キリスト者の完全  

12.1740年ギブソンロンドン主教との会談と主教の公表の勧めと
出版



1740年の年末であったと思うが、私はホワイトホールでその時ロンドン主教であったギブソン
博士と話す機会を得た。 
彼は私が完全に何を意味づけているのか尋ねた。私は偽り無くまた隠すところ無くすべてを彼
に話した。私が話し終えた時、彼はこう言った。『ウェスレー君、これが君の意味するすべてで
あるなら、全世界にそれを公表したまえ。 もし誰かが君の言うところに反論するなら、そうさせ
ておけばよかろう。』と。私は『そうします。主教殿。』と答えた。そして、それに従ってキリスト者
の完全の説教を出版した。 
その中で私は以下のことを示そうと努力した。 
 (1)どのような意味でキリスト者は完全でなく、 
 (2)どのような意味で彼らは完全であるのか。 

(1)どのような意味でキリスト者は完全でないか。 
彼らは知識において完全ではない。彼らは無知や過ちから解放されてはいない。私たちは誰
か生きている人に誤り無いことを決して期待できないし、まして全知であることを期待できな
い。彼らは、たとえば病気、理解の遅いこと、物事を受け取るのに間違えたり早すぎたり遅か
ったりすることなどの、弱さからも解放されない。そのようなものでもう一つの種類には、ことば
が不適切であることや発音が優美でないことなどがあげられる。ことばやふるまいには一千も
の名状し難い欠陥があるかもしれない。誰もその魂が神に帰るまではそのような弱さから完全
に解き放たれることはないし、「弟子は主人に勝らない」が故に、誘惑から完全に解放されるこ
とをその時まで期待できない。だからこの意味では、地上における絶対的な完全は存在しない
のである。絶えず増加することが許容されないような程度の完全も存在しない。 
 
(2)どのような意味で彼らは完全であるのか? 
見たまえ。私たちは今、成人のキリスト者について話しているのであって、キリストにある幼子
についてではない。しかし、キリストにある幼子であっても罪を犯さないという点では完全であ
る。 
このことは特に聖ヨハネによって確言されており、旧約聖書の例ではそれを誤りだと立証でき
ないのである。つまり、古代のユダヤ教徒の最も神聖な人々でさえもしばしば罪を犯したので
はないか?と言われるかもしれない。それだからといって、私たちは「すべてのキリスト者が生
きている限り罪を犯し、かつ罪を犯さなければならない。」と推論することはできない。しかし聖
書は「正しい人も一日に七回罪を犯す 」と言っているではないのか?そうではない。実際にそ
こに書かれているのは「正しいひとも七回倒れる」である。これは全く別のことである。第一に、
本文中に「一日に」ということばはない。第二に、ここには「罪に陥る」という意味は全くはいって
いない。ここで意味している内容は、この世における悩みに陥ることである。しかし他の個所
で、ソロモンが「罪を犯さない人はいない」と言っているではないか。そのとおり、疑いも無くソロ
モンの時代にはそうであったが、ソロモンの時代からキリストの時代に変わって、人は罪を犯
すものだということはなくなったのである。しかしこれらの律法の下にあった人々の状況がどの
ようなものであったにせよ、聖書に「神によって生まれた者は罪を犯さない」と記されているか
ら、私たちは聖ヨハネによって安心してそう確言できる。
キリスト者の特権が、ユダヤ教的な救いの下にいる人々についての旧約聖書の記録によって
測られることは全くないであって、今や時が満ち、聖霊が与えられ、イエスキリストの顕現によ
る神の偉大な救いが人々にもたらされているのである。今や天の王国は地に据えられ、(ダビ
デすらキリスト者の完全の型あるいは標準から遥かに遠いのであって)、これに関して神の御
霊はかつて「その日、彼らは彼らの中の弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らの前
に主のみ使いのようにされる。」(ゼカリヤ12:8)、と宣言された。 
 
「しかし、使徒たち自身も罪を犯したではないか、ペテロは意見を異にし、パウロはバルナバと
激しく口論して。」恐らく彼らはそうであったであろう。あなたがたはこう主張するのだろうか?
「二人の使徒がかつて罪を犯したのかも知れないのだから、全ての他のキリスト者は、いつの
時代にも、彼らが生きている限り罪を犯しまた犯さなければならない。」と。 

そうではない。神は私たちがそのように主張することをお禁じになる。彼らが罪を犯す必然性
はなかった。彼らへの神の恵みは確実に十分であった。そして今日、神の恵みは私たちにも
十分である。しかし、聖ヤコブもこういっている。「私たちはみな、多くの点で過ちを犯す。」と。
そのとおりである。しかし、ここで私たちというのは誰のことか?なぜかならば、これらの「多く
の師匠」あるいは教師と呼ばれているのは神が遣わされたのではない人々のことであって、使
徒自身もあるいはいかなる真のキリスト者も含まれてはいない。ここにいう私たちという語は、
通常の会話で、霊感された書にも、日用の用語としても共通に用いられる語であって、使徒が
自分自身、あるいはいかなる他の信者をも含めている可能性はない。
第一に、それは九節に現れている。「それをもって私たちは神を讃美し、同じ舌をもって人を呪
う。」と。確かに、この私たちは使徒たちではないしまた私たち信者でもない。
第二に、同じテキストの冒頭のことばに「私の兄弟たちよ、多くの者が、師匠」あるいは教師に
ならないようにしなさい。「より大きな咎めを受けることを私たちは知っているからです。なぜな
ら私たちはみな多くのことにつまづくからです。この「私たち」とは誰のことか?使徒たちでも真
の信者たちでもなく、多く罪を犯し「大きな咎めを受ける」人々のことを言っているのである。
それどころか、第三に、「私たちはみな罪を犯す」と言っているその節自体が、全ての人々でも
なくすべてのキリスト者でもありえないことを証明している。
なぜならその中でただちに、私たちが最初にしたように「罪を犯さない」人についての言及が続
いており、それ故彼は「完全な人」と呼ばれる人との差異を明らかにしているのである。

しかし、聖ヨハネ自身も「もし私たちが私たちには罪がないといったならば、私たちは自分を欺
くものである。」また「私たちが罪を犯したことがないというなら、私たちは神にうそを言っている
し、神のことばは私たちの内にない。」と言っている。
私はこう答える。
(1)10節はその前に「もし私たちに罪はないというなら」といっている8節でいう意味に固定され
ていて、続く節の「もし私たちが罪を犯していないというなら」によって説明されている。
(2)私たちが以前に罪を犯したことがあろうがなかろうが、取り上げている時点では罪を犯して
いないのであって、これらの句は私たちは今は罪を犯さないし罪に身を委ねてはいないと強調
している。
(3)9節は8節と10節の両方を説明していて、「私たちが罪を言い表すなら、彼は真実で義しい
方であって私たちの罪を赦し、全ての不義から私たちを潔めてくださる。」これは彼がこう言っ
ているようなものである。「私は以前からこう確信している、キリストの血はすべての罪から潔
める。」と。

「私には(キリストの血が)必要がない、私は潔められなければならない罪はないから。」と言え
る人はいない。もし私たちが、「罪を犯したことがない」という意味で「私たちには罪がない」と言
ったら、「私たちは自らを欺くものであって」神をいつわりものとするのである。しかし、「もし私
たちの罪を告白するなら、彼は真実で義しい方であるから」、「私たちの罪を赦す」だけでなく
「私たちをすべての不義から潔めて」くださる。だから私たちは「行き、これからは罪を犯さない
ように」することができるのである。それ故、聖ヨハネの教えと新約聖書全体の主張は一致して
おり、私たちは以下のように結論する。
キリスト者は罪を犯さないという程度に完全である。これはすべてのキリスト者の栄えある特権
である。そのとおり、たとえ彼がキリストにある赤子であっても。けれども、第一に悪あるいは罪
深い思いから、第二に悪い考えや悪い気質から解放されているという意味での完全は、成人し
たキリスト者についてだけそう言えるのである。
一体、 どこからそれらは生じるのか?
それはすべて「人の心から」「悪い考えが出てくる」のである。それ故もしも、心がもはや悪いも
のでなくなったら、もはやそれから悪い思いは出てこない。なぜなら「善い木は悪い実を実らせ
ることができない」から。そして彼らは悪い考えからも、同様に悪い気質からも解放される。そ
のようにせられた全ての人が聖パウロと一緒にこう言う事ができる。「私はキリストと共に十字
架につけられました。それにもかかわらず私は生きています。しかし、今生きているのはもは
や私ではなく、キリストが私の内にあって生きているのです。」と。
このことばは明らかに外面的な罪と同様に内なる罪からの救いをも述べている。
これは、消極的には、私の悪い本性、罪の体が滅ぼされて「私は生きていない」ということと、
積極的には、「キリストが私の中に生きている」ことによってすべてが聖く、義しく、善いのであ
る、ということの両方を表現している。
事実これらの二つ、「キリストが私の内に生きている」ことと「私は生きていない」ことは、切り離
すことができないように結ばれている。
光と闇に、あるいはキリストとベリアルに何の交わりがあるだろうか。
それ故、このようなキリスト者として生きる者は、「信仰によって自分の心を潔め」、彼の内にお
られるキリストに相応しく「キリストが潔いのと同様に彼自身を潔めることが彼の栄光の望みで
ある」。彼は高慢から潔められている。なぜならキリストが彼の心の謙遜であるから。彼は欲望
と我侭(わがまま)から潔められている。なぜならキリストは父のみ心を行うことのみを望まれ
たのであるから。そして、彼は怒りから潔められている。なぜならキリストは、常識的なことばで
いうと「柔和で寛容である」から。
よく言われる表現だが、彼(キリスト)は罪を怒りなさるが、罪人を憐れまれるのである。彼はす
べての神への反抗を退けられるが、逆らう者をも憐れまれるのである。こうしてイエスは彼の
民を罪から、それも単に外面的罪からだけでなく、彼らの心の罪からも救われる。

ある者は言う、「そのとおりである」、「しかし、それは現世においてではなく死後のことである」、
と。
そうではない、聖ヨハネはこう述べている、「このように私たちの愛が完全にされたので、この
世においてそうであるのと同様に、私たちは裁きの日に大胆になることが出来る。」ここで使徒
は、彼自身と生きているキリスト者に対し、すべての反論を超えて、単に死の時あるいは死後
のみでなく「この世」において「彼らの主」と同じになると、一様に確言している。
第一章の彼のことばはまさしくこのことと一致している。「神は光であって、そのうちには暗いと
ころがまったくない。もし私たちが光のなかを歩んでいるなら、私たちはお互いに交わりを持
ち、み子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを潔めます。」そして再び、「もし私たち
が自分の罪を告白するなら、彼は真実で義しい方であるから、私たちをすべての不義から潔
めてくださいます。」さて、ここで使徒がこの世においての救いの働きについて語っていることは
明白である。なぜなら彼は「キリストの血が(死のときまたは裁きの日に)潔めるであろうではな
く、現時点において私たち生きているキリスト者を「すべての罪から」「潔める」と述べている。そ
して同様に、もしいかなる罪でも残されているなら、私たちは「すべての」罪から潔められていな
いことも明白である。もしいかなる不義でもその魂のうちに残されているなら、「すべての」不義
から潔められてはいない。これが単に義とすることに関しているだけ、あるいは罪の責任から
私たちを逃れさせているだけだとは誰にも言わせない。その理由は、
第一に、使徒が明白に区別していることを混同することになる。使徒はまず「私たちの罪を赦
し」といい、次いで「私たちをすべての不義から潔める」と述べているのである。
第二に、これは可能な限り最も強い意味で働きによる義を強調しているものであって、すべて
の内なるのものと、そしてまた同様にすべての外面的なホーリネスが義とされる前に必要であ
ることになる。
もしもここに言う潔めが罪の責任から私たちを解放するだけであるというのなら、私たちは罪
から潔められておらず、「彼が光の中におられるのと同様に光の中を」歩んでいるという条件な
しに私たちが義とされることもない。それ故、キリスト者はこの世においてすべての罪、すべて
の不義から救われるものとされなければならない。つまり彼らは現在罪を犯さず悪い考えと悪
い気質から解放されているという意味で完全なのである。
しかし、最上のキリスト者であると人に評価されているかあるいは恐らくそう自惚れている(もし
そうであるなら彼らはまったくキリスト者ではなかった)それらの人々の多くが好む意見を、直
接的に否定するこの種の講演に、いかなる小さな反対もすべきではないのだが、そういうこと
はあり得ないだろう。それ故、多くの反応あるいは批評があることを期待したが、私は全く失望
させられた。私が知る限り何の反対も現れなかったので、私は静かに自分の道を歩んだ。



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