キリスト者の完全  

13.1741年「讃美歌集第二巻」出版

まもなく、1741年の春であったと思うが、私たちは讃美歌集第二巻を出版した。この教理はま
だ非常に誤解されていて、その結果誤り伝えられているので、私はこの題目についてもっと説
明する必要があると判断し、序文中に以下のように記述した。
・・『この神の偉大な贈り物、私たちの魂の救い、は神の像が私たちの心に鮮やかに刻まれる
こと以外の何物でもない。それは「信ずるものの心にある霊が、彼を造られた主に似た姿に更
新されることである。」今や神は「木の根元に斧を振るわれ、信仰によって彼らの心を潔め」て
「聖霊の霊感によって彼らのすべての心の思いを潔め」られた。
神が聖であるのと同じように自分も聖となるというこの望みを持つ者は、「彼らが清いものであ
るとおりに自分自身を清め」、また「すべての会話において彼らが聖と呼ばれるに相応しく、自
分を聖くする」のである。彼らがすでに達成するべきものすべてを達成しているというのでもな
く、あるいはこの意味で既に完全であるというのでもない。しかし彼らは日々「力から力へと進
み」、「この驚くべきことを見よ。」今や彼らは「主の栄光を鏡に映すかのように、主の御霊によ
って栄光から栄光へと主と同じ姿に変わっていくのである。」』
そして「主の御霊のおられるところには自由がある。」それは「罪と死の律法から」の自由であ
って、彼らについて宣告されているとおりこの世の子らには信じることができないのである。こう
して彼らは「神によって生まれ」、罪と苦しみと高慢の巨大な根から、「御子は彼らを自由にされ
たのである。」彼らは、彼らの全ての満足は「神が満足されること」であり、神おひとりが「彼ら
のすべての思いの中にあり」、彼らの意志も行動もただ主をお喜ばせするために働くのである
と思っている。彼らは「語るのは彼ら自身ではなく」、「彼らの父の御霊が彼らのうちにあって語
ること」を語るのであり、彼らの手によってなすことは何でも「彼らのうちに在るみ父によって彼
らの業をなす」のであると感じている。
それ故神は彼らにとってすべてのすべてであり、彼ら自身の側には何もないのである。彼ら
は、聖く完全な神のご意志に沿わない欲望であるわがままから解放されている。欠乏の時にも
充足を望まず、痛む時にも癒されることを望まない。
[これはあまりにも強すぎる。私たちの主ご自身も痛みから解放されることを望まれた。それを
ひたすら従順にあって「彼は求められ」た。『わたしの心ではなく』『あなた(み父)のみ心』のと
おりであることを望みます、と。]([ ]内は、後になってウェスレーが自分でつけた註)
生きることにも死ぬことにもいかなる造られたものに対しても自らの心ではなく、彼らの魂の最
奥から絶えず叫ぶ「父よ。あなたのみ心がなされますように。」と。彼らは悪い思いから解放さ
れている。だから彼らはそれに瞬時も入り込むことができない。なおさら、悪い考えが入りこも
うとするとき、それをしっかり捉えて、消し去るのである。
しかし今や悪しき考えが入り込むことはない。なぜなら彼の魂のうちは神によって満たされ、彼
の心にはそれを入れる余地など全くないからである。彼らは祈りの中で心さまようことから解放
されている。いつでも彼らは神の前に、より即座に彼らの心を注ぎだす。彼らは過去のことに
も、現在のことにも、未来のことにも神以外には執着しない。
[これはあまりにも強い。説教『さ迷う思い』を見よ。] 
過去には、さ迷う思いがさっと心をよぎっては煙のように消え去ったが、今はそのような煙は全
く生じなくなった。普通の状態においても、いかなる特殊な行動の場合でも、彼らは恐れや疑い
を持たない。
[通常はこの状態であるが、一時的である場合もある。]
聖霊による注ぎの膏が、常に彼が何をなすべきか、また何を語るべきかを教えられる。
[あるときはそうであろう。しかしいつもそうではない。]
それ故彼らは自分の行動について理由づけを必用としない。
[時には彼らその必要がないであろう。しかし他の時には必要である。]
彼らはある意味では誘惑から自由である。たとえ数知れない誘惑が彼らに飛び来たっても、彼
らはそれに悩まされない。
[あるときは悩まされないが、他の場合に彼らは悩まされ、それもひどく悩まされることもある。]
いつも彼らの魂は平静で穏やかである。彼らの心はぐらつかず動かされない。彼らの平安は、
川のように流れ出て「すべての人の思いに勝り」、彼らは「言いようのない光栄に満ちた喜びを
もって喜ぶ。」なぜなら彼らは「贖いの日のための聖霊による証印が押されて」おり、彼ら自身
のうちにその証を持っている。「義の冠」が彼らのために「蓄えられてあり」、それを主が「かの
日」に彼らに下さるのである。
[罪から救われた者すべてがそうなのではなく、かれらの多くはまだそれに達していない。]
だれもこのように愛に更新されるまで悪魔の子なのではない。それとは反対であって、キリスト
にとどまり、キリストの功によって彼の罪が赦されていると、神に確かに信頼している人は、誰
でも神の子なのであって、すべての約束の相続人なのである。
いかなる点においても彼の信頼を投げ捨てるべきではないし、彼が受けた信仰を否定すべき
ではない。なぜならそれは弱さの故、あるいはそれは火をもって試されることであって、彼の魂
が「数々の試みによる重荷の中に」ある故だからである。
私たちは、ある人がそう主張したように、すべての人がこの救いを瞬時に受けるのであると、
あえて断言しようとしてはいない。事実、神のその子らのための働きは、漸進的であるのと同
様に即時的であって、罪が赦されたという明確な感覚、あるいは聖霊が内住された証を瞬時に
受けた証人の群れに不足のないことを、私たちは知っている。
けれども私たちは、いかなるところにおいても、罪の赦しと同じ瞬間に聖霊の内住の証と新し
い清い心とを受けた人について、ただ一つの例をも知らない。事実、神がどのように働かれる
かその可能性について私たちは言えないが、しかし通常の方法としては神はこのように働かれ
るのである。かつて自らは正しく金持ちで財を増し加えているし何も必要としていないと確信し
ていた人々が、神の御霊によるみことばの適用によって、彼らが貧しく裸であることを納得する
のである。彼らが行ってしまったすべてのことが彼らの記憶によみがえり彼らの前に並べられ
る。それ故彼らは自らの頭上に神の怒りを見、自分は地獄の破滅に相当するものであると感
じるのである。この苦悩のうちに彼らは主に叫び、主は彼らに彼らの罪が取り除かれ、義と平
安と聖霊による喜びの天の王国が彼らの心に開かれていることを示されるのである。「悲しみ
と苦痛は逃げ去り、罪はもはや彼らを支配しない」のである。彼らは、主の血による信仰によっ
て自分が望み通り義とされていることを知る時に、「イエス・キリストによる神との平和」を持ち、
「神の栄光を望んで喜び」、「神の愛が彼らの心の隅々まで注がれ」るのである。彼らはこの平
安に数日あるいは数ヶ月とどまっている。その間彼らは皆もはや戦いはないと想像するのであ
る。しかし彼らの胸にいだいている罪あるいは彼らが最も陥りやすい罪(おそらく怒りとか欲望
とか)という古い敵のいくつかが彼らを襲い、それらに押されて敗北し、彼らは再び罪に陥るで
あろう。すると彼らには終わりまで耐えることができないという恐れが生じ、そしてしばしば神は
彼らをお忘れになったと疑い、あるいは彼らが罪を赦されたと考えたのは間違いだったと思う
のである。殊に疑いの雲のもとで、もしも彼らが悪魔と論じるならば、彼らは一日中苦しむこと
になる。しかし主が、彼らを慰め彼らの霊に彼らが神の子であるという証を継続的に保つため
に聖霊をお遣わしになって、彼ら自身に答えを与えられるまでに長くかかることはめったにな
い。そうして彼らは真に幼子のように従順で穏やかに教えられるものとなる。そのようにして
今、はじめて彼らは自らの心の奥底を見通すことができるのである。
[この本が出版されたのは24年も前のことであり、それはずっと公開されているのに、これは
私が教えたことの無い新しい教義であるといって私を面責する者があるとは驚くべきことでは
ないのか?--この小冊子は最初1765年に出版された。編者]
主が造られた霊と魂が主の前から失われないように、神は以前は彼らに明らかにされなかっ
たのである。今や彼らは傲慢の深さ、自我、ののしりといった全ての隠れた忌べきものが自分
の心の奥底にあること見出す。しかしまだ「たとえ火の試みのなかにあろうとも、あなたはキリ
ストに結ばれ、神の世嗣(よつぎ)である」という証が彼らのうちにとどまっている。彼らは、自ら
を救う力が無いという強い思いと共に、その証は絶えず強められ、「義と聖」の姿に全く更新さ
れたいという言いようのない飢え渇きを感じるのである。
その後、神はご自身を畏れる彼らの願いを忘れず、彼らに一つの目と清い心をお与えになる。
神は彼らの心に彼ら自身の姿に上書きしてご自身の姿を刻まれる。神は彼らをキリスト・イエ
スのうちに新しく創造しなおされる。神は御子および恵みの御霊と共に来られ、彼らの魂のうち
にみ住まいを定められる。』
ここで私は以下の点に注目せざるを得ない。
(1)これは私がこれまでにキリスト者の完全に関して与えた最も強い説明である。事実付加し
た注釈に示す通り、一部にはあまりにも強すぎるものもある。
(2)この問題に関して、直接的であれ間接的であれ詩にも文章にも、この序文に含まれること
以外に付け加えたものは何も無い。
それ故、正しくても間違っていても私たちの現在の教えは、私たちが初めから教えていたもの
と同じものである。


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