キリスト者の完全  

15.「讃美歌集」刊行、序文に「完全」の教えの内容を解説


およそ一年後、つまり1742年に、私たちはもう一巻の讃美歌集を出版した。今回はこの題目
に関して議論が高まっていたので、私たちは以前の出版より更に多くの論述をした。従ってこ
の巻の多数の讃美歌にこの問題の表現を取り扱った。そして序文にもそうしたが、それは短い
ものであるので、ここにその全文を挿入しても不都合は無い。
(1)恐らくキリスト者の完全に対する一般的偏見は、主としてその本質についての誤解から生
じる。私たちが喜んで認め、そして絶えず宣言していることは、神の命令に従って善を行はなく
てもよいとか、あるいは無知、過ち、誘惑、肉と血に関連する一千の弱点から解放されるという
ようなことを意味する完全は生きている間には存在しないということである。
(2)第一に
私たちは、神の命令に従って善いことをしなくてもよいとか、私たちが時のある限りすべての
人々、「殊に信仰の家族」によい事を行う必要がないというような完全は生きている間は存在し
ないと認めるだけでなく熱心に主張した。キリストに在る幼子つまりキリストの血潮によって新し
く贖い出だされた人々のみならず、「完全な人に成長した」人々も、機会のある限り「キリストを
記念するパンを食べぶどう酒を飲み」「聖書を探求し」、そしてこれらすべての上に、隠れたとこ
ろにおいても大きな集会においても、祈りによってその魂を注ぎだすことを必ず行わなければ
ならないと私たちは信じている。
(3)私たちが第二に信じていることは、無知、過失、救いに必須でない事柄、あるいは朽ちるも
のである肉体に関係することや魂への大なり小なりの印象からくる数多くの誘惑から全く解放
されることを意味する、そのような完全は生きている間には存在しないということである。私た
ちは聖書に、土の家(訳者註:地上の体)のいかなる住人も、肉体的な不完全さや多くの事柄
や心に思い描くことに関する無知、あるいは誤ってできないこと、いろいろな誘惑に陥ることを
全く免除されることを支持するいかなる見解も見出すことができない。
 (4)しかしそれでは「完全な人」とは一体どのような人を意味するのか?
私たちは、「キリストの内にある心で」、「キリストが歩まれたように歩く」人、「清い手と純粋な心
を持ち」、「「肉体と魂の全ての汚れから潔められ」た人、「誘惑に対して機会を与えない」ことの
故に「罪を犯すことが無い」人を意味する。
これについてもう少し詳述すると、聖書の記述の「完全な人」とは、「あなたの全ての汚れから、
またあなたの全ての偶像から、わたしはあなたを潔める。わたしはあなたのすべての穢れから
救う。」といわれた信ずべきみことばを、神が実現された人のことであると私たちは理解してい
る。
それ故、神が「体と魂と霊全体を潔め」、「キリストが光のうちを歩まれたように光のうちを歩む
人、その内には暗いところが少しも無く、御子イエス・キリストの血がすべての罪から彼を潔め
た人」であると私たちは理解している。
(5)この人は今やすべての人々に、「私はキリストと共に十字架につけられました。それでも私
は生きていますが、それはもはや私ではなくキリストが私の内にいきているのです。」と証言で
きる。 彼は「神が聖であられるように」心と「全ての会話に態度にも」「聖である」。彼は「彼の全
心をもって主なる彼の神を愛する」。そして「彼の全ての力をもって」神に仕える。 彼は「彼の隣
人を愛する」。すべての人を「彼自身のように」しかり「キリストが私たちを愛してくださったよう
に」愛する。殊に彼を侮蔑的に扱う人々、彼を誹謗する人々をも愛する。なぜなら彼らは御子
をもみ父をも知らないので(そうするのだから)である。
事実彼の魂は「慈悲、親切、柔和、穏やかさ、忍耐深さに満ち」すべて愛そのものである。
なおその上、彼の生涯が「信仰の働き、望みの忍耐、愛の労苦」に満ちていることをよしとす
る。そして彼は「何事をなすにも」、「行いにもことばにも」愛と力の限り「主イエスの」「名によっ
てすべてをなす」のである。一言で言えば、彼は「神のみ心が天においてなされるように、地に
おいてもなす」のである。
(6)「神を愛するすべての炎を通過した心を持っていることによって」「すみずみまで潔められて
いること」、(アッシャー大主教のことばに従えば)「すべての考え、ことば、働きをキリストを通し
て神に受け入れられる霊の犠牲の供え物として絶えることなくささげること」、これは完全な人
に属する。
私たちの心の思いすべてに、私たちの舌にのぼるすべてのことばに、また私たちの手のすべ
ての働きの中に、「私たちを暗闇から彼の驚くべき光の中へと召し出してくださったお方の誉
れ」を示す。おゝ、私たちもまた主イエスを真摯に求めるすべての人々も、共にこのような「完
全な人の一人としていただけますように」!

これが私たちが初めから教え、今日も教えている教理である。
事実、各々の時点における光によって眺めることにより、そして一方では繰り返しそれを神の
ことばと、また他の一方では神の子らの経験に照らし合わせて、私たちはキリスト者の完全の
性質と挙動(働き、特性、包含している内容)を更に深く理解した。そして私たちの最初から最
後までの考えの間に、いまだひとつの矛盾も存在しない。
それが何であるかということについての私たちの最初の概念は、「キリストの内にあった心を」
持つこと「彼が歩まれたように歩むこと」、彼のうちにあったすべての心情を持ち、彼が歩まれ
た通りに歩むことである。他のことばでは、内も外も神に捧げること、心と人生の全てを捧げる
ことであった。そして私たちはそれに付け加えることも削除することもなく、現在も全く同じ概念
をそれに対して抱いている。


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