キリスト者の完全  

14.初めから教えていたものであることの証明に歌集からの
引用




これを証明するために、この歌集そのものからさらに多くの引用を追加する必要はない。
この巻の最後の一編の讃美歌の一部を引用するだけで十分であろう。
・・主よ、あの安息が残されていることを私は信じます
あなたがご存知のすべての人々のための
安息、そこでは清い喜びが支配し
ただ主お一人が愛される
安息、そこでは私たちの魂のすべての望みは
天にあるものに固定される。
そこでは疑いも苦痛も恐れも、
完き愛に投げ捨てられて消え失せる。

全ての悪しき情欲から解き放たれ、
(御子が私たちを自由にして下さった、)
全ての地獄の力を私たちは、
栄光の自由にあって踏みつける。

天の、命の道は安全、
死、地と地獄に私たちは立ち上がり
愛に全うされるとき、私たちは見出す、
私たちの永く捜し求めた天国を。

おゝ、今こそ私は安息を知りました、
信仰は、その入り口!
今、救い主よ、今力を授けて、
そして私を罪から離れさせてください!

私の心のこのかたくなさを除き、
この不信仰を除いてください。
私に信仰の安息を授けてください、
あなたの愛の安息を。

来てください。おゝ私の救い主よ、来てください!
私の魂の中に降り!
これ以上あなたの造られたものはとどまらず、
私の造り主、私の嗣業よ。

あなたは私に喜びを備えてくださった。
もはや延ばさず、
来てください、私の素晴らしい偉大な報いよ。
第一、私はあなたのために造られたのですから。

来てください。父、御子、聖霊よ。
そしてあなたの住まいとして私を封印してください。
私のすべてをあなたの中に埋没させ、
すべてを神の中に失わせてください!

これ以上に明確なものがあろうか。つまり
(1)ここには、私たちがこれまで述べ続けてきた十分で高い救いがあるではないか?
(2)これは信仰によって受け取ることができ、不信仰によってのみ妨げられるものであることが
述べられているではないか?
(3)それ故この信仰は、それをもたらす救いの信仰によって、瞬時に与えられるものであると
語られているではないか?
(4)その瞬間は、「今」であると示されているではないか?
だから私たちは、他の瞬間(訳者註:死の瞬間)を必用とはしていないではないか?
その『今』は正に『今、だけが受諾できる時なのではないか?
今はその日』であってこの全き『救い』の日ではないか?
そして、とどのつまり、もし誰かが他の方法を述べるなら、その人こそ私たちに新しい教えをも
たらす人物ではないか?



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