第二十四章  パウロの宗教性

 今や私たちはパウロの品性の中心・・・彼の宗教性・・・に到達する。彼の内の最奥のもの、
そしてすべてのことを制御するのは彼の宗教である。ある人々には宗教はその人から離れた
ものであるが、パウロにとって宗教は彼の全存在である。ある人々は教会の大きな催し事の
日にのみ宗教的である。他の人々は人生における非常時・・・肉体的な危機とか、重い病気、
死が近づいた時・・・にのみ宗教的である。パウロは毎日のすべての時間を宗教の雰囲気の
中で生活した。彼は哲学、文学、芸術、実業、政治、外交にはほとんど関わらなかった。彼の
究極の関心は宗教であった。彼の人生に神を無視する完全な彼の肖像は存在しない。宗教を
除いたら彼は不可解な謎となる。彼の宗教は、彼の行動の主たる原動力であり彼の力の源で
ある。彼は非常に深く情熱的であり非常に力強い宗教心を有していた。そのため私たちは彼
を宗教の天才と呼ぶことができる。 宗教ということばによって、私たちはひとの神に対する姿
勢の意識を意味する。パウロは永遠者と彼との関係の強い意識を持っていた。神の中に彼は
生き、行動し、彼の存在を持った。私たちの大部分がそうであるような無意識にではなく意識し
てそうであった。彼は神を、その存在、その人格、その良善さ、人間の出来事に能動的に関わ
ること、そしてパウロの出来事には格別に関わることを確信していた。神は彼を生まれたその
時から特別の使命のために選び分かった。神は、彼が異邦人に宣べ伝えるために彼の内に
神の子を啓示するため彼を選んだ。神は日々彼を導いた。神は、あるときは彼の恍惚状態中
で、ある時は夢で、ある時は出来事のなかで、あるときは彼のこころの中の衝動や傾向性のな
かで彼に語った。神は彼の内におられ、御自身が大いなる喜びをもって彼の意志と働きに共
に働きつづけた。パウロはどこにでも神を見た。神は大いなる与え主であった。「神は、すべて
の人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17:25)神は人間の主権
者である。国々は神に属し、神のみこころの支配下にある。「神は、ひとりの人からすべての国
の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境
界とをお定めになりました。神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒1
7:26〜27)神はつねに人々にご自身を現される。神はヘブルの預言者にご自身を啓示され
た。ギリシャの詩人に、実りの季節に、宇宙の物質の運行に、そして時が満ちてその独り子イ
エス・キリストによって啓示された。 神の人間のお取り扱いの中に、神はその第一歩をおとり
になる。神は呼ばれる。神は人のこころに御自身の霊を分け与えられる。神は人が祈るように
うながされる。神は人を罪から開放することを助ける。神は必要な犠牲を提供される。「私たち
がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:8)神は人間
のこころを住まいとされる。神の霊が私たちが神のこどもであることを証しされる。私たちの内
にある栄光の望みはキリストである。私たちの所有するすべてのものは神の賜物である。恵み
と平安と力と愛は、すべて神から私たちに与えられたものです。パウロの信仰は神にある。彼
の望みは神にある。彼の使命は神から与えられた。この神意識はパウロの生涯の表面下に
力強い流れとなって流れている。私たちは、それが破れでないときにでも、その勢いを感じるこ
とができる。パウロは論争に力強かったが、頌栄を歌うためにはいかなる瞬間にも議論を止め
る備えがあった。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばき
は、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33) すべ
てのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこし
えにありますように。」(ローマ11:36)「今永遠の王、不死、見えざる、唯一人の神に誉れと栄
光が永遠にありますように。アーメン。」どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見え
ない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。(1テモテ1:17) 彼は
宗教性に富んでいたので、祈ることを好んだ。彼は絶えず神と語っていた。彼の祈り深さは彼
の品性の最も目立つ姿のひとつである。彼の生涯のなかで祈りが保たれている箇所に感銘を
受けずに新約聖書を読む人はいない。そのことに関してこれまで議論を生じたことはなかっ
た。議論を越えたところに存在するものがあるが、彼の祈りはそれらのひとつである。パウロ
は祈りの人であった。パウロの手紙と使徒の働きに明らかにされていることとの間の不一致、
年代記と歴史上の事実の記述との間に不一致があるが、手紙を書いた人の品性と「使徒の働
き」にルカが記述したこととの間には何の不一致もない。どちらのパウロも祈りの人である。ル
カはミレトでパウロが砂上にひざまずいてエペソの長老たちと祈ったこと、ツロを出発するとき
彼と仲間たち全員がひざまずいて祈ったことを語っている。彼の手紙の中で、彼はいつもひざ
まずいて祈っている。彼の手紙の上にも、使徒の働きの上にも、適切に書かれた記述があ
る・・・「見よ。彼は祈っている!」牧会書簡と他の10通の手紙の間の相違は、語彙と言い回し
と視点の相違について議論を巻き起こしてきた。しかし書いた人物の祈りの姿勢については何
の相違も見いだされない。牧会書簡を書いた人は、ローマ人への手紙とピリピ人への手紙を
書いた人と同じに祈り深かった。問題の多い批評の問題と年表に関する込み入った問題があ
り、学者たちが比較に取り組んだが、これらの問題ではパウロの祈りの実行には何も触れて
いない。キリスト教会の全歴史の中で最大の使徒が神との交わりの時間を多く過ごしたことよ
りも確かなことはない。 彼は絶えず祈っていた。彼が他の人たちに祈りを止めないように勧め
たとき、彼は彼らにただ自分の例に倣うように強調したのであった。彼はテモテに彼が夜も昼
も祈っていることを忘れないようにと述べている。彼はコロサイ人たちに確約した・・・「私たち
は・・・、絶えずあなたがたのために祈り求めています。」(コロサイ1:9)彼は絶えず自分自身
のために祈っている。そして彼は他の人々のためにも祈っている。彼の他の人々のための祈
りは彼自身のためから発している。そして彼は絶えず自分の会衆を恵みの王座に連れて行っ
た。私たちは彼のコロサイ人たちへの手紙の学びから彼がどのように祈っていたかを知ること
ができる。「私たちはあなたがたのために、神があなたがたにあらゆる霊の知識と内なる知恵
に満たしてくださり、そして主にとって価値のある人生に導かれ、神に完全な満足していただけ
るように祈ることを決して止めません。」(コロサイ1:10)ピリピ人たちに彼はこう書いた。「私
は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな
り、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなた
がたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる
義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」(ピリピ1:9〜11)
自身のために祈るときも他の人々のために祈るときも、彼は常に彼の願いごとの前に・・・「み
国が来ますように。みこころがなりますように。」・・・と祈っている。神の栄光と神の統治される
王国の前進はすべての祈り手の願いである。彼の祈りは形式張らず、親しみのある自然なも
のであった。彼にとって祈りは決定的な神との交わりである。それは独り言ではなく、対話であ
る。人は語り同じく神も語られる。エルサレムの暴徒たちへの説教で、パウロはエルサレムで
の彼の最初の祈りに触れている・・・それは単純な質問であった・・・「主よ。あなたはどなたで
すか?」(使徒22:8)・・・そして答えが来た。彼の2度目の祈りは・・・「主よ。あなたは私に何
をさせなさるのですか?」(使徒22:10)であった。彼は神殿における彼の祈りのひとつを説明
している。それもまた対話の一種であった。彼は主が言われたことを、次いで彼が言ったこと
を、さらに主が言われたことを話している。パウロは、神は人に語ることができ、語られる。そし
て神のみこころを、神との直接の接触によって確かめることができると信じていた。パウロは、
時には、祈りのあいだ、ことばをまったく話さなかった。ことばにならない祈りがある。時に
は・・・「父よ。」・・・ということばが、彼の唇から漏れ、彼の魂の願いのことばがそそぎだされ
た。また別の時には、彼はおしであった。彼のすべての個人的祈りに、彼のうちにあって、神は
ことばに表現することのできないため息を持って慕い、嘆願する。時には彼の交わりは大喜び
に満ち、彼の魂に全ての理解を超える平安が溢れる。 彼の祈りの中で、パウロの人格はい
きいきとした姿で立つ。彼の人格のすべての姿は、いわば上から明かりに照らされたように明
らかにされる。彼の親切、優しさ、無私、高潔さ、高貴さ、熱心、寛大さ、敬虔、はすべてそれら
の稀な麗しさで閉じられている。そして私たちは貴重にも、パウロの魂の最奥を一目見ること
ができるのである。彼の祈りの中に私たちは天の啓示を得る。
 パウロは宗教について語ることが好きだった。彼の宗教経験は彼にとって彼の人生の最も
貴重で感激的な部分であった。そしてそれをできるかぎり多くの人々に聞いて貰うことを喜びと
した。彼は彼の体を千々に引き裂きたいと願った暴徒にさえもそれを語った。彼はカイザリヤ
でローマの総督とユダヤの王に再び語った。その驚くべき経験は彼のすべての思考と書き物
となした行為の背景であった。神がすでに彼の心に輝き、イエスの顔に神の栄光を見たのは
正にそこにおいてであった。その時以降、パウロは喜びをもって神について語ることを止める
ことはなかった。彼はルステラの農民たちに語るときでもアテネの哲学者たちに語るときも、神
の事柄を語ることを望んだ。「私は彼に属し彼に仕え彼を信じている」・・・難破した船の甲板で
そう彼は誇らかに人々に語った。そしてそのように彼は自分の宗教によって、死んでいたいの
ちの望みを呼び戻し、パニックに満ちていた心に平安を与えた。 神のようにあることがパウロ
の究極の望みであった。多くの人々はやってくる怒りを逃れることがその主たる望みであった。
パウロはそうではなかった。彼は地獄を恐れていないことを示した。そして明らかにそれについ
て語ることに興味を示していなかった。刑罰は彼の書き物の中に目立つ場所を占めてはいな
い。多くの敬虔な人々は、天国が祝福された彼らの生涯の望みである。パウロが天の喜びを
熱望しているようには見えなかった。パウロの望みはこの世での幸福でもなく、彼が待ち望ん
でいる次の世での幸福でもなく、神に似ることであった。彼は神の性質を分け与えられることを
望んだ。彼の燃える望みは神の目に十分成長することであった。彼は、神が彼を神の子の僕
として召した時、神が彼の心に与えた人になること以外の望みは持っていなかった。彼のすべ
ての努力の目的は、キリストの品性に似た品性を得ることである。彼と彼の苦難の種類と復活
の力を知り、彼と共に永遠に生きる、それがパウロの天国であった。 彼の働きは宗教・・・キ
リストにあって神を知ることを人々にすすめること・・・であった。彼の一貫した説教は「私たちは
あなたがたにキリストの恵みによって願う。神と和解しなさい。」であった。彼の働きはコロサイ
人への手紙の彼のことばに正確に記されている。「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を
尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにあ
る成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28) パウロの宗教経験から彼の神学は生ま
れた。ある人の神学はその人の霊的経験の知的解釈であり、彼の心が感じ、知ったことの説
明である。パウロは、キリストを通して新しい道で神を知るに至った。それ故パウロの神学はキ
リスト学であった。彼の語彙の中心にあることばは「キリスト」である。彼はキリストの内に生き
ている。彼はキリストにあってすべてのことをなすことができる。彼の内に生きているのはキリ
ストである。彼が永遠に共に住まうことを望んだのはキリストである。これらすべては彼のダマ
スコ門近くの経験からでてきた。彼がキリストにあったのはそこにおいてであった。彼は彼を愛
するキリストを見た。このことが彼のキリストへの情熱的愛を目覚めさせた。古いものは過ぎ去
り、すべてのものが新しくなった。彼の全天性は造りかえられた。律法は愛に置き換えられた。
自由が束縛にとって代わった。御子の霊が完全に彼を所有した。新しい力が彼の内に脈打っ
た。これらすべてをなす事ができるお方は神であった。神はキリストにあってこの世をご自身と
和解させられた。キリストは目に見えない神の姿である。キリストの内に神性のすべてが充ち
満ちて宿っている。もし神がキリストの内におられるなら、キリストの死は失敗の印ではなく勝
利の印である。それは弱く見える。しかしそれが神の力である。それは愚かに見えるが、それ
が神の知恵である。キリストの十字架によって神は世を救いつつあられる。 キリストを通して
パウロは一連の新しい経験に導かれた。彼は自分自身に平安と力と希望と愛と喜びとがある
ことを発見した。これらは神を起源としなければあり得ないものであった。それらは神から来た
に違いない。それ故神は平和と力と希望と愛と喜びの神なのである。すべての悩みのまっただ
中にあってパウロの心から流れ出るなぐさめの流れの故に、彼は神はすべての慰めの神であ
ることを知った。神は主イエス・キリストの父である。これが人間に対して説明されなければなら
ない神である。イエスの十字架と復活は大きな計画の一部分であると考えられるべきである。
世の経験は、この新しい神経験の光によって解釈されなければならない。ユダヤ人と異邦人と
に関する神の方法は、人間理性の法廷で正しいとされなければならない。パウロは神学者に
なった。その理由は彼が豊かな宗教経験と怠ることのない活動的な精神をもっていたからであ
る。彼の神学的理論のあるものは私たちに訴えるものをもたないし、彼の神学的主張のあるも
のは弱く見える。彼は彼が住んでいる世界のことばを使用しなければならなかった。彼は自分
が持っている哲学の知識によって問題に対峙しなければならなかった。彼の訓練がなんであっ
ても、そして予想と概念が何であっても、彼の神学は彼が通過した世に足跡を残した。神学は
年と共に変化するが、宗教の本質は永遠に保たれる。神学は識者の心の経験自体を説明す
る方言である。神との関係で心が感じるものが宗教である。パウロの聖書解釈、アダムの堕
罪、原罪、選び、着せられた義の教理は全部過ぎ去るであろう。しかし、彼の宗教は生きるの
である。彼のキリストへの献身、神の嘉納の確かさ、赦しの確証、彼の霊的な自由の経験、平
安と喜びの享受、彼自身と人類の究極の勝利の大胆な確信、神への感謝、神を崇めること、
キリストにある神への自己放棄・・・これらは世の霊的富の不滅の部分を構成しており、全ての
世代の人々の経験に再現されるであろう。 パウロは宗教的基盤の上に道徳の基礎を置い
た。神はありのままの神であるから、人々はイエスが生きたように生きるべきなのである。「そ
れ故兄弟たちよ。私はあなたがたに懇願します。神の憐れみによってあなた方の体を、神に受
け入れられる生きた献げものとしなさい。それがあなたがたにとって当然の礼拝です。」(ロー
マ12:1)「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召
しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)人々の体は神の神殿であるから、彼らは自分の身体
に対して罪を犯してはならないのである。彼らは真実を語らなければならない。そのわけは彼
らは互いに器官だからである。彼らは施しに物惜しみをしてはならない。なぜならキリストが彼
らのために貧しくなられたからである。彼らは党派心や虚飾に陥いるのではなく、謙遜の心で
なければならない。なぜならキリストが僕の姿になられ死に至るまで従順であられたからであ
る。まずビジョンをもち、次いで仕事をしなさい。まず真実であり、次いで義務を果たしなさい。
第一に神、次に服従の生活。パウロは宗教を介さない忍耐の徳性は存在しないことを知って
いる。 私たちの時代は宗教性がない。大衆は神について考えていない。彼らは宇宙の力と自
然法則に関心がある。しかしそれらの造り主との個人的関係には彼らは興味を持たない。彼
らは神と一緒に悩むことを望まない。神は不必要な推測だと見なされている。進化論はそれが
神を不要とみなすので、多くの人々を惹き付ける。なし得る限り神を小さくしたい願望が広がっ
ている。通常の敬虔な人々は、多くの場合、彼らの内なる生活においては敬虔ではない。組織
された宗教はより一層博愛主義になっている。人々は神と心を通わすよりも、町のために働く
ことに熱心である。社会活動が礼拝よりも深い満足を与える。その結果は「推して知るべし」で
ある。隠れた祈りは多く無視されるか、あるいは退屈な儀式のように辛抱されている。公の礼
拝はこころを動かす力に欠け、礼拝の讃美歌は唇の上で凍り付き、感謝の祈りはこころから
自発的にわき出ない。教会の顕著な姿は、なす事が必要な力ある働きの分野で無能となって
いる。付随的なことには成功するが、重大なことは未完成で残される。階級の憎悪、人種偏
見、民族の敵対・・・これらは世のいのちに敵対する悪霊の働きであるが、教会はそれを追い
出すことができないでいる。社会の大きい分野で、道徳性は退廃した状態にある。なぜなら宗
教的基盤が崩されたからである。ただ宗教だけが人間を廃墟から救うことができる。宗教は世
の希望である。現在の人間性の最大の必要は宗教である。敬虔な人のみが他のひとびとを敬
虔にする霊感を与えることができる。私たちはパウロを必要とする。彼は高く高貴な宗教性を
有した。彼の存在の部分が人間性であったから、彼は神と人とに近く生き、彼に開かれている
すべての手段で人々に仕え、彼の信仰によって彼らを鼓舞し、彼の望みによって彼らを元気づ
け、彼の愛によって彼らを奮い立たせた。なぜなら彼のいのちは神のなかにキリストと共に隠
されていたからであった。


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