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神への道
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:19)
使徒ヨハネの「神は愛です。」(ヨハネT4:8)という言葉、その真実の意味を人々に理解させるこ
とができさえすれば、私はそのたった1つの御言葉だけを携えて、この栄えに満ちた真理を宣 べ伝えるために世界中を駆け巡ることでしょう。
例えばもしあなたが、愛する誰かに、あなたの愛を心の底からわかってもらえたとしたら、あ
なたはその人の心を勝ち取ったことになるのではないでしょうか。そしてもし私達が、本当に本 当に私達人間は神に愛されているのだ、(下線訳者)ということを人々に心から信じてもらうこと が出来たとすれば、天の御国にその人々が群がり入っていくところを目の当たりにしたも同然 ではないでしょうか。
問題なのは、人々が、自分は神に憎まれていると思い込んでいること、それ故にいつも神か
ら逃げ回っていることなのです。
・焼き付けられた聖句
私達は数年前シカゴに教会を建て、人々に神の愛を伝えようと非常に熱心でした。私達はも
し神の愛を人々の心の中に説教によって植え付けることが出来ないのなら、それを焼き付けて (下線訳者)みようと考えました。そこで私達は講壇の真上にあるガス燈の灯りの中に「神は愛 です。」の御言葉を据えてみたのです。
ある晩、一人の人が通りすがりにドアの隙間からその聖句をちらりと見ました。彼は哀れな
放蕩者でした。通り過ぎながら、彼は心の中でこう思いました。"『神は愛です。』だって!とんで もない。神は僕のことなんか愛してるもんか。なぜなら僕は貧しく惨めな罪人だからだ。"
彼はその聖句を思いから振り払おうとしました。しかしそれは炎の文字となって彼の目の前
に浮き出て来ます。数歩歩きかけはしましたが、すぐに彼は踵を返して戻り、とうとう集会に入 って行ったのでした。説教の言葉は彼の耳に入りませんでした。しかしあの短い聖句だけは彼 の心の奥深くに突き刺ささりました。そしてそれで十分でした。もし神の言葉が罪人の心の入 口に届きさえすれば、人間が何を語りかけるかはさして重要ではありません。彼はそのはじめ ての集会が終わった後もその場に残り、子供のように泣きじゃくっていました。
私は御言葉を開き、彼が神を遠く離れてさまよっている間もどんなに神はいつも彼を愛し続
けておられたか、そして彼を赦し受け入れようとどんなに待ち続けておられたか、を語りまし た。すると福音の光は彼の心に入りこみ、彼は喜びながら帰って行きました。
世の人々は愛することにこの世で最高の価値を置きます。もし誰からも愛されず気にも留め
られていない人がいるとしたら、その人こそこの地上で最もみじめな存在でしょう。自殺をする 人々もその動機の大きなものに、自分は誰にも愛されていないという思いがあるようです。微 かに忍び込んだその思いが、そんな人生を続けることよりもむしろ死を選ばせるのです。
聖書のどこを探しても、神の愛という真理ほど力強くまた注意深く私達が心に示されるべきも
のは他にありません。そしてこれほどサタンが消し去りたいと強く願っているものも他にはあり ません。なぜならサタンは六千年以上もの間、私達人類が自分は神に愛されていないと思い 込むように、努め続けてきたのですから。サタンは私達の最初の祖先にこの嘘を信じ込ませる のに成功し、しばしばその子供達にも成功を収めてきたのです。
・どんな時神は愛してくださるのか
神に愛されていないという思いの多くは、間違った教育が原因です。母親は子供に、「悪いこ
とをすると神様は愛してくださいませんよ。神様は良いことをする時だけ愛してくださるのよ。」 と、間違った教え方をします。これは聖書的ではありません。親は自分の子に、「悪いことをす ると私はあなたを憎みますよ」とは言いません。子供の悪い行いによって親の愛が憎しみに変 わるわけではないのです。もしそうだとしたら、親は幾度愛と憎しみの間を行き来しなければな らないでしょう。子供が怒りっぽいからとか、言うことをきかないからといって、親は、その子が 自分の子ではないかのように、追い出したりするでしょうか。決してそんなことはしません。それ でもその子は自分の子であり、親は子供を愛しています。神も、私達がそむいたからといって 憎むことはなさいません。ただ罪を憎まれるのです。
私はこう確信しています。非常に多くの人々が、自分は神に愛されていない、と思
う理由は、自分の見地から、自分の小さなはかりで、神をはかってしまっているからであると。
人間は、相手が愛するに値すると思う間だけ愛します。そして、もし相手にその価値がなくなれ ば、見限ってしまいます。しかし、神はそうではありません。人間の愛と神の愛との間には非常 に大きなひらきが存在します。
・ 神の愛の範囲
エペソ人への手紙3章18節に、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さが語られています。
今日、私達の多くは、自分達は神の愛についてある程度は理解している、と思っています。し
かし、数百年の後には、自分たちが神の愛の何ほどのことも見出していなかったことを認めざ るを得ないことでしょう。コロンブスはアメリカ大陸を発見しました。しかし彼は、そこにある大き な湖や川、森林やミシシッピ川流域について、どのくらい知っていたでしょうか。彼は自分が発 見したものについてほとんど知ることなく死んだのです。
同様に,私達は神の愛の幾ばくかは見出しましたが、そこには私達の知らない高さ、
深さ、長さがあります。神の愛は大きな海です。そして私達はその何ほどもよく知らないうちに
そこへ飛び込む必要があるのです。パリの或るローマカトリック大司教についてこんな話があ ります。彼は刑務所に入れられ、銃殺刑が宣告されていました。死刑場へ連れ出される直前、 彼は独房の窓が十字架に見えたそうです。その縦棒の一番上に、彼は「高さ」と書き、一番下 には「深さ」と、そして横棒の両端には「長さ」と書きました。彼はかつて、次のように讃美歌に 歌われている真理を体験したことがあったのです。
栄えの君がそこで
死んでくださった
その驚くべき十字架を
私が仰ぐとき
(インマヌエル讃美歌75番「さかえの主イエスの」)
神の愛を知りたいと願うなら、カルバリへ行かねばなりません。あの十字架の光景を見下し
て、神は私達を愛していない、と言える人が誰かいるでしょうか。十字架は神の愛を教えます。 十字架が伝える愛より大きな愛は、かつて語られたことがありません。神がキリストを与えてく ださったのは、そしてキリストがいのちを捨ててくださったのは、愛からでなくて何でしょう。「人 がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」キリ ストはその敵のためにいのちをお捨てになりました。ご自身を殺した者達のためにいのちをお 捨てになりました。ご自身を憎む者達のために・・・。十字架の精神、カルバリの神髄は愛で す。あの場所で、あざけられ、ののしられた時、主は何と言われたでしょうか。「父よ。彼らをお 赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」これが愛です。主は彼らを 焼き滅ぼすために天から火を呼び下すことはなさいませんでした。あの時、主の心の中には愛 のほか何もなかったのです。
・神の愛は変わらない
聖書を学んでみると、神の愛が不変であることを見出すでしょう。人間の愛ならば、ひとたび
は愛しても、いつしかその愛も冷えてしまい、去って行くことも多くあります。時には愛が憎しみ に変わってしまうことさえあるでしょう。しかし神の愛はそうではありません。イエス・キリストにつ いてこう記されています。主が弟子たちに見捨てられ、カルバリへと引き渡されるまさにその 時、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示され」(ヨハネ13:1)たの です。主は弟子の一人に裏切られることをご存知でしたが、それでもユダを愛されました。別 の弟子が主を否定し、決して知らないと誓うことをご存知でしたが、それでもペテロを愛された のです。主は変わらぬ愛をもってペテロを愛し続けておられ、その愛こそが、ペテロの心を砕 き、悔い改めさせ、彼の主の足もとへ連れ戻したのです。3年の間、イエスは弟子たちと共に おられ、生活と言葉によってだけでなく、ご自身の御業によって、その愛を教えようと努められ ました。そして、引き渡される夜、主はたらいに水を入れ、手ぬぐいをまとわれ、しもべのように 弟子たちの足を洗われました。主は弟子たちにご自身の変わらない愛を悟らせようとなさった のです。
私にとって聖書の中で、ヨハネの福音書14章ほど何度も繰り返し読み、そして非常に甘美な
箇所は他にありません。この章は決して私を飽きさせません。主が弟子たちに対してご自身の 心を注ぎ出しておられる次の御言葉に耳を傾けてください。「その日には、わたしが父におり、 あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 わ たしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父 に愛され」(14:20〜21、強調点筆者)ます。天と地をお造りになった偉大な神が、私達を愛して おられる、ということを考えてみてください。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守 ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人 とともに住みます。」(23節)
御父と御子が、私達のところに来て共に住まうことを願われるほど、私達を愛しておられると
いう、この偉大な真理を、私達の貧しい心がとらえることを神は望まれたのです。一晩の宿な どというのでなく、来て私達の心の中に住まわれるほどに…。
さらに素晴らしい一節は、ヨハネ17章23節にあります。「わたしは彼らにおり、あなたはわた
しにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣 わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るため です」(強調点筆者)。これはイエス・キリストの御口から発せられた御言葉の中で特筆すべき もののひとつです。御父が御子を愛されない理由はありません。御子は死に至るまで御父に 従い通されました。決して御父の定めに背かれなかったし、全き従順の道から一歩たりとも脇 へそれたことはありませんでした。私達人間は全く正反対です。しかし、その人間のあらゆる反 逆や愚かさにもかかわらず、主は、私達がキリストに信頼しているなら、御父は御子を愛する ように私達を愛してくださる、とおっしゃいます。なんという愛でしょう!なんと素晴らしい愛でし ょう!神が、ご自分のひとり子と同じように強く私達を愛してくださるなんて、あまりに素晴らしい ので信じがたいほどです。しかし、それはイエス・キリストの教えなのです。
罪人に神の不変の愛を信じさせるのは困難です。人が神から迷い出る時、自分は神に憎ま
れている、と思うからです。私達は罪と罪人との区別をしなくてはなりません。神は罪人を愛さ れますが、罪を憎まれます。神が罪を憎まれるのは、罪が人の生涯を破壊するからです。神 が罪を憎まれるのは、ただ罪人を愛しておられるからなのです。
・神の愛は絶えることがない
神の愛は変わらないというだけでなく、絶えることのないものです。イザヤ49:15−16にこのよ
うに記されています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろ うか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
私達の知り得るもっとも強い愛は母親の愛です。人がその妻と別れる理由はたくさんあるで
しょう。父親は子供に背を向けることもあるかも知れません。兄弟や姉妹ならば、根深く対立す ることもあります。夫が妻を捨てることもあるでしょう。或いは妻が夫を…。しかし、母親の愛は すべてを耐え忍びます。世の人々がなんと言おうと、たとえ全世界が非難しようとも、母親はわ が子を愛しつづけ、その子が悪の道から立ち返り、悔い改めてくれることを願います。母親は、 赤ちゃんの頃の微笑みや、子供の頃の陽気な笑い、青年期に抱いた期待を覚えています。そ して、わが子が無価値な人間だという考えには決して至らないのです。さらに、死も母親の愛を 押さえつけることはできません。それは死よりも強いのです。
重病の子を看病している母親を見たことがあるでしょう。彼女は、もしそれでわが子を救える
のなら、どんなにか喜んで、代わりに自分が病気になりたいと願うでしょう。来る日も来る日も、 彼女は看病を続け、誰にもそれをさせようとはしません。
・この子は私の息子、私は今でもずっとこの子を愛する
しばらく前、私の友人がある立派な屋敷を訪れ、非常に多くの友人達と会った時のこと、皆が
帰った後、彼は忘れ物をして取りに戻ったのだそうです。すると、その家の裕福な夫人が、浮 浪者のようなみすぼらしい男の陰に座っていました。その男は、放蕩息子のように遠く家を離 れさまよっていたのです。しかし、その母親は言いました。「この子は私の息子です。私は今で もずっとこの子を愛しています。」9人か10人の子を持つ母親がいたとして、もしそのうち1人が 道を踏み外したとしたら、彼女はその子を他の子たちより一層愛するのではないか、と思われ ます。
ニューヨーク州に住むすぐれた牧師の一人が、ある非常な悪人である父親について私に語っ
てくれました。母親の方は、息子が堕落するのを阻止するために出来る限りのことをしました が、父親の影響力はさらに強かったそうです。彼は息子をあらゆる種類の罪へと導き、その若 者は最悪な犯罪者の一人となってしまいました。彼は殺人を犯し、裁判中でした。裁判の間 中、未亡人である母親は――父親はすでに死んでいたので――法廷に座っていました。証人 が、息子に不利な証言をする時は、彼より母親のほうが何倍も傷つけられているようでした。 彼が有罪と評決され、死刑判決が下された時、他の人々は皆、評決の公正なことを感じ、結果 に満足な様子でしたが、母親の愛は決してたじろぎませんでした。彼女は執行猶予を請求しま したが、認められませんでした。死刑執行の後、遺体の引渡しを切に願いましたが、この願い もまた退けられました。慣例によって、遺体は刑務所の構内に埋葬されたのです。その後まも なく母親自身も死にました。しかし、生前彼女は、息子の隣に埋めてほしいという願いを表明し ていました。彼女は殺人者の母として知られることを恥としなかったのです。
スコットランドのある若い女性のこんな話があります。彼女は家出をし、グラスゴーで浮浪者
となっていました。彼女の母親は、いたるところを探しまわりましたが、徒労に終わりました。つ いに、その母親は娘の写真を深夜伝道所の壁に掲示してもらうことにしたのです。そこにはあ ばずれ女たちがよく出入りしていました。多くの人は写真をチラッと見るだけでしたが、一人の 人が立ち止まりました。その写真の顔は彼女が子供の頃、彼女をじっと見つめてくれたあの愛 しい顔にそっくりでした。母は、罪の中にいるわが子を、忘れ去っても見捨ててもいなかったの です。そうでなければ、この写真がここにあるはずはないのですから。その唇はかすかに開い て、こう囁いているようでした。「さあ帰っておいで。私はあなたを赦しているわ。今でもずっとあ なたを愛しているのよ。」
その哀れな娘は、激情に圧倒されてうずくまりました。彼女こそが放蕩娘だったのです。母親
の顔が目に浮かび、心が砕かれました。彼女は自分の罪を真実に悔い改め、心いっぱいに嘆 きと恥じらいを持って、かつて自分が捨てた家へ帰りました。そして母親と娘は再び結び合わさ れたのです。
・母の愛に優る神の愛
しかし、どんな母の愛も、神の愛とは比べることは出来ないことを、言わなければなりませ
ん。母の愛は、神の愛の高さにも深さにも及ばないのです。この世のどんな母親も、神が私達 を愛するように自分の子を愛した人はいません。御子を、世のためにいのちを捨てる目的でお 与えになった時、神が間違いなく持っておられた愛を考えてみてください。私自身はかつて、御 父より御子の愛が、より重いもののように考えていました。なぜか私は、神は厳格な審判者で あって、キリストは神と私との間に立ち、神の怒りを和らげてくださるのだ、という考えを持って しまっていたのです。けれども、私自身も父親になり、数年間息子が一人だけという時期があり ました。その時その息子を見るにつけ、私は御父が御子をいのちを捨てるために与えてくださ ったことを思い、その思いは宛も、死んでくださった御子よりも御子をお与えになった御父をよ り愛することへ、私の心を引き付けるかのようでした。
ああ。御父が御子を、世のためにいのちを捨てる目的で与えてくださったとは。神はどれほど
世を愛しておられたのでしょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 私は今まで一度 もこの聖句で説教を出来たことがありません。何度かしようとしたことはあります。しかしそれ は、高すぎて超える事の出来ないハードルでしたので、いつもちょっと引用する程度で通り過ぎ て来ました。誰が、「神は…ほどに世を愛された。」という言葉の深さを測ることが出来るでしょ うか。私達は決して神の愛の高さも深さも測ることは出来ません。パウロは、神の愛の高さ、深 さ、長さ、広さを知ることが出来るようにと願いました。しかしそれは、彼の能力をはるかに超え ていました。「人知をはるかに越えた」(エペソ3:19)
・キリストの十字架と神の愛
キリストの十字架ほど、神の愛を物語るものはありません。ご一緒にカルバリへ心を向け、そ
こで磔にされている神の御子を思い描いてみましょう。死に行く主の唇からの刺すような叫び が聞こえませんか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからない のです。」それを聞いて尚、神は私を愛していない、と言うのですか。「人がその友のためにい のちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)しかし、イエス・ キリストはその敵のためにいのちをお捨てになったのです。
もうひとつ大切な事は、神は、私達が神を知るずっと以前から私達を愛しておられたというこ
とです。人間の側が最初に神を愛さなければ、神は愛してくださらない、という考えは聖書的で はありません。ヨハネの手紙第一4:10に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛 し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるので す。」とあります。神は、私達が初めて、神を愛するということを考える前に私達を愛してくださ いました。私達は、自分の子供達が親の愛について何も知らないうちから、子供達を愛しま す。同様に、私達が神を思うずっと以前から私達は神の御思いの中にいるのです。
放蕩息子を連れ戻したものはなんだったのでしょうか。それは、父親が自分を愛している、と
いう思いです。もし、父親は彼を見捨て、もう気にも留めていない、という知らせが息子のところ へ届いたとしたらどうだったでしょうか。彼は家へ戻ったでしょうか。いいえ、決して戻らなかっ たでしょう。しかし実際は、彼の心の中に、父親が今でも自分を愛しているという思いが、生き 生きと浮かび始めました。それで彼は立ち上がって、故郷へ帰っていったのです。
皆さん。御父の愛は、私達を必ず主のもとへ連れ戻します。神の愛を明らかにしたのはアダ
ムの悲劇と罪でした。アダムが罪に堕ちたとき、神は降りて来られ、あわれみのうちに彼をお 扱いになりました。もし、ひとつの魂が失われてしまったとしたら、それは神が愛しておられない からではなく、その人が神の愛を拒んだからです。
・天国の魅力
天国の魅力とは何でしょうか。真珠をちりばめた門でしょうか。それとも黄金色の通りでしょう
か。いいえ。天国の魅力とは、そこで私達が、ひとり子をお与えになったほどに私達を愛してく ださった神にお会いできることです。家庭の魅力とは何か、とお考えいただければわかると思 います。それは美しい家具や広々とした部屋がたくさんあることでしょうか。いいえ。そのような 家は時として、白く塗った墓のようです。
ある時、ブルックリンで一人の母親が死にかけていました。彼女の子供は小さくて、病気のこ
とを理解できず母親を悩ませたので、その子を母親から引き離す必要がありました。毎晩その 女の子は、近所の家で泣きながら寝入っていました。彼女はお母さんのいる家へ帰りたかった のです。しかし母親の容態はますます悪くなり、人々はその子を家へ連れて行く事は出来ませ んでした。そしてついにその母親は死に、人々はその子に棺の中の母親の死に顔を見せない 方が良いと考えました。葬儀の後、その子は自分の家の一つの部屋へ「ママ!ママ!」と叫び ながら入って行きました。やがて別の部屋へ「ママ!ママ!」と叫び、そのように家中を探しま わりました。とうとうその哀れな少女は、最愛の人を見つけることが出来ずに、近所の家へ泣く 泣く連れて行かれました。同じように天国を魅力的なものにしているのは、私達を愛し、私達の ためにご自身を与えてくださったキリストにお会い出来るという思いです。
もし、なぜ神は私達を愛されるものなのかと問われたら、私は答えられません。たぶんそれ
は、神が真の父だからではないかと思います。太陽の性質が輝く事であるように、愛すること は神の御性質なのです。神は私達と愛を分かち合う事を望んでおられます。疑いはあなたを 神から引き離します。それをそのままにしていてはいけません。あなたが罪人だからといって、 神があなたを愛していないとか気にも留めていないとか考えてはいけません。確かに神はあな たを愛しておられます。あなたを救おうと、そして祝福しようとしておられるのです。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでください
ました。」(ローマ5:6) 神があなたを愛しておられることを納得するのにこの御言葉は十分では ないのでしょうか。もし主があなたを愛しておられなかったらあなたのために死にはしなかった でしょう。神の愛に逆らって立ち、その愛を拒みさげすむほど、あなたの心はかたくななのです か。確かに、そうすることはあなたの自由です。しかしその刈り取りもしなくてはなりません。
恐らくこう言う人もいるでしょう。「神は私達を愛してくださると信じています。でもそれは、私達
が神を愛するならば、のことです。神は清らかで聖なる者だけを愛しなさると信じています。」皆 さん。聞いてください。神は、清らかで聖なる者だけを愛するのではなく、不敬虔な者も愛してく ださるのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださ ったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)神は 御子を全世界の罪の代価としていのちを捨てるためお遣わしになりました。ですからもしあな たが世界に属しているなら、キリストの十字架において示されたこの愛と深く関わっているので す。
・チャーリー・ロスの誘拐
黙示録1章5節の中に「我等を愛し、そして洗いきよめ給う主(英欽定訳)」という私の深い思
いのある聖句があります。もしかするとこう思われるかもしれません、"神はまず私達を洗いき よめ、それから愛される、"と。しかし、そうではありません。神はまず"愛される"のです。数年 前、チャーリー・ロスという4才の子が誘拐された事件で国中が大騒ぎしました。馬車に乗った 二人組の男がチャーリーとその兄にキャンディーはいらないかと声をかけ、そして兄の方を残 して弟だけを連れ去ったのです。何年もの間、あらゆる州と地域で捜索がなされました。さらに イギリス、フランス、ドイツにも渡り、捜索は続けられましたが、その甲斐はありませんでした。 しかしチャーリーの母親は、この長く失われている息子にもう一度会う希望を失わずにいます。 私の記憶の中で、これほど国中が激しく揺れ動いた出来事は、他にはガーフィールド大統領の 暗殺ぐらいです。
さて、そのチャーリーのお母さんが、ある集会に座っていたと想像してみてください。そして説
教者が話している時、彼女がふと聴衆席に目をやると、その中に長く失われていた彼女の息 子を見つけたとします。その子はみすぼらしく、汚れたぼろぼろの服を着、靴も上着も身に着 けていません。母親はどうするでしょうか。彼が体を洗って、きちんとした身なりになるまでは、 自分の子と認めないというようなことがあるでしょうか。いいえ。彼女はすぐに席を立って子供 に駆け寄り、その子を腕に抱くでしょう。その後で体を洗ってやり、服を着せるでしょう。
神も同様です。神は私達を愛し、そして洗いきよめてくださるのです。ある人はこう言うでしょ
う。「もし神が私を愛しておられるなら、なぜ私を強いて良い人間にならせないのか。」神が御 国へ入れなさりたいのは、息子や娘なのです。ロボットや奴隷ではありません。神は、私達の 頑なな心を砕くことはお出来になります。しかし、神は私達を、愛の絆をもってご自身のところ へ引き寄せたいのです。
神は、あなたを洗いきよめ、雪よりも白くし、子羊の婚姻の宴の席に共に座ることを望んでお
られます。また、彼方の喜びに満ちあふれた世界で、水晶の道をあなたと共に歩くことを望ん でおられます。あなたを神の家族の一員として迎え入れ、天国の息子また娘としたいと願って おられます。あなたは神の愛を足の下に踏みつけますか。それとも今この時、あなた自身を神 の御手に委ねますか。
・マザーズタッチ
あの悲惨だった南北戦争の最中、一人の母親に息子がウィルダネス(訳注:南北戦争の激
戦地、ヴァージニア州北東部)の戦いで負傷したとの知らせが届きました。当時陸軍省から、 女性はそれ以上戦線を超えて中へ入ってはならない、との命令が出されていましたが、彼女は 取るものもとりあえず汽車に乗り込み息子に会いに向かいました。母の愛は軍の命令をものと もせず、涙ながらの懇願をもってなんとかウィルダネスへの戦線を通過できました。そしてつい に彼女は息子のいる病院を見つけたのです。彼女はすぐに医者のところへ行き、病室で息子 を看病して良いかとたずねました。医者は、「たった今息子さんを眠らせたところです。病状は とても深刻で、もしあなたが彼を起こしてしまったら、お母さんに会うことの興奮があまりに大き くて命に関わる危険があります。私から彼にお母さんが来ておられることを話しますので、彼に このことが徐々に伝わるように病室の外でもうしばらくお待ちになってはいかがでしょう。」と言 いました。すると母親は医者の顔を見つめながらこう訴えたのです。「先生。ですが逆にもしあ の子がもう目を覚まさなかったとしたら、私は生きて息子に会えないことになるのです。どうか 息子のそばに座ることを許してください。決して話しかけたりしませんから。」「話しかけないの ならいいでしょう。」医者は許可しました。彼女はそっと息子のベッドに近づき、顔を覗き込みま した。どんなにこの時を待ち焦がれたことでしょう。息子の姿を見ることができて、彼女の目ま でがどんなに喜びに満ちていたことでしょう。顔を近づけるにつれて、彼女は我慢できなくなっ て、その優しい愛情のこもった手を息子のおでこに乗せました。その手が額に触れたとたん、 彼は目をつぶったまま叫びました。「お母さん。来てくれたんだね!」息子は母の愛に満ちた手 の感触を知っていました。そこには愛と深い思いやりが込められていました。
・イエスの優しさ
ああ。罪人よ。もしあなたがイエスの愛の御手を感じるなら、それが主のものであることを認
識するでしょう。それはなんと優しさに満ちていることでしょう。この世はあなたに対して冷酷か も知れません。しかしキリストは決してそうではありません。あなたは世界中で彼以上の友を見 出すことは絶対にできません。あなたがなすべきことは、今日主のもとへ行くことだけなので す。主の愛の御腕に抱かれ、愛の御手で触れていただきましょう。そうすれば主はあなたを全 能の御力で包んでくださいます。主はあなたを守り、あなたの心を愛と優しさで満たしてください ます。
こう尋ねる人もいるでしょう。「主のもとへ行くにはどうしたら良いですか。」その答えは、ただ
あなたのお母さんのところへいくようにすれば良いのです。あなたはお母さんをひどく傷つけた り、彼女に対してとても悪いことをしたことがありますか。もしあるならあなたは彼女のところへ 行って、「お母さん。赦してください。」と言いなさい。そしてキリストに対しても同じようにするの です。今日主のところへ行き、今まで主を愛していなかったこと、神と正しい関係でなかったこ とを告げ、罪を告白しなさい。あなたはどんなに速やかに神があなたを祝福してくださるかを知 るでしょう。
・アブラハム・リンカーンの赦免
私はもう一つの出来事を思い出します。それは、軍法会議にかけられ銃殺刑を言い渡された
青年の話です。その知らせを聞いて、両親は悲しみで心が引き裂かれそうでした。その家には 小さな娘がおり、彼女はアブラハム・リンカーンの伝記を読んだことがありました。その子は両 親に、「ねえ。お父さんとお母さんがどんなにお兄ちゃんを愛しているか、もしリンカーンが知っ たらお兄ちゃんを死刑になんかさせないでしょうに。」と言いました。彼女は、お父さんにワシン トンへ行ってお兄ちゃんの命乞いをしてほしかったのです。しかしお父さんは言いました。「無 駄だよ。法律は変わらないさ。軍法会議の判決に対して、一人二人の人が赦免を願ったが、 聞き入れられず命令は執行された。大統領も干渉することはない。軍法会議で判決が下され れば、その結果を受け入れるしかないんだよ。」
両親は息子が赦免されるかもしれないという思いを抱く事は出来なかったようです。が、その
娘は強い希望を持っていました。彼女はヴァーモント(訳注:米国北東部の州。州都Montpelier からWashington D.C.までは直線距離で約700km)から汽車に乗り、ワシントンへ向かいました。 ホワイトハウスに着くと、兵士達ははじめ彼女を中へ入らせませんでしたが、その哀れな話を 聞くと通らせてくれました。次に秘書室へ行くと、やはり大統領秘書は大統領のプライベートオ フィスへの立ち入りを禁じましたが、彼女の話を聞くと心を打たれ、中へ入れてくれました。
ついにリンカーンの部屋へ入ると、そこには合衆国の上院議員や将軍、司令官、主な政治家
たちがいました。彼らは戦争について重要な会議をしているところでしたが、大統領は入口の ところに立っている子供にふと目をやり、何を望んでいるのか尋ねました。彼女はまっすぐに大 統領のところへ行き、例の話を自分自身の言葉で伝えました。大統領も一人の父親でした。大 粒の涙がアブラハム・リンカーンの頬を流れ落ちたのです。彼は、すぐにその子の兄をワシント ンへ来させるようにとの緊急指令書を陸軍へ送りました。その青年が来ると、大統領は彼を赦 免し、30日の休暇を与え、両親の心を元気付けるように妹と共に家へ帰らせました。
あなたはキリストのところへ行く方法を知りたいですか。それは丁度この少女がリンカーンの
ところへ行ったようにすればよいのです。もしかするとあなたの持っているのは、彼女のものの ようではなく、もっと暗い話かもしれません。それでもそれをすべて告白しなさい。一つも包み隠 すことのないように。リンカーンが少女の話を聞いて同情しそれに答えたのなら、主イエスがあ なたの祈りに答えてくださらないはずがあるでしょうか。アブラハム・リンカーンが、いやこの地 上に生きたどんな人でも、キリストと同じくらいの憐れみの心を持っているでしょうか。いいえ。 他の誰もがあなたの話に無関心でも、キリストは心を動かされなさるのです。他の誰もが無慈 悲な時でも、彼だけは慈悲深くあられるのです。他の誰もがそうでなくとも彼だけは憐れみの心 を持っておられるのです。もしあなたがまっすぐにキリストのところへ行き、罪を告白し、願いを 訴えるなら、彼はあなたを救って下さるのです。
・ 囚人の釈放
数年前、ある若者がイギリスを離れてアメリカへ移住しました。彼はイギリス人でしたが帰化
してアメリカの市民権を得たのです。しかし2、3年すると彼は不安と満たされない思いを感じる ようになり、今度はキューバへ渡りました。それから間もなく、そこで内紛が勃発します。1867 年のことなのですが、なんとこの人がスパイの容疑でスペイン政府に逮捕されてしまったので す。彼は軍法会議にかけられ、有罪の判決を受け、銃殺刑が言い渡されました。裁判のすべ てがスペイン語でなされていたので、この哀れな人は何が行われているのかわかりませんでし た。
有罪であり銃殺刑を宣告するとの判決を聞かされた時、彼はアメリカとイギリスの領事へ使
いを送り、自らの無罪を証明し保護を求めるために彼等にすべての真相を提示しました。領事 たちはその申し立てを審理し、このスペイン人官吏に銃殺刑を宣告された人は、実は完全に 無罪であることを見出しました。彼らはスペイン人の将軍のところへ行き言いました。「あなた が死刑を宣告したこの男は潔白です。彼には何の罪も見出せません。」ところがスペイン人の 将軍は、「彼は我々の法律で裁かれ、罪があると認められました。死刑にされなければなりま せん。」と答えたのです。そこには国際電話なども無く、領事たちは母国の政府に相談すること も出来ませんでした。
とうとう彼が処刑される朝が来ました。彼は荷馬車の上で自分の棺桶にすわり、処刑場へ引
かれて行きました。墓穴が掘られ、棺桶が荷台から降ろされます。彼はその上に立たせられ、 黒い帽子で顔を覆われました。兵士たちは「打て」の命令を待っています。
丁度その時、アメリカとイギリスの領事が馬車で駆け付けました。イギリス領事は馬車から飛
び降りると、イギリス国旗ユニオンジャックを取り出し、その(処刑されようとしている)人の体に 巻き付けました。アメリカ領事も星条旗で同様にすると、二人はスペイン人官吏の方へ向き直 り、「撃てるものなら、あの旗の上から撃ってみなさい。」と言いました。スペイン軍人達にその 勇気はありませんでした。その旗の背後には二大国の政府が控えていたのです。それがこの 作戦のポイントでした。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。・・・あ
あ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2: 4,6) 神に感謝します。今日もし私達が望むなら、その旗じるしの許へ行くことが出来るので す。どんなに哀れな罪人も、今日神の御旗の許へ招かれているのです。神の愛の御旗は私達 を覆っています。なんと幸いな福音でしょう。なんと祝福に満ちた良きおとずれでしょう。今日こ れを信じ、心に受け入れなさい。そして新しいいのちに入りなさい。今日、聖霊によってあなた の心を神の愛に満たしていただきなさい。そうすれば、闇は追い払われ、暗い心は吹き飛ばさ れるでしょう。罪は拭い去られ、平安と喜びはあなたのものとなるでしょう。
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