キリスト者の完全  

28.結び



さて、この完全を、生まれたままのすがたに顕わしているが、一体誰がそれに一言でも反対す
ることを語れようか? 
私たちの主である神を心を尽くして愛し、私たちの隣人を自分自身のように愛することに、誰
があえて反対できようか? 
単に一部分だけでなく、神のすべての形に心が一新されることに反対できようか? 
肉体と霊のすべての汚れから潔められること、あるいはキリストの心を自らの心として持ち、す
べての事柄にキリストが歩まれたように歩むことに反対して口を開くのは一体だれか? 
自分をキリスト者であると認じている誰が、私たちの一部分ではなく、魂と、身体と全存在を神
に捧げることに反対する厚かましさを持っているのか? 
真摯な人の誰が、私たちの心の全てを神に捧げ、私たちの気質のすべてを規制するただ一つ
の目的を持つことに反対するのか? 
私はもう一度言おう。この完全をそのままの姿で顕わせ。誰がそれに反対して戦おうとするの
か? 
それに反対することができる前に、口実が儲けられるに決まっている。 
始めに熊の皮を着せるか、同じ様な人々が恐れ心配する野獣の皮を着せるに違いない。 
しかしそれらの何がなされたとしても、もはや神の子らに神の像に対抗して戦うことをやめさせ
よ。 
キリストのメンバーにキリストの内にあったすべての心情を持つことに反対する何かを言わせ
てはならない。 
神に生きる人々に、神に私たちの人生のすべてを捧げることに反対させてはならない。 
なぜ、あなたがたの心の中に彼の愛を広く注いでいただいたあなた方が、あなたがたの心の
すべてを彼にささげることに反対すべきなのか? 
あなたがたは心の内に「愛してはいるけれども、十分に愛することができないではないか?」と
叫びだしてはいけない。 
彼をお喜ばせすることを望み意図すべき者が、他のものを望み意図するとしたらなんと哀れな
ことか。 
更にその上、彼らはそれを致命的な欺きとして恐れるべきである。そう、いかなる気質に関して
でも他のものへの望みと意図とに従うことを、神に対する忌まわしいこととしてぞっとするほど
嫌わなければならないのである。 
なぜ敬虔であるはずの人々が、彼らの全霊、全身、全存在を神に捧げることを、恐れなけれ
ばならないのか? 
なぜこれらのキリストを愛している人々が、私たちはキリストの内にあった全ての心情を持たな
ければならないと考えることを、忌まわしい過失であると数えるのか? 
私たちがキリストの義と血によって自由に義とされたものであることを、私たちは認め、主張す
る。そして、イエスの御霊によって潔められることを私たちが期待したからといって、なぜあなた
がたがそんなに私たちに対して激昂するのか? 
私たちは、明らかな罪の僕たちからも、形式だけの信仰を持っている人々からも、好意を求め
はしない。 
しかし、霊によって神を礼拝しているはずのあなたがたが、『人の手によらない割礼をもって割
礼される』心情の完全な割礼を求める人々、『肉体と霊の全ての汚れから』潔められることと、
『神を畏れて完全に聖である』ことに渇いている人々に対して、いつまで戦いを挑んでくるの
か? 
私たちが『神に敵対する肉の思い』から完全に救い出されることを探し求めているからといっ
て、私たちはあなたがたの敵なのだろうか? 
そんなことはない。私たちはあなたがたの兄弟であり、私たちの主のぶどう畑のあなたがたの
同労者であり、イエスの王国と忍耐のあなたがたの仲間である。 
けれどもこのことを私は告白する。
「もしも私たちがそのために愚かな者たちであっても、私たちを愚かな者たちとして忍んで頂き
たい。」
私たちは私たちの全心をもって神を愛し、私たち自身のように私たちの隣人を愛することを期
待していることを。 
そのとおり。私たちはこう信じる。主は聖霊の霊感によってこの世において私たちの心の思い
を潔めてくださるし、私たちは主を全く愛し、彼の聖い名を、それに相応しく高めることをすべき
である、と。 
(完)



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