世に関する神の御計画について
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だ
れも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロT 1:16)
「ウェスレー派(ウェスレアン)」は、「アルミニウス派」「カルヴィン派」「ルーテル派」とは違って
いることを最初に述べましたが、ウェスレーは、独自の解釈を加えたアルミニウス派でありつ つ、自分の信仰を展開しましたので、「アルミニアン・ウェスレアン」と呼ばれています。
「ウェスレー派」の特色は「経験主義」と「聖潔」の2点にありますが、ここでは聖潔にテーマを絞
ることにします。
ウェスレー派が他の派と違っているのは、特にこの「聖潔」についてです。
<カルヴィン派の考えている「聖潔」とウェスレー派の「聖潔」の違い>
− カルヴィン派の聖潔の概念 −
カルヴィン派の教理を網羅しているものか判断がつきませんが、
H.C.ライル:「キリスト者の聖潔」
http://grape.g.dgdg.jp/Ryltoc01.htm#Anchor3495967
に書かれている聖潔論を、カルヴィン派の聖潔と見なします。それによりますと、救いによって
与えられる神の恵みと自分の努力や研鑽によるものも、すべて最初の救いの経験に基づくも のだけで、後のペンテコステや聖霊に満たされる経験は無視されていて考慮されていません。 福音の転機は1回だけで、ウェスレー派が「第二の転機」と呼んでいるものは考慮しません。
救いの経験によって与えられるものは、罪の赦し(義認)、新生と聖霊がこころに住んでくださ
ることです。そして、原罪(罪性)が心の内に存在し続けます。聖霊は心のうちに住んでいて下 さいますが、ウェスレー派のいう「聖霊に満たされた」状態ではありません。
救われた人の内なる人は、罪と汚れに満ちたものですが、キリストの義の衣を着せられて、
義と認められているのがその姿です。ですから、イエスがパリサイ人に向かって「あなた方は白 く塗った墓」と言われたイメージと同じようなものです。ただしその白い塗料はイエス・キリストの 義の衣です。イエス・キリストの義の衣の下は、腐れた汚物で満ちています。
そのような人間が「実際に義となり、愛の品性をもつものと変わっていくこと」を「聖潔」とよび
ます。それは、聖書が示しているよい行い(ウェスレー派はそれを「キリストの律法」と呼びま す)を守ることによって、少しずつ前進しますが、原罪と共に生き続けるのですから、完聖にい たることはありません。ひたすらキリストの律法を守ることによって聖潔を求め、円熟した品性 を目指して努力し続けることになります。
− ウェスレー派(ウェスレアン)の聖潔の概念 −
ウェスレー派は、神は堕落して「原罪」(罪性、罪の根、古い人、生まれつきのままの人、古い
自我、などとも呼びます)を持ち、罪を犯すものとなった人間に、「救い」と「きよめ」(聖潔、聖化 などとも呼びます)による救いをお与えになるとします。大切な点は、「行いとしての罪」に対す る救いが「救い」であり、「原罪(罪の性質)」に対する救いが「聖潔」です。
「救い」によって、罪が赦され(義認)、新生し、聖霊がこころに住んでくださいますが、罪性を
そのまま持ち続けます。その段階ではカルヴィン派と同じです。ただ罪の性質と共存しますが、 新生のいのちにより、義と愛に生きることができ、それはその人間自身のものと見ます。つまり 救われた本人の義であり愛です。もしも聖霊が去られたら、罪しか残りませんが、カルヴィン派 では、聖霊が去られた状態が本人の実体であると考え、ウェスレー派は聖霊がおられる状態 が本人の実体であるとみます。
救いの恵みを受けてキリストを信じる者となった後、必ず後に、ペンテコステ、聖霊の満たし、
第二の転機などと呼ばれる経験によって、罪の性質に対する救いが与えられます。それは「古 い人」(古い自我、罪の性質、原罪)が「キリストと共に死ぬ」すなわち「私たちの古い人がキリ ストとともに十字架につけられた」(ローマ 6:6)ことと、「聖霊に満たされて生きること」すなわち 「キリストと共に生きる」ことによって成り立っています。「もし私たちがキリストとともに死んだの であれば、キリストとともに生きることにもなる。」(ローマ 6:8)自分のうちにある「古い人の死」こ そがきよめの本質であることが分かるなら、第二の転機なしにきよめの恵みに与ることはない ことを理解できるでしょう。
「聖潔とは、罪の性質に対する救いです」が、このことはきよめ派の人々にもあまり理解されて
いません。聖潔の恵みを受けた初期の段階から、完全な(円熟した)品性が与えられるのでは ありません。円熟した品性は、聖潔に長く生きていくことによって与えられるものです。
言い換えると、「聖潔」は、「古い人(サタンのかたち)」が破壊される(死ぬ)ことと、サタンが
破壊した人間の内にあった「神のかたち」が「義と聖をもって神にかたどり造り出された、新し い人」(エペソ 4:24)すなわち「キリストのかたち」として回復されることです。
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのた
めに産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ 4:19) パウロは、救いの恵みに与ったのみで、聖潔 の恵みを受けていない人たちが、聖潔の恵みを受けるようにとひたすら祈っています。
繰り返しますが、古い人、サタンのかたちが破壊され、キリストのかたちが私たちの内につく
られることが聖潔です。私たちはそれを「潔め」として経験します。
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