キリスト伝  

第3章 準備の最終段階

2段階の最終的備え
イエスの受洗
洗礼者
イエスの受洗
聖霊がくだった
試み
  
40.
多くの人々がそれぞれのやり方で待ち望んでいたお方は、彼らの真ん中におられたにもかか
わらず、彼らはそれに全く気づかなかった。
彼らが熟考し祈り待ち望んだお方が、軽蔑されているナザレの大工の家で育っているとは、彼
らには考えられなかった。
しかしそれが事実であった。
そこ、大工の家で、彼は彼が生涯になす仕事のための準備をした。
彼の思索は、過去の予言とその予言がなされた実際の場面の考察や、彼の前に置かれてい
る膨大な量の仕事を把握するために忙しかった。彼の目は国の未来を見据えていた。そして
彼は同胞の罪と恥辱にこころを痛めた。
彼は自分の内に、広大な計画に対処するために必要とされる巨大な力が動くのを感じた。そし
てその願望は次第に大きくなり、出て行ってこころの内の思いを語り、彼に与えられている彼
の成すべき仕事に着手したいという情熱は抑えがたいほどであった。
  
41.
イエスが生涯の仕事を完成するために与えられている期間はたった3年であった。
もしも私たちが普通の生活の中での3年間がいかに速いかを心にとめているなら、そして3年
の終わりにやり遂とげたことが通常いかに僅かであるかを示される時、そのように驚くほど短
い期間に深くぬぐい去ることの出来ない印象を世に与え、真理と影響力の遺産を人類に残し
た彼の生涯における生活の大きさと量を理解することが出来る。
  
42.
イエスは自分の理念が完全に発達して明確となるまで準備され、品性は全ての面で完全にと
ぎすまされ、公の人としてご自身を現された時には、終わりに至るまで躊躇うことなく突き進ま
れたと一般に認められている。
3年間、イエスは活動を始められた最初の線からずれることが全くなかった。
その理由は、彼が公の仕事を始める前の30年の間に、彼の品性と計画はすべて完全に発達
した段階に至っていたからであった。
彼のナザレにおける生活は、外面は地味であったが表面化では強烈で、変化に富み、雄大で
あった。
沈黙とひとの目に映らないところで、やがて見るものに不思議を感じさせる巨大な花を開き、
実を実らせる成長の過程が進行していた。
彼の準備は長く続いた。
自分の力を意のままにできる人にとって、完全に控え、貯えるだけの30年間は、とてつもなく
長い時間であった。
後になって彼を特徴づける説教と行いの両方について、天的蓄えがあったことよりも大きいこ
とは何もなかった。
これもまたナザレで学んだ。
そこで、彼は備えが完成するまで待った。
その時代の腐敗や誤りに強い抗議の叫びをあげたい燃える願望も、彼に従う人々を善に導く
熱意の高まりも、時が来るまで彼の試みとはならなかった。
  
43.
しかし、ついに彼が大工道具を投げ捨て、職人の服を脱ぎ、自分の家庭と愛するナザレの谷
を去るときがきた。けれども全ての備えが完成したのではなかった。
彼の人間性は、密かに、品性は非常に気高く、彼の理念と計画は熟し成長されていたけれど
も、彼がなすべき業の特異な性質のために、一度試みの炎によって堅くされる必要があった。
二つの最終的備えのための出来事・・・洗礼と試み・・・がまだ起きていなかった。
  
44.彼の受洗
イエスは何の予告もなく無名のナザレから国民の前に出現したのではなかった。
彼の仕事は、彼自身がそれに自らの手をつける前から始まっていたというべきかも知れない。

予言者が呼び起こされる

45.
救い主の声を聞く前に、国民はいま一度、長い間途絶えていた預言者の声を聞くことが必要で
あった。
ユダヤの荒野に説教者が現れたニュースは国中に広まった。会堂で語る人々の数多くのいの
ちのない理念や、へつらい、なめらかな口調で語るエルサレムの教師たちのようにでもなく、
荒々しく、強い男は、心からこころに、彼が受けた確かな霊感による権威を持って語った。
彼は母の胎にいるときからのナジル人であった。彼は何年も荒野に住み、己の心を友として死
海の海岸をただひとり歩き回った。彼は昔の預言者の毛衣を身にまとい、革の帯を締め、荒
野で見つけられるイナゴと野蜜以外の上等な食物を求めなかった。
しかし彼は世の中をよく知っていた。彼は当時のあらゆる罪悪、宗教団体の偽善、大衆の腐
敗を熟知していた。彼は人の心を探り、良心を震い動かすすばらしい力を持ち、すべての階級
の人々の罪を恐れることなく暴いた。
しかし、すべてのなかで最も彼が人々を惹き付け、すべてのユダヤ人のこころに戦慄を走ら
せ、彼が授けたメッセージが国の隅々に行き渡ったのは、他でもない救い主が直ぐに来て神
の国が到来するということであった。
全エルサレムが彼のもとにやってきた、パリサイ人たちは熱心に救い主のニュースを聴いた。
無関心なサドカイ人たちさえ一時こころを沸き立たされた。
あちこちの州から彼の説教を聞くために何千人もの人々がやってきた。そしてイスラエルの贖
いを切望し祈っていた各地に散在し表に出ていなかった人々が、このこころを動かされる約束
を歓迎して群れをなした。
しかしそのことに関してヨハネは、人によって異なった感じで受け取るもうひとつのメッセージを
持っていた。
彼は聴衆たちに国民の全員が救い主のための準備が完全にはできていないと語らなければ
ならなかった。つまりアブラハムの子孫であるという単純な事実だけでは救い主の王国に入る
には不十分であるということであった。救い主の王国は義と聖の王国であり、キリストの最初の
仕事はそれらの性質に合致しない人々を拒絶することであって、それは農夫が箕(み)で殻を
篩い分けるようなもの、ぶどう園の主人が実を結ばない木を切り倒すようなものである、と。
それ故、彼は多くの国民・・・すべての階級、すべての区別出来ないひとびと・・・に、時のある
間に悔い改めるよう呼び寄せた。それは新しい時代の祝福に与るために欠くことのできない準
備であった。そして内面の変化の外的な象徴として、彼はヨルダン川で彼のメッセージを信仰
によって受け入れたすべての人々に洗礼を授けた。
多くの人々が恐れと希望に揺り動かされたが、もっと多くの人々が彼らの罪が暴露されること
にいらだち、怒りと不信仰のうちに去っていった。
これらの人々の中にパリサイ人たちがいたが、彼は彼らに対しては殊に厳格であった。そして
ヨハネは彼らが非常に強調しているアブラハムの子孫であることを全く軽く扱ったのでパリサイ
人たちはひどく腹を立てた。
  
悔い改めの洗礼

46.
ある日洗礼を受ける人々の間に、非常に彼の注意を惹く人物が現れた。国中のもっとも高位
の教師たちに対しても祭司たちにも辛辣なことばで非難することを決してためらわなかった彼
の声が自己不信に震えた。
ヨハネの説教の後、その方が自分は受洗希望者のひとりであることを示したとき、ヨハネはこ
のひとは悔い改めの洗礼を受ける必要がないと感じて後ずさりした。他のすべての人々に対し
ては躊躇うことがなかったが、彼は彼に対して洗礼を授ける権利がないと感じた。
彼の顔には至高の権威と潔さと平安があり、それが無価値さと罪の感覚で岩のように頑固な
人をも打った。
それはナザレの仕事場からそこへまっすぐにやって来たイエスであった。
ヨハネとイエスは、近親関係にあり、誕生前から預言されていた彼らのなすべき仕事に関係が
あったにもかかわらず、それまで会ったことがなかった。
これは恐らく彼らの家庭がガリラヤとユダヤに離れていたことによると思われる。そして洗礼を
授ける者はまだ稀な習慣であったからであった。
しかしヨハネは、イエスの命令に従って洗礼を授けたとき、その見知らぬ人物が与えた印象の
意味合いを神が与えた徴によって悟った。神はヨハネに救い主を見分ける手段を教えておら
れた。彼が水から上がって祈りを捧げたとき、聖霊がイエスの上に降り、神は雷のうちにわた
し愛する子であると語られた。
  
47.
イエスの容貌と、ナザレにおいてゆっくりと成熟し完全に成長した品性の質は、彼の仕事を始
めたときの多くのことば勝ってヨハネに印象あたえた。
  
新時代の扉

48.
洗礼それ自体がイエスにとって重要な意味があった。
その儀式を受けた他の洗礼希望者たちにとっては、二重の意味があった。彼らの古い罪を放
棄し、新しい救い主の領域の彼らの入り口であった。
イエスにとっては、彼が彼の国民のひとりであると位置づけること以外に、前者の意味はなか
った。その意味で彼はこの潔めを必要としていた。
しかし、今やイエスもまたこの扉によって、彼が権威者であるという新しい時代に入ったのであ
った。
それがナザレの仕事場を後ろに残し、彼の特異のしごとに自らを捧げた彼の意識を表現して
いた。
  
聖霊

49.
しかし、さらに一層重要であったのは、彼の上に聖霊が降ったことであった。
これは単なる洗礼の徴の表現を意味するのではない。
これは彼の働きに対して彼に資格を与える特異な象徴であった。そして彼の特異な力の長い
展開の冠であった。
忘れられている真理がある。それはイエスの人間性は最初から最後まで聖霊に依存している
ことである。
私たちはイエスの神の性質がこのことを不必要としていると想像しがちである。
それどころか、彼の人間としての性質と訓練に常に保たれた最高の賜物を授けると共に、彼
の神的性質の器官の手段として、それはもっと遥に必要であった。
私たちには、彼のことばの知恵と恵みと、人間の考えていることすらも知る彼の超自然的知識
と、彼の奇跡を成す力を、彼の神として性質に帰しがちである。
しかし福音書は、それらを常に聖霊に帰している。
それらは彼の神としての性質から独立であることを意味しない。しかしイエスの人間としての性
質は聖霊の特異の賜物によってイエスの神としての性質の器官であり得たのである。
この賜物はかれの受洗の時に与えられた。
それはイザヤやエレミヤのような預言者たちが、公の生活にはじめて召し出されたとき、彼ら
自身が記しているように、その機会に与えられていた聖霊の霊感や、今も宣教のしごとを始め
るひとびとが召命を与えられる時に授けられる権威に似ている。
しかしイエスにとってそれらは無限に与えられたが、他の人々には常に測り得る程度に与えら
れている。そしてイエスには殊に奇跡の力の賜物が含まれていた。

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