キリスト伝  

第5章 民衆に歓迎された年

ガリラヤにて

66.
その年を南で過ごした後、イエスは彼の活動の範囲を国の北側に移した。
ガリラヤでは、彼は聖職者や学のある階級の人々の本拠地であるユダヤでのような偏見や傲
慢なうぬぼれから離れた純真な人々に自分を表すことができたことであろう。そしてかれは以
下のことを望んだかも知れない。すなわち彼の教えと影響力が国の一角に深く広まるならば、
仮にそこが権威者たちの中心から離れていたとしても、圧倒的に国民知られることを背景にし
て南に戻り、偏見の要塞それ自体をも吹き飛ばすことができるであろうと。
  
67.
ガリラヤ・・続く18ヶ月間の彼の活動の範囲はきわめて限られていた。
パレスチナは全体でも非常に小さな国であった。
その長さは100マイルでスコットランドよりも小さく、その幅は恐らくスコットランドの平均の幅よ
りも小さかった。
このことを記憶しておくことは大切である。というのはイエスの運動が国中に急速に広まったこ
とに納得がいくのである。そして彼の伝道に国のあらゆる領域から人々が集まってきたのであ
った。そして以下の図式を覚えておくことは興味深いことである。世の文明に寄与した国家は、
真に偉大な期間は、非常に狭い領域に限られていたからである。
ローマはほんの一都市に過ぎず、ギリシャは非常に小さな国であった。
  

68.
ガリラヤは4地域に分割されたパレスチナの最北端にあった。
それは長さ60マイル、幅30マイルであって、私たちのスコットランドのある州より幾分小さかっ
た。
それはアバディーン州くらいであった。
それは大部分が隆起した高原でなりたっており、その東の境界近くは急に下降し大きな峡谷に
至り、そこをヨルダン川が流れ下り、その中程で地中海よりも500フィート低くなる。そこにか
わいらしいハープの形をしたガリラヤ湖がある。
その地方全体が大変肥沃で、大きな村々や町々で覆われていた。
人口はおそらくランカシャーかヨークシャーのウェストライディングとおなじ位であったであろう。
しかし活動の中心は湖の盆地であり、その水面は長さ13マイル、幅6マイルであった。
その東の海岸上には、4分の1マイルの幅の緑地で縁どられ、そこに高い岩の丘が聳えてい
て、急流によってできた溝がその岩肌を浸食していた。
西側では、山が緩やかな傾斜をなし、そちら側は豊かに耕され、あらゆる種類の作物を産出し
ていた。一方ふもとの海岸はオリーブのうっそうとした森で覆われ、多くの亜熱帯性の果物を
産出していた。
湖の北の端は湖面と山の間に川の三角州が広がり、丘からの流れで潤わされ、肥沃で美し
く、まったくパラダイスのようであった。
そこはゲネサレ平野と呼ばれていて、今日でも、湖の周辺全体が焼け付く荒野よりは少しよく、
広大な小麦畑に覆われどこにいっても耕作の手が加えられている。手を加えられずに残され
ている土地は、いばらとキョウチクトウの厚い茂みに覆われている。
私たちの主の時代には、そこにカペナウム、ベツサイダ、コラジンなどの、湖の主な都市があ
った。
しかし海岸全体は町や村が点在しており、人間の生活のよって形成された全くの蜂の巣であっ
た。
生活の手段はあらゆる種類の豊富な穀物と果実であって、畑で非常に豊かに産出されてい
た。そして湖の水には数千人の漁師たちが暮らしを立てることができるだけの魚がいた。
その上、エジプトからダマスコへ、またフェニキアからユーフラテスへの大きな道路がそこを通
過していて、そこを巨大な貿易の中心地となしていた。
数千の舟が漁、貿易、娯楽のために湖の面を行き交って、その地域全体が活力と隆盛を示す
徴となっていた。
  
69.
イエスがエルサレムで8ヶ月前に行った奇跡のしらせは、祭りのために南に行った巡礼たちに
よって、彼が戻る前に興奮をもってガリラヤの家にもたらされた。そして疑いもなく彼のユダヤ
での説教とバプテスマを授けているニュースも同様であった。
そのためガリラヤの人々は、ある意味でイエスが彼らの所に戻る前に彼を受け止める準備が
できていた。
  
ナザレの会堂にて

70.
イエスが最初に訪問したところのひとつが彼が少年時代、青年時代を過ごした家のあるナザレ
であった。
彼は安息日に会堂に現れた。そして今や説教者として知られ、会衆のために語る聖書の朗読
者として招かれた。
彼はイザヤ書の一節を読んだがその中に救い主の到来とその働きに関する鮮やかな記述が
あった。「神、主の霊が私の上にある。主は私に油注ぎ、貧しい者に福音を宣べ伝え、心の砕
けた者を癒やし、囚人に解放を伝え、盲目の人が視力を回復し、押さえつけられている者を自
由にし、主の恵みの年を宣べ伝えるために。」
(「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油
を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれ
ることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるた
めに。」(ルカ4:18−19)
イエスはこの文に、救いの時の姿の挿絵・・奴隷は解放され、貧しい者が富み、病気の人が癒
やされる、と注釈した。・・人々は彼らの中で育ったこの若い説教者の最初の説教を聞いて魅
了され、不思議がった。そしてユダヤ人の会堂で許されていた拍手がわき起こった。
しかし、直ちに反動が起きた。
彼らは「この大工に何が起きたんだ?あれは親父もお袋も俺たちの隣にいるじゃないか?姉
妹たちもこの町で結婚している。」とつぶやき始めた。
彼らの妬みは刺激された。
そして彼が読み上げた予言が彼の上に成就したと話を進めたとき、彼らは怒りと非難でいっぱ
いになった。
彼らは彼にエルサレムで行ったことが伝えられている徴を要求した。そして彼が不信仰のなか
ではできないと彼らに告げると、彼らは妬みと怒りの嵐で彼を追い立て、会堂から町の背後の
崖に急いだ。もしも彼が奇跡的な手段で彼らから逃れなかったなら、エルサレムの群衆から救
い主の殺害者の名を奪い取った事であろう。
  
71.
その日からナザレはもはや彼の家ではなかった。
事実、彼は昔の隣人たちを熱烈に愛していたため、彼はもう一度そこをたずねたがよい結果
は得られなかった。
それからは彼はガリラヤ湖の北端の海岸にあるカペナウムが彼の活動拠点となった。
この町は完全に今では完全に消滅していかなる確かなものも発見できていない。
  
カペナウムからの働き

72.
それから彼はカペナウムでガリラヤにおける彼の働きを始めた。そして彼の生涯のの多くの月
で・・しばしばそこを彼の働きの中心地とした・・そしてその中心地から彼はガリラヤの村々や
町々をあらゆる方向の旅をしてたずねた。
しばしば彼の旅は西に離れた内陸であった。
別の時に、彼の村への旅が湖の上を通って、あるいは東側の国をおとずれた。
彼は彼を待っている、彼が望むところどこにでも行くことのできる小舟を持っていた。
彼がカペナウムに戻ったのは、おそらくほんの1日か、時には1、2週間であったであろう。
  
群衆に対する大成功

73.
1,2週間の間に全地方に彼の名が行き渡った。湖上のどの舟でも、その地方全体のどの家
でも彼は話の種であった。この上ないほどの高揚を持って人々の心は興奮させられ、誰もがイ
エスに会いたいと願った。
群衆が彼の周囲に集まり始めた。
群衆はどんどん大きくなった。
彼らは数千人にも何万人にもなった。
彼らは彼が行くところどこにでもついて行った。
そのニュースはたちまちガリラヤを越え、エルサレム、ユダヤ、ペレア、遙か南のイドマヤから
北のツロやシドンにまで広まった。
しばしば彼は町に入ることができなかった。というのは群衆が通りをふさぎ互いに踏み合うほど
であったからであった。
彼は彼らを野や荒野に連れて行った。
国は隅から隅まで興奮に満ち、ガリラヤは彼に関する興奮の火で満たされた。
  
74.
なぜ彼はそのように大きな広がった運動を起こしたのであろうか?
それは自分自身で救い主だと宣言したのではなかった。
事実、もしそんなことをしたら、すべてのユダヤ人の胸中に経験することが可能な限りの最も
深い戦慄を巻き起こしたであろう。
しかしイエスは普段はむしろ自分の真の性格を隠していたが、折々、ナザレでも、それを明ら
かにした。
ガリラヤのびっくりするほどの粗野な群衆が集まった理由は疑いもなく、一口に言えば彼らの
物質的な望みであって、ローマ政府に対抗して立ち上がる革命の宣言であった。それは彼の
真の目的を人々の心から奪い去るものであって、彼の頭上にローマの剣を振り下ろさせ、ユダ
ヤの権威者たちが彼のいのちを殺害する意図をもって攻撃したことをはやめるものであった。
同種類の妨害を防ぐために、彼は自分の真の姿を十分に示すことを控え、民衆のこころを真
の内的かつ霊的なものを受け止めることができるようにするために努力した。そしてその間彼
が何者であるかは、彼の品性と働きから推察できる程度にしておいた。
  
75.
.二つの重要な手段をイエスはその働きに用いられた。そのような注目と熱狂を造りだしたのは
彼の奇跡と彼の説教であった。


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