでもないことを示してい
ます。もしも肉体が罪の原因であったなら、サタンと悪霊達が罪の存在ではあり得ません。な
ぜなら彼らは肉体を持っていないからです。
 一方、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとして下さいますように。…あなたが
たの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケT 5:23)の言い方には、霊
だけでなく、魂も体も聖くされるというニュアンスがあります。魂が聖くされることについては異
論がでないでしょうが、体が聖くされるということには、すこし考察が必要です。この意味すると
ころは、霊が潔くされ、潔い心情、潔い思考、潔い行動、慎み深い生活、等々をもって聖徒に
ふさわしい生き方をすることです。逆に、これを「潔い」を「汚れた」と言う言葉に置き換えた生
き方から離れていることに他なりません。またサタンや悪霊達、悪人の手や世の力から守られ
ることでもあります。

4.7 欲求について
 本書では「」と自然な「欲求」という用語とを区別して使用することにします。
 体に付随する自然な欲求は、体に必要なものを取り入れること、体に不要となったものを排
出すること、運動、休養や睡眠、性などに関連して存在します。
 食物、水、空気(酸素)、これが人間の体を支えるために外部から体に取り入れられるもので
あって、食べること、飲むこと、呼吸することによってそれが行われますが、空腹、渇きによっ
てそれが続けられます。呼吸は健康な人にはあまり意識されませんが、心臓の悪い人が、血
液の循環の不足からか、深呼吸したくなるという事例があります。しかし、ここでは呼吸につい
て議論しないでもよいでしょう。食べること、飲むことに対する欲求が満たされないと、空腹と渇
きという結果が現わされ、その欲求が強く意識されることになります。
 同様に魂(心)の欲求と霊の欲求がありますが、これらの欲求は、明確に区分できません。
 欲求というものは、本来神から与えられている人間の機能であって、行動の動機となり、神が
祝福されたものです。欲求を正しく用いて神の下さるものを感謝することができることは、聖潔
の生涯に欠かせないことがらです。他の人々との交わり、遊び、食事、夫婦生活などなど様々
な場面でそれが許されています。
 これらの欲求のうち、以下は特に「欲」と呼んで区別します。すなわち「食欲」、「性欲」、「交際
欲」、「知識欲」などがそれです。中には睡眠まで欲に入れる人もいますが、睡眠は体と魂の休
み時間であって、必要とする時間の間隔は違いますが、呼吸と同様人間が制御できる幅が狭
いものです。ですから睡眠は欲という分類には入れない方がよいと思います。目覚めていて
も、布団から出てこないのは睡眠ではなく怠惰です。
 食欲を個体維持本能と呼び、性欲を種族維持本能と呼ぶことがありますが、人間の欲という
ものをよく観察してみますと、食欲には個体維持という表現で顕わされていること以上のものが
あり、性欲には種族維持と表現できるものよりもっと奥深いものがあるように感じられます。性
は雅歌に歌い上げられている夫婦の愛を造りだす場を提供するものです。それらは単に体に
付属した欲求であるとは言い切れません。交際欲や知識欲もスキンシップという表現があるよ
うに、単純に魂(心)の領域のことであるとは決めつけられません。これらの欲求は、体から出
てくるものか、魂からでてくるものか、霊からでてくるものかはっきりしません。人間はいかにこ
の三つのもの、霊、魂(心)、体がひとつの統一された有機体となっているか分かります。
 霊と魂(心)の領域の欲求と欲には更に別の領域があります。即ち、権力欲、名誉欲、金銭
(蓄財、富)欲…などです。これらは、それを持っていると危ない領域の欲です。もしダビデが権
力を持っていなかったなら、彼は罪を犯さなかったでしょう。名誉についていうならば、パウロと
いう人物がいかに誇り高い人であったかは、異論がないでしょう。しかし、神はパウロには特別
に彼の「肉体にひとつのとげ」(コリントU 12:7)を与えて彼がつまずかないよう配慮されました。
また富を持つことも神は祝福としてアブラハムやヨブやソロモンに富を与えられました。富はそ
れを正しく用いることが出来る人にはつまずきになりません。しかし、これらが危ない領域であ
ることは、誇りを正しく持ち、富を正しく持つことが普通の人にはいかに難しいかを示していま
す。
 欲求は、罪の入り口になりました。「そこで、女が見ると、その木は、まことに食べるのに良
く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記 3:6)ですから、誘
惑の入り口にもなりやすいのです。ひとたび聖潔を与えられた人も、欲求を正しく用いることに
絶えず心がけることが必要です。

4.8 肉という表現について
 肉という表現は、肉体を連想しますが、そうではありません。「肉に従う者は肉的なことをもっ
ぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ 8:5)「あなた
がたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、
…」(ガアテヤ 5:13)「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
なことはありません。」(ガラテヤ 5:16)以上の三聖句は、肉と御霊の対立が、思考、意志、感情
(ここでは喜び)に及び、単に肉体から出てくる欲求などに関することではないことを示していま
す。
 パウロが、ローマ人への手紙に書いた内容のその思想の流れをみるとき、「…古い人…」(ロ
ーマ 6:6)「…私たちが肉にあったとき…」(ローマ 7:5)「…私のうちに住みついている罪…」(ロー
マ 7:17)「私の肉のうちに善が住んでいない…」(ローマ 7:18)と表現されていることが、同一の
母体を指していることが分かります。すなわち御霊と対立する「肉」とは、私たちの母親から生
まれたままの古い人格に付属する罪の性質そのものなのです。
 この肉は救われた人のうちにも残っています。それが聖潔を必要とする理由なのです。

4.9 人の誕生
 子どもが生まれることは、創造の一部です。「わたし(イエス)の父は今に至るまで働いておら
れる」(ヨハネ 5:17)のです。霊界にも所属する人間が世に生まれ出ることを、神は物質の世界
につまり自然界の法則に委ねておられるのは興味深いことです。
 子どもが生まれるとき、父と母の肉体の一部から子どもが造られるのですから、容貌や自然
界に属する様々の能力や魂の働き、すなわち性格や欲求の傾向性などが両親に似ることは、
当然のこととして理解されます。人はこれを遺伝と呼びます。最近にいたり、DNAの研究が進
んで、遺伝の仕組みが少しずつ明らかにされてきています。
 人間の肉体は物質の世界に所属し、父親の体の一部と母親の体の一部から子供が造られ
ることによって親に似た子供が生まれると言うことは分かり易いのですが、霊界に属する部分
である霊すなわち人格はどのようにして誕生するのでしょうか。分かっていることは、人格は人
間が生まれるときに付与されることです。人間は先在することはなく肉体の誕生と同時に創造
されます。
 アブラハムが彼の持ち物すべての十分の一をメルキゼデクに献げたとき、「…レビはまだ父
(アブラハム)の腰の中にいた…」(ヘブル 7:10)と言う表現は、レビという人格がアブラハムの
腰にいたということを言っているのではなく、アブラハムに代表されて、祭司レビの家系はもと
よりヘブル民族のすべてがメルキゼデクに十分の一を献げたことになるといっているだけで
す。
 以下の聖書の個所は肉体の誕生の時に人格が創造されることを支持しています。妊婦を流
産させた場合の裁定に、「人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事
故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。…しか
し、殺傷事故があれば、…」(出エジプト記 21:22〜23)とあり、それは傷害と見なされ殺人とは
見なされません。この規定では妊娠時の胎児は、まだ人格であると認めてはいないつまり母親
の肉体の一部と見なされているのです。胎児に人格を認めない以上それ依然の細胞に人格
は認められないことになります。
 このことは堕胎が殺人であるか否かの結論をも与えています。堕胎は決して望ましいもので
はないことは論を待ちませんが、それを殺人と考える必要はなく、万一止むを得ない事情で妊
娠中絶を行っても神はそれを殺人とは見なされません。
 このことはまた、キリストが地上に来られる際には、処女降誕によらなければならなかった必
然性をも示しています。キリストは先在された方で、肉体はマリヤから取られましたが、霊は永
遠の神であられるからです。
 当然ですが、佛教徒の信ずる輪廻ということはありません。また人霊がもう一度別の肉体に
宿って生まれることもありません。

4.10 罪と罪の性質について
・罪と罪の性質
 人間が罪の性質を持ち、罪を犯すものであることは、アルミニアン・ウェスレアンの信仰者だ
けでなく、広くカルビン主義者の間にも認められていることです。罪に関するジョン・ウェスレー
の定義(46)は明瞭で、「罪とは知られている律法に対する意志的違反である。」とします。
 罪と罪の性質は明確に区分して定義されなければなりません。「キリスト教信仰の探求」に記
載されている罪の定義「(ウェスレーの定義に追加し)罪はまた、そのような意志的違反へと導
く態度、気質および傾向性など、また後に原罪として論ずるであろうものを含むものである。」
(47)や、カルビン派のヘンリー・シーセンの罪の定義「罪は特別な種類の悪である。」「罪は律
法を守らなかったり、侵犯したりすることである。」「罪は行為であると同時に、一つの原理また
性質である。」「罪の本質は利己主義である。」(48)とすることは、罪と罪の性質の区分が不明
瞭で、聖潔の追求者を迷わせる恐れがあります。
 罪は神の命令に違反する「行為」です。「イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『もう罪を
犯してはなりません。…』」(ヨハネ 5:14)「イエスは言われた。『…。今からは決して罪を犯しては
なりません。』」(ヨハネ 8:11)に示されているように、罪は「行い」であって「今」という「時間」の中
にあるものです。信仰の場合と同じように、罪は「今」においてしか犯すことができません。昨日
に戻って罪を犯すことはできないし、明日の罪を今日犯すこともできません。
 「今」以外のものは、罪の性質や品性、性格、気質などの領域の事柄です。また誘惑も実際
に誘惑されるのは「今」以外にはありません。今行為として犯す罪は赦しの対象であり、それ
以外が潔めの対象なのです。
 罪には、聖書に記されている「キリストの律法」(コリントT 9:21)(49)への違反と「神がその時
点で各人に示される命令」への違反の二種類があります。
 聖書に記されているキリストの律法には、新約の視点で解釈される旧約聖書全体と、キリスト
が在世中に教えられた教えと、聖霊がおいでになり使徒達に示されたこととが含まれます。例
を挙げると「…イエスは言われた。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならい。
偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』…」(マタイ 19:
18〜19)
 また山上の垂訓はじめイエスが教えられた数々の教えの中に、また使徒達やパウロの教え
の中に記されています。それには、禁止事項即ち消極面とこのような善きことを行えと命ずる
事項すなわち積極面の両方が含まれています。「イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを
尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。」
(マタイ 22:37〜39)「まことにあなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を
離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ 19:9)「肉の行いは明白であって、
つぎのようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党
波心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。…こんなことをしている者
達が神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ 5:19〜20)「酒に酔ってはいけません。そ
こには放蕩があるからです。」(エペソ 5:18)などなど枚挙にいとまがありません。現在の社会
では、偶像礼拝、酔酒、宴楽はいうに及ばず売買春、姦淫、離婚から同性愛(レビ記 20:13、ロ
ーマ 1:26〜27)まで「市民権を得た」との表現でそれらが、公然と行われるようになっていま
す。同性愛一つとっても、神は「必ず殺されなければならない。」(レビ記 20:13)と命令されたも
のです。私たちは神がお嫌いになることに、敏感でなければなりません。
 大切なことは、これらのことが自分にとって具体的対象となる時と場に遭遇した場合に、禁止
事項は拒絶し、善きことは行うことができるかどうかです。
 またこれらの禁止事項とは関係なく、一般的には罪と認められない事柄であっても、神がこう
せよと言われることがあります。その場合に、それに従わないと罪になります。以下はそれら
の例です。
「そのとき主はアモツの子イザヤに…語られた。『いって、あなたの腰の荒布を解き、あなたの
足のはきものを脱げ。』それで、かれはそのように裸になり、はだしで歩いた。」(イザヤ書 20:
2)
「つぎのような主のことばが私(エレミヤ)にあった。『あなたは妻をめとるな。またこの所で、息
子や娘を持つな。』」(エレミヤ書 16:1〜2)
「主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。』」(ホセア書
 1:2)
「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、こ
れに向かって叫べ。…』」(ヨナ書 1:1〜2)
 聖潔を求めて生きる新約のキリスト者に、神は同様の特別の命令をされることがあります。
それは、聖潔に生きられるか否かを分ける大切な一瞬をその人にもたらします。

・罪と誘惑
 人は自分が罪を犯したと思うと、聖潔の信仰に留まっていることはできません。罪と誘惑の区
別を理解できないと、誘惑にあっている段階で罪を犯したと判断することもありえます。すると
聖潔の信仰が失われて失望に陥るのです。そのため、自分が罪を犯したのか悪霊の誘惑を
受けているのか明確に区分出来る判断力を持たなければなりません。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ 5:28)
というイエスの言葉の持っている原則は、姦淫だけでなく、盗みにも、殺人にも、偽証にも、貪
欲にも適用されますが、この原則の示している内容を理解しないことが、罪と誘惑の区分を誤
らせるのです。・罪と罪の性質の項で述べたように、罪は「行い」であって、その本源は霊と魂
の意志決定にあります。ですから、体が実行する前に、それを実行する意志決定がなされま
す。その意志決定がなされたとき罪を犯したのです。
 姦淫するぞ、盗むぞ、偽るぞ、殺してやる、…と意志決定する以前は誘惑の段階です。
 
・罪と過失
 過失は、ジョン・ウェスレーの罪の定義「罪とは知られている律法に対する意志的違反であ
る。」に対応して、「過失とは、キリストの律法に対する意志しない違反である。」と定義されま
す。
 過失の原因は、「知らなかったため(無知)」あるいは「誤って(過誤)」行うこと、「能力がない
ため(無能)」行えなかったことにあります。ジョン・ウェスレー(50)が強調しているように過失も
キリストの贖いを必要とすることは言うまでもありません。「また、もし人が罪を犯し、主がする
なと命じたすべてのうち一つでも行ったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その
咎を負う。その人は、羊の群から…雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のと
ころに連れてくる。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失につい
て、彼のために贖いをする。彼は赦される。」(レビ記 5:17〜18)
 大切なことは、神は罪と過失を区別して取り扱われることです。「あなたがたは、…それをの
がれの町とし、あやまって人をうち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなけれ
ばならない。…」(民数記 35:10〜33)「しかし人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらし
て殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」
(出エジプト記 21:14)「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかっ
たしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをし
たしもべは、打たれても、少しで済みます。」(ルカ 12:47〜48)
 カルビン主義者達は、この罪と過失の差異を認めることを拒み、「贖いが必要なものはすべ
て罪である。」とするため、過失がなくなるということはありませんから聖潔を信ずることができ
ず、聖潔に与ることができないのです。

・全的堕落と動機の問題
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての
人が迷い出て、みなともに無益な者となった。善を行う人はいない、ひとりもいない。」(ローマ 3:
10〜12、詩篇 14:1〜3、詩篇 53:1〜3)生まれたままの人間は「全的に堕落」したものである
ことは、カルビン主義者だけでなくアルミニアン・ウェスレアンの立場をとる人々も認めていま
す。
 カルビン主義者の描く全的堕落の姿は、「(人間の全的堕落とはどのようなものかは)人間を
エンパイア・ステート・ビルの頂上から飛び降りて、道路に散らばった人にたとえる。地上にた
たきつけられた時、彼の何かが残っていたとしても、彼は自分が助けを必要としていることを知
り得ないのである。その人は死んでいる---命がない---それで、回復を望むこともできない。」
(51)
 人間の姿を率直に観察し、聖書が述べていることを全体的に把握するならば、人格を有し、
罪に生きている人間がそこにいることがわかります。アベルを殺した後もカインは神と語り(創
世記 4:1〜15)、サタンさえも神と語ります(ヨブ記 1:6〜12、2:1〜6)。ですから、前述の死体
の例は、聖書が示す全的堕落を現すには、的はずれであるのです。
 人が善を行い得ない原理は、その人の行動の動機が「利己心」以外にない点にあります。
「罪の本質は利己主義である。」(52)というのはその意味では当たっています。さらに人は、神
の権威に服することを致しません。これが全的堕落の内容です。
 罪の中心は動機にあります。聖潔において与えられる完全の範囲はそれと対応しており、動
機が愛であること、動機が義しいこと、動機が純潔であることに留まります。行為の内容、結果
の完全は与えられません。

4.11 罪の性質の遺伝
 罪の性質の遺伝はどのようにして起きるのでしょうか。
 肉体の両親の形質が子どもに遺伝するのと同様に、霊の形質も遺伝します。そこに創造の
不思議があります。そのしくみを説明することはできません。ただ聖書はこう指摘します。「アダ
ムは、…彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」(創世記 5:3)
 潔められた男と潔められた女の間にできた子どもが、なぜ罪の性質をもって生まれるのか。
との議論がウェスレーの時にあった(53)ことが、記されています。
その理由は、潔めは神が"後天的"に人間に与えられたもので、整形美男と整形美女の間に
醜男が生まれても不思議はないように、後天的に与えられた霊の潔さは、子どもに遺伝せず、
先天的に持っていた形質が遺伝するからです。

4.12 自我の死は存在するか?
 人間がどのようなものであって、「聖められることを追い求めなさい。」(ヘブル 12:14)との命
令に応えようとして、何をしていかなければならないか考えるとき、"自我に死になさい。"と勧
める人々がいますが、その意味合いを正しく理解できるよう解説することが必要です。実際に
その勧めの内容を分析すると、単に言葉の用い方が不具合であるだけの場合もあります。た
だ、自我に死ねと言われると、大変困ります。先に述べたように、「私は」という思いが自我の
中心であって、自分が生きている限り、それは無くならないものだからです。
 では、この命題に対して、どのような言葉を用いるべきかということは単純で、
"自我は潔められなければならい。"といえばよいのです。
 それは地に播かれた種が芽を出すと、元の種は朽ちてしまうように見えますが、新しい植物
となって成長するような変化であって、「私」自体は死にも無くなりもしないのです。
 実際に潔めに与るとき、そこに「古い私」は姿を変え、「潔められた私」がいることを見いだし
ます。「罪に対して死んだ私たち…」(ローマ六の二)であり、「私たちの古い人がキリストととも
に十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる」(ロー
マ六の六)ことであり、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスに
あって生きた者」(ローマ六の一一)なのです。

4.13 地上生涯の価値
 人間の地上の生涯は、「贖罪があたえられる期間である」とともに、「聖霊が人とともに人の
魂(心)に住んで下さって共に過ごす期間である」故に、神はこれを尊ばれます。
 地上生涯は永遠の世界におけるその人の地位を決定します。天国に於ける地位、栄光はす
べての人が同一なのではありません。エーリヒ・ザワーはその著「栄冠をめざして」(54)に以下
のようにのべています。「天の賞は、各人に平等に与えられるのではなく、忠実さの程度に従っ
て与えられる。」それはキリストの語られたタラントの譬え(マタイ 25:14〜30)にも、ミナの譬え
(19:11〜27)にも示されているものです。

4.14 いかにして己を知るか
 前にも述べたように、人は自分を知らないと聖潔の必要を認めることができません。恵みは
求める者に与えられるのですから、その必要を悟らないと、求めはおきず、従って恵みに与る
こともありません。どのようにしたら、自分を知ることが出来るのでしょうか。その要点を列挙し
ておきます。
   ・自分の欲・欲求を観察することによって
   ・自分の思いはかること・関心事を観察することによって
   ・自分の意志決定、特にその動機を観察することによって
   ・自分の結果的な行動を観察することによって

   ・他人が自分をどのように観るかを聞くことによって
   ・聖霊の光による直接的知覚によって

 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
  いのちの泉はこれからわく。」(箴言 4:23)




5.救いの経綸に進む


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