聖化に関する一考察  

11.漸進的聖化について(2)

 先に述べたように、この道の古い人々は漸進的聖化、漸進的きよめ(聖 
潔)、漸進的キリスト者の完全とは言いませんでした。しかしここにきて、き 
よめ派のひとびとの間で漸進的聖化が多く語られるようになっていると感じ 
るので、私は危機感を覚えるのです。 
1. 潔めを求めている人に 
2. 潔めに生きている人に 
3. 潔めを受けた人の事例から考察する 


1.潔めを求めている人に 
 きよめを求めている人々に是非次のことを知っていて頂きたいと思います。 

・真摯な信仰生活は、きよめに与っていようがいまいが、すべてのキリスト者にとって絶対に必
要なことです。それなしに、きよめられたいと願っても、ありえない願いであって、それは虚しい
願いです。 

・しかし、真摯な信仰生活が聖化なのではありません。真摯な信仰生活によって聖化の恵みに
達するであろうと思ってはなりません。 
 それは、救われる(罪の赦しと新生の恵みに与る)ことと比較してみると分かります。真摯な
信仰生活によって聖化の恵みに与ろうとするのは、「善行によって救われようとする」のと同じ
です。実例として、ニコデモが敬虔なよい人物であったことは間違いありません。しかしその延
長にイエスの言われた神の国はありませんでした。彼は新しく生まれなければなりませんでし
た。 
 同様に、救われて敬虔に真摯な信仰生活を送っている人も、イエスが約束された「聖霊のバ
プテスマ」を受け、聖霊に満たされた人にならないならば、ペンテコステの前の弟子たちのよう
に生きることになります。それを受ける道は、聖霊を遣わすと言われたイエスの約束を「御子イ
エスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT 1:7)というみことばを通して信じるこ
とにあります。それによって「キリストと共に死に、キリストにあって生きる」ことが実現します。 
 その時、その恵みを受ける以前に遙にまさって、真摯な信仰生活を送れるようになります。ウ
ェスレーは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する、これがキリスト者の完
全である」と言いましたが、恵みをいただいた結果それができる人になるのです。 


2. 潔めに生きている人に 
 きよめの恵みに与って、真摯な信仰生活をしている方々に次のことを知っていて頂きたいと
思います。 

・頂いた恵み「聖性」は神のご性質であって、それを人が持っているというのは、聖化の恵みに
与ったことのない人々にとっては、人が「ホーリー、神聖」であるとしている<とてつもない主張
>なのです。 
 「聖性」は神の属性であって、人がいくら品性を磨いても神の属性には至りません。聖霊が人
に住まれ、人が聖霊と一体になっているために、その聖性が人のものとなっているのであっ
て、聖性は人の品性の総合ではありません。与えられた聖化の恵みはそのくらい素晴らしいも
のなのです。 

・成長とともに、より聖くなるとする「漸進的聖化」の発想はどこから生じてくるかというと、この
「聖性」が、人の義、愛、献身、熟練してより多くの働きができることなどの総合と考えることに
あります。ですから成長と共に<より聖く>なると思うのです。 

 漸進的聖化によって栄化に至ると思う人々もいますが、栄化もまた瞬時に与えられるもので
あって、だんだんそこに至るものではありません。(テサロニケT4:16-17) 

 救いに与ったときから聖化が始まるといいますが、それは聖化の恵みに与る過程が始まる
のであって、だんだん聖くなって聖化に至るのではありません。そのはじめの状態は、神の幕
屋に聖霊が来て住まわれることによってみごとに表現されています。エゼキエル書に書かれて
いるようにそのお方は「主の栄光」です。けれども、幕屋の奥の隔ての帳の中にひっそりおられ
ます。幕屋はジュゴンの皮の天幕で外側を覆われ、見栄えがしません。ああ天幕があるという
だけです。そのため、自分でもそのお方に気づかず「あなた方のうちに聖霊がおられるのを知
らないのですか?」と言われてしまいます。けれども、聖霊が内に住んでいてくださるので救わ
れた人は聖であり、聖徒と呼ばれるのに相応しいのです。その人の品性の故に聖なのではあ
りません。しかし、救いはその人によい品性を与えます。 

「イエスが栄光を受けられて」新しい時代が到来しました。神殿の奥を隔てていた幕は裂け、主
の栄光は外に出られ、信じる人々に注がれてその人の内に住まわれるようになりました。それ
で聖霊に満たされた人は聖なのです。その人の品性の故に聖なのではありません。しかし、聖
化はその人に極めてよい品性を与えます。 


3. 潔めを受けた人の事例から考察する 

・先に聖化の恵みに与った人の事例をよく考えて頂きたいと思います。聖化は瞬時に与えられ
るものです。 
故山本岩次郎牧師は、奥様の対応に気に入らないことがあって、「そういえば、家内にはこう
言う悪い点がある、ああいう悪い点がある・・」と奥様の欠点を数え上げた時、神が「それがお
前だ!」と指摘されたそうです。それで直ちに悔い改めた時きよめの恵みに与ったと証してい
ました。 

 神が指摘されることは様々ですが、握って離さないものがあり「神よ、他のものは何でもあな
たの御心のままにいたしますが、これだけは勘弁してください。」というものがあるとき、それこ
そが聖化の恵みの障碍なのです。そのことを手放して神に従うなら、聖化の恵みはただちに与
えられます。その後 は、御旨に従って生きるといいますが、いつも握っていたものを手放す時
のような緊張にいることはありません。神は自由に生きさせて下さるのです。 
 その自由は恵みを受ける前にはないものです。恵みに与る前は、手放したくないものを、神
にどうする?といわれると思って、いつも神を恐れていることになります。それで平安も自由も
ないのですが、それを手放して恵みを受けるなら平安と自由が与えられます。 

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」 


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