キリスト伝  

第2章 民族と時代

マラキとマタイの間の隔たり
彼の生涯の舞台
社会の概観
  
マラキとマタイの間の隔たり

25.
さて私たちは、ナザレにおける沈黙と無名の30年の後、イエスが公の段階に歩を進めた時代
に迫ろう。
それ故これは、彼がその人々の間で働きをした民族の状況を概観し、彼の性格と目的に明確
な概念を形成することである。
すべての偉人の伝記は、世界に新しい力が入ってくる入り口の記録である。その力はそれ以
前とは違った何かをもたらしている。そしてそれは古い世界と共に次第に働いて、新しい世界
の一部となるのである。
それ故明らかにそれを理解したいと望む人々が必要とする二つの事がある。・・・第一に、新し
い力それ自体の性質をはっきり理解すること、第二は、それが一緒に働く世界の概観である。
後者無くして前者の特質の差違を理解することはできないし、どのように評価されて受け入れ
られるか・・受け取られたものが歓迎されるか、反対されるか・・わからず悩むのである。
イエスは、誰一人それに踏み入ったことのない独一の、人類の歴史の未来を変更するご計画
のためにこの世に来たのであった。
しかし私たちは、彼が通過した生活の全体の条件の明瞭な概念なしには、彼自身のことも、彼
がもたらした贈り物が歴史とともに働くことを求めて彼が遭遇した事態をも理解できない。
  
26.
旧約聖書の最後の章を読み終えて、新約聖書の最初の章のページに移った時、私たちはマタ
イの福音書のなかに、マラキ書の中に残されているものと同じ状態と同じ人々を見出そうとして
しまうのである。
しかしこれ以上に誤った考えはない。
マラキとマタイの間には4世紀の時間の経過がある。そしてそれだけの時間の長さはどの国を
も変化させるのと同様に、パレスチナは完全に変わってしまっていた。
人々のことばさえも変わってしまっていた。そして習慣、理念、政党、教育機関は、もしマラキ
が死者の中から生き返ってきたとしたら、彼は自分の国であるか疑ったであろうと思われる存
在となっていた。
  
イエスの生涯の舞台

27.
国民は、政治的に多大な浮き沈みを通過していた。
バビロン捕囚の後、大祭司の指揮下で一種の神聖国家が組織された。しかし、征服者が次々
とその上を通過し、凡ての物事を変えてしまった。古い世襲の王家は勇敢なマカベ家によって
一時保たれたが、自由の闘いは幾度も勝ったり負けたりし、やがて一人の略奪者がダビデの
王座に座った。そしてついに国は完全に強大なローマ帝国の力に屈してしまった。ローマ帝国
は全文明世界を支配していた。
国はいくつかの小さな部分に分割され、現在イギリスがインドを領有しているように、異国人が
それぞれの地域を統治していた。
ガリラヤとペレアはイエスが生まれたときのヘロデの息子たちである狭量な国王が支配してい
た。ヘロデはローマ皇帝との関係でそこを占領したのであったが、それはインドの王の位を英
国の女王が占めているのに似ている。ユダヤはシリヤ地方のローマ総督であるローマ官僚の
支配下にあって、ボンベイの支配者がカルカッタの総督を兼務しているのに似ていた。
ローマの兵隊がエルサレムの通りを行軍していた。ローマの規則が国の上に厳重に施行され
ていた。どこの町の門にもローマの収税人たちが座っていた。
ユダヤ人の統治機関の最上位に位置するサンヒドリン(議会)に対しても認められていたの
は、ほんの形式的な権力のみであった。ローマの傀儡である、大祭司が議長の席に座ってい
たが、気まぐれで更迭されるのであった。
その理念が世界を支配していた誇り高い国民もそのように低くされていたのであった。そして
その愛国心は宗教と国家への情熱であって、いかなる国にも燃え上がったたことがないほど
消すことの出来ない強烈なものであった。
  
28.
宗教に関しても同様に大きく変化し、同様に低いものとなっていた。
事実、外見的には退潮の代わりに前進しているかのように見えるかも知れなかった。
国民は歴史上の多くの初期段階よりも遙かに正統的になっていた。
かつての主な危険は偶像崇拝であった。しかしバビロン捕囚の懲らしめはそのような傾向性を
永久に矯正した。それ以来ユダヤ人はどこに住んでも妥協することのない一神教徒であった。
バビロンから帰ったあと祭司の階級と職務は完全に再編され、神殿の礼拝とエルサレムにお
ける年ごとの祭りは厳格な秩序をもって続けられた。
その上、最も重要な宗教上の施設が新しく創設されて、祭司制度のバックグラウンドとなる神
殿がほとんど倒されそうであった。
これはラビのいる会堂であった。
それは古代には全く存在しなかったように思われる。そしてバビロン捕囚ののち、書かれたみ
ことばを敬うことによって創設されたのだといわれている。
会堂はユダヤ人の住んでいるところにはどこにでも広まった。安息日にはいつも会堂は祈る会
衆でいっぱいであった。ラビによって説教がなされ・・新しい秩序がヘブル語から翻訳された解
説書の必要が生じた。ヘブル語は既に死語となっていたためであった。そして旧約聖書のほと
んど全部が人々の聴いているところで1年に1回朗読された。
私たちの神学校の講堂に似た神学の学校が、世に躍り出、そこでラビたちが聖なる書物の解
釈の訓練を受けた。
  
29.
しかし、すべての宗教制度にかかわらず、宗教そのものは悲しむべき退廃に陥っていた。
外見的なことは増し加えられたが、内的精神は姿を消していた。
しかしながら粗暴で罪深い古い国民性がしばしば見られ、王家に、高い理念で生活し、国民を
天に結びつけておく宗教的人物を生み出し、預言者の霊感された声を新鮮で潔く流れる流れ
を保つには最悪の期間であった。
しかも、4世紀間預言者の声は全く聞かれなかった。
昔の預言者の発言の記録は、まだほとんど偶像的畏敬を持って保たれていたが、必要な量
の、主が昔書かれた聖霊の霊感を理解できる人はいなかった。
  
30.
代表的な宗教的人々はパリサイ人たちであった。
彼らの名が示しているとおり、彼らははじめユダヤ人を他の国民から分離する戦士として誕生
した。
これは聖性が他の国民との区別であることが強調されているあいだは高貴な理念であった。
しかしそれは、服用の特徴や、食物、言語、等々の外的差異を保つことよりも、この区別を保
つことはるかに困難なことである。
それが変化する時間があった。
パリサイ人たちは、自らの国の独立のために自分のいのちをおとすことも喜んでする、熱烈な
愛国者であり、外国のくびきを熱烈な嫌悪を持って嫌った。
彼らは他の人種を軽蔑し嫌い、彼らの国民の栄光ある未来の望んで、果てしない信仰に執着
した。
しかし、かれらはその理念にあまりに長くいたので、アブラハムの子孫であるという理由だけ
で、彼ら自身を天から格別に愛されていると信じるようになり、個人の品性の重要性を見失っ
た。
彼らは彼らのユダヤ人的習慣を増やし続けた。しかし重要な区別である神を愛し人を愛するこ
とを、断食、祈り、十分の一献金、体を洗うこと、犠牲を捧げること、などなどの外面的なことに
代えた。
  
31.
大部分の律法学者たちはパリサイ派に属した。
彼らは聖書の解釈者と筆写人であり人々の法律家であったのでそう呼ばれた。なぜならユダ
ヤの法律の条文は聖書と一体となっていたため、法学は神学の一分野となっていたからであ
った。
もし選ばれたら男子の礼拝者は誰でも話すことが許されていたが、彼らが会堂における主な
解説者であった。
彼らは聖書に対する無限の畏敬を告白し、その中に含まれるすべての文字を計算した。
彼らは、旧約聖書の中の英雄たちの栄光の事例を語り、預言者たちのことばを外国にも播くこ
とによって、人々の間にその宗教的原理を広める絶好の機会を与えられていた。というのは、
会堂はそれまで人々が工夫したもののなかで、もっとも力のある教育機関のひとつであったか
らである。
しかし彼らは自分たちに与えられた機会を完全に逃してしまった。
彼らは無味乾燥な教職者と学者階級になった。彼らの地位を利己的な勢力の拡大に用い、大
衆と文盲の貧民とにパンの代わりに石を与えて彼らを非難した。
聖書中の最も霊的で、生き生きとしたもの、人間的であり重要なものはなんでも彼らはそれを
見過ごした。
幾世代も代わる中で彼らの中の著名な人々の注釈が拡大され、注釈が本文に取って代わっ
た。
さらにその上、正しい解釈文は、聖書の本文と同様に権威あるものとみなすのが彼らの規則
であった。著名な権威者の解釈はもちろん正しいもの信じられ、聖書それ自体と同じ重要性を
もっているものとされた。そしてそれが巨大な部分を占めるようになった。
"これらが「昔の人の言い伝え」であった。
次第に勝手な解釈の方法が流行となり、どんな見解も聖書本文と結びつけられて神の権威を
もつものとされた。
新しく創り出されたパリサイ人の習慣はこのような方法で認定された。
これらは、生活、個人、家庭、社会、公的なことがら上の細かなことに関する規則として積み上
げられた。
それらはあまりにも膨大で、それを全部学ぶには一生かかるほどであった。そしてそれらを学
んで精通し、偉いラビの金言と釈義の方法を知っていれば律法学者と認められるのであった。
これが、彼らが会堂で人々に教えていたガラクタであった。
良心は、十戒のどの箇条とも同じように神聖なものとして提示されていた、数え切れない詳細
な規定のため重荷を負っていた。
これが、ペテロが言った彼も彼の父たちも負うことのできない耐えきれない重荷であった。
これはパウロの良心に長い間留まっていた恐ろしい悪夢であった。
しかしより悪い結果がそれから流れ出た。
それは歴史上よく知られている原理であって、儀式が道徳と同列に高められるときはいつも、
道徳はすぐに見失われてしまうことである。
律法学者たちとパリサイ人たちは、勝手な解釈による詭弁の議論と、増大する彼らの儀式を
遵守することによって、最も重要な道義的責任を逃れること説明する方法を学んだ。
こうして人々は彼らの利己心と悪い情熱とにふけりながら聖なる誇りを人に見せびらかすこと
ができた。
社会は内なる悪によって腐っていたが、外側は欺瞞の宗教で飾られていた。




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