chapter26

26.


「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。し
かも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それ
は、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わ
たしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来
て、わたしの家の食物とせよ。」(マラキ3:8-10)
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄
光を現わしなさい。」Tコリント6:20)
「・・・聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがた
を群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)


 神を恐れ(畏れ)ることを訓練しなければならないということを論じています。
 今回の話を納得するためには、「自分は十字架の血によって罪を赦されている、新生のいの
ちを与えられている」と知っている人であることが必要です。読者の皆さんは、確かにそれを与
えられましたか?そうであれば、あなたは十字架の血によって買い取られ神の所有となったの
です。つまり神が主人、あなたは神の僕となったのです。その点を受け入れられますか?そう
でない人は以下の話を読まない方がよいでしょう。きっと躓きになりますから。
 聖書には主人と僕の話はたくさんあるのでイメージが沸くでしょう。もし主人が僕に、「家の中
のことはお前の時間の十の一だけすればよい。残りは自由に自分の好きなことをしなさい。」と
言ったら、この主人は冷酷だなどと思わないでしょう。そうでなくてなんと寛大な主人だろうと思
うでしょう。
「家の中の仕事は少ないから、お前は自分の好むところに行って雇われ、そこで収入を得なさ
い。得た収入のうち十分の一だけ持ってきなさい。残りはお前の好きなように使ってよい。」と
主人が僕に言ったら、これもまたなんと寛大な主人だろうと思うでしょう。
 自分の所有と時間がどのように見えるかも大切な神を恐れ(畏れ)るテーマです。
私たちが得る収入の十分の一は、はじめから神のもの、残りが自分のものなのです。私たち
は神の僕になりました。そして冒頭のみことばのように神は、十分の一は私のものであると宣
言しておられるのです。旧約聖書は廃れたのではありません。イエスがそう明言しておられる
ではありませんか。ですから私たちが得た収入の十分の一は神のもの、残りが自分のもので
す。収入を得たときはじめからそのつもりで「事務的に」処理をすればよいのです。神のものを
使ってしまうのは神を恐れ(畏れ)ないことではないのですか。
 イエスが「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしな
さい。」(マタイ6:3)と言われたことはよく知っていますが、日本のキリスト教界の沈滞を打破す
るためには皆さんが何をしなければならないかをお分かり頂けるために、あえて証しします。
 私は就職し、初めての給与を貰ったときから定年退職するまで、月々の献金が給与の十分
の一を下回ったことはありません。6月末と12月末に感謝献金をしますが、その金額が賞与
でもらった金額の十分の一を下回ったことはありません。私と同じに、いや私以上に、献げる
人が私の妻であったことはなんと幸いであったことでしょう。このことに妻と一致していなかった
らそれを果たすことはできなかったでしょう。
 就職する前は親から仕送りをして貰わず、奨学金とアルバイトで大学を出ました。その当時
も月々の献金が、アルバイトによって得た収入の十分の一を下回ったことはありません。定年
退職した後も、金額は変わっても月々収入があるわけですが、月々の献金がその収入の十分
の一を下回ったことはありません。それははじめから神のものなのですから。
 誰かに強制されてそうしたのではありません。神と教会と働き人たちを愛して、自ら進んでそ
うしたのです。
 日本中のキリスト者の皆さんが私に倣って献金をして下さることを望みます。それだけで日本
のキリスト教界の沈滞は大いに改善されるでしょう。
 私たちは、十字架の血によってイエス・キリストに買い取られたのです。ですから体を自分の
ものと思っていますが、それはキリストのものです。キリストがあなたの時間の十分の一を集会
出席に使うことを求めたら理不尽でしょうか?
 私の教会では、週に3回の集会、礼拝、祈祷会、伝道会を持っていますが、その時間は合わ
せて5時間くらいです。ですから1週間の時間のおよそ3%ほどが集会時間です。私は、救わ
れてから52年経っていますが、その間に週3回の集会、礼拝、祈祷会、伝道会を休んだこと
はほとんどありません。記憶にはないのですが、病気で1〜2回休んだかもしれません。親戚
の葬式などのために礼拝と伝道会を休んだことが2回ずつあります。これも記憶にはないので
すが、会社の出張などのために1〜2回休んだかもしれません。海外旅行(私はそれを教会の
ためと考えています)があって8回集会を休みました。52年の間に集会を休んだのはそれくら
いです。「神の僕たちよ。教会の集会に出席しなさい。」神がそうお命じになっていることは明ら
かです。
日本中のキリスト者の皆さんが私に倣って集会に出席して下さることを望みます。そうしたなら
日本のキリスト教界の沈滞は大いに改善されるでしょう。
 その時皆さんは、ネヘミヤと同じように言うことができます。「私の神。どうか私を覚えて、いつ
くしんでください。」(ネヘミヤ記13:31)
これこそ最高の報酬ではありませんか。

 



戻る
戻る