「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」
(箴言22:6)
日本キリスト教界を概観して、その問題点とどう対応すべきか考察してきました。
繰り返しになりますが、最後にその中で最も重要なことのひとつであると思われる「自分の子ど
もを救うこと」を、もう一度取り上げます。
救われた信者が、夫婦がふたりとも信者であるキリスト者の家庭を築き、そのなかで子ども
を育てます。子どもが小さいときは、親と一緒に教会に通います。親は何も心遣いしなくても子 どもたちが、信仰をもつだろうと思っています。しかし、多くの人々がそうではないことを経験し ています。子どもたちはやがて自分の足で歩くようになり、イエス・キリストの弟子となる信仰を とらず、この世を選んでいってしまいます。日本のキリスト教信者の数が増えないことは、その ようなケースが非常に多いことを意味しています。なぜなら、教会の外から多くの人々が救わ れて、教会に入ってきているのですから、もし子どもが救われるなら信者の数は増えていくは ずだからです。
子どもたちが、救われないか、あるいは救いに与って信者となっても、親の期待するような信
仰の道を歩まないことは、親にとってなんと悲しい事でしょう。しかし、それには原因がありま す。
・親が子どもたちにとって魅力のない信仰をしてきた
・子どもは親の信仰をよいものと思っているが、この世の魅力、自分の欲しいものを獲得した
い誘惑に勝てない
のどちらかです。
子どもにとって魅力のない信仰の陰には、きっと、信仰が「考え」だけで、「信仰による生活」が
なされていない、理念と行動が違っている、「なーんだ、お父さんは口では信仰だ、愛だという けれども、やることはいうことと違っている」と思わせてしまったものがあります。キリストの救い は間違いなく魅力を伴っています。それに本当に生きているなら、その魅力が見えないはずが ありません。
子どもが親の信仰をよいものと思っても、この世の誘惑に負けるのは、きっと子どもの教育
に問題があったのです。神は恐ろしいお方であって、神に従わなければならないことと、同時 に、神はご自分に従うものを限りない愛をもって慈しんで下さるお方であることを子どものここ ろに植え付けそこなったのです。
そこからが問題です。
子どもをつなぎ止めておくために、基準を下げたくなります。
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つありま
す。・・・」」(マルコ10:21)
イエスは、永遠のいのちについて質問した若い司に対して彼を「いつくしんで」対応しましたが、
乗り越えなければならない基準を決して下げませんでした。神とこの世の両方を獲得すること はできないからです。
私たちの子どもたちが、救われることについても同じです。救いに与ることなしに・・この世の
誘惑に負けたまま・・、教会のなかにつなぎ止めておいても無駄なことです。
ですから、基準を下げないようにしましょう。
子どもを救いそこなったら、沈黙したくなりますし、できるだけその話を避けて通りたくなりま
す。それで何も言わなくなったら打開の日が訪れることがありません。
はじめに述べましたように、教会は、
・説教
・祈り
・適切なことを実行すること
によって建てあげられます。
子どもを救うために、その説教がなされなければなりません。牧師と、教会と、親たちと、教
会の兄姉の祈りが積まれなければなりません。そのための、適切な行動がとられなければなり ません。
やり損なった人がそれを実行することはなんと辛いことでしょう。それは私自身が経験してい
ることです。しかしトーンを下げずに叫ぶ必要があります。
「自分がその辛さの見本であるから、子育て中の兄弟姉妹たち、何もしなくても自分の子ども
は救われると思いませんように。子どもの年齢に応じて、必要な対処をとり続けなければなら ないのです。子どもの救いと引き替えにできるものは、この世に何もありません。」と。
子どもを救いに導き損ねた場合に、
「私はやり損なったから、何も言えない」と沈黙しませんように。
先生方でしたら、説教をし続けなければなりません。
役員・長老でしたら、「役員さんの子どもが救われていないのに、子どもを救うことを話せな
い。」ということがないように、自分が率先して教会の次の世代のために「子どもの救い」を語り ましょう。
そして、祈りましょう。
子どもを救うための適切なことは何か、それを知らなければ実行できません。
それを知るために、遜って学んでいきましょう。
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