キリスト者の完全  

27.「キリスト者の完全」は聖書の中に見いだした「イエス・キ
リストの教理」であること




今私は私が提供しようとしたことを成し遂げた。 
私は、私がはじめどのようにして完全の教理を受け取ったか、私が受け取ったものをどのよう
に理解したか、私が受け取ったものをどのように実行し、それを今日に至るまで教えたか、と
いうことについての率直かつ平易な説明をし終わった。 
私は、その全体ならびに全ての細部にわたって私が意味したところを、聖書の表現によって明
らかにした。 
私はそれを少しも歪めたり隠したりすることなく実物大の絵として描いた。 
そして今私は偏見のない人々に尋ねたい。そのなかに何の驚くべきことがあるか? 
この20数年間に渡り英国全土に及ぶ、あたかもキリスト教が破壊され、信仰が根底から引き
裂かれるかのように言われるこのすべての抗議はどこから生じたか? 
まさにその完全ということばが、あたかも最も有害な異端が含まれているかのように論破され、
嫌悪され、キリスト者の口から投げ捨てられたのは一体なぜか? 
なぜその説教者が神を畏れる人々から、それのみか、神のもとにある自らの子供たちにまで
さえも、まるで狂犬のように、また福音を忘れたかのように、野次られるのか? 
これに何か理由があるのか、あるいは何か口実があるのか? 
理由。そうだ理由は、何もありはしない。 
理由の存在は不可能である。 
しかし、口実はある。口実はいっぱいある。 
事実、このように私たちを取り扱う人々には、それを恐れる素地がある。それは全くの口実に
過ぎない。それは最初から最後まで彼らの顔つきのコピーに過ぎない。 
彼らは求めていた。彼らは探していた。私に対抗する好機を。そしてここに彼らは彼らが探して
いたものを見つけた。 
『これはウェスレイ氏の教理である!彼は完全を説教する!』 
その通り彼は説教する。しかしこれは彼の教理ではないし、あなた方の教理でもあるいは他の
誰かの教理でもない。それはキリストの聖職者の教理である。 
それ故これは主の教理であり、格別に彼によって強調された教理である。それはイエス・キリ
ストの教理である。 
これは主のことばであって、私のことばではない。 
『それ故天におられる父が完全であるようにあなたがたは完全でありなさい。』 
では、だれがあなたがたは完全であってはならない、あるいはあなたの魂が肉体を離れるまで
完全であってはならない、というのか? 
それは聖パウロの教理であり、聖ヤコブの教理であり、聖ペテロの教理であり、聖ヨハネの教
理である。そして紛れもなくウェスレイ氏の教理であって、単純に福音の全体を説教するすべ
ての人の教理に過ぎない。 
私は、私がどこでそしていつこれを見いだしたかを、私が語りうる最も分かりやすく、あなたが
たに説明しよう。 
私が、私自身の魂を救うこと以外の視点を持たずにそれらを読んだとき、私はそれを旧約と新
約聖書の神のことばの中に見いだした。 
しかしこの教理は一体誰のものか。私は願う、この中に何の害があるか? 
それをもう一度見て頂きたい。細心の注意を払ってあらゆる角度から調査して頂きたい。 
ひとつの視点では、それは意図の純潔であり、全生涯を神に捧げることである。 
それは私たちの心のすべてを神に捧げることであって、私たちのすべての気質に支配されて
いるただひとつの欲求と心づもりである。それは一部分ではなく、私たちの魂と身体と神への
全存在を捧げることである。 
もう一つの視点では、キリストが歩まれたのと同じ歩みを私たちにも可能にする、キリストにあ
った全ての心情である。それは、外側の(行為の)汚れと同様に内側の(霊魂の)すべての汚
れからの心の割礼である。それは神の全体の像に、それを創造された主に全く似たものに、
心が更新されることである。
 さらにもう一つ、私たちの心のすべてをもって神を愛し、自分自身のように隣人を愛することで
ある。 

さて、これらの視点のどれでもあなたがたの好むものを取り上げるがよい(なぜなら実質的な
差異はないから)。 
これらは完全の全体と各部分であり、あたかも実地教育のための記述の訓練のようであって、
それは私が1725年から1765年に至る40年間信じ教えてきたものである。 




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