世に関する神の御計画について  

2.聖定と自由意志に関して

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばに
とどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、
真理はあなたがたを自由にします。」」(ヨハネ 8:31-32)



<聖定と自由意志に関して>
 この世のすべてのことが神の聖定のとおりに進行しているのであれば、自由の余地はないと
いう問題

 この命題について、ウエストミンスター信仰告白に、次のように記されています。
「第3章 神の永遠の聖定について
1 神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事
であれ、自由にしかも不変的に定められたが(1)、それによって、神が罪の作者とならず(2)、ま
た被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられな
いで、むしろ確立されるように、定められたのである(3)。
(1),(2).(3)にそれが聖書の主張であることを示すため、聖書の参照箇所を記載しています。た
だし<不変に>と書かれている聖書箇所はありません。
2 (要約)神の予知によるできごとは聖定ではない。
3 (要約)ある人間たちとみ使いたちは、永遠の命が予定され、他の者たちは永遠の死に定め
られている。
4 (要約)この永遠の命に定められている人間とみ使いは全部決まっている。(他の人と入れ
変わることはない。)
5 (要約)この予定は世のはじまる前から定められていた。
6 (要約)アダムによって堕落した人間のうち命に予定されている人は、イエスキリストによっ
て贖われ、義とされ、子とされ、聖とされて救われる。ほかのものはその贖いに与らない。
7 (要約)憐れみに与るのも、憐れみから除外されるのも、神のみこころによる。
8 (要約)予定の教理をどのように受け取るべきか。」
(日本キリスト改革派教会のホームページから引用。)
 1,2 項には、この世の進行について二つの異なった内容が記されています。
その一つは起こってくることすべてが<不変に>定められている「聖定」によるもので、もう一
つは「聖定ではない」ことがらによるものです。
3-8 項は「聖定」と一体の事項です。
 神が世のはじめから終わりまでの計画をお持ちであることは、すべての派が認めます。しか
しこの<不変に>が論争のまとになります。
 この聖定の部分だけを信じたなら、「極端なカルヴィン主義」になります。そして世のはじめか
ら終わりまで神の聖定したとおりに進行するのであれば、一切の責任は神にあり、1項にある
「神が罪の作者とならず」ということは成り立ちません。
「被造物の意志に暴力が加えられることなく」(以前の文では「奴隷的に」となっていました)とい
うのは、無理強いして何かをさせることはない、あくまでも人は自由であって、自分の意志通り
に行為することができることを意味します。
「第二原因の自由や偶然性が奪いさられない」というのは、人間も動物も自由であり、自然は
偶然に起こるできごとで成り立っていることをいいます。実際の自然は神が自然に関する法則
を定められ、その法則に従って進行するのです。
 2項の「神の予知によるできごとは聖定ではない」というのは、自由に進行する自然と人間や
動物の世界について神はすべてを予知なさるが、それは神のご計画、聖定によって進行した
のではないということです。
 ここに、「聖定」と「自由」という二つの命題が記されています。そして、この二つは相容れない
関係にあります。
 この点についてカルヴィン派のエドウィン・H・パーマは次のように解説しています。「これらの
人間的見解に比べて、カルヴィニストは二律背反の両者を受け入れる。彼は自分の主張する
ことがおかしいことを知っている。人間がこの二つのデータを調和させることは不可能である。
神がすべての起こる事柄を間違いなく確実になさる、と一方で言いながら、人間は自分のする
ことに対して責任がある、と他方で言うなら、それはナンセンスである。それはどちらか一方で
あって、両方であるべきでない。神がユダの罪をあらかじめ定められていて、しかも、ユダが責
められると言えるだろうか。ばかげたことである。<予定された盗人>の作者は論理的に正し
かった。神は盗みをあらかじめ定めることはおできにならない。そうすれば、盗人を責めるべき
である。カルヴィニストは自分の立場が非論理的で、おかしなものであり、ナンセンスで、ばか
げたものであることをすすんで認める。」(「カルヴィニズムの五特質」
p.172-173;つのぶえ社、1978)
 後で説明しますが、自由だけでなく頭文字をとってTULIPと呼んでいる全ての項目に、相反す
る二つの命題を同時に信じることをあてはめないと、極端なカルヴィン主義になります。
 アルミニウス派の信じる「自由」と「摂理」は次のようなものと言えます。
「摂理」は、第二原因とした人間の自由、自然の進行を、神が直接ではなく間接的に(背後にあ
ってとも表現されます)導びかれることで、「聖定」は神が直接決定し実行させなさることを意味
します。ですから摂理による導きを信じる人々も、神の全体的なご計画は進むと考えます。
 自由には、人間が社会生活を営む範囲の自由と、神の前に善を行うことができる自由があ
り、前者は救いに関係なく誰でも持っている自由であり、後者は救いの恵み与った後に与えら
れる自由であると区別されます。アルミニウス派は矛盾する二つのことを同時に信じることは
ありません。摂理と自由を信じます。
 ウェストミンスター信仰告白の摂理の説明では、自然は偶然のようであっても、聖定どおりに
進行し、人間は自由のつもりでも、プログラムされたロボットと同じように、行動することを意味
します。 




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