聖化に関する一考察  

10.漸進的聖化について(1)

1. 文献を検討する 
2. 聖性は人に瞬時に与えられること 


1.文献を検討する 
  きよめ派の人々で、漸進的聖化をうたう人々がいるようなので、文献を 
覗いてみました。 
 まず「漸進(ぜんしん)」ということばですが、辞書を見ると、それは「順を追ってだんだん進む
こと」「少しずつ進歩すること」などと説明されています。
 聖化にあてはめて使うと、「だんだん聖くなること」「聖さのレベルが少しずつ上がってくること」
ということになります。 
 ウェスレーの「キリスト者の完全」をはじめ、トマス・クックの「新約の聖潔」、J.A.ウッドの
「全き愛」、A.M.ヒルスの「聖潔と力」、S.A.キーンの「信仰の盈満」、C.W.ルスの「第二
の転機」、ハリソン・デービスの「聖化論」、ロイ.S.ニコルソンの「聖化論」、H.E.ジェソップ
の「聖化論」、サムエル.ブレングルの「聖潔の栞」、ワインクープの「ウェスレアン、アルミニア
ン神学の基礎」などには「漸進的聖化」、「漸進的聖潔」とか、「漸進的キリスト者の完全」とか
いうことばや発想は現れません。ただしこの問題に言及していないだけで、どのように信じてい
たか分からない人もいます。 
 ジョン.ウェスレーはキリスト者の完全の中で「神の恵みには、継続的な働きと瞬間的な働き
がある」こと、キリスト者は成長するものであるが、キリスト者の完全の恵に与る前の成長はの
ろく、与った後は遙に速く成長すると主張しています。 
 パーカイザーは「キリスト教信仰の探求」に成長は分量の増加であって質は変化しないと述
べています。 
 ワイレーとカルバートソンの「キリスト教神学概論」に「漸進的聖化」が掲げられていますが、
その内容は、転機的聖化の恵みに与った後、聖潔の状態に保たれることを「漸進的聖化」とい
っています。聖化の状態に保たれることが、「日々聖化の経験」という感じで、すこし緊張を強
調しすぎの感じがします。ひとたび「聖化、きよめ」の恵に与ったならば、「聖潔の状態」に何の
緊張もなく生きることができます。「救い」「新生」の恵みに与ったあと、日々悔い改めの緊張に
生きてはいません。救われた状態に生きていることが当たり前になります。聖潔に生きることも
それと全く同じです。 
 ホリス.F.アボットは著書「聖化」のなかで「漸進的聖化」について述べていますが、彼が漸
進的聖化と呼んでいるものはウェスレーが成長といったものと同じです。アボットはこういって
います。転機的聖化の恵みに与ったあと、「円熟」にむけて成長する。その内容は、 
1)神を知る知識における成長。 
2)愛における成長。 
3)恵みにおける成長。 
であるとしています。 
 ウェスレーの述べていることを展開しているようなもので、「成長」というべきであって、「漸進
的聖化」と言わない方がよさそうです。 
 1976年に日本ウェスレー出版協会から刊行された「メソジスト聖化論(T)」に「漸進的聖化
と全き聖化」が取り上げられています。詳細に紹介することはできませんが、その概要は、私
が「聖化」と呼んでいるものが「全き聖化」に相当しており、人が救われるとき「悔い改めて」信
じるという人がなす過程があるのと同様に、聖化の経験においても「悔い改め(罪を離れるこ
と、罪の体を脱ぐなど種々の表現がありますが」かつ「献身して」信じる過程があります。その
過程を漸進的聖化と呼んでいます。 
 これも先に掲げたものですが、ロイ.S.ニコルソンは、聖化に与った後の成長について、「恩
寵」は神によるものであり、「成長」はひとによるのである、としていて大変興味深く感じます。 


2.聖性は人に瞬時に与えられること 
 ここからは私自身の見解ですが、はじめに立ち返って、聖化の恵みによって私たちに与えら
れる「聖性」はどこからくるのかを考えるとよいのです。知識とか愛の品性とかならば、だんだ
ん増えることもあるでしょう。しかし聖化すなわち私たちに聖性が与えられるということは、聖霊
が私たちの内に内住され、聖霊と私たちが一体となることにあります。何かの品性の一つが私
たちに与えられるようなものではありません。聖化とは聖霊のバプテスマそのものです。そして
聖霊と一体になって生きることが「聖潔」です。
 昔から言われているとおり、イスラエルの出エジプトからカナンの地に至るできごとは、キリス
ト者生涯の縮図に非常によくあてはまります。エジプトはこの世です。そこでサタンの奴隷とし
て生きています。イスラエル人は、モーセに率いられ神の奇跡によって海を渡り、出エジプトし
てシナイの荒野に入りました。出エジプトは救われることになぞらえられます。私たちが救いに
与ったのは奇跡です。
 荒野をぐるぐる回って40年後、ヨシュアに率いられ、神の奇跡によってヨルダン川を渡り、カ
ナンの地に入りました。ヨルダンを渡ることは聖化になぞらえられます。聖化の恵みは神の奇
跡の業です。 

 どこの地にいるかが恵みの質を表しています。
エジプトでは、サタンの支配下にいます。
シナイの荒野では律法が与えられ、神の幕屋がありました。そこ(幕屋)に聖霊がおられるの
で、救われた人は「聖徒」なのであす。 しかし、そこには獲得する領土はなく、ただ旅を続ける
だけです。 
この段階では成長が鈍いとウェスレーは言いましたが、全く成長しないという方が当たっていま
す。ステパノに「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間・・・モロクの幕屋とロ
ンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。」
と言われたように、自我という偶像と共存するためです。 

 カナンの地は聖潔の領土です。聖化の恵みに与ると、カナンの全地を領有するために戦うの
です。どれだけ占領できたかが、成長の程度を示しています。 成長は「戦争によって」勝ち取
るものすなわち「人による」ものであって、ニコルソンの見解があてはまります。しかし、どこま
でも「カナンの地」で、聖さの質は変わらないのです。 

 これまで述べてきた内容ではことばが適切であるかどうかくらの問題でしかありませんが、奇
跡によらず漸進的にカナンに入ると主張するならば、それは聖書的聖化ではありません。 



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