「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、
記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」
(申命記 11:18-19)
自分の子どもを救いたいと思うなら、以下の単純な事実を知っていなければなりません。そ
れは、「信者の家庭で育った人であるか不信者の家庭で育った人であるかに関係なく、教会の 集会に出席している人が救われる」ということです。もちろん、牧師はじめ信者が救われたキリ スト者であり、いのちのある教会であり、いのちのある集会がなされていることを前提としてい ます。
それを皆が知っているはずなのですが、子育ての時にその事実を自分の子どもに当てはめ
て考えられないのでしょうか?
もし信者の子どもが、教会の集会からいなくなったら、その子が救われることを期待できるで
しょうか。恐らくその場合も集会にいる場合と同じように、「信者の家庭に育ったか不信者の家 庭に育ったかに関係なく、神の憐れみによって残された1%ほどの人が救われる可能性があ る」だけでしょう。これが日本の教会の現状を示しているのではないでしょうか。その場合でも 1%ほどのひとが集会に戻ってきて救われるのです。
教会の集会はすべて家族全員が出席することが当然なのですが、日本ではこの当然が失わ
れている教会が圧倒的に多いことに、50年近くも信仰生活をした後に、周囲の教会を見回し てはじめて気づきました。筆者は母の膝に上り下りしているときから、集会は全部家族全員が 一緒に出ていましたし、救われ、信仰生活をさせていただいてきた教会はそうであったので す。
ルカの福音書に載っているイエスが12歳のときの記事を考えてみるとよいのです。彼らが家
族全員そろって、礼拝のためにガリラヤからエルサレムまで出かけていった様子が分かるで はありませんか。礼拝はヨセフとマリヤだけで、子どもは家に残るのではありませんでした。
「礼拝を子どもと一緒に守りましょう」ということを広めている神学校の先生がいます。その運動
が広まるように大いにエールを送りたいと思います。大人だけが礼拝に座っているという悲しい 現実が速やかに打破され、家族全員が座る礼拝となりますように、そしてさらに私たちの教会 のように、礼拝、伝道会、祈祷会が毎週なされ、そのすべての集会に家族全員が出席するよう に、日本中の教会がそうなるように願ってやみません。
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