chapter10

10.


「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、
記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」
(申命記 11:18-19)


 日本の教会は、救われた青年男女が不信者と結婚してしまうという問題を抱えていますが、
それはまた別に論じることにし、ここではキリスト者の青年男女が結婚し、いわゆるクリスチャ
ンホームを築き、そこに与えられた子どもたちを育てる、教育する、ということを取り上げてい
ます。
 自分の子どもに何を教えるかによって、その子が集会にとどまるか否かが決まります。
 何の努力も戦いもなく、子どもたちが集会に座っているのではありません。
生まれた赤ん坊を集会に連れて行ったとします。赤ちゃんですから、よく泣きます。集会の妨げ
になるからと、集会の場から外に連れ出します。それで親もその赤ん坊も集会を去るのです。
どうしたらいいでしょうか。そこに工夫が必要となります。
 もうほんのちょっと育つと、今度は、泣いて騒ぐと、集会場のそとに連れ出してくれて、あやし
てくれることを、覚えます。そして、あやしてもらいたくて意図的に騒ぐようになります。どうしたら
いいでしょうか。たとえ赤ん坊でも、意図してそうできるようになったら、叱ることができるように
なったのです。そうなればお尻をたたいて叱ることも通用するのです。
もう少し大きくなってもまだ、集会場から抜け出して息抜きをさせるようなことを、させていたら、
すぐ親のコントロールできない子どもになるでしょう。
 就学年齢に達したら、学校行事だ、友達とのつきあいだと、集会を休む理由がたくさん生じて
きます。集会にいさせ続けるにはどうしたらよいでしょう。この世の勉学、学問やこの世の付き
合い、また子ども自身の願望、快楽といったものに対する親の価値観が問われるのです。
 子どもが学校のサッカー部に入りたいといいだしたとします。それを許可したら、きっとその
子は集会には出られなくなります。「この子からサッカーを取り上げることなどできない。」などと
いっている場合ではないのです。その子はサッカーと引き替えに永遠のいのちを失う、そういう
瞬間なのです。
イエスはこう言われました。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マ
タイ16:26)
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾
倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19:29)
彼はイエスのために一時サッカーを捨てるかも知れません。しかし、その幾倍をもこの世で受
け、「永遠のいのちを受け継ぐ」のです。集会を去って、この世でサッカーを獲得したら、彼が
永遠のいのちを受け継ぐ期待はいっぺんに萎んでしまいます。親はそれに気づき、彼を説得
する説得力を持たなければなりません。その年齢に達するまでに、親と教会、牧師の助言に従
うことの出来る子どもにしておかなければならないのです。
「信仰の戦いを勇敢に戦い、・・・なさい。」(Iテモテ6:12)というみことばを皆さんは覚えておられ
るでしょう。そしてそうだ自分もその戦いを戦おうと思っているでしょう。しかし、自分の子どもか
らサッカーを取り上げることが、その信仰の戦いであることに気づかないのではありませんか。
もちろん、取り上げた以上のものを、どうやったら与えることができるか、それも工夫を要する
重要な問題であり、信仰の戦いなのです。
 大学に進学する頃には、遠くの学校に行き、教会と親元を離れたがる、少しでも遠くにいきた
いということがおきてきます。自分はこれこれの勉強をしたいが、それはあの遠くの学校しかな
いと、もっともな理由をつけて、親を説得にかかります。そのどこそこにはこういう教会があっ
て、そこにいくから大丈夫、心配しないで・・と、親の意見に蓋をします。単に自分の意図をすり
替えただけの場合もありますが、本当にそれを学びたくて、ということもあります。けれども、
「集会を去っていく」ことは、同じ結果を招きます。サッカーが形を変えて顕れただけなのです。
 卒業すると、就職のために遠くにいきます、とまた同じことが繰り返されます。
 どの段階でも、牧師と両親に「従う」ことができるかどうかが問われます。従うことが1つでき
ないと、親の1000の模範が全部空しくなります。
 子どもを教育するとは、知識を与えることはほんの片隅のことで、神を畏れて「従う」心を持た
せることです。神を畏れるとは、「牧師と両親に従う」ことであることを知らなければなりません。
牧師に従わず、両親に従わず、神を畏れているなどということはありえません。
 その教育は子どもがごくごく小さいときに始めなければなりません。大きくなってから、にわか
に従うということはできないのです。
 皆さんは「信仰の善き戦い」をどこにいって戦おうとしておられるでしょうか。
その戦いは子どもを育てる中にあります。
信仰の善き戦いを戦い抜こうではありませんか。
 その報いは大きく、こどもが永遠のいのちを獲得するのですから。





戻る
戻る