キリスト者の完全  

6.1733年説教「心の割礼」


1733年1月1日、私は大学のために聖マリア教会で「心の割礼」という題の説教をした。その
説教で私は次のように語った。『心の割礼とは、聖書に「聖潔」という用語で書かれている魂の
習慣的な傾向性であって、罪の性質すなわち「肉体と魂の両方についてのすべての穢れ」から
潔められることである。そしてその結果、「私たちの心の姿が更新され」、「天の父が完全であ
るように完全」なものとなり、キリストのうちにあるすべての徳が付与されるのである。』(第5巻
p.203) 同説教中、私は次のように述べた。『「愛は律法を満たし、戒めの終わりである。それ
は「第一で重要な」戒めだけではなくすべての戒めをもである。「すべての正しいこと、すべての
清いこと、もしなにか徳があるなら、もし称賛すべきものであるなら」、それらすべては愛という
このひとつのことばに集約される。その中に完全があり、光栄があり、そして幸福がある。天地
の王の律法はこれである、「あなたは、心を尽くし、精神(魂)を尽くし、心情を尽くし、力を尽くし
て、主であるあなたの神を愛さなければならない。」唯一の完全な善があなたの唯一究極の目
的でなければならない。あなたがたは自分自身のために只一つのこと ・・すべてのすべてであ
られるお方に達することを望むべきである。あなた方の魂をお造りになった主と全く一致し、
「父と子との交わり」をもつこと、「一つの御霊によって主に結び合わされ」たものとなるというた
だ一つの幸福を自分の魂に求めなければならない。あなた方が最終的に追い求めるただひと
つの企ては・・現在も永遠までも神をお喜ばせすることである。それが創造者に導くものである
なら、その造られたものを愛し、それ以外のものを遠ざけなさい。そしてあなたがとるすべての
歩みの中で、それをあなたの姿を飾る輝かしい点であらせなさい。すべての愛情と考えとこと
ばと行いを、これに従わせなさい。あなたがたが何を願いあるいは恐れるとしても、あなたがた
が何を求めあるいは避けるにしても、あなたがたが何を考え、話し、あるいは行うにしても、あ
なたの存在の源であり究極の終わりである神にあるあなたの幸福にそれらを従わせなさ
い。」』(同上、 p.207 、208)。 
私は以下の言葉で結論した。『ここに完全な律法の総計、心の割礼がある。霊を、その愛情の
全き従順をもって、それを与えた神に帰らせなさい。・・ 彼は、生ける心を捧げること以外に
は、私たちから他に何の犠牲をも選び給わない。キリストを通して、神聖な愛の炎でそれを神
に絶えず献げなさい。あなたの愛が他の何物にも彼と分かつことの無いようにしなさい。なぜな
ら彼は妬む神であるから。彼の王座を他のものと分かってはならない。彼は争うものなしに統
治される。究極の目的が彼以外であるものは、企てることも望むことも許容されてはならない。
これが彼は死んだけれどもいまなお私たちに語るところの、神の子らがかつて歩んだ道であ
る。「彼の名を称め賛えるため以外には生きないことを願いなさい。あなたのすべての考えとこ
とばと働きを彼の栄光に傾倒させなさい。」「あなたの魂が、彼のため以外には何物をも愛さな
いほどに、彼への完全な愛で満たされるようにしなさい。」「あなたのすべての行動に、心情の
純粋な意図、彼の栄光に対する断固とした尊敬を持ちなさい。」それからもそれ以外にも、「キ
リスト・イエスの内にあった心を私たちの心」とし、いかなる心の動きにおいても、あなたの舌に
のぼるいかなることばにも、あなたの手がなすいかなる働きにも、彼と関係のあることそしてか
れの全き喜びに沿うこと意外は追い求めず、私たちが、考え、語り、行う時には「私たち自身
の意志ではなく、私たちのために彼を遣わしてくださった方の意志を」を満たし、「食べるにも飲
むにも何をするにも」それを「神の栄光のために」それらすべてを行いなさい。』(同上、p. 
211.)。 
この説教は、出版された私のすべての著作の中の最初のものであることが分かるであろう。 
これがその時私が持っていた宗教観であって、その時点でも私はそれを完全と呼ぶことをた
めらわなかった。これはそれに対し何物も付け加えあるいは取り除くことなく、私が今もいだい
ている宗教観である。そしてここにあることを、聖書を信じ、理解することができる誰がこれに
反対できるであろうか? 聖書を全面的に否定することなく、これを拒否できるであろうか? 神
の言葉から何かを取り除くことなく、これから減らすものがあるであろうか?



7.に進む



戻る
戻る