第二十五章 パウロの愛される人柄

 ひとつ疑問が残っている・・・パウロは愛される人であっただろうか?
私たちは彼が有能で、賢く、異彩を放っていたことを知っている。しかし彼は人を惹きつける人
物であっただろうか?私たちは彼が聖人であったことを認める。しかし彼は人に好かれただろ
うか?ある聖人たちはそうではない。私たちは彼が多くの徳を有していたことを認める。しかし
徳のある人々が常に人を惹きつけるとは限らない。彼らはその徳で私たちを飽き飽きさせた。
私たちはその人が高い原理の人であると認める。しかしその高い原理の人が全体としては魅
力に欠けることがある。私たちは彼が強い人であることを知っている。しかし彼はうるわしかっ
たのか?私たちは彼が力に満ちていることを確信している。しかし彼は恵みに満ちていただろ
うか。私たちは彼が勇敢であったと信じきっている。しかし彼は愛らしい人であっただろうか?
彼は偉大であったことは疑いの余地がない。しかし、私たちが嫌悪した大ナポレオン1世と同じ
ではないか。トマス・アクイナスとジョン・カルビンは偉大であった。しかし彼らを愛する人がいる
だろうか?彼は興味深い、魅力的でさえある。しかし私たちは彼に自分の心を捧げるだろう
か?もしあなた方が彼に会っていたら彼を好きになるだろうか?彼のいるところに自分もいた
いと望むだろうか?部屋に彼が入ってきたら、その部屋が変わって見えるだろうか?彼があな
た方から去った後、太陽が輝いて見えるだろうか?彼にもう一度会うために熱心に探すだろう
か?
 画家たちは私たちがパウロを愛するためのたいした助けにはなっていない。キリスト教絵画
の全体を熟知しているある人が、パウロの全描写について述べており、そのイメージが満足を
与えるものではないとする。彼の肖像はキリスト者の家の壁には滅多に存在しない。 学者た
ちは全体として私たちが彼を愛する助けをしない。彼らはパウロを理論家として示した。理論と
いうものは氷のように冷たい。彼らは私たちがパウロを、常に彼の好む信仰による義の教義を
含む、教条主義者と思うように教えた。教条主義者には磁力がない。彼らは主張や論争に力
強いパウロを描いた。その結果私たちはパウロを知的武士の如くに思うようになった。彼らは
パウロを思考の人であるとあまりに言ったので、私たちは本能的に彼を異星人のように見るよ
うになった。彼は威風堂々たる台座に立っていて、私たちは賛嘆して彼を見つめる。彼は聖人
の群れの中におり、私たちは彼を尊敬する。彼は学者たちの著作のなかにあり、私たちは彼
の名を、尊敬をもって語る。私たちは彼に深く頭を下げて通り過ぎる。現代の世のいかなるク
ラスの人々も彼を本当に愛しているかは疑わしい。少年たちも少女たちも彼を好かない。また
大学生たちは彼の手紙の写しをポケットにいれて持ち歩かない。実業についている人々は彼
に引かれるものを感じない。主婦たちは彼に喜びを持たない。彼は工場や製粉所、鉱山、畑、
事務所、店で苦労している数百万人のアイドルではない。彼は世の大衆の英雄の席を決して
好まなかった。 パウロは人に愛されなかったと主張する人々がいる。彼らは初期のキリスト
教歴史のすべての人物中もっとも愛されなかった人として私たちの前に彼を置く。彼は利己的
で・・・彼自身について述べるときはいつも・・・自己主張が強かった、と彼らは言う。彼らはパウ
ロは貴族的で横暴であり、常に彼自身のやり方で事を決めたと宣言する。彼らはパウロは偉
大な使徒たちに嫉妬し、いつも彼らのあら探しをし、彼らの権威を落とそうと試みたと主張して
いる。彼らはパウロの判断は過酷で、そのことばは苦いと非難する。彼らは、狂信的、頑固
者、その手段は無遠慮、気質は独善、人を惹きつけないばかりか胸くそ悪いいまわしい性格
の持ち主だとパウロを非難する。これらは書物に書かれ、学識者として評判にある人々によっ
て保証され、会衆席にいる人は、これらのパウロを非難する肖像に陥り、その人は幻惑され何
を考え、語ったらよいか知らない。 誰かがパウロについて理解していると宣言している人に耳
を傾けるとき、使徒の働きとパウロ書簡に目を留めているべきである。新約聖書がパウロにつ
いて語る以上にパウロを知っている学者は誰もいない。パウロの姿は魅力がないということは
すべて、彼の手紙によって完全に覆される。その他全ての好ましからぬ姿が、パウロ批判のイ
メージに起因する書物に喧伝された。提示されたパウロの絵はしばしば憶測と仮定の混合物
である。真のパウロは新約聖書中に描かれている。新約聖書のテキストがパウロに近づくこと
を許している以上に、彼に近づくことができた私たちの時代の学者は誰もいない。パウロが愛
される個性の持ち主であったか否かについの疑問に対し、ルカが記した小さな本はこれまで書
かれた全ての本に優る価値がある。ルカはパウロを知っており、ルカにとってパウロは全ての
点で魅力があるように見えた。ルカはパウロの旅行の同伴者であった。彼は陸地でも海の上
でも彼と一緒にいた。彼は多くの困難な経験を共に味わった。彼はパウロの傍らで伝道活動を
共に行った。彼はパウロと一緒に食べ、一緒に語り、一緒に祈り、一緒に何百マイルを歩い
た。ルカが知っていることに比べ、もっとパウロを知っている現代の著作者は一体誰か?なぜ
ルカよりも、現今のドイツ人、フランス人、オランダ人、イギリス人あるいはアメリカ人の一人を
選ばなければならないのだろうか?パウロの個性に関わる何らかの点でルカに反対する人
は、聴くに値しない人物である。ルカはパウロに対して非常に献身的であった。それゆえ彼は
喜んで果てしない困難と危険を彼と分かった。彼は獄中のパウロそばに喜んで留まった。彼
は、ネロが皇帝の座にいたときさえ、ローマにパウロと同行することに熱心であった。デマスは
世がパウロよりも魅力的であると思った。しかしルカにとっては、全世界も彼の友に比べれば
無いに等しいものであった。ルカは最後までパウロに忠実であった。これは死に至るまで忠実
な愛の究極的テストであった。ルカは、同じようにパウロに献身的であった人々について私た
ちに語る。エペソの長老たちはことばも抱擁も涙も表現できない愛をもって彼を愛した。彼らは
何年もパウロを親しく知っていた。彼らはパウロを彼らの家庭と心に迎え入れた。彼らは泣くこ
となしには彼にさようならを言えなかった。彼らは太陽が空から取り去られるまで、再び彼に会
うことは決してできないだろうと思った。ある現代の聖書神学者の描いた風刺画は、ルカによっ
て描かれた魅力があり愛すべき人とは全く似ていない。もしもパウロが無愛想で不快な人物で
あったら、どうして私たちが彼の影響を数えることができるだろうか?なぜテモテはルステラの
彼の家庭を喜んで去ったのだろうか。そして、ただ神のみがその行き先を知っていたところへ
と、比較的見知らぬ人についていったのだろうか?なぜ彼の母と祖母は喜んで彼を行かせた
のだろうか?力強さがこのように若者を惹き付け彼の家庭からさらせる魅力を持ち、そのよう
な危険な旅路に旅出させるかも知れない。テモテはただパウロの人柄の魅力に打ち負かされ
捉えられた多くの人々のひとりにすぎない。シラスは全てを残してパウロについていった。彼は
危険を冒し入牢しむち打たれる備えがあった。足かせにつながれた獄舎の中においてさえ、パ
ウロと一緒に彼の傍らで歌うことができた。テトスもまた逃れることのできない愛のグリップに
捉えられた。パウロの役に立つことは彼にとって生きることであり喜びであった。余りにも長か
ったり困難すぎたりする用足しはなく、重すぎたり耐え難い荷はなかった。彼はクレタ人たちを
キリストに従うことを勧める感謝されない下働きさえ喜んで行った。パウロは彼の助け手たちに
この世で報いを提供することができなかった。彼にはお金がなかった。名誉ある地位を与える
ことはできなかった。快適さと安楽とを提供することはできなかった。いのちそのものさえ彼は
約束できなかった。争い好きで批判がちなうぬぼれの強い人は自分のためにそのような条件
で働く人々を獲得できない。これらのひとびとは恐らくパウロへの愛に陥ったに違いない。彼ら
の行動に他の説明はつかない。私たちはたとえどんなに困難なことであっても、愛する人々の
ためには何でもする備えがある。イエスの弟子たちは、彼に対する大きな愛の故に、不幸なこ
とが彼らに待ち受けていることによってひるむことはなかった。パウロの弟子たちは、パウロを
非常に愛したので、獄舎も死も彼と共にする備えがあった。プリスカとアクラはパウロのために
彼らの首の危険を冒したただ一人なのではない。ガラテヤ人たちは彼らの目をえぐり取ってパ
ウロに与えたいと思った唯一の人々ではなかった。ピリピ人たちは彼の全苦難と労苦との中に
あって愛する思いをもって彼に従ったただひとりなのではない。口やかましく横暴な専制君主
はそのような献身を呼び覚ますことはできない。現今の彼を批判する人々は、偏見を持った学
者たち、つむじまがりの理論家たちであって、人の心理に無知であり、彼らが非難する事実を
歪曲している。新約聖書はパウロと親しくなるよい機会を得た人々に対して、彼は格別な魅力
をもった人物であったことを、見ることのできる目を持っている全ての人々に明らかにしてい
る。つまり本当は、彼を嫌った人々は彼を知らなかったのである。 もし彼が私たちの愛に値
するなら、私たちが彼を愛することは重要なことである。もし私たちが彼を愛さないなら、私た
ちは損をした人々である。私たちが彼を愛することができないうちは、彼は私たちに何ができ
るというのか。私たちが愛した人々のみが真に私たちの生活の中に入ってくる。私たちが愛す
る人々によってのみ私たちは神を愛するものに変えられ得る。パウロは神を愛した。なぜなら
彼はイエスとの愛に陥ったからであった。多くの人々がイエスを愛するようになった。その理由
は彼らがパウロを愛したからであった。パウロを得たのはイエスの理念ではなくイエス自身でっ
た。テモテとテトスとシラス以下全ての人々を得たのはパウロの理念ではなくパウロ自身であっ
た。私たちが働きをなす上で、また人生を生きる上で、私たちを助けることができるのは、パウ
ロの教理ではなくパウロ自身である。 彼が愛されたという事実は彼が魅力的であった証拠で
ある。もし彼が魅力的でなかったなら、愛されることはなかったであろう。彼は単純に彼自身の
存在によって人々が彼を愛するに至らせた。かつて彼を知った時、彼らは彼を愛する助けがで
きなかった。彼はその時も今と同様に魅力があった。彼はこころに愛を求める数多くの姿を持
っていた。彼は彼の率直さによって勝ちを得た。彼は引っ込み思案でもよそよそしくもなかっ
た。彼は腹蔵無く話した。彼は子供の天真爛漫さを有していた。彼は心に浮かんだことはなん
でもうっかり話してしまう。彼は自分の内なる生活のことを全部話してしまうことを恥じなかっ
た。私たちは彼がそのように人間的であるので彼が好きなのである。彼は驚くほど私たち自身
に似ている。彼は衝動的である。彼はしばしば自分が意味していること以上に言ってしまう。彼
の感情は彼とともに突っ走る。彼はせっかちな気性とすぐ話すことによって問題に遭遇した。彼
は謝罪し、後悔し、はじめからやり直した。私たちはパウロの気概と勇気の故に、彼を好きに
なることを避けられない。彼はいつも反対する周囲と戦っていたが、決して打ち負かされること
はなかった。彼は恐らく失望したかもしれないが、退却することはなかった。彼は落胆したかも
知れないが、倒されることはない。彼は不正な扱いを受けたかも知れないが、意地悪くなること
は無かった。彼は打ち倒されたかも知れないが、決して降伏することはなかった。彼はいつも
立ち上がり急ぐ備えがあった。 私たちは彼が皮肉を言うことができることで彼に親近感を感じ
る。そして、もしやりすぎたら、非難の話をしたすべての人々をカバーすることができた。 パウ
ロは私たちの兄弟だという感じを私たちのうちに創り出すに十分なことがある。彼はよかった
が、人間の毎日の食物とするのによすぎるということはない。私たちは彼が愚かになれること
の故に彼を好むのである。そのため彼を私たちと同じ階級に属するように見えるのである。私
たちは彼が言ったそのトーンを楽しむ・・・「私はもっとも偉大な使徒たちに少しも劣りません。」
パウロは自分が誰とでも同じくらいよいと感じたことが何度もあり、それをそのまま口にするこ
とをためらわなかった。私たちは私たち自身に同じ感覚をもつ。そして私たちはパウロがその
ように完全に人間であることの故に一層彼が好きになる。 私たちは彼の的をかわす怜悧さの
ために彼が好きである。私たちは彼が逃亡するのを見て嬉しくなる。私たちはバスケットに乗っ
てダマスコから逃れる彼を見るとき笑いたくなる。信仰の英雄がバスケットに乗って秘かに町
から出て行くことは不合理に見える。テサロニケの町から闇に紛れてこっそり抜け出す彼を見
るとき、私たちは彼が聖人であることを忘れ、彼は現代の小説に登場する人物のように見え
る。神学者が群衆から機敏に逃げていく様は見ていて面白い。トリックによってベレアから彼が
逃れたとき私たちは喜ばされた。彼は東に行くように見せかけて、突如南に出発した。そして
彼らの手を逃れるたとき、彼の敵たちは彼らが完全に出し抜かれたことを発見した。後の日
に、彼を殺そうとする刺客のギャングたちの全ての計画から逃れた。彼らは彼を船の上で殺そ
うとした。しかし彼は船を使わず陸を進んだ。そして彼らが血の仕事の準備を整えたとき、彼ら
の犠牲は遥か遠くにいることを見出した。パウロは自分の冒険を楽しんだにちがいない。霊感
を受けた使徒がくすくす笑ってはならないのだろうか? 彼の苦難は私たちに彼を慕わせる。
オセロが彼の困難であった物語を、「悲惨な機会があり、水の上と野原で思わぬ出来事に動
かされ、間一髪逃れ、苦悩が若さを打ち砕いた。」と話したとき、デズデモーナは彼の不運を傷
み、ついに彼との愛に陥った。(訳者註:シェークスピアの戯曲「オセロ」の一節を解説)私たち
すべての中にデズデモーナがいる。そして私たちはパウロが彼の冒険と難儀を語るのを、私た
ちの心の中心に入れることなしに、聞くことが出来ない。パウロの魂が最も麗しく輝くのは、彼
の苦難においてである。最も熱い炉のにあるとき、彼は神の子に最も似て見える。人々が最悪
をなしているとき、彼は最善にあるのである。人が最も激しく嫌うとき、彼の愛は最も顕著に神
聖である。パウロが障害を乗り越えることができ、困難に打ち勝ち、自分の気分を制御し、苦
痛を忍び、悩みに耐え、勝利にいたることの故に私たちは彼を愛する。 彼は全ての徳を有
し、またすべての恩寵を所有していた。私たちがその広さと麗しさに驚かされるのは彼の天性
の優しい面である。彼は真に兵士であった。しかし彼の経験が彼を粗雑な人間することはなか
った。なぜなら彼の戦いの武器は肉に属するものではなかったからである。彼は闘士であった
が、彼の戦いが彼を荒っぽくすることはなかった。彼は礼節の領域に最善であった。彼は思い
やりの典型であった。優しさと情け深さ、考え深さと寛大さ、気品と忠誠、彼はキリストの学校に
おいて訓練され飾られた紳士であった。彼の内にはつまらないものとか卑しいもの、陰で立ち
回るとか下品なもの、出し惜しみするとか意地悪さは無かった。彼の衝動は高貴であり、彼の
目的は高かった。主人の如く彼は善い業を行った。他の人々を助けることが彼の望みであっ
た。彼は自分のために何の名声も得ようとしなかった。彼は僕の姿をとった。彼は死に至るま
で従順であった。そして神はそのように彼を高くし、彼に永遠の星のように輝く名を与えた。 
パウロはいつも最大の愛される人であった。彼の冠たる賜物は彼の愛の能力であった。彼の
もっとも高い喜びは愛することによって引き出された。エマーソンは人類は自分を愛す人を愛
すといった。では私たちはパウロは愛する助けをするだろうか?彼は愛したし、愛されることを
望んだ。それだけでは彼を理解するうえで十分ではない。彼は愛されることを熱望した。彼は、
尊敬を受けたり、賞賛されたり、崇敬されたりすることでは満足しなかった。彼はただ愛される
ことによってのみ満足した。彼が喜んだもののすべては愛であった。このように遠く、キリスト者
の大部分によって理解されると彼は考えたのであった。彼を理解することは彼に最も関心を与
えられた人々の願いである。人々は彼を理解する力を誇る。しかし彼を理解することに不十分
である。彼は愛の人である。彼がそのように少ししか愛されなかったことは歴史上の悲劇のひ
とつである。彼の墓は壁のないパウロの墓に下にあり、ある者が本当にこういった。今日その
人は「壁の外に」留まっている、と。教会はいまだに彼を内に入れない。個人のキリスト者はパ
ウロが彼の心の外に留まることを許容している。しかし主のように、彼は戸の外に立ち、ノック
する。パウロがコリント人たちに述べたことは、彼が私たちに言っているのである・・・「私はあ
なた方の所有物でなく、あなたがた自身を求めている。私はあなたがたの魂のための費用を
喜んで費やそう。」コリント人たちに彼が指摘した問題を、彼は私たちに対して指摘している・・・
「もし私があなたがたをもっと豊かに愛したら、私の愛が足らないのだろうか?」彼のコリント人
たちへのアピールは、すべての世代に通じる・・・「私の心はあなたがたに対して広く開いてい
る・・・あなたがたのこころを私に対して開いてください!」というアピールである。



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