キリスト者の完全  

26.1764年「キリスト者の完全に関する提議」出版


1764年に、全ての主題を見直して、私は私が観察したすべてについて以下の短い提議を書
き下ろした。 
(1) 完全と呼ばれるものがあり、聖書中に繰り返し記述されている。 
(2) それは義認のように早くはなく、義とされた人々に対し「完全に進むように」というものであ
る。(ヘブル 6:1) 
(3)それは死の時にというほど遅くはない。なぜなら聖パウロは完全にされた生きている人々に
ついて語っている。(ピリピ  3:15) 
(4)それは絶対的な完全ではない。
絶対的な完全は人間にも天使にも属するものではなく、ただ神にのみ属する。 
(5)それは人間を堕落できないものとはしない。肉体にとどまっている限り堕落しえない人はい
ない。 
(6)それは罪がないことか?用語についての議論は価値がない。それは「原罪から救われるこ
と」である。 
(7)それは「完全な愛」である。(ヨハネT 4:18)
その特質あるいは不可分の実は、常に喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝すること(テサロニ
ケI 5:16以下)であって、これがその根本的要素である。 
(8) それは改善ができるものである。 
愛に完全にされた人は彼が以前にそうであったよりも速く恵みに進むのであって、増加するこ
とができないようなもの、あるいは分割することが出来ない点に置かれているといったこととは
全く違っている。 
(9)それは駄目になることが出来るもの、失うことができるものである。私たちは数多くのその
実例を知っている。 
しかし私たちが完全にこのことを納得したのは、ほんの5、6年前のことである。 
(10)これには必ず、それに先立って次第になされるみ業があり、その後にも次第になされるみ
業がある。 
(11)しかしそれ自身は瞬時のみ業なのか、そうではないのか? 
これを確かめるために、私たちは一歩一歩検討してみよう。 
何人かの信者に瞬時の変化がもたらされた。これは誰も否定できない。 
その変化以来、彼らは全き愛を享受し、このように感じる。彼らは「常に喜び、絶えず祈り、全
てのことを感謝する」だけである、と。 
さて、これが私が完全を意味したすべてである。それ故、これらが私が説教した完全の証拠で
ある。

しかし「ある人々のこの変化は瞬時ではなかった。」 
彼らはその業がなされた瞬間を感知出来なかったのである。 
人が死ぬ瞬間を感知することは困難であることは多々ある。しかし彼がいのちを止めた瞬間
があるのである。 
そしてもし罪の性質が止んだら、そこにはその存在の最後の瞬間がなければならない。そして
救いの最初の瞬間が。 

「しかし彼らが今この愛を持っていたとしても、彼らはそれを失うかも知れない。」
そうかも知れない。しかし彼らはそれを必ず失う必要はないのである。 
彼らがそうなるかどうかは別として、彼らは今それを持っている。彼らは今私たちが教えた経
験をしている。 
今彼らはすべて愛である。今喜んでいる、祈っている、そして絶えず感謝している。

「しかしながら、罪の性質はそれが破壊されたのではなく、彼らの内でただ休止しているだけで
はないのか。」 
あなたがたが望むとおりにそう言ってよい。 
今日彼らはすべてが愛である。そしてかれらは明日を思い煩わない。
 
「しかしこの教義は大変誤用されてきた」。 
信仰による義もまたそうである。 
しかしこの教義あるいは聖書の他の教義について放棄しなければならない何の理由もない。
「あなたの赤子を洗う時」には「水は捨てよ。だが赤子は捨てるな。」と言われているように。

「しかし罪の性質から救われたと考えている人々はキリストの恩寵がもう必要ないと言うのでは
ないか。」 
彼らは全く正反対を語る。 
彼らのことばは「主よ。毎瞬、私はあなたの死による恩寵を必要とします。!」 
彼らは以前は、今ほど深く、語り得ないほど彼のすべての業にキリストの必要を納得したこと
はなかった。 
それ故、私たちの説教者は信者に向かって常に、強く、かつ明白に完全の説教をする時を持
たなければならない。そしてすべての信者はこの一事を心に留め、絶えずそのために努力しな
ければならない。 



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