キリスト者の完全  

25.1762年「キリスト者の完全に関する考察補遺」出版



次の年、罪の性質から救われたと信じる多くの人々がますます増加した。私は主として彼らが
用いるために「キリスト者の完全に関する考察補遺」を出版する必要があると判断した。

質問 1: 「キリストは信ずる者すべての義のために律法の終わりとなられた。」(ローマ10:4)とは
どのような意味か? 
回答:これを理解する順序として、あなたがたはここで述べられている律法とは何を指している
か理解することが必要であって、私は以下のように捉えている。 
(1)モーセの律法、モーセに準じるすべての記述は、政治、道徳、礼典の三部分を包含してい
るが、聖パウロはこれを常にひとつのものとして述べている。
(2)アダムの律法は罪のない状態であったアダムに与えられたもので「行為の律法」と呼ばれ
ている。これは実質的には天使の律法と同じであって、天使と人間に共通のものである。それ
は、彼が創造された時に与えられたすべての能力を、神の栄光のために用いることを求める
ものである。彼(アダム)は理解と愛情に関わるいかなる欠けもなく創造されたのである。彼の
肉体は心情にとって枷(かせ)ではなかった。すべての物事は彼に明確に理解され隠れるもの
はなかった。それらに関わることを正しく判断し、何事についても彼が理由をつけるに場合に
は、正しく理由づけすることができた。私は、もし彼が理由づけする場合とあえて言うが、彼に
はその必要がなかった。恐らく、彼の朽ちるものとなった肉体が彼の精神を引き下げ、生まれ
つきの能力が損なわれるまでは、彼にとっては理由づけする必要など無かったのである。恐ら
く、その時まで、現在光を目でみるのと同様に彼の心は直接的に提供されるすべての真理を
理解したのである。 
その結果、この律法は彼の所有している能力に比例し、彼が考えるすべて、語るすべて、行う
ことすべてがいかなる時点においてもなんであっても厳密に正しいことを要求されていたので
ある。彼は十分にそうすることができたのである。神は彼が実行できる奉仕だけを要求された
のである。 
しかしアダムは堕落した。そして彼の不滅であった肉体は朽ちるものとなり、それ以来、肉体
は魂の枷となり、その働きを妨げるものとなった。こうして、今や、いつでも明確に理解しあるい
は正しく判断することができる人の子はいなくなったのである。判断力や理解力のいずれかが
誤っていれば正しく判断することは不可能である。 
それ故、誤りを犯すことは人間にとって息をするのと同じように当たり前のことであって、ある
誤りをしないように生きられない以上に他の過ちもしないようには生きられない。その結果、ア
ダムに要求された奉仕を完遂することはだれも出来ないのである。 
そしてそれを完遂することを義務づけられているひとはなく、神はだれにもそれを要求してはお
られない。そのためにキリストはモーセの律法と同様に、アダムの律法の終わりなのである。
彼の死によって、彼はその両方を終わらせ、彼は人間に関して、前者も後者もその両方を廃
止されたのである。そしてそのいずれかをもって見る義務は消失したのである。 
それだけでなく、いかなる人々もモーセの律法同様、アダムの律法に縛られることはない。
[それは、現在はもとより未来の救いの条件でもないという意味である。] 
このことについて、キリストは信仰の律法と呼ばれる他のものをうち建てられた。 
人は誰でも行いによるのではなく、信仰によって、今、その用語のすべての意味において義を
受け取るのであって、それは彼が正しいものとされ、潔められ、栄光あるものとされることであ
る。 

質問 2: それでは、私たちはその律法に死んだものなのであろうか? 
回答: 私たちは、私たちのために与えられた「キリストの体によって、モーセの律法と同様にア
ダムの律法にも死んだ」のである。(ローマ7:4) 
彼の死によって、私たちは完全に自由である。律法は彼と共に廃棄されたのである。

質問 3:それでは、「神に対する律法ではなく、キリストの律法の下にある。」とはどういうこと
か?(コリントT 9:21) 
回答: 私たちはその律法の下にいるのではないが、いかなる律法もないのではない。なぜなら
神はそこに信仰の律法という他の律法を確立されたからである。
そして私たちすべては神とキリスト、私たちの創造者と贖罪者、双方に対するこの律法の下に
あり、それを守ることを求められている。 

質問 4:愛はこの律法を満たしているか? 
回答: 疑いも無くそうである。 
私たちが現在その下にいる全ての律法は、愛によって全うされる。(ローマ 13:9、10) 
愛によって働きいのちを吹き込まれた信仰こそ、現在神が人に要求されるすべてである。天使
の完全が占めるべきところさえ、神は(誠実ではなく)愛をもって代えられた。

質問 5: 「愛は戒めを全うする」(テモテT 1:5)のか? 
回答: 愛は神の全ての戒めを全うするのである。
それはキリスト者の制度の全体およびすべての部分の目的とする点なのである。
信仰と清くされた心情、究極の愛、正しい良心を保つことがその基礎である。 

質問 6:それはどんな愛か? 
回答: 私たちの心、心情、魂、力のすべてをもって、主、私たちの神を愛すること、そして、私
たちの隣人、すべての人を、自分自身のように、自分の魂のように愛することである。

質問 7:この愛の実、あるいは特性は何か? 
回答: 聖パウロは、愛は忍耐深いと、強く私たちに教えた。愛は神の子らのすべての弱さ、世
の子らのすべての意地悪さを、単なる短い期間だけでなく、神が喜びなさる限りの長い期間に
渡って忍ぶのである。すべてのことがらの中に、神のみ手を見、それに喜んで従うのである。
 愛は常に親切である。すべての事柄の中に、またその後に起こるすべてに、愛は寛容で、穏
やかで、思いやりがあり、優しいのである。 
「愛は妬まない。」それはすべての種類と程度の心中の妬みを排除する。 
「愛は粗暴な行動をしない。」乱暴や頭の固い振る舞いをしないのみでなく、いかなる手荒なあ
るいは厳しい判断もしないのである。 
愛は「無作法な振る舞いをしない。」無礼ではなく、かつ自分に似合わない行動をしないのであ
る。 
「自分自身の安逸、快楽、名誉、利益を追い求めない。」 
「愛は怒らない。」すべての怒りを心の中から駆逐するのである。 
「悪いことを思わない。」愛は全ての妬み、猜疑、悪を信じることに速いことを放棄させる。 
「汚れを喜ばない。」そのとおり。もっとも苦い敵の罪あるいは愚かさにも泣く。 
「そして、真理を喜ぶ」すべての人の子らの聖潔と幸福を喜ぶ。 
「愛はすべてのことを覆う」愛は誰の悪をも語らない。 
「すべてのことを信じる」他の人の性格の優れていることを認める。 
愛は「すべてのことを信じる」否定できない過失をも酌量する。 
愛は、神が許されたことあるいは人間か悪魔が負わせる「すべてのことを忍ぶ」。 

これが「キリストの律法であり、完全の律法であり、自由の律法である」。そしてこの「信仰(あ
るいは愛)の律法」と「行為の律法」との差異は、些細な違いでも「不必要な区別」でもない。そ
れはいかなる普通の理解に立っても、平易、簡単明瞭である。 
そしてそれは「愛のうちを歩んでいる」人々にとってさえ、多くの疑いや恐れから防御するため
に絶対に必要である。 

質問 8:  しかし私たちは「多くのことで罪を犯す」、そのとおり、私たちのうちの最も優れた
人々さえもこの律法に違反するではないか?  
回答: ある意味で、私たちの気質、思考、ことば、行為が愛から出ている間、私たちはそれに
違反してはいない。しかし一方、多いか少ないかはともかく、私たちが肉体にとどまっている限
りはそれに違反している面がある。
なぜなら愛も「聖なるお方の油注ぎ」も私たちを誤りないものとはしないからである。それ故、判
断を誤ることが不可避であることから私たちは誤りなくできないし、多くの事柄に過ちを犯す。
これらの過ちは、しばしば私たちの感情、ことば、行為についての何らかの悪いことへの機会
になりうる。その人柄を誤って受け取ることから、私たちはある人を、その人が当然受けるべき
愛をもって愛することができない。そして同じ誤りによって私たちはその人を避けたりするよう
な会話や行為に導かれることは避けられない。そのようにして先に例を挙げたものとかその他
の、この律法に反するのである。

質問 9:この見解に立てば、私たちはキリストを必要としないのではないか? 
回答: 最も潔い人であってもキリストを必要とする。彼らの預言者として、「世の光として」。な
ぜなら主は瞬間瞬間にしか彼らに光をお与えにならないからである。主が去られた瞬間、すべ
ては闇なのである。彼らはキリストを王として必要とする。なぜなら神は彼等に聖潔の蓄積を与
えられないから。彼らは毎瞬時供給を受けないなら、ただ潔くないものだけが残るのである。彼
らは彼らの祭司としてキリストを必要とする。彼らの神に関わるものごとについて贖いをするた
めに。完全な聖潔でさえイエス・キリストを通してのみ神に受け入れられるのである。 

質問 10:それでは、最も優れた人でも死に臨む殉教者の告白、「私は私の中に罪、暗闇、地
獄以外の何物もありません。しかし、あなたは私の光、私の聖潔、私の天国であります。」を言
うことにならないのか?  
回答:必ずしもそうではない。しかし最も優れた人は、「あなたは私の光、私の聖潔、私の天国
です。あなたとひとつであることによって、私は光、聖潔、幸福に満ちております。しかし、もしも
私があなたから離れたなら、私は罪、暗闇、地獄以外の何物も持ちません。」というでしょう。し
かし更に進んで述べるならば、最も優れた人々も、彼らの父に対する代弁者、イエスの死とと
りなしによってもたらされた彼らのすべての祝福の継続だけでなく、愛の律法に対する不足に
ついても、キリストを彼らの祭司、彼らの贖いとして必要とする。なぜならすべての人が、その
ように生きているからである。すべてが愛であると感じる方々は、これまで述べてきたこととあ
なたがた自身とを比較されるがよい。この秤をもってあなたがたの目方を測りなさい。そして多
くの特殊な点に欠けがないか考えなさい。

質問 11:しかし、もしキリスト者の完全がこれらすべてと一致しているなら、その完全はすべ
ての罪からの解放ではないのではないか。なぜなら「罪は律法に対する違反である」ということ
からみて、完全は彼らが正にその下にいる律法に違反しているではないか。その上、彼らはキ
リストの贖いを必要とする。彼は罪以外の何を贖われるというのか。それなのに罪のない完全
という用語は適切なのか? 
回答: それは論争に値しない。しかしどのような意味で人はキリストの贖いを必要としている
かを考察すべきである。彼らは神との新たな和解を必要としてはいない。なぜなら彼らは既に
神と和解している。彼らは神の愛顧を復活させるためには彼(キリスト)を必要としていない。し
かしそれを継続するためには必要としている。 彼は新たな赦しを必要としてはいない。しかし
「彼らのためにとりなしをするために常に生きておられ」、「聖なるものとされる人々を、一つの
ささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル10:14)のである。この適切な考察が欠けたため、あ
る人々は彼らにとってキリストの贖いが必要であることを否定した。事実、二三の人々は少し
行過ぎたが、私はそのような人々は英国に5人も見つからないだろうと思う。二つの説のどちら
かを取らなければならないなら、私は速やかに完全を放棄するであろう。しかし私たちはあの
人この人の故に完全を放棄する必要はないのである。
私の主張している完全は、「常に喜び、絶えず祈り、全てのこと感謝する愛」がその構成要素
の全部である。もし誰かがそうでない完全を主張するなら、その人々は警戒を要するのであ
る。この適切な考察が欠けたため、ある人々は彼らにとってキリストの贖いが必要であることを
否定した。 

質問 12:それではキリスト者の完全は誠実さ以上の何を意味するのか? 
回答: あなた方はその言葉によって、自惚れ、怒り、欲情、わがままを捨て、常に喜び、絶え
ず祈り、凡てのことを感謝する心に満ちた愛以外のものを意味しているかもしれない。
私は、誠実をこのような意味に用いる人はいないのではないかと疑っている。それ故、私は前
のことば(キリスト者の完全)の方がよいと思う。人は生まれつきの気質、すなわち自惚れ、怒
り、欲情、わがまま、を持ったままでも誠実でありうる。しかし彼はこれらのことはもとより、他の
すべての汚れから潔められるまで完全ではない。この点をもう少し明確にしよう。私は心を尽く
して神を愛する多くの人々を知っている。神は彼らのただ一つの望み、ただ一つの喜びであ
り、彼らは神にあって常に幸福である。彼らは隣人を自分自身のように愛する。
彼らは心から、熱心に、常にすべての人々の幸福を願い、良くても悪くても、友人でも敵対する
人でも、あたかも彼ら自身のように感じている。彼らは常に喜び、絶えず祈り、すべてのことを
感謝する。これらの魂は、聖い喜び、祈り、讃美を常に神に捧げる。これは事実である。そして
これらは明らかに、正しい、聖書的な経験である。しかしそのような魂であっても、肉体に閉じ
こめられており、それによって抑圧され、彼らは、考えること、話すこと、正確に正しく行為する
ことについて、常に自分自身を望むとおりに用いることが出来ないのである。体によりよい器
官が欠乏しているために、彼らは知識について誤ることを通して、真実に愛に欠けているので
はないにもかかわらず、彼らはしばしば誤って考え、語りあるいは行為するであろう。一方、こ
れはその欠点にも関わらず、結果としては彼らが愛の律法を満たしている例である。
この事例においてさえも、完全の律法をすべて満足するのではない。正にこの考えでは、最も
完全な人も彼らのために提供される贖いの血を必要とし、彼らの兄弟たちと同様に「私たちの
罪をお赦しください。」と言わなければならない。

質問 13:しかしもしキリストが律法を終わりとされたのであるなら、それに違反することに対し
て贖いは必要ないのではないか? 
回答: どのような意味でそれを終わりとされたかを考察されたい。そうすれば疑問は消えうせ
る。彼の死の永続的な功績がなく、また彼が絶えず私達に対する仲立ちをされていないなら、
律法はなお私たちを罪に定めるのである。それ故、私たちは律法に対する違反について絶え
ず贖いを必要としているのである。

質問 14:しかし、もし誰かが罪の性質から救われたのであるなら、誘惑されるということがあ
り得るのか? 
回答: あり得る。なぜならキリストも誘惑された。

質問 15:しかしながら、あなたが誘惑と呼ぶものを私は心の腐敗と呼んでいる。では、あなた
は誘惑と心の腐敗をどのように区別するのか? 
回答: ある場合は、聖霊の直接の証明なしには区別することが困難である。しかし通常この
ように区別する。
『だれかが私を誉める。』ここに自惚れへの誘惑がある。しかし直ちに私の魂は神の前に謙
る。そして私は何の自惚れも感じない。高慢が謙遜でないのと同様にそれは私には確かであ
る。 
『ある人が私を打つ。』ここに怒りへの誘惑がある。しかし私の心は愛で溢れている。私は全然
怒りを感じない。愛と怒りが同じものでないように、私はそれを確かめることができる。
『ある婦人が私を誘う。』ここに肉欲への誘惑がある。しかし私は直ちに退く。そして私は全然
欲求とか肉欲を感じない。私の手が冷たいか熱いかわかるのと同様に、私はそれを確かめる
ことができる。このように、もしも私が目に見えるものによって誘惑されたなら、以上のようであ
る。全く同様に、もしもそれが見えない時、悪魔は賞賛、侮辱、あるいは女を私の心に思い出
させる。その瞬間、私の魂は直ちに誘惑をはねのけ、清い愛に満たされている状態にとどま
る。私の現在の状態と、私が誘惑に会い腐敗に陥った過去の状態とを比較することによって、
その違いはより一層明白になる。 

質問16:しかし、あなたが生まれつきの心の腐敗から救われ、潔められたことを、どのようにし
て知ることができるのか。 
回答: 私が義とされたことを知っているのと別な方法で知るのでははない。「私たちは神によ
って知るのである。」他の表現では「神が私たち与えられた聖霊によって」知るのである。私た
ちはそれを聖霊の証と聖霊の実によって知るのである。
それはまず聖霊の証によって。 
私たちが義とされたとき、聖霊は私たちの霊に、私たちの罪が赦されたことを証された。それと
同様に、私たちが潔められたときに、聖霊は生まれつきの汚れが私たちから取り去られたこと
を証されるのである。 
事実潔めの証ははじめから常に明確であるのではないし(義とされたときと同様に)、後にもそ
うであるとは限らない。しかし、義とされたときと同様に、あるときには強く、あるときにはかすか
である。
そのとおり、時にはそれが消失する。 
けれども通常、聖霊の証は義とされた時と同様常にかつ明確に存在するものである。

質問 17:しかし聖潔というものが称義のように単なる関係の変化ではなく真の変化であるな
ら、どうして聖霊の証しが必要なのか? 
回答: しかし新生は単なる関係の変化だけだろうか?これは真の変化ではないのか? 
それ故、それが真の変化であるという理由で聖潔に証は必要ないとするなら、同じ理由で私た
ちが神によって生まれ、神の子であることについてもそれが必要でないことになる。 

質問 18:しかし聖潔はそれ自身の光によって照らされるのではないか? そして新生におい
ても同様ではないのか?
回答: しばしばそうである。そして聖潔についてもそうである。他にそうでないものもある。誘
惑の時、サタンは神の働きを曇らせ、殊に非常に理解力が弱い人か非常に強い人に、さまざ
まな疑いや理由を吹き込む。そのような時、先の証が絶対に必要なのである。それなしには聖
潔の働きははっきり識別できず、長く存在することができない。そのため、それが存在しなかっ
たなら、魂は神の愛のうちにとどまることができない。まして常に喜び、全てのことを感謝するこ
とはできない。それ故、これらの状況においては、私たちが潔められたという直接の証しが最
高の程度で必要である。
 
「しかし、私は罪の性質から救われた証をもっていない。けれどもそれを疑っていない。」 
結構。あなたが疑いを持たない限りそれで十分である。疑いを持った時にあなたはその証が
必要になるだろう。

質問 19:しかしどの聖書記事がそのようなことに関する記述あるいはそれを期待する理由を
与えているのか? 
回答: 「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みに
よって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。(コリントT 2:12)」である。 
さて、聖潔は確かに「神が私たちに自由に与えて下さるもの」のひとつである。 
そしてまさにこの目的で使徒が、「私たちは聖霊を受けた」というとき、すなわち「神が自由に私
たちにお与えになった」「賜物であることを私たちは知っている」ということについて、なぜこれを
除外するのが妥当であるかということについて受け入れ得る理由がない。 
よく知られた聖書の、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊ととも
に、あかししてくださいます。」(ローマ 8:16)の中に同じことが意味されているのではないか? 
聖霊は最も低い意味で神の子供たちであるこれらの人々に対してのみ証をされるというのだろ
うか?いや、最も高い意味での神の子たちに対しても同様にされる。
そして、高い意味での神の子たちには証をされないのではないのか?という点について、私た
ちがその証しがされることを疑う何の理由があるのだろうか? 
もしもこの証しが最高クラスのキリスト者のみに属するというのなら(事実多くの人がそう信じて
いるが)どうなのか? 
あなた方は、「使徒はそんな制限は設けなかった。それゆえ疑いもなくすべての神の子どもた
ちに属するのである。」と答えないだろうか?  
そうだとしたら、もし誰かが最も低いクラスの人々にのみに属すると信じていることに対しても
同じ答えで十分ではないのか? 

同様にヨハネの手紙第一5章15節の「私たちは神の子であることを知っている。」を熟考しよ
う。 
どのようにしてそれを知るのか?「私たちに与えられた聖霊によって。」である。 
いやそればかりでなく、「これによって私たちはキリストが私達のうちに住んでおられることを知
っている。」のである。 
そして、ここに意図されているもので、聖霊の実にまさる、聖書あるいは理性によるその証を除
外しなければならないいかなる根拠を私たちは持っているのだろうか? 
それから、同様にこれにもよる。「私たちが神のものであることを知っている。」そしてどんな意
味で私たちがそうなのであるかというと、私たちが赤子、若者あるいは成人であっても、まった
く同一の方法によって知るのである。 
私はすべての若者、あるいは成人がこの証を常に持っているとは断言しない。 
おそらくこのような彼らが神の子であるという証は途切れるときがあるだろう。しかしこれらの中
断は彼らがキリストの内に成長するにつれてわずかになり短くなる。そしてあるものは義とされ
ていることと潔められていることの両方の証を、全然途切れることなく持つのである。彼らが謙
って神に近く歩んだ結果それを持つのであると私は思っている。

質問 20:彼らのうちのあるものは、最後まで神から引き離されることはないという聖霊の証を
受けることはできないのだろうか? 
回答: できる人もいるかも知れない。この生も死もキリストから彼らを離れさせないという確信
は、傷つけるものから引き離し、ある状況下では極端に有益である。それ故私たちは彼らを決
して悲しむべきではない。むしろ「はじめの信仰を終わりまで固く保つように」彼らを熱心に励ま
すべきである。
 
質問 21:しかし、罪を犯すことは決してないという聖霊からのなんらかの証明を与えられない
のか? 
回答: 私たちは神が「ある特別な人々にどんな保証をお与えになるかは」分からない。しかし
私たちは通常の状態では罪に戻っていくことができない人があるという聖書の記述を見出すこ
とはできない。もしそのような状態があるとするなら、「常に喜び絶えず祈りすべてのことを感謝
しているキリストにある父たち」すなわち潔められた人々がそれに該当する人々であろう。しか
し、彼らも罪にもどることは不可能ではないのである。
彼らは潔められたが、堕落し滅んだ。(ヘブル10:29) 
キリストにある父たちさえも、「世を愛するな」(ヨハネT 2:15)との警戒を必要とする。
「喜び、祈り」「絶えず感謝する」人々でさえも「聖霊を消す」(テサロニケT 5:16以下)かもしれな
い。 
いや、「贖いの日のために封印された」人々さえも「神の聖霊を悲しませる」(エペソ4:30)かもしれ
ない。 
神は何か特別な人々にはそのような約束をお与えになるかも知れない。しかしそれは通常の
キリスト者には期待出来ないことである。聖書にはその根拠となるかあるいはそのような期待
をもたせるところの記述はないのである。

質問 22:どの「聖霊の実」によって私たちは十分に高い意味での「神のものであることを知
る」のか? 
回答:愛、喜び、平安が常に宿っていることによって、不変の辛抱強さ、忍耐、従順によって、
寛大ですべての腹立たしいことに勝つことによって、親切、温和、優しさ、霊の柔和さによって、
誠実、実直、敬虔、素直、平静、霊の平安によって、食べること眠ることだけでなく肉体的なこ
とおよび霊的なことについてのすべての物事に節制を保つことによってである。 

質問 23:しかし、これらのなかにどんな大きなことがあるのか? 私たちはこれらすべてを義
とされた時から持っているのではないか? 
回答: 自分の意志が全く混在しない神のみ心のみに対する全き服従は大きいことでないの
か? 私たちをいらだたせることに遭遇した瞬間にさえ、いかなる怒りの香りもしない寛大さは
大きいことではないのか?  
すべての自惚れを除き、神以外の被造物を少しも愛さず、神のみを愛することは大きいことで
はないのか? 
全てのうらやみ、妬み、厳しい判断を除かれた人への愛は大きいことではないのか? 魂が神
聖な平静さを保って穏やかであることは大きいことではないのか? そしてすべての物事に節
制することは大きいことではないのか?  
以上取り上げたことを否定するのは勝手だが、これらすべてを義とされただけのものがなして
いるとは言って貰いたくない。

質問 24:しかし新たに義とされたばかりのある人々にもそれができる。それではあなたは彼
らについてなんというのか? 
回答: もしも彼らが真にそうできるなら、私は彼らはその瞬間に罪の性質からすくわれ、潔め
られたと言う。そして彼らは神がお与えになったものを決して失う必要はないし、もはや罪の性
質を感じることはないであろう。 
しかし真にこれは特別な事例である。 
通常の義とされた人々はそれと異なっている。彼らは彼らの内に多少なりとも自惚れ、わがま
ま、後戻りする傾向の心情を感じる。そして、彼らがこれらのことがらを次第に抑制するまで、
彼らは十分に愛に新しくされてはいない。

質問 25:しかしこれは義とされたすべての人に当てはまる事例ではないか? 
彼らは恩寵によって罪の性質に次第に死ぬのではなくて、おそらく死の少し前に神が彼らを愛
について完全にされるのではないのか? 
回答:: これらは大部分の人の事例であると思うが全部ではない。 
通常神は人々に、義とされあるいは潔められる前に、彼らが光を受け、恩寵に成長し、神のみ
こころを行って忍耐するために十分な時間をお与えになる。しかしこれに常に固執されるので
はない。しばしば神は「み業を短縮される」のであって、多くの年月を要する業を数週間、おそ
らく一週間、一日あるいは一時間のうちになされることもある。 
神はある人々には、光と恩寵のうちに次第に成長することなしに、何かをなすとか何の悩むこ
ともなく、義としあるいは聖とされることの両方をお与えになる。 
そして「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気
前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」 
それ故聖書の本文を四十箇所も引用してなんども確かめる必要はない。多くの人々は、魂の
うちに神の漸進的な働きがあり、少なくとも何年もの長い期間の後に、罪の性質が滅ぼされ、
愛に全うされることが一般的である。 

これら全てを私たちは知っている。 
しかし同様に私たちは以下のことも知っている。人間が善く協力するなら、神は「そのお働きの
時間を短縮し」、御心のままに、通常では多年かかる業を瞬時になされるのである。 
神は非常に多くの場合にそうなされる。そしてその瞬間の前にも後にも漸進的なみ業がある。
だからある人はそのみ業が漸進的であると信じ、他の人はそれが瞬時のものであると信じる
が、双方にいかなる矛盾もないのである。  

質問 26:聖パウロは「聖霊によって印される」によって「愛に更新された」以上のことを表現し
たのか? 
回答: 恐らくある個所(コリントII 1:22)では、彼はそれ以上を意味しなかったであろう。しか
し、他の個所(エペソ 1:13)では、彼は私たちが最初に「愛に更新された」時に経験するよりも
高い程度の実と証の両方を意味した。神は「聖霊の約束をもって印し」「すべての望みの保証
を」私たちにお与えになった。それは聖霊によって私たちの心に神の姿の全体をかたどり、万
般に及ぶ聖潔によって疑いの余地を除かれるような神の約束を受ける確信を述べたのであ
る。

質問 27:しかしこのように印された人々が「神の聖霊を悲しませる」ことがどうしてできるの
か? 
回答: 聖パウロはとりわけあなた方に以下のように教えている。 
(1)有益でない、聞く人々に恵みをもたらさない不適当な会話によって。
(2)苦々しい思いと親切の欠如によって。 
(3)憤り、不機嫌の継続、穏やかな心情の欠如によって。 
(4)怒り、それがすぐに過ぎ去っても、直ちに他の人を赦すことに欠けることによって。 
(5)がみがみ言うとか大声でわめき、不快な荒々しい話し方によって。 
(6)悪いことを話し、ささやき、言いふらし、穏やかなしかたによってでも過ちをした人やそこに
いない人について不必要な言及をすることによって、聖霊を悲しませるのである。

質問28:
ロンドンで最近「愛に更新された」と思われる人々についてあなたはどう思うか? 
回答: 彼らのうちの大部分の人々の経験には、非常に注目すべきものがある。 
人は、はじめに愛に満たされ、それによって罪の性質が除かれると期待するであろうが、彼ら
はまず罪の性質が除かれ、それから愛に満たされたのである。  
恐らく神は、神の働きをより明白に、かつ否定しがたいようになされるため、そしてまたしばし
ば義とされた状態でさえも感じることができる愛が溢れることからとは、はっきり区別できるよう
に、このような方法でみ業をなされることを喜ばれるのであろう。 
同様にこの方法は、「あなたのすべての汚れからわたしはあなたを潔め、わたしはあなたに新
しい心を与え、新しい霊をあなたに注ぐ。」(エゼキエル書 36:25-26)との偉大なお約束と、最もよ
く一致しているように思われる。 
"しかし私は彼ら全部が同じであるとは思わない。ある人々と他の人々と間には大幅な差異が
存在する。" 
私は私が述べている彼らの大部分は、豊かな信仰、喜び平安を持っていると思う。 
これらのある人々は愛に更新され、そのことについての直接的な証を持っていると私は信じて
いる。彼らは先に述べたような実を、彼らのすべてのことばと行いを通して証ししている。 
さて、だれでもこれをその人が思うままに名づけるがよい。これが私が完全と呼んでいるもの
である。 
"しかしある人々は豊かな愛、平安、そして喜びを持っているけれども、聖霊の直接的な証を持
っていない。一方他のある人々はそれを持っていると考えているにもかかわらず明らかに実に
欠けている。" 
どれだけの人がそうであるか私はいえないが、おそらく十人に一人かあるいはもっと少ないで
あろう。 
"しかしある人々は辛抱強さやキリスト者の忍耐に、否定しがたい欠けを有する。
彼らは起きてくる出来事の中に神のみ手を見ないし、前向きにそれを受け入れることもしな
い。 
彼らはすべてのことに感謝しないし、常には喜ばない。 
彼らは幸福ではない。すくなくとも常には幸福ではない。なぜなら彼らはしばしば不平を言う。
彼らはこういう。これあるいはあれは困難である!と。 
ある人々は穏やかさに欠けている。 
彼らはもう一方のほほを向けることに代えて悪しきものに抵抗する。 
彼らは人の非難を穏やかに受け入れないし、小言さえも受け入れない。 
いや、彼らは少なくとも憤りを表すことなしに、反対を忍ぶことができない。 
もしかれらが叱られたり反対されたりすると、穏やかにであっても、彼らはそれをうまく用いるこ
とができない。彼らはさらに距離をおき、前にしていたとおりのことを続けるのである。 
もし彼らが厳しく非難されたり反対されたりしたなら、彼らは大声でとか怒り含んでまたは鋭くあ
るいはぶっきらぼうにとげとげしく答える。 
彼らは他の人々に対して鋭くあるいは荒々しく語る。目下の人々に荒々しく振舞う。 
ある人々は徳に欠けている。 
身分の高い人に対しても低い人に対しても、富む人に対しても貧しい人に対しても、殊に彼の
邪魔にならない人々や、彼の家族に対してその人を尊敬することがなく、彼らは魂のうちに、こ
とばに、かれらの表情や雰囲気に、彼らのすべての生活や振る舞いに、いつも親切、温和、優
しさ、友好さ、穏やかさ、愛を持っていない。 
彼らは彼らを幸福にするためのあらゆる手段によって熱望することをせず、学ばず、熱心では
ない。
彼らは不安に感じている人々を見るが、関わらない。恐らく彼らが不安にさせているにもかか
わらず。そして彼らの口をぬぐってこういう。「彼らはそれに値する。それは彼ら自身の過失
だ。」と。 
ある人々は忠実さ、真理を素晴らしいものと見ること、敬虔な誠実さに欠けている。 
彼らがいつわりなく愛することは困難であり、彼らの口にはつねに二心がある。 
心中のとげとげしさを隠すために、彼らは他の極端に走る。 
彼らは過度に滑らかに振るまうため、ある種のへつらいを避けられず、彼らはできもしないこと
をしているように見える。 
ある人々は素直さ、霊の静かさ、沈着さ、均整の取れた気性に欠けている。 
彼らは、あるときは陽気になりまたあるときは打ち沈み、彼らの心情は均整が取れておらず浮
き沈みする。 
彼らの情愛は相応の比重になっていない。彼らはある人を愛しすぎ、またある人への愛は小さ
すぎる。それらが正しく混じりあってお互いに均衡のとれた気質となっていないのである。 
それ故しばしば口論が起きる。 
彼らの魂は調子はずれで、真の調和を造りえないのである。 
ある人々は気質に欠陥がある。 
彼らは、食物が身体を健康で力があり活気のあるものに導く重要なものであることをを知って
いるし、知ることができるのに、その種類や分量を適切に取ることができない。 
あるいは彼らは眠りについて節度がない。体と心が両方とも最善であるために厳格に保つこと
をしようとしない。そうであったら彼らは一定の時間に就寝し早く起きるであろうし、それをいつ
も決まった時間にするであろう。 
あるいは体にも魂にもよくない遅い時間に食べる。
あるいは彼らは早い時間に食べたり欠食したりする。
あるいは彼らは神から来る悲しみや義が打ち立てられてもたらされる前に、刹那的な喜びや
慰めを与えてくれる(大変過度の種類の)説教や、読書や、会話を選ぶ。
そのような喜びは潔められたものではない。心を十字架につけることに傾き、終わらせるもの
ではない。
そのような信仰は神中心ではなく、むしろ自己中心である。 
以上すべては明白である。 
私はあなたがたが信仰、愛、喜び、平安を持っていると信じている。 
けれども殊にあなたがた自身各々が知っているとおり、あなたがたは前述の事柄について欠
けがある。 
あなたがたは忍耐、穏やかさ、親切に欠けている。同じく忠実、素直、節制にも欠けている。 
だから、腕力でも、ことばでも戦うことをやめようではないか。 
私たちが明確に同意することはこれである。 
あなた方は私が完全と呼ぶものを持っていない。他の人々がそれをそう呼ぶかもしれないし、
そう呼ぶであろうが。" 
しかしながら、あなたがた持っているものをしっかり保ちなさい。そして持っていないものが与え
られるように熱心に祈りなさい。

質問 29:完全にされた人々も恵みに成長できるか? 
回答: 疑いもなくできる。彼らは肉体にある時のみならず、天国においてもそうである。  

質問 30:彼ら(完全に達した人々)はそれ(完全)から落ちることができるか? 
回答: 私は彼らはそうできる可能性があることを深く信じている。このことは実例が議論の余
地を無くしている。以前、私たちは罪性から救われた人は落ちることがないと思っていたが、今
は私たちはその逆であることを知っている。最近、私たちは私が完全といっているものを全て
を経験した人々の実例に囲まれている。彼らは聖霊の実と証の両方を持っていたが、現在は
その両方を失っている。 
完全の状態であるなら当然持っていなければならない徳を何ももっていない。 
そこから落ちることを不可能にさせるほど高く、強い潔めは存在しない。 
落ちることができないということがもしあるとするなら、それは全く神の特別な約束によるのであ
る。 

質問 31:
完全の状態から落ちた人々は、再度その状態に回復され得るのか? 
回答: どうしてできないことがあろうか?
私たちはそのことについてもまたたくさんの実例を知っている。いや、彼らが潔めに堅く立つ以
前に一度ならずそれを失うのがきわめて一般的なことである。 
それ故罪の性質から救われた彼らを、すべての躓きの機会から守るために、私は以下の忠告
をする。しかしまず、私はその働き自身について平易に述べておこう。 
この神の最近のみ業は、現在地上における最大のものであると私は見る。 
すべての人がそうであるのと同様に、まだ人間の脆弱さが混ざったものではあるけれども。 
しかしこれらの弱さは予想されるものよりはるかに小さい。そして愛と義に従うことによって喜
びが生まれるのである。 
わずかの弱い、熱狂した人々がいることは、それ自身の働きを無にするものではなく、厳正な
聖潔の模範である多くのまじめな心をもっている人々を咎めるものでもない。 
いまだ(本来あるべき姿と全く正反対に)反対は大きく、助けはわずかである。 
それ故多くの人々がほかの人々の誤った熱心のために信仰と聖潔を追い求めることを妨げら
れている。それで、はじめはよく走ったある人々さえ道からそれてしまっている。 

質問 32:あなたが彼ら(潔められた人々)に与えたい第一の忠告は何か。 
[この忠告は『メソジスト協会の大多数の教師陣によって与えられた注意と道しるべ』という表
題で、1762年に発行されたものであって、以下の標語が付されている。・・『誤った証言は脇
におけ。第一に、いつまでも真理を保て』。それは明らかにジョージ・ベルと彼の友人たちの誤
った突飛な行動から人々を守ることを意図したものである。詳しい見解は当時のウェスレージ
ャーナルに掲載されている。・・編者] 
回答: 絶えず自惚れに対して警戒し祈りなさい。 
もし神がそれを投げ捨ててくださるなら、それはもはや入ってこないとわかるであろう。それは
欲望と同じく危険に満ちているのである。 
そしてそれはあなたを知らぬ間に引き戻すかもしれない。殊にそれに危険はないと思っている
場合には。 
「心配ありませんよ。だって、私はすべてが神からいただいたとしているから。」 
「そうであろう。だからこそ決して自惚れてはならない。 
なぜなら誇りは、自分自身が持っているもののみならず、真に持っていないと思っていることに
も存在するから。 
・・・たとえば、L氏はすべての光は神から与えられたと信じていた。その段階では彼は謙遜で
ある。しかし、彼は生きている他の誰よりも多くの光を持っていると思った。これは明らかに自
惚れである。 
だからあなた方はすべての知識を神から与えられたと思い、この見地からあなた方は謙遜で
なければならない。 
しかしもしあなたがたが自分が真に持っている以上のものを持っていると考えたなら、あるい
はそう神が語られたと考えたなら、もはや人間の教えは必要であると思われなくなり、自惚れ
が戸のそばに置かれている。 
そのとおり、あなた方は教えられる必要がある。それもモルガン氏、マックスフィールド氏ある
いは私によってのみならず、ロンドンの最も無名の説教者によってもである。しかり、すべての
人によって教えられる必要がある。 
なぜなら神はみ旨に従って彼らを送られるからである。それ故あなたに忠告したり咎めたりす
る人々にこう言ってはならない。「あなたは盲目だ。あなたは私を教えることはできない。」と。 
こういってはならない。「これはあなたがたの知恵であり、あなたがたの肉によるのだ」と。そう
ではなく彼らの言うものごとを静かに神の前に置きなさい。 
多くの恵みは多くの光を意味していないことを常に記憶しなさい。 
これらは常に一緒にあるのではない。 
多くの光はあるが愛はほとんどない場合があり、豊かな愛があるのに光がほとんどない場合も
ある。
心臓は目よりも暖かい。しかしそれで見ることはできない。 
神は知恵をもって体の各器官を備えられた。だからお互いに「私はあなたを必要としない」とは
言えないのである。 
罪の性質から救われたと自分で思っている人々が、自分を教えることのできる人がだれもいな
いと想像することは、非常に大きく危険な誤りである。
それに瞬時たりともところを得させてはならない。それはあなたを回復不可能な千の他の過ち
に導くであろう。 
いや、主権は恩寵の中に見いだされるのではない。近頃の狂った人々が語るように。 
「主にあってあなたの上に立つ人々に」従いなさい。そして彼らよりももっとよく知っていると思う
ことをやめなさい。 
彼らの立場とあなたがた自身の立場をわきまえなさい。多くの愛が多くの光を意味しないことを
絶えず思っていなさい。 
このことを認めないことはある人々を多くの過ちに導き、そのあらわれとして少なくとも自惚れ
にみちびかれるであろう。 
服装や所持品に注意しなさい。 
「キリストのうちにあった謙遜な心をあなたのうちに」あらせなさい。 
そして「あなたがたも同じように謙遜を着なさい」 
謙遜をもって満たすだけでなく、あなたのすべてを覆うようにしなさい。 
慎みと遠慮をあなたのすべてのことばと行動に表しなさい。 
あなたが話し行うすべてにおいて、あなた自身の目に、あなたを小さく、底辺のもので、卑しく、
低いものとして示しなさい。 
このことの一例として、自身の陥るかもしれないいかなる過ちに対しても常に備えなさい。 
たとえいつであっても、もしあなたが悪を考え、語り、あるいは行ったのであったら、それを認め
ることをためらってはならない。 
それを認めることが神を傷つける原因になるなどとは夢にも考えてはならない。いや、それは
さらに悪いことである。 
それゆえなにかについて咎められる場合に開放的かつ率直でありなさい。それを避けたり偽っ
たりする方法をさがしてはならない。そうではなくそれをありのままに明らかにしなさい。それに
よって福音は隠されるのではなく崇められるであろう。」 

質問 33:あなたがたが彼らに与えたい第二の忠告は何か? 
回答: 自惚れの娘である熱狂に注意しなさい。 
そうです。それから最大限の距離を保ちなさい。 
熱狂した想像に全く所を得させないようにしなさい。 
はやまって物事を神のせいにしてはならない。 
夢、声、印象、幻あるいは黙示を神からのものであると簡単に想像してはならない。 
それらは神からのものかも知れない。 
それらは自然からのものかも知れない。 
それらは悪霊からのものかも知れない。 
それ故「それらが神のものかどうか確かめずに、すべての霊を信じてはいけない。」 
物事すべてを書かれた聖書のことばによって試し、すべてを聖書に従わせなさい。 
もしあなた方がわずかでも聖書から離れたなら、その通り、率直に文脈に従って書かれてある
通りの意味から離れたなら、あなた方は常に熱狂の危険の中にいるのである。 
もしあなた方が、理性、知識、あるいは人的な学びを軽視したり軽いものと見なしたなら、あな
た方は熱狂の中にいるのである。これらはいずれも優れた神の賜物であって、最も高貴な目
的で用いられるのである。 
私はあなた方に、ことば、賢さ、思考力、知識を、決して非難しないよう勧告する。 
反対にあなた方自身がそれらに益々富む者とされるように祈りなさい。 
もしあなたがたがこの世の知恵、無益な知識、誤った論理を意味してそう言うのであれば、そ
の通りに言いなさい。そして籾殻は捨てよ、だが麦は捨てるな、である。 
通常の熱狂の入り口のひとつは、手段を抜きにして結果を期待する点である。例えば聖書を
研究することなく知識を期待し、神の子らの指導者になろうとする、あるいは常に祈り、絶えず
警戒することなく霊的な力を期待する、あらゆる機会を捉えて神のことばを聞くことなしに祝福
を期待する。 
あるものたちはサタンの武器に無知であった。
彼らは聖書の研究をなおざりにした。 
彼らはこういう、「神は私の心に聖書をすべて書かれた。 
それ故、私は聖書を読む必要がない。」と。 
ほかの人々は、そんなに聞く必要はないと考え、朝の説教に出席することに熱心でなくなる。 
警戒せよ、自分もそうだと気づいた人は。 
あなた方は異なる声を聞いているのだ。 
キリストに飛んで帰れ。そして古き善き道を保て。それが「かつて聖徒たちに与えられた道」で
ある。その道は異教徒にも「キリスト教徒は毎朝早く起き出でて神であるキリストに讃美する。」
と証させたものである。 
「恵みに成長する」という正にその望みがしばしば熱狂への入り口になる。 
それは私たちを絶えず新しい恵みを求めることに導くために、私たちが何か新しいことを見い
だすことに対する警戒心を薄れさせることに導き、神への愛の新しい段階からはずれさせるの
である。そこで新しい心につづいて新しい種類の賜物を受け取ったとかということを探し求めあ
るいは興味をもつことに導く。例えば、 
(1) 心を尽くして神を愛すること。 
(2) 精神を尽くして神を愛すること。 
(3) 力を尽くして神を愛すること 。
(4) 神と一つにされること 。
(5) キリストと一つにされること。 
(6) 私たちのいのちは神のうちにキリストと共に隠されている。 
(7) キリストと共に死んだものである。 
(8) キリストと共に甦ったものである。 
(9) 天のところにキリストと共に座している。 
(10) キリストの王座に引き上げられている 。
(11) 新しいエルサレムにいる。 
(12) 神の幕屋が人々の間に下るのを見る。 
(13) すべての行いに死んだものである。 
(14) 死、苦痛、嘆き、あるいは誘惑のないものとされている。 
これらの多くの誤りの原因のひとつは、誤りをするすべての人々が、なにかこれらの聖書のこ
とばが心につよい感動を与えたと受け取り、それが新しい種類の賜物と思うことであって、これ
らの聖書のことばの多くはまだ成就していないし、残りは私たちが義とされた時に、あるいは潔
められた時に成就している。 
成就されていないものは、さらに高い程度の経験のために残されているのである。 
これが私たちが期待しうるすべてである。 
これら並びに千の誤りに関する他の根底は、愛が神の最高の賜物であることを深く考えないこ
とであって、愛は謙遜、柔和、忍耐、愛である。
すべての幻、黙示、兆し、などなんでも愛に比べれば小さいものに過ぎない。そして上記のす
べての賜物は、愛に比べて限りなく下位のものなのである。 
この「諸天の天は愛である。」ということばをあなたがたが完全に理解できればよかろう。 
宗教において他の何ものもこれより高いものはない。もしあなたがたが愛以上の何かを探し求
めるなら、あなたがたは王道から反れて、広い道を探しに行くのである。 
そしてあなた方が他の人々に、「あなたがたはこの恵み、あるいはあの恵みをいただきました
か?」と尋ねるとき、もしあなたがたの意味することが愛以外の何かであるなら、あなたがたは
彼らを道を踏み外すよう導いているのであって、彼らに誤った手がかりを与えているのであ
る。 
それ故神があなた方をすべての罪の性質から救われた瞬間から、あなた方はもはやコリント
人への手紙第十三章に書かれている愛以外の何ものをも目的としないことを心に決めなさ
い。(コリントT 13章) 
あなた方は、あなた方がアブラハムのふところに携えられるまで、これよりも高いところに行け
ることはない。 
また私は繰り返して言う。熱狂に気をつけなさい。 
予言の賜物とか霊の洞察力を持ったと想像すること、あなたがたのひとりがそれを持ったと私
は信じないが、このようなものは与えられないし、これまでにもなかった。
あなただけの感じ方で誰かを正しいとか誤っているとか判断することに気をつけなさい。これは
聖書的な判断方法ではない。「律法と証」に近くありなさい。 

質問 34:第三の忠告はなにか? 
回答:無律法主義、あるいはそのいかなる部分をもを警戒しなさい。
それは「信仰によって」と称して「律法を虚しくする」のである。 
熱狂は自然にこれに導くものである。事実この二つは引き離すことが困難である。 
これは千の形をもってあなたがたに近づいてくるであろう。そこでそれに対してあなた方が警戒
しすぎるなどということはない。 
原理でも行いでも熱狂に傾くすべてのことがらに気をつけなさい。 
もしも彼が道徳的な律法のすべてを愛の律法に継ぎ合わされたのであるということを考慮しな
いならば、「キリストは律法の終わりとなられた。」という偉大な真理でさえ、私たちを熱狂に導く
かも知れない。
次のような考えに警戒しなさい。「私は愛に満たされたから、もうこれ以上潔めは必要がない。
私は絶えず祈っているから、祈りのための特別な時間を設ける必要はない。
私は絶えず警戒しているから、特に反省のときを持つ必要はない。」
「律法を高く掲げ」、すべての書かれていることばを「尊ぶべきもの」としようではないか。
これらのことばを私たちの声としようではないか。
「私はあなたの戒めを金よりも宝石よりも高く値づもります。私はなんとあなたの律法を愛して
いることでしょうか! 私は一日中その中に学びます。」 
律法廃棄論者の書物に警戒しなさい。ことにクリスブ博士とソルトマーシュ氏の著作に。
それらは多くのすぐれた事柄を含んでいる。このことがそれらをいっそう危険なものにしている
のである。 
時間に気をつけなさい。 
火をもてあそんではならない。
コカトリス(おんどりの卵から生まれ、 頭と足と羽はニワトリ, 胴体と尾はヘビで、 ひとにらみで
人を殺したといわれる伝説上の怪物)の穴に手を入れてはならない。 
私はあなたがたに、偏見に気をつけるようお願いする。 
あなたがたの愛とか慈善を、いわゆるメソジストと呼ばれる人々のみに、更に少数である愛に
更新された人々とか、あるいはあなたがたと彼らの報告を信じた人々に限定してはならない。
これをあなたのシボレテ (士師記 19:6 'シ'を発音できなかったエフライム人をギルアデ人と区
別するために用いた言葉−訳者註)にしてはならない。 
悪い考え方によってあなた方自身の業をやめさせる静寂主義に気をつけなさい。 
あなたがたは心にとめておきなさい。静寂主義者は言う。
「あなたがたは恵みを受けた。それは大いなる恵みである。しかしあなたがたがそれについて
語り、あれこれといった行いをし始めると、あなたがたはそれを失ってしまうのである。
あなたがたは静かにしているべきである。」と。
 
放縦に警戒しなさい。その通り、それは日々十字架を負うこと、断食や禁酒といった自己否定
を嘲るようにさせるものである。
 
そしりに警戒しなさい。判断であれ行いであれいかなることであってもあなた方に反対する人々
を、盲目であるとか、死んでいるとか、堕落しているとか、あるいは「働きの敵」であるなどと言
ってはならない。
 
もう一度言う。唯信仰主義に警戒しなさい。彼らは、より霊的な道を語る人々を無知だとか律
法主義だとかと非難するのである。 
確かにある期間は悔い改めあるいは信仰、また同様に潔め以外何も取り扱わないことが正し
いかもしれない。しかし一般的には私たちの使命は、「神のみ心と、信仰の一致に適う預言」の
全体を告げることである。 
書かれたことば(聖書)は義に関するすべての特殊な枝も、たとえばすべての人の徳である真
面目さ、親切、勤勉さ、忍耐深さといった最も小さい枝々をも取り扱っている。 
従って、同様に、聖霊は私たちの心の中に働かれ、単に通常の潔めに続く望みだけでなく、す
べての特別な賜物に対する強い願望を与え、「おおよそ愛すべき」すべての個々の部分へと私
たちを導かれるのである。それを最も適切になされるのである。
「信仰は行いによって全うされ」(ヤコブ 2:22)るとあるとおり、信仰の働きが完成されたり、ある
いは破壊されたり、神の恵みを喜んだり、神のご不興を買ったりするが、それはまったく、それ
ぞれすべてが服従か不服従かのひとつの行いによるのである。 

質問 35:第四の忠告はなにか? 
回答: 怠慢の罪に警戒しなさい。どんな種類の善であってもそれをなす機会を失ってはならな
い。 
よい働きに熱心でありなさい。敬虔とか慈しみとかのどちらであってもその業を意図して行わな
いことのないようにしなさい。 
誰かの体と魂のためにあなた方がなし得る限りの善を行いなさい。 
殊に「あなたがたはどんな点についても隣人を戒め、その人の故に罪に陥らないようにしなさ
い。」 

積極的でありなさい。
無為あるいは怠惰に処を得させないようにしなさい。「あなた方は怠け者だ、あなた方は怠け
者だ」と言わせる機会を与えないようにしなさい。 
多くの人がそのように静かにしていなさいと言うであろう。しかしあなたがの全霊と振る舞いに
よって悪口を論破しなさい。 
絶えず働いているものでありなさい。細切れの時間をも失わないように、パンくずを集めなさ
い。無駄になるものがないように。 
何でもあなたの手がなすべきことを見いだしたなら、力を尽くしてそれをしなさい。 

「語るのに遅く」、会話に慎重でありなさい。 
「言葉数が多ければ罪を免れ得ない」のである。 
多く、あるいは一時に長時間語ってはいけない。 
有益な会話を一時間以上続けることができる人はほとんどいない。 
敬虔を装った雑談や、宗教上のうわさ話から最大限の距離を保ちなさい。

質問 36: 第五の忠告はなにか? 
回答: 神以外のものを望むことに警戒しなさい。 
現時点ではあなた方は他のものを望んでいない。すべての他の望みを駆逐し、再びなにも入り
込まないように見張りなさい。 
「自らを清く保ちなさい」あなたがたの「目」を「一つにしておきなさい。そうすればあなたがたの
全身が明るいであろう。」 
食物の嗜好あるいは他の五感を楽しませる欲望、大きいこと、新しいこと、あるいは美しいこと
によって目や想像を楽しませる欲望、富、賞賛、名誉、またいかなる被造物による幸福をも許
容してはならない。 
これらの欲望があなた方に返ってくるかも知れないが、あなたがたはもはやそれを必要として
はいない。あなた方はもはやそれらを感じる必要がないのである。 
キリストがあなたがたを自由にしたその自由に堅く立ちなさい。 
己を否定し日々自分の十字架を取り上げることを、すべての行動の決まり切った様式とならせ
なさい。 
その楽しみがあなた方を神に近づかせないものであるなら、あなたがたはいかなる楽しみも、
あなたがたを神に近づけるものであるならいかなる苦痛をも、けっして考慮に入れないことを、
彼らに分からせなさい。 
楽しむことであれ、苦痛を忍ぶことであれ、神をお喜ばせすることをただひとつの目的としなさ
い。 
楽しみあるいは苦痛、誉れあるは不名誉、富あるいは貧困にも、
  「すべては私にとって同じである
   私は主のうちにあって生き
   主にあって死んでいる」
のであると、あなたがたの心に定めていなさい。 

質問 35: 第六の忠告は何か? 
回答:キリストの教会の中に裂け目をつくる分裂に警戒しなさい。 
内輪もめは兄弟たちの間に「ひとつの器官が他の器官のために」(コリントI 12:25)相互の愛を持
つことをやめさせるものであって、正にすべての争いとすべての外的分裂との源である。
それに傾くすべてのことに警戒しなさい。 
霊を分割するものを警戒しなさい。その道をわずかでも示唆するものはなんでも避けなさい。
それ故、「私はパウロにあるいはアポロに属するものだ」と言ってはならない。正にこのことが
コリント教会が分裂した原因であった。 
「これは私の説教者だ。英国の最大の説教者だ。私に彼を与えよ。他の説教者は去れ。」と言
ってはならない。 
これらすべては分裂を生み出したり助長したり、神が加えられた人々を離れさせる傾向があ
る。 
どんな説教者をも軽蔑したりけなしたりしてはならない。あなたが彼と神のことの双方を傷つけ
ることのないように、いかなる人をも実際以上に賞賛してはならない。 
一方、道理に合わないとか不正確な表現が原因で厳しさを生み出さないように、あるいは何か
の誤りで彼らの本当の姿と違って受け取ってはならない。 
同様に、あなた方が分裂を避けようと思うなら、教団や伝道隊のすべての規則を良心のため
によく観察しなさい。 
あなたがたの組や隊の会合を決して欠席してはいけない。公的な会合を決して欠席してはなら
ない。 
これらは私たちの組会にとって正に力の源なのであって、私たちのこれらに対する見識、ある
いはそれらに欠けなく出席することを弱めるものはなんでも、あるいは弱める傾向のあるもの
は、私たちの社会の根幹を揺るがすものである。 
ある人はこう云った。
「私たちの有機的統一の一部である個人的な週毎の祈りの会合、吟味、特別な奨励はすべて
の説教のことばから受け取ることのできる祝福を深め、堅くする最大の手段であって、公の集
会に出席できなかったり、宗教的な交わりの中にいなかった他の人々にそれを分かち与える
手段となっている。この宗教的つながりや交わりなしには、最大の熱意をもってなす試みも、単
なる説教のみによるだけでは永続する効果が得られないことが証明されている。」
彼らの意見があなた方のそれと一致してもしなくても、あなた方の兄弟たちと別れようと考えて
はいけない。あなた方を信じないで、あなたがたのことばを受け入れないからと云って誰かが
罪を犯していると夢見てはいけない。あるいはその意見が働きに必須のものであって、両方が
立つか倒れるかするようなことであっても。
反対意見に対して短気であることに警戒しなさい。 
大きいことであっても小さいことであっても、あなたがたが見ている通りにみなかったり、あなた
がたに反対の判断をする人々を、非難したり厳しく考えたりしてはいけない。 
私は私たちの内のある者たちが、単に彼らが私たちが信じていることに反対しているというだ
けで、他の人々を厳しく考えたのではないかと心配している。 
この種のすべてのことによって分裂させる傾向があるこれら全てを、私たちはそれがよくないこ
とだと私たち自身に教えている。 
神経質であること、怒りっぽいこと、人に何か言われることを我慢できないことに警戒しなさい。
ことばを最小にしなさい。そして自分や他の人の言うことを受け入れ無い人々から遠ざかるこ
とを警戒しなさい。 
様々な種類の十字架と共に、反駁と敵対があることを予想しなさい。 
聖パウロの以下のことばを考えなさい。 
「それはキリストのうちにあってあなたがたに与えられている。」 
・・かれの故に、彼の死とあなた方のための贖いの実として、・・ 
「彼を信じるのみでなく、彼のために苦しむことも与えられた。」のである。それは(ピリピ 1:29)
にある。神があなたがたにこの反対や非難をお与えになった。それが、彼の愛を新鮮に語る
のである。
あなたがたは与え主を自分のものでないとし、あるいは彼の賜うものを粗末に扱い、不幸であ
ると計算するのだろうか? 
むしろこう言わないのか、「父よ。あなたが栄光をお受けになる時がきました。今、あなたの子
にあなたのためにこの苦しみをお与えになります。あなたの御心のようにこの身になりますよう
に。」と。 
これらのことは、あなたがた自身の過失が原因でない限り、神あるいはあなた方の魂の働きを
妨げるものから遙かに遠いものであって、摂理の道にあって不可避であるばかりではなく、む
しろ適したものであり、その通り、あなたがたに必要なものであることを知っておきなさい。 
それ故、それらを(偶然ではなく)神からのものとして喜び、感謝して受けなさい。 
それらを人々から、謙遜、柔和、服従、親切、優しさをもって受けなさい。 
なぜあなたがたの外見としぐささえ柔らかにできないのだろうか? 
カッツ夫人のことを思い出しなさい。 
「ローマ皇帝テトスはこう言われている。不興である彼に会った人はいない。しかし彼女につい
てはこう言われている。彼女のもとに喜びを持たないで出かけた人はいない。なぜならすべて
の人が彼女に会うとき喜びを持って迎えられることを知っていたから。」
 
他の人々をあなた方から引き離す誘惑に警戒しなさい。 
可能な限り人を怒らせることを避けなさい。あなたの行いが、私たちの救い主である神の教え
を崇める、あなたの業すべてのことに相応しくあるか検討しなさい。
殊にあなたがた自身の語ることに注意深くありなさい。事実あなたがたが神の業を否定しなく
ても、それを語り、なおその上に敵対的な振る舞いであることもありうるのである。 
完全、潔め、第二の恩寵、あるいは到達したものについて、すべての尊大でもったいぶったこ
とばを避けなさい。あなたがたは一般的な名でそれを言う必要がある。 
むしろあなた方のために神が業をなされた特殊のことであると語りなさい。 
あなたがたはこう言うかも知れない。「その時私は表現できない変化を感じた。そしてその時以
来、私は誇りを感じないし、自我も、怒りも、不信も感じないし、すべて神とすべての人への愛
に満ちている。」 
そして他の人々の率直な質問に対する答えとして、謙虚で明白に答えるがよい。 
そしてもしあなたがたの誰でもいつでも今のあなたがたの状態から落ちた場合、あるいは傲
慢、不信あるいは現在救われている何かの気質が再び感じられた場合、否定してはいけない
し、隠してはいけないし、それを全く偽装してもいけない。それをするとあなたの魂に危険なの
である。すべての出来事はあなたがたが本当にそうだと思う一つに帰する。そのあなたが感じ
ることを話しなさい。 
神は折りに適って語られることばを尊ばれる。それがあなたがたの魂を健康にさせるのであ
る。 
確かに神はあなたがたの頭をふたたび上げさせ、あなたがたの砕かれた骨々を喜ばせられる
であろう。 

質問 38:あなたが彼らに与えようと思う最後の助言は何か? 
回答: すべてのことに模範でありなさい。 
殊に(例えば服装のような)外的なことに、小さなことがらにも、お金の使い方にも(すべての不
必要な浪費を避け)、内的なことにおいても堅く真摯さを保ち、あなたのすべての会話を堅実で
有益なものとしなさい。 
そうすればあなたは「暗いところで輝く明かり」となるであろう。 
そしてあなたがたは「私たちの主イエス・キリストの永遠の王国に入るために、あなた方に対し
て豊かに準備されている入り口に至る」まで、日々「恵みに成長する」であろう。 
前述の助言の大部分は、以下の思想の中に力強く説明されているはずであるから、あなたが
たがそれらを聖書に次いで深く頻繁に考察することをお勧めする。
 
(1)海は、神つまり恵みのみ霊の満たしを顕わす優れたひな形である。 
なぜならすべての川は海に注ぐように、肉体も魂も義のよい業もすべて神に帰り、そこで神の
永遠の安息に生きるのである。 
神の恵みのすべては、ひとえに神の賜物なのであるけれども、神は通常それらを、祈り、戒め
を守ること、そして私たちのうちにある聖潔によってお与えになるのである。 
眼には見えないけれども強い引きつける力によって、神はある人々を他の人々との霊的交わ
りによって引きつけなさる。 
恵みによって造り出される共感は、生まれつきの性質から造り出されるものより遥かに勝る。
 
真の敬虔は、本心から自然に流れ出るものであるが、偽りの愛である情熱からでるものも同じ
ように見えることがある。そのため、神のために愛する人々の善いことと悪いことについて、彼
らは非常に敏感である。
しかしこれは愛のことばを理解した人々によってのみ理解されるのである。 
私たちの外側は多くの困難の中にある時でさえも、魂の奥底は平安である。 
ちょうど表面が強く波立っていても、海の底は静かであるように。 
恵みに成長するための最善の助けは、私たちに降りかかる不当な扱い、侮辱、損失などであ
る。 
他の望ましいすべてのことと同様に、私たちはそれらすべてを感謝して受けるべきであるという
ことは、・・・その中に私たちの意志は含まれていない・・・からである。 
私たちの苦しみから逃れるための最も速い方法は、それらを神の喜びなさる限り長く喜んで堪
え忍ぶことである。 
もし私たちが迫害を受け、正しい振る舞いの故に悩みを受けたなら、それらの機会のひとつに
よる改善の働きによって、私たちは私たちが多くのよい行いをなしキリストの優しさに倣うこと
によって達することができるものに勝ってキリストとの一致に大幅に達しているのである。 
神が神を愛するこれらの人々を愛している最大の証拠のひとつは、それを進んで忍ぶように
彼らに悩みを送られることである。
最大の悩みの中にあってさえも、私たちは、神のみ手からそれらを受ける中に、私たちを愛し
てくださり私たちが愛しているお方によって悩みを受けて、私たちは苦痛の中にも喜びを感じる
のであることを神に証すべきである。
神がご自身のもとにある人を引き寄せなさる最も速い方法は、彼が最も愛するものについて、
善いという理由で、彼を悩ませることであって、この悩みは彼になにかよい対応を起こさせるも
のである。 
一つの目で、なぜならばこの世の中で最も愛し望んだものが彼にとって虚しいものとなったこと
以上にはっきりと彼に示すことができるものはないからである。

(2)真の自己放棄は、神のご意志に完全に一致することによるのである。神はこの世に起きる
(罪を除く)すべてのことを意志し実行されている。
従って、私たちはひたすら、善いことであっても悪いことであっても、すべてのできごとを主のみ
こころとして受け入れるべきである。 
それが天からのものであってもこの世からのものであっても、正しい者に降りかかる大きな悩
みの中でも、彼らの内は平安で動かされることなくひたすら神を愛し、たましいのすべての力を
ひとつに束ねて完全に神に従うのである。 
私たちは、私たちに降りかかることがなんであっても、他の人あるいは自分自身の欠点を忍ぶ
ことであっても、それらを秘かな祈りあるいは言い表すことができないうめきを持って神に告白
し、鋭くあるいはすねたことばを話したり、不平を呟いたり愚痴をこぼすことを決してせず、神
が喜ばれる方法であなた方をお取り扱いになることに全くお従いして、静かにそれを忍ぶべき
である。私たちは主の子羊であり、それ故不平を唱えることなく、死に至るまで忍ぶ備えをすべ
きである。
私たちは私たちが改めることのできない事柄を忍び、それらを神に捧げて満足すべきであ
る。 
これが真の自己放棄である。 
主は私たちと同じ弱さをもってお生まれになられたのであるから、私たちは主の故にお互いの
弱さをよく忍ばなければならない。 
イエス・キリストを探し求め彼に続くために、すべてを放棄し、自分につけるものすべてを脱ぎ
去り、かれがお生まれになったベツレヘムへ、彼がむち打たれた広間へ、彼が十字架上で死
なれたカルバリへ、その十字架は大いなる憐れみであったが、なにかから与えられる物でも知
識でもなく、ただ神の御子に対する信仰を通して、裸で従って行くべきである。 
 
(3)忍耐なしに神の愛はない。 
そして魂の謙遜と穏和さのない忍耐はない。
謙遜と忍耐は愛のまし加わる最も確かな証明である。 
謙遜のみが愛を伴った忍耐の要素である。
それなしに苦しみへの適応を描くことは不可能である。 
事実不平を言わず、殊に私たちを悩ます人々には機会を与えまいと私たちは思うのである。 
真の謙遜は自己放棄の一種であって、これこそが敬虔の要である。 
神に帰った魂は、彼に対して語られる救いの主題に関するすべての事柄に、それに対して適
合することを望み、注意深くあるべきである。 
神がお赦しになった罪を、より深い心の中の謙遜とより厳格に私たちのことばと行いと悩みを
正すこと以外には何も残さないようにしなさい。 

(4)柔和と沈黙とのうちに人を担い、悪を忍ぶことは、キリスト者人生の総計である。 
神は私たちの愛の第一の対象である。 
その次の任務は他の人々の欠点を忍ぶことである。 
そして私たちはこれを自分の家族の中に実行することから始めなければならない。 
私たちは、私たちの考え方、気質、知識、あるいは私たちが持っている願望などが最も影響を
及ぼす彼らに対する愛をまず訓練すべきであって、それが私たち自身がそうであることを望む
ものと同じ徳を彼らに持たせるのである。
 
 (5)もし単に一度だけでなく多くの回数、機会あるごとに祈らないならば、恩寵に建てあげられ
た人々に対してさえも神はご自身の聖霊をほとんどお与えにならない。 
神は祈りの答えとしででないならば何事もなさらない。彼ら自身が祈らないのに神に対して回
心することが出来た人々(このようなことは極めてまれなことであるが)があったとしても、それ
はだれか他の人が祈ったのである。 
魂を獲得するすべての新しい勝利は、新しく祈った結果なのである。 
不安な状況であるすべての機会に、私たちは祈りのために他の業を止めるべきである。祈り
が成功するか否かを思い煩わず祈ることによって、私たちは神の恵と光に所を得させることが
できる。 
最大の誘惑の中でキリストのみを見ること、そして彼の名を明確に唱えることは悪い者の襲撃
に対し十分に応えるものである。 すなわちそれは信頼と霊の静かさを与えるのである。 
「絶えず祈りなさい。」との神のご命令は、私たちが魂の中に神のいのちを保つ恵みを保つこと
に対する必要性に基づいている。体が空気無しには一瞬たりとも生きることができないのと同
様に、神のいのちは祈りなしには存在できないのである。 
私たちが神の愛と神をお喜ばせすること以外を望まないときでも、私たちが神について考えあ
るいは神と話すかどうか、あるいは彼のために業をなしあるいは苦しむかどうかは、すべて祈
りにかかっている。 
キリスト者の行為は、それが食べることであれ眠ることであれ、それが神のご命令に従って、
他のものを加えることなく単一に行われ、彼自身の選択によって神のご命令を省略することが
なければ、すべてが祈りである。 
理解力は外見のことがらを判断するために用いられるが、祈りは心の望みを絶えず保たせる
のである。 
愛で満たされた魂の内には、神をお喜ばせしたいとの願いが絶えることのない祈りとなる。 
悪魔が私たち対して抱いている激怒は、吠える獅子に例えられ、私たちの熱烈な愛は神に従
う叫びに例えられる。 
神は成長した神の子らに、彼らの心が真に清くされていることを求められる。そして彼らは完
全な愛から自然にわき出る絶えることのない願いと誓願を捧げるのである。 
なぜならこれらの願いは、純粋な愛の実であって、清められた心からわき出した最も完全な祈
りなのである。
 
(6)神が彼に従ってくる人々をまっすぐな道に導かれることは想像に難くない。 
私たちの神に対する信仰が不足しているにもかかわらずそうされるのだから、私たちはいかに
神に依存していることであろうか。 
非常に小さな事柄が、神の前にいかに重大な結果を招くかは信じることが困難なほどである。
軽微な過失に見えるこれらの事柄がしばしば多くの不都合を生じる。
非常に小さなゴミが時計を狂わせるように、あるいは微少な砂が私たちの目を遮るように、心
にある最小の罪の粒も神への正しい行動を妨げるのである。
私たちは教会で天国にいる聖徒たちと同じようにするのが当然である。そして家庭でも教会の
最も潔い人々と同じようでなければならない。家の仕事をするときも私たちが教会で祈るのと
同じようにしなければならない。神を礼拝することは心の根底からなされるべきである。
私たちは私たちを取り巻いている無用の事を切り捨てるよう絶えず働くべきである。通常、神
は私たちの魂のよけいな部分を、体がそれらになすのに比例して取り除かれる。 
悪魔に対抗し、私たちの中に残されているこの世のものを破壊する最善の手段は、神のため
に立ち上がり、この世のものを破壊したものの跡に、愛をもってすべてのものを建てあげること
である。 
その次に私たちはこのつかの間の生涯の中で、永遠に神を愛することをし始めなければなら
ない。 
私たちの友情の中で最も大切な人々が死によって私たちから彼らが引き離されるまで、いか
に正当なものを神から奪っているか、私たちはめったに思いつかない。 
もしそれが失われたことがながく続く悲しみをもたらすなら、私たちが二つの宝を所有していた
明確な証拠である。 

(7)全てを捨てた後でも、もし絶えず警戒しないなら、そして私たちのその警戒を神が一緒に行
ってくださることを神に嘆願しないなら、私たちは再び陥れられ打ち負かされるであろう。 
最も危険な風が小さなすきまから入ってくるかも知れないように、悪魔は恐ろしい様子で入って
くることは決してなく、小さな目にとまらない出来事によってやってくるのである。その小さな出
来事は何でもないように見えるが、気づかないうちに心の大きな誘惑となるのである。
いつでも、まるで私たちがこれまでにそれを全くなしたことがないかのように、私たちの魂の状
態を厳重に点検することによって、自らを新しくすることはよいことである。救いの十分な確証
にとって、謙遜のうちにこの方法で自分自身を保ち、すべてのよい業を実践することにまさるも
のはない。 
絶え間なく続く警戒と祈りが、絶え間なく行われる働きに加えられなければならない。 
なぜなら恩寵が去ると自然界におけると同じように真空となり、悪魔は神が満ちていないところ
はどこでも満たすのである。 
魂の導き手と彼に導かれる人との間に当然あるほどの信頼関係は他にない。 
彼らは神にあってお互いを観察しあい、そして彼らの考えることすべてが純潔であるかどうか、
彼らのことばのすべてがキリスト者の慎みに沿っているか、綿密に彼ら自身に問うべきであ
る。 
他のことは単に人間に関することである。
しかし、これらは神のことである。

(8)聖パウロのことば「聖霊によらないでは、だれもイエスを主と呼ぶことができない。」は私た
ちに、私たちの善い業、私たちの最短の間の思考にさえも神を見上げている必要性を示して
おり、主が私たちにおられ主によって造られたものを除いてはだれも主を喜ぶことができない
のである。 
それ故私たちは、聖霊が私たちの舌、手、心を用いることなしには、神に仕えることはできない
ことを知るのである。主が私たちにさせなさることは何でも、主ご自身により主の霊によってな
されているのである。 
もし私たちが完全に無能でないのであったなら、私たちの善い業は私たち自身のものであろ
う。ところが今やそれらは主と主の恩寵に由来するのであるから、それらは完全に神に所属し
ているのである。 
一方、聖霊は、私たちの働きを起こし、それらを神のものとなし、それらを通して私たちのうち
におられるご自身に栄光をお与えになるのである。 
宗教の主要な規律の一つは、神に仕える機会を失わないようにすることである。 
そして、神は私たちの目には見えないから、私たちは私たちの隣人に仕えるのである。 
私たちの前に目に見える姿で立っているその人に、あたかも彼自身がうけたようにするのであ
る。 
神は気まぐれな人物や、途切れ途切れに善い業をなす人物を愛されない。 
ご自身の不変性に似ているもの以外に、神をお喜ばせするものはない。 
神が私たちにお委ねになっている働きへの不変の注目こそ、私たちが堅く敬虔に立っている
印である。 

愛はなし得る時には断食をする。そしてなし得る限り繰り返し断食する。 
愛は神のすべての礼典に導き、なし得る限りの外的な良い業をさせるのである。 
あたかもエリヤが平原を越えていったように、愛は聖なる山で神を見いださせるために飛ぶの
である。
神は偉大なお方であって、神に仕えるためになされた最小のことすらも、偉大なものと見てくだ
さるのである。 

善い業を成し遂げたために病んだ人々、そのとおり、命を失った人々は幸いである。 
神は、他の魂の回心のために神の子たちがなしたことを頻繁に隠される。 
しかし、このように言ってもよいであろう。誰かの回心のために神の前に長い間苦祷した人は、
彼の祈った人がいつ神の前に回心したとしても、彼の祈りがその人の回心に至った主要な原
因の一つであると。 

慈善は以下のことなしには正しく行われ得ない。第一に、神が与えてくださる機会にそれをなす
こと、そして第二に、それをなしたら直ちに退いて、へりくだった感謝をもってそれを神にお返し
することである。 
これは次の理由のためである。 
第一に、神から受けたものを神に明け渡すために。 
第二に、これらの、正にその善い業からわき出る誘惑の危険をさけるために。 
そして第三に、私たち自身を神に結びつけるために。
神にあって魂は祈りのうちに翼を広げ、善い業を私たちはなすことができる。もし私たちが神
がこれらの毒に対して備えてくださった解毒剤を使用しないなら正にその善い業が私たちの中
に悪い影響を引き起こすのであるから、祈りによってそれに対抗できる新しい力を神から引き
出すのである。 
恵みの富で新たに満たされる真の手段は、このようにして私たち自身を善き業から離すことで
ある。このことなしには善い業の実行に僅かに生長することも極めて困難である。 
善き業は、それが神の内に完全に見失われたものとなるまで、最後まで完成されたものとは
受けとられないのである。 
これは彼らにとってはある種の死であり、私たちの肉体に似て、肉体が私たちの魂、いやむし
ろ神の内に失われるまで、高い生涯、その不滅に至ることがないように、彼らが栄光のうちに
己につく魂を失い、神によるものをもって満たされるとき、はじめてそれが満たされるのであ
る。 
善い業がこの霊的死によって失うものは、地上のもの、滅ぶべきものに過ぎない。 
火は愛の象徴である。神の愛は私たちのすべての善い業の要因であり終わりである。 
しかし実物は絵に優る。神聖な愛の炎は物質的な火に優る。善い業がその源である神のもと
に立ち昇るとき、すべての善い業をさらに生み出すのである。 
そうすることによって、傲慢、虚栄心、あるいは種々の悪い感情の交錯によって彼らが破滅さ
せられることを防ぐことができる。 
このことは、これらの善い業を深い満足をもって魂を深淵に沈めることによって、霊的に神の
内に死ななければ完成されない。
そうすることによって、それに起因するすべての恵みと業は、それ自身を空しくするように見え
る。
川が自身の水を海に注ぎ、自らは喜んで空になるように彼の源に帰ることができるように、私
たちが神から何かの誉れを受けた時、私たちの小部屋の中にではないにしても、心の中に退
くべきである。そしてこう言いなさい。
「主よ。私は来ました。あなたが下さったものをお返しするために。そして私は無条件でそれ放
棄します。再び私が無に帰するために。主の臨在のうちに天と地にあってもっとも完全な被造
物のであっても、ただ空(から)のもののみ主によって主に満たされることができます。あたかも
隙間と闇を満たしている空気のように、太陽の光に満ち、毎日翌日のために退く、空中の何も
のもこの光を受け入れたり拒んだりできるでしょうか。どうか私にあなたの恵みと業を受け蓄え
る力を与えてください。私は申し上げます。私はあなたのものです。
私はそれらが出た泉はあなたにあり、私の内にはないことを認めます。」と。 




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