キリスト伝  

第4章 無名の年


56.
私たちが持っているこの年の記録はきわめて貧弱で、ほんの2,3のできごとだけであるが、
彼のこれからの仕事の一種のプログラムを形成しているので、ここに数え上げておくのがよい
であろう。
  
少数の弟子たち

57.
40日間の誘惑の後、荒野から彼が現れたとき、彼は恐ろしい苦闘によって堅くされたこれか
らの計画を把握しており、洗礼による霊感に彼のこころはなお揺り動かされていた。
彼が再びヨルダンの川岸にやってきたとき、バプテスマのヨハネは、この方がこれまで述べて
きた自分の後に来る偉大なお方だと彼を指し示した。
ヨハネは自分自身の弟子の中から数人を選んでイエスに紹介したが、彼らは直ちにイエスに
従う人となった。
恐らく彼らの中の最初の人が、後に主の愛された弟子と自ら語った人物であって、イエスの最
も深い品性と生涯の肖像を世に提供することとなったのであろう。
使徒ヨハネ・・彼は正にその人であったから・・は、この最初の面会とそれに続く会話の記録を
残した。それにはヨハネの感受性豊かな心にキリストの至高の権威が新鮮に印象をとどめた
結果であった。
同時にイエスに近づいた他の若者はアンドレ、ペテロ、ピリポとナタナエルであった。
彼らはバプテスマのヨハネとの交わりによって新しい主人を受け入れる準備ができていた。そ
して彼らは後になってしたように自分の職業を捨てて、ただちにイエスに従ったのではなかった
が、彼らは最初の面会で彼らの後の全生涯を決定したのであった。
バプテスマのヨハネの弟子たちは直ちに全員がキリストの弟子になった様には思われない。
しかし最良の弟子たちがそうなった。
数人の誤りに引き込む人々が、他の人の影響力が自分を越えることについて、彼の心の中に
ねたみを起こさせようとした。
しかし彼らは偉大な人の主たる偉大さは、彼が謙遜であることであることをほとんど理解してい
なかった。
ヨハネは彼らに、自分がだんだん小さくなり、代わりにキリストが大きくなっていくことは彼の喜
びである。その理由はキリストは花婿であって家庭で花嫁を導くが、彼は単に花婿の友に過ぎ
ないのであって、その喜びは他の人の頭に冠が置かれることを見ることであると答えた。
カナの婚礼の際の奇跡に関する考察の要点
  
58.
イエスは、ヨハネの活動の場から離れ、新に従ってきた弟子たちと共に北のガリラヤのカナに
行き招待されていた婚礼に出席した。
ここで彼は与えられたばかりの奇跡の力を、水をぶどう酒に変えることによってはじめて示し
た。
それは殊に彼の新しい弟子たちに彼の栄光を示すことを意図していた。弟子たちは、それで
彼を信じたと述べている。その意味は疑いもなく弟子たちがイエスを救い主であると納得したと
いうことであった。
それは同時に彼の伝道の基調がバプテスマのヨハネのそれとは異なることを示すことを意図
していた。
ヨハネは人々の生活圏から逃れた禁欲的行者であって彼の聴衆を荒野に呼び出した。
しかしイエスは喜びの訪れを人々の家庭にもたらした。彼は彼らと同じ生活にとけ込み、彼ら
の周りに幸せな改革を引き起こした。それは彼らの生活の水をぶどう酒に変えた如くである。
  
宮潔め

59.
この奇跡のすぐ後、彼は過越の祭に出席するため再びユダヤに戻り、神殿の内庭で商売をし
ていた動物を売る人々と両替人たちを追い出すことによって、彼がそこで生きていることを、喜
びと熱心の雰囲気によって一層衝撃的に証明されたのであった。
これらの人々は、彼らが外国からつれてくることができない犠牲の獣を売り、神殿に納入でき
るのはユダヤ貨幣のみであったので、外国のお金を両替して提供することによってエルサレム
に礼拝にきた旅人たちの便宜をはかるという口実のもとに、神を畏れない商売を行っていた。
しかし敬虔の口実のベールの陰で始まったものは、礼拝をひどく妨げる結果を生んだ。そして
神が神の家で許された場所から外国人の改宗者たちを押しのけた。
イエスは既にエルサレム訪問の間に、怒りをもってみっともない光景をしばしば証言していた。
そして今、彼が授かった洗礼の預言者の熱心を持って、彼はそれをぶちまけた。
彼が洗礼を受けにきたときヨハネを震え上がらせたのと同じ、抗うことのできない潔さと威厳の
姿で、下賤な一味のどんな抵抗にも、王の前にも群衆に対しても決してひるまない昔の預言者
たちの特徴を認識させる風貌を備えていた。
それは当時の誤った宗教に対する彼の改革の仕事のはじめであった。
  
イエスの王国は何であったか?

60.
彼は祭りのあいだに他の奇跡を行った。その町に各地から集まってきたすべての巡礼者たち
の間で話が伝わり、興奮を巻き起こしたに違いない。
それらの結果のひとつは、ある晩彼の宿に高貴な真剣な求道者が訪れ、新しい王国の性格に
と、そこに入るための条件を問うたことであって、ヨハネの福音書第3章によって私たちにその
ことが提供されている。
.国民の指導者のひとりがへりくだって彼に接近してきたことは望みの徴に思われた。しかしニ
コデモは、首都において最初に示された救い主の力に、深い好みの印象を受けたただ一人の
人物に過ぎなかった。
  
民衆に提供された8ヶ月

61.
この点まで私たちはイエスの最初の段階を明確にできている。
'しかしこの時点で彼の伝道の最初の年を概観する情報は、最初はそのように十分にはじめら
れたが、その次の8ヶ月間は、私たちは彼について何も学ぶところがない。
しかし彼がユダヤで洗礼を授けた・・・「イエス自身がしたのではなく、弟子たちであったが」・・・
ヨハネよりも多くの人々に洗礼を授けたことが記されている。
  
62.
そのような空白の意味はなんでありうるか?
上記について第4福音書にのみ若干詳しく記されていることを記憶すべきである。
共観福音書記者たちは伝道の最初の年を無視し、ガリラヤ伝道の解説からはじめ、それがユ
ダヤ伝道のほんの手始めであるとした。
  
63.
これを完全に説明することは大変難しい。
最も自然な説明は恐らく、この年の出来事は福音が形をなした時点では、完全には知られて
いなかったことであろう。
この期間には、イエスは国中の最もよく知られた人というにはあまりにも遠く、多くの大衆から
の注意を惹いてはいなかったというのが全く自然であろう。
しかし、事実、共観福音書記者たちはみな、イエスの生涯が終わりにちかづくまでユダヤで起
きたことに注意を払わなかった。
私たちがイエスが何度も南を訪問していたことを解説してくれるのは疑いもなくヨハネである。
  
64.
しかし、少なくともヨハネは、恐らく最初の8ヶ月について、無視することはできなかったのであ
ると思われる。
私たちは、普通あまり気に止められていない、イエスがバプテスマを授ける仕事をされたという
事実に導かれることによって、その説明ができるかもしれない。
イエスは弟子たちの手によってバプテスマを授けることによって、バプテスマのヨハネよりも多
い群衆を惹きつけた。
このことは、イエスが過越しの祭りのとき彼自身に関して明らかにしたことがわずかな印象しか
与えず、国民はまだ救い主として彼を受け入れる備えが不十分であるから、自分の高貴な性
格を陰に伏せて、しばらくの間バプテスマのヨハネに模したものとなり洗礼を授けるという準備
の仕事を引き続き行う必要があると思っていたことを意味しないであろうか?
この見解は、この年の終わりにヨハネは投獄され、イエスはガリラヤで救い主としての働きを
完全に開始したという事実によって確かにされている。
  
65.
この時期を越えてなお共観福音書記者たちが沈黙していたことにつて、さらに深いもう一つの
説明が、つづいておこるキリストのエルサレム訪問によって示唆されている。
イエスは第一にユダヤ国民にやってきた。国民の権威者はエルサレムで見いだされた。
彼は先祖たちに約束された救い主であって、国民の歴史を満たす方であった。
事実彼は遙かに広い全世界への宣教を持っていた。しかし、彼はユダヤ人からそしてエルサ
レムから始めた。
しかしながら、ユダヤ人殊にエルサレムの頭たちは彼を拒絶した。そこで彼は世界大の共同
体に別の中心を見いださなければならなかった。
このことは福音書が書かれた時期によって明らかにされている。共観福音書記者たちはイエ
スの国の中心地での活動を、ほんの僅かな結果しか得られなかったため無視した。彼らはイ
エスがキリスト教会の核を形成する信仰した魂が集まった時の彼の伝道に時期に注意を集中
した。
しかしながら恐らくイエスの伝道の最初の年の終わりに近づくにつれて、すでに恐ろしい国民
の罪のできごとの影が、ユダヤとエルサレムの上を覆っていた。・・世界が絶えずあかしし続け
てきた、ユダヤ人の救い主を拒絶し十字架に架けるという全国民の最も恐るべき罪の陰が。



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