chapter24

            第24章 パウロの宗教性

今や私たちはパウロの品性の中心・・・彼の宗教性・・・に到達する。
彼の内の最奥のもの、そしてすべてのことを制御するのは彼の宗教である。
ある人々には宗教はその人から離れたものであるが、パウロにとって宗教は彼の全存在であ
る。
ある人々は教会の大きな催し事の日にのみ宗教的である。
他の人々は人生における非常時・・・肉体的な危機とか、重い病気、死が近づいた・・・時にの
み宗教的である。
パウロは毎日のすべての時間を宗教の雰囲気の中で生活した。
彼は哲学、文学、芸術、実業、政治、外交にはほとんど関わらなかった。彼の究極の関心は
宗教であった。
彼の人生に神を無視する完全な彼の肖像は存在しない。
宗教を除いたら彼は不可解な謎となる。
彼の宗教は、彼の行動の主たる原動力であり彼の力の源である。
彼は非常に深く情熱的であり非常に力強い宗教心を有していた。そのため私たちは彼を宗教
の天才と呼ぶことができる。

 宗教ということばによって、私たちはひとの神に対する姿勢の意識を意味する。
パウロは永遠者と彼との関係の強い意識を持っていた。
神の中に彼は生き、行動し、彼の存在を持った。私たちの大部分がそうであるような無意識に
ではなく意識してそうであった。
彼は神を、その存在、その人格、その良善さ、人間の出来事に能動的に関わること、そしてパ
ウロの出来事には格別に関わることを確信していた。
神は彼を生まれたその時から特別の使命のために選び分かった。
神は、彼が異邦人に宣べ伝えるために彼の内に神の子を啓示するため彼を選んだ。
神は日々彼を導いた。
神は、あるときは彼の恍惚状態中で、ある時は夢で、ある時は出来事のなかで、あるときは彼
のこころの中の衝動や傾向性のなかで彼に語った。
神は彼の内におられ、御自身が大いなる喜びをもって彼の意志と働きに共に働きつづけた。
パウロはどこにでも神を見た。
神は大いなる与え主であった。
「神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17:25)
神は人間の主権者である。
国々は神に属し、神のみこころの支配下にある。
「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決
められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。神は、私たちひとりひとりから遠
く離れてはおられません。(使徒17:26−27)
神はつねに人々にご自身を現される。
神はヘブルの預言者にご自身を啓示された。ギリシャの詩人に、実りの季節に、宇宙の物質
の運行に、そして時が満ちてその独り子イエス・キリストによって啓示された。

神の人間のお取り扱いの中に、神はその第一歩をおとりになる。
神は呼ばれる。
神は人のこころに御自身の霊を分け与えられる。
神は人が祈るようにうながされる。
神は人を罪から開放することを助ける。
神は必要な犠牲を提供される。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:8)
神は人間のこころを住まいとされる。
神の霊が私たちが神のこどもであることを証しされる。
私たちの内にある栄光の望みはキリストである。
私たちの所有するすべてのものは神の賜物である。
恵みと平安と力と愛は、すべて神から私たちに与えられたものです。
パウロの信仰は神にある。
彼の望みは神にある。
彼の使命は神から与えられた。
この神意識はパウロの生涯の表面下に力強い流れとなって流れている。
私たちは、それが破れでないときにでも、その勢いを感じることができる。
パウロは論争に力強かったが、頌栄を歌うためにはいかなる瞬間にも議論を止める備えがあ
った。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽く
しがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)
 すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光が
とこしえにありますように。」(ローマ11:36)
「今永遠の王、不死、見えざる、唯一人の神に誉れと栄光が永遠にありますように。アーメ
ン。」
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々
限りなくありますように。アーメン。(1テモテ1:179)

 彼は宗教性に富んでいたので、祈ることを好んだ。
彼は絶えず神と語っていた。
彼の祈り深さは彼の品性の最も目立つ姿のひとつである。
彼の生涯のなかで祈りが保たれている箇所に感銘を受けずに新約聖書を読む人はいない。
そのことに関してこれまで議論を生じたことはなかった。
議論を越えたところに存在するものがあるが、彼の祈りはそれらのひとつである。
パウロは祈りの人であった。
パウロの手紙と使徒の働きに明らかにされていることとの間の不一致、年代記と歴史上の事
実の記述との間に不一致があるが、手紙を書いた人の品性と「使徒の働き」にルカが記述した
こととの間には何の不一致もない。

どちらのパウロも祈りの人である。
ルカはミレトでパウロが砂上にひざまずいてエペソの長老たちと祈ったこと、ツロを出発すると
き彼と仲間たち全員がひざまずいて祈ったことを語っている。
彼の手紙の中で、彼はいつもひざまずいて祈っている。
彼の手紙の上にも、使徒の働きの上にも、適切に書かれた記述がある・・・「見よ。彼は祈って
いる!」
牧会書簡と他の10通の手紙の間の相違は、語彙と言い回しと視点の相違について議論を巻
き起こしてきた。しかし書いた人物の祈りの姿勢については何の相違も見いだされない。

牧会書簡を書いた人は、ローマ人への手紙とピリピ人への手紙を書いた人と同じに祈り深か
った。
問題の多い批評の問題と年表に関する込み入った問題があり、学者たちが比較に取り組んだ
が、これらの問題ではパウロの祈りの実行には何も触れていない。
キリスト教会の全歴史の中で最大の使徒が神との交わりの時間を多く過ごしたことよりも確か
なことはない。

彼は絶えず祈っていた。
彼が他の人たちに祈りを止めないように勧めたとき、彼は彼らにただ自分の例に倣うように強
調したのであった。
彼はテモテに彼が夜も昼も祈っていることを忘れないようにと述べている。
彼はコロサイ人たちに確約した・・・「私たちは・・・、絶えずあなたがたのために祈り求めていま
す。」(コロサイ1:9)
彼は絶えず自分自身のために祈っている。そして彼は他の人々のためにも祈っている。
彼の他の人々のための祈りは彼自身のためから発している。そして彼は絶えず自分の会衆を
恵みの王座に連れて行った。
私たちは彼のコロサイ人たちへの手紙の学びから彼がどのように祈っていたかを知ることがで
きる。

「私たちはあなたがたのために、神があなたがたにあらゆる霊の知識と内なる知恵に満たして
くださり、そして主にとって価値のある人生に導かれ、神に完全な満足していただけるように祈
ることを決して止めません。」(コロサイ1:10)
ピリピ人たちに彼はこう書いた。
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かに
なり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあな
たがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられ
る義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」(ピリピ1:9−1
1)

自身のために祈るときも他の人々のために祈るときも、彼は常に彼の願いごとの前に・・・「み
国が来ますように。みこころがなりますように。」・・・と祈っている。
神の栄光と神の統治される王国の前進はすべての祈り手の願いである。

彼の祈りは形式張らず、親しみのある自然なものであった。
彼にとって祈りは決定的な神との交わりである。
それは独り言ではなく、対話である。
人は語り同じく神も語られる。
エルサレムの暴徒たちへの説教で、パウロはエルサレムでの彼の最初の祈りに触れてい
る・・・それは単純な質問であった・・・「主よ。あなたはどなたですか?」(使徒22:8)・・・そして
答えが来た。彼の2度目の祈りは・・・「主よ。あなたは私に何をさせなさるのですか?」(使徒2
2:10)であった。
彼は神殿における彼の祈りのひとつを説明している。
それもまた対話の一種であった。
彼は主が言われたことを、次いで彼が言ったことを、さらに主が言われたことを話している。

パウロは、神は人に語ることができ、語られる。そして神のみこころを、神との直接の接触によ
って確かめることができると信じていた。
パウロは、時には、祈りのあいだ、ことばをまったく話さなかった。
ことばにならない祈りがある。
時には・・・「父よ。」・・・ということばが、彼の唇から漏れ、彼の魂の願いのことばがそそぎださ
れた。
また別の時には、彼はおしであった。彼のすべての個人的祈りに、彼のうちにあって、神はこと
ばに表現することのできないため息を持って慕い、嘆願する。

時には彼の交わりは大喜びに満ち、彼の魂に全ての理解を超える平安が溢れる。

彼の祈りの中で、パウロの人格はいきいきとした姿で立つ。
彼の人格のすべての姿は、いわば上から明かりに照らされたように明らかにされる。
彼の親切、優しさ、無私、高潔さ、高貴さ、熱心、寛大さ、敬虔、はすべてそれらの稀な麗しさ
で閉じられている。そして私たちは貴重にも、パウロの魂の最奥を一目見ることができるので
ある。

彼の祈りの中に私たちは天の啓示を得る。

パウロは宗教について語ることが好きだった。
彼の宗教経験は彼にとって彼の人生の最も貴重で感激的な部分であった。そしてそれをでき
るかぎり多くの人々に聞いて貰うことを喜びとした。

彼は彼の体を千々に引き裂きたいと願った暴徒にさえもそれを語った。
彼はカイザリヤでローマの総督とユダヤの王に再び語った。
その驚くべき経験は彼のすべての思考と書き物となした行為の背景であった。
神がすでに彼の心に輝き、イエスの顔に神の栄光を見たのは正にそこにおいてであった。
その時以降、パウロは喜びをもって神について語ることを止めることはなかった。
彼はルステラの農民たちに語るときでもアテネの哲学者たちに語るときも、神の事柄を語るこ
とを望んだ。
「私は彼に属し彼に仕え彼を信じている」・・・難破した船の甲板でそう彼は誇らかに人々に語っ
た。そしてそのように彼は自分の宗教によって、死んでいたいのちの望みを呼び戻し、パニッ
クに満ちていた心に平安を与えた。
神のようにあることがパウロの究極の望みであった。 

多くの人々はやってくる怒りを逃れることがその主たる望みであった。
パウロはそうではなかった。
彼は地獄を恐れていないことを示した。そして明らかにそれについて語ることに興味を示して
いなかった。
刑罰は彼の書き物の中に目立つ場所を占めてはいない。
多くの敬虔な人々は、天国が祝福された彼らの生涯の望みである。
パウロが天の喜びを熱望しているようには見えなかった。
パウロの望みはこの世での幸福でもなく、彼が待ち望んでいる次の世での幸福でもなく、神に
似ることであった。
彼は神の性質を分け与えられることを望んだ。
彼の燃える望みは神の目に十分成長することであった。
彼は、神が彼を神の子の僕として召した時、神が彼の心に与えた人になること以外の望みは
持っていなかった。
彼のすべての努力の目的は、キリストの品性に似た品性を得ることである。

彼と彼の苦難の種類と復活の力を知り、彼と共に永遠に生きる、それがパウロの天国であっ
た。

彼の働きは宗教・・・キリストにあって神を知ることを人々にすすめること・・・であった。
彼の一貫した説教は「私たちはあなたがたにキリストの恵みによって願う。神と和解しなさい。」
であった。
彼の働きはコロサイ人への手紙の彼のことばに正確に記されている。
「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えて
います。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:2
8)

パウロの宗教経験から彼の神学は生まれた。
ある人の神学はその人の霊的経験の知的解釈であり、彼の心が感じ、知ったことの説明であ
る。
パウロは、キリストを通して新しい道で神を知るに至った。それ故パウロの神学はキリスト学で
あった。
彼の語彙の中心にあることばは「キリスト」である。
彼はキリストの内に生きている。
彼はキリストにあってすべてのことをなすことができる。
彼の内に生きているのはキリストである。
彼が永遠に共に住まうことを望んだのはキリストである。
これらすべては彼のダマスコ門近くの経験からでてきた。
彼がキリストにあったのはそこにおいてであった。
彼は彼を愛するキリストを見た。
このことが彼のキリストへの情熱的愛を目覚めさせた。
古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなった。
彼の全天性は造りかえられた。
律法は愛に置き換えられた。
自由が束縛にとって代わった。
御子の霊が完全に彼を所有した。

新しい力が彼の内に脈打った。
これらすべてをなす事ができるお方は神であった。
神はキリストにあってこの世をご自身と和解させられた。
キリストは目に見えない神の姿である。
キリストの内に神性のすべてが充ち満ちて宿っている。
もし神がキリストの内におられるなら、キリストの死は失敗の印ではなく勝利の印である。

それは弱く見える。しかしそれが神の力である。
それは愚かに見えるが、それが神の知恵である。

キリストの十字架によって神は世を救いつつあられる。
 キリストを通してパウロは一連の新しい経験に導かれた。彼は自分自身に平安と力と希望と
愛と喜びとがあることを発見した。
これらは神を起源としなければあり得ないものであった。
それらは神から来たに違いない。
それ故神は平和と力と希望と愛と喜びの神なのである。
すべての悩みのまっただ中にあってパウロの心から流れ出るなぐさめの流れの故に、彼は神
はすべての慰めの神であることを知った。

神は主イエス・キリストの父である。
これが人間に対して説明されなければならない神である。
イエスの十字架と復活は大きな計画の一部分であると考えられるべきである。
世の経験は、この新しい神経験の光によって解釈されなければならない。
ユダヤ人と異邦人とに関する神の方法は、人間理性の法廷で正しいとされなければならない。

パウロは神学者になった。その理由は彼が豊かな宗教経験と怠ることのない活動的な精神を
もっていたからである。
彼の神学的理論のあるものは私たちに訴えるものをもたないし、彼の神学的主張のあるもの
は弱く見える。
彼は彼が住んでいる世界のことばを使用しなければならなかった。
彼は自分が持っている哲学の知識によって問題に対峙しなければならなかった。

彼の訓練がなんであっても、そして予想と概念が何であっても、彼の神学は彼が通過した世に
足跡を残した。

神学は年と共に変化するが、宗教の本質は永遠に保たれる。
神学は識者の心の経験自体を説明する方言である。

神との関係で心が感じるものが宗教である。

パウロの聖書解釈、アダムの堕罪、原罪、選び、着せられた義の教理は全部過ぎ去るであろ
う。しかし、彼の宗教は生きるのである。
彼のキリストへの献身、神の嘉納の確かさ、赦しの確証、彼の霊的な自由の経験、平安と喜び
の享受、彼自身と人類の究極の勝利の大胆な確信、神への感謝、神を崇めること、キリストに
ある神への自己放棄・・・これらは世の霊的富の不滅の部分を構成しており、全ての世代の
人々の経験に再現されるであろう。

 パウロは宗教的基盤の上に道徳の基礎を置いた。
神はありのままの神であるから、人々はイエスが生きたように生きるべきなのである。
「それ故兄弟たちよ。私はあなたがたに懇願します。神の憐れみによってあなた方の体を、神
に受け入れられる生きた献げものとしなさい。それがあなたがたにとって当然の礼拝です。」
(ローマ12:1)
「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさ
わしく歩みなさい。」(エペソ4:1)

人々の体は神の神殿であるから、彼らは自分の身体に対して罪を犯してはならないのである。
彼らは真実を語らなければならない。そのわけは彼らは互いに器官だからである。
彼らは施しに物惜しみをしてはならない。なぜならキリストが彼らのために貧しくなられたからで
ある。
彼らは党派心や虚飾に陥いるのではなく、謙遜の心でなければならない。なぜならキリストが
僕の姿になられ死に至るまで従順であられたからである。
まずビジョンをもち、次いで仕事をしなさい。
まず真実であり、次いで義務を果たしなさい。
第一に神、次に服従の生活。
パウロは宗教を介さない忍耐の徳性は存在しないことを知っている。

 私たちの時代は宗教性がない。
大衆は神について考えていない。
彼らは宇宙の力と自然法則に関心がある。しかしそれらの造り主との個人的関係には彼らは
興味を持たない。
彼らは神と一緒に悩むことを望まない。
神は不必要な推測だと見なされている。
進化論はそれが神を不要とみなすので、多くの人々を惹き付ける。
なし得る限り神を小さくしたい願望が広がっている。
通常の敬虔な人々は、多くの場合、彼らの内なる生活においては敬虔ではない。
組織された宗教はより一層博愛主義になっている。
人々は神と心を通わすよりも、町のために働くことに熱心である。
社会活動が礼拝よりも深い満足を与える。
その結果は「推して知るべし」である。
隠れた祈りは多く無視されるか、あるいは退屈な儀式のように辛抱されている。
公の礼拝はこころを動かす力に欠け、礼拝の讃美歌は唇の上で凍り付き、感謝の祈りはここ
ろから自発的にわき出ない。

教会の顕著な姿は、なす事が必要な力ある働きの分野で無能となっている。
付随的なことには成功するが、重大なことは未完成で残される。
階級の憎悪、人種偏見、民族の敵対・・・これらは世のいのちに敵対する悪霊の働きである
が、教会はそれを追い出すことができないでいる。
社会の大きい分野で、道徳性は退廃した状態にある。なぜなら宗教的基盤が崩されたからで
ある。
ただ宗教だけが人間を廃墟から救うことができる。
宗教は世の希望である。
現在の人間性の最大の必要は宗教である。
敬虔な人のみが他のひとびとを敬虔にする霊感を与えることができる。
私たちはパウロを必要とする。
彼は高く高貴な宗教性を有した。

彼の存在の部分が人間性であったから、彼は神と人とに近く生き、彼に開かれているすべて
の手段で人々に仕え、彼の信仰によって彼らを鼓舞し、彼の望みによって彼らを元気づけ、彼
の愛によって彼らを奮い立たせた。なぜなら彼のいのちは神のなかにキリストと共に隠されて
いたからであった。



 
 
− パウロの品性(25) −

 
第25章 パウロの愛される人柄

ひとつ疑問が残っている・・・パウロは愛される人であっただろうか?
私たちは彼が有能で、賢く、異彩を放っていたことを知っている。しかし彼は人を惹きつける人
物であっただろうか?
私たちは彼が聖人であったことを認める。しかし彼は人に好かれただろうか?
ある聖人たちはそうではない。
私たちは彼が多くの徳を有していたことを認める。しかし徳のある人々が常に人を惹きつける
とは限らない。
彼らはその徳で私たちを飽き飽きさせた。
私たちはその人が高い原理の人であると認める。しかしその高い原理の人が全体としては魅
力に欠けることがある。
私たちは彼が強い人であることを知っている。しかし彼はうるわしかったのか?
私たちは彼が力に満ちていることを確信している。しかし彼は恵みに満ちていただろうか。
私たちは彼が勇敢であったと信じきっている。しかし彼は愛らしい人であっただろうか?
彼は偉大であったことは疑いの余地がない。しかし、私たちが嫌悪した大ナポレオン1世と同じ
ではないか。
トマス・アクイナスとジョン・カルビンは偉大であった。しかし彼らを愛する人がいるだろうか?
彼は興味深い、魅力的でさえある。しかし私たちは彼に自分の心を捧げるだろうか?

もしあなた方が彼に会っていたら彼を好きになるだろうか?
彼のいるところに自分もいたいと望むだろうか?
部屋に彼が入ってきたら、その部屋が変わって見えるだろうか?
彼があなた方から去った後、太陽が輝いて見えるだろうか?
彼にもう一度会うために熱心に探すだろうか?

画家たちは私たちがパウロを愛するためのたいした助けにはなっていない。
キリスト教絵画の全体を熟知しているある人が、パウロの全描写について述べており、そのイ
メージが満足を与えるものではないとする。

彼の肖像はキリスト者の家の壁には滅多に存在しない。
学者たちは全体として私たちが彼を愛する助けをしない。
彼らはパウロを理論家として示した。理論というもの氷のように冷たい。
彼らは私たちがパウロを、常に彼の好む信仰による義の教義を含む、教条主義者と思うよう
に教えた。教条主義者には磁力がない。
彼らは主張や論争に力強いパウロを描いた。その結果私たちはパウロを知的武士の如くに思
うようになった。
彼らはパウロを思考の人であるとあまりに言ったので、私たちは本能的に彼を異星人のように
見るようになった。
彼は威風堂々たる台座にたっていて、私たちは賛嘆して彼を見つめる。
彼は聖人の群れの中におり、私たちは彼を尊敬する。
彼は学者たちの著作のなかにあり、私たちは彼の名を、尊敬をもって語る。

私たちは彼に深く頭を下げて通り過ぎる。
現代の世のいかなるクラスの人々も彼を本当に愛しているかは疑わしい。
少年たちも少女たちも彼を好かない。また大学生たちは彼の手紙の写しをポケットにいれて持
ち歩かない。実業についている人々は彼に引かれるものを感じない。主婦たちは彼に喜びを
持たない。彼は工場や製粉所、鉱山、畑、事務所、店で苦労している数百万人のアイドルでは
ない。
彼は世の大衆の英雄の席を決して好まなかった。

 パウロは人に愛されなかったと主張する人々がいる。
彼らは初期のキリスト教歴史のすべての人物中もっとも愛されなかった人として私たちの前に
彼を置く。
彼は利己的で・・・彼自身について述べるときはいつも・・・自己主張が強かった、と彼らは言
う。
彼らはパウロは貴族的で横暴であり、常に彼自身のやり方で事を決めたと宣言する。
彼らはパウロは偉大な使徒たちに嫉妬し、いつも彼らのあら探しをし、彼らの権威を落とそうと
試みたと主張している。
彼らはパウロの判断は過酷で、そのことばは苦いと非難する。
彼らは、狂信的、頑固者、その手段は無遠慮、気質は独善、人を惹きつけないばかりか胸くそ
悪いいまわしい性格の持ち主だとパウロを非難する。

これらは書物に書かれ、学識者として評判にある人々によって保証され、会集席にいる人は、
これらのパウロを非難する肖像に陥り、その人は幻惑され何を考え、語ったらよいか知らな
い。

 誰かがパウロについて理解していると宣言している人に耳を傾けるとき、使徒の働きとパウ
ロ書簡に目を留めているべきである。

新約聖書がパウロについて語る以上にパウロを知っている学者は誰もいない。
パウロの姿は魅力がないということはすべて、彼の手紙によって完全に覆される。
その他全ての好ましからぬ姿が、パウロ批判のイメージに起因する書物に喧伝された。

提示されたパウロの絵はしばしば憶測と仮定の混合物である。
真のパウロは新約聖書中に描かれている。

新約聖書のテキストがパウロに近づくことを許している以上に、彼に近づくことができた私たち
の時代の学者は誰もいない。
パウロが愛される個性の持ち主であったか否かについの疑問に対し、ルカが記した小さな本
はこれまで書かれた全ての本に優る価値がある。

ルカはパウロを知っており、ルカにとってパウロは全ての点で魅力があるように見えた。
ルカはパウロの旅行の同伴者であった。
彼は陸地でも海の上でも彼と一緒にいた。
彼は多くの困難な経験を共に味わった。

彼はパウロの傍らで伝道活動を共に行った。
彼はパウロと一緒に食べ、一緒に語り、一緒に祈り、一緒に何百マイルを歩いた。
ルカが知っていることに比べ、もっとパウロを知っている現代の著作者は一体誰か?
なぜルカよりも、現今のドイツ人、フランス人、オランダ人、イギリス人あるいはアメリカ人の一
人を選ばなければならないのだろうか?
パウロの個性に関わる何らかの点でルカに反対する人は、聴くに値しない人物である。

ルカはパウロに対して非常に献身的であった。それゆえ彼は喜んで果てしない困難と危険を
彼と分かった。
彼は獄中のパウロそばに喜んで留まった。
彼は、ネロが皇帝の座にいたときさえ、ローマにパウロと同行することに熱心であった。
デマスは世がパウロよりも魅力的であると思った。しかしルカにとっては、全世界も彼の友に比
べれば無いに等しいものであった。
ルカは最後までパウロに忠実であった。
これは死に至るまで忠実な愛の究極的テストであった。
ルカは、同じようにパウロに献身的であった人々について私たちに語る。
エペソの長老たちはことばも抱擁も涙も表現できない愛をもって彼を愛した。

彼らは何年もパウロを親しく知っていた。
彼らはパウロを彼らの家庭と心に迎え入れた。
彼らは泣くことなしには彼にさようならを言えなかった。
彼らは太陽が空から取り去られるまで、再び彼に会うことは決してできないだろうと思った。
ある現代の聖書神学者の描いた風刺画は、ルカによって描かれた魅力があり愛すべき人とは
全く似ていない。

もしもパウロが無愛想で不快な人物であったら、どうして私たちが彼の影響を数えることができ
るだろうか?
なぜテモテはルステラの彼の家庭を喜んで去ったのだろうか。そして、ただ神のみがその行き
先を知っていたところへと、比較的見知らぬ人についていったのだろうか?
なぜ彼の母と祖母は喜んで彼を行かせたのだろうか?
力強さがこのように若者を惹き付け彼の家庭からさらせる魅力を持ち、そのような危険な旅路
に旅出させるかも知れない。
テモテはただパウロの人柄の魅力に打ち負かされ捉えられた多くの人々のひとりにすぎない。

シラスは全てを残してパウロについていった。
彼は危険を冒し入牢しむち打たれる備えがあった。

足かせにつながれた獄舎の中においてさえ、パウロと一緒に彼の傍らで歌うことができた。
テトスもまた逃れることのできない愛のグリップに捉えられた。
パウロの役に立つことは彼にとって生きることであり喜びであった。
余りにも長かったり困難すぎたりする用足しはなく、重すぎたり耐え難い荷はなかった。
彼はクレタ人たちをキリストに従うことを勧める感謝されない下働きさえ喜んで行った。

パウロは彼の助け手たちにこの世で報いを提供することができなかった。
彼にはお金がなかった。
名誉ある地位を与えることはできなかった。
快適さと安楽とを提供することはできなかった。
いのちそのものさえ彼は約束できなかった。
争い好きで批判がちなうぬぼれの強い人は自分のためにそのような条件で働く人々を獲得で
きない。
これらのひとびとは恐らくパウロへの愛に陥ったに違いない。
彼らの行動に他の説明はつかない。

私たちはたとえどんなに困難なことであっても、愛する人々のためには何でもする備えがある。
イエスの弟子たちは、彼に対する大きな愛の故に、不幸なことが彼らに待ち受けていることに
よってひるむことはなかった。
パウロの弟子たちは、パウロを非常に愛したので、獄舎も死も彼と共にする備えがあった.
プリスカとアクラはパウロのために彼らの首の危険を冒しただ一人なのではない。
ガラテヤ人たちは彼らの目をえぐり取ってパウロに与えたいと思った唯一の人々ではかった。
ピリピ人たちは彼の全苦難と労苦との中にあって愛する思いをもって彼に従ったただひとりな
のではない。

口やかましく横暴な専制君主はそのような献身を呼び覚ますことはできない。
現今の彼を批判する人々は、偏見を持った学者たち、つむじまがりの理論家たちであって、人
の心理に無知であり、彼らが非難する事実を歪曲している。
新約聖書はパウロと親しくなるよい機会を得た人々に対して、彼は格別な魅力をもった人物で
あったことを、見ることのできる目を持っている全ての人々に明らかにしている。

つまり本当は、彼を嫌った人々は彼を知らなかったのである。
 もし彼が私たちの愛に値するなら、私たちが彼を愛することは重要なことである。
もし私たちが彼を愛さないなら、私たちは損をした人々である。
私たちが彼を愛することができないうちは、彼は私たちに何ができるというのか。
私たちが愛した人々のみが真に私たちの生活の中に入ってくる。
私たちが愛する人々によってのみ私たちは神を愛するものに変えられ得る。
パウロは神を愛した。なぜなら彼はイエスとの愛に陥ったからであった。
多くの人々がイエスを愛するようになった。その理由は彼らがパウロを愛したからであった。
パウロを得たのはイエスの理念ではなくイエス自身でった。テモテとテトスとシラス以下全ての
人々を得たのはパウロの理念ではなくパウロ自身であった。
私たちが働きをなす上で、また人生を生きる上で、私たちを助けることができるのは、パウロ
の教理ではなくパウロ自身である。
 彼が愛されたという事実は彼が魅力的であった証拠である。
もし彼が魅力的でなかったなら、愛されることはなかったであろう。
彼は単純に彼自身の存在によって人々が彼を愛するに至らせた。

かつて彼を知った時、彼らは彼を愛する助けができなかった
彼はその時も今と同様に魅力があった。
彼はこころに愛を求める数多くの姿を持っていた。
彼は彼の率直さによって勝ちを得た。
彼は引っ込み思案でもよそよそしくもなかった。
彼は蔵腹無く話した。
彼は子供の天真爛漫さを有していた。
彼は心に浮かんだことはなんでもうっかり話してしまう。
彼は自分の内なる生活のことを全部話してしまうことを恥じなかった。
私たちは彼がそのように人間的であるので彼が好きなのである。
彼は驚くほど私たち自身に似ている。
彼は衝動的である。
彼はしばしば自分が意味していること以上に言ってしまう。
彼の感情は彼とともに突っ走る。
彼はせっかちな気性とすぐ話すことによって問題に遭遇した。
彼は謝罪し、後悔し、はじめからやり直した。
私たちはパウロの気概と勇気の故に、彼を好きになることを避けられない。
彼はいつも反対する周囲と戦っていたが、決して打ち負かされることはなかった。
彼は恐らく失望したかもしれないが、退却することはなかった。
彼は落胆したかも知れないが、倒されることはない。
彼は不正な扱いを受けたかも知れないが、意地悪くなることは無かった。
彼は打ち倒されたかも知れないが、決して降伏することはなかった。
彼はいつも立ち上がり急ぐ備えがあった。
 私たちは彼が皮肉を言うことができることで彼に親近感を感じる。そして、もしやりすぎたら、
非難の話をしたすべての人々をカバーすることができた。 
パウロは私たちの兄弟だという感じを私たちのうちに創り出すに十分なことがある。
はよかったが、人情の毎日の食物とするのによすぎるということはない。
私たちは彼が愚かになれることの故に彼を好むのである。
そのため彼を私たちと同じ階級に属するように見えるのである。
私たちは彼が言ったそのトーンを楽しむ・・・「私はもっとも偉大な使徒たちに少しも劣りませ
ん。」
パウロは自分が誰とでも同じくらいよいと感じたことが何度もあり、それをそのまま口にするこ
とをためらわなかった。
私たちは私たち自身に同じ感覚をもつ。そして私たちはパウロがそのように完全に人間である
ことの故に一層彼が好きになる。
 私たちは彼の的をかわす怜悧さのために彼が好きである。
私たちは彼が逃亡するのを見て嬉しくなる。
私たちはバスケットに乗ってダマスコから逃れる彼を見るとき笑いたくなる。
信仰の英雄がバスケットに乗って秘かに町から出て行くことは不合理に見える。
テサロニケの町から闇に紛れてこっそり抜け出す彼を見るとき、私たちは彼が聖人であること
を忘れ、彼は現代の小説に登場する人物のように見える。
神学者が群衆から機敏に逃げていく様は見ていて面白い。
トリックによってベレアから彼が逃れたとき私たちは喜ばされた。
彼は東に行くように見せかけて、突如南に出発した。そして彼らの手を逃れるたとき、彼の敵
たちは彼らが完全に出し抜かれたことを発見した。

後の日に、彼を殺そうとする刺客のギャングたちの全ての計画から逃れた。
彼らは彼を船の上で殺そうとした。しかし彼は船を使わず陸を進んだ。そして彼らが血の仕事
の準備を整えたとき、彼らの犠牲は遥か遠くにいることを見出した。
パウロは自分の冒険を楽しんだにちがいない。

霊感を受けた使徒がくすくす笑ってはならないのだろうか?
 彼の苦難は私たちに彼を慕わせる。
オセロが彼の困難であった物語を、「悲惨な機会があり、水の上と野原で思わぬ出来事に動
かされ、間一髪逃れ、苦悩が若さを打ち砕いた。」と話したとき、デズデモーナは彼の不運を傷
み、ついに彼との愛に陥った。(訳者註:シェークスピアの戯曲「オセロ」の一節を解説)

私たちすべての中にデズデモーナがいる。そして私たちはパウロが彼の冒険と難儀を語るの
を、私たちの心の中心に入れることなしに、聞くことが出来ない。
パウロの魂が最も麗しく輝くのは、彼の苦難においてである。
最も熱い炉のにあるとき、彼は神の子に最も似て見える。
人々が最悪をなしているとき、彼は最善にあるのである。
人が最も激しく嫌うとき、彼の愛は最も顕著に神聖である。
パウロが障害を乗り越えることができ、困難に打ち勝ち、自分の気分を制御し、苦痛を忍び、
悩みに耐え、勝利にいたることの故に私たちは彼を愛する。
 彼は全ての徳を有し、またすべての恩寵を所有していた。
私たちがその広さと麗しさに驚かされるのは彼の天性の優しい面である。
彼は真に兵士であった。しかし彼の経験が彼を粗雑な人間することはなかった。なぜなら彼の
戦いの武器は肉に属するものではなかったからである。

彼は闘士であったが、彼の戦いが彼を荒っぽくすることはなかった。
彼は礼節の領域に最善であった。
彼は思いやりの典型であった。
優しさと情け深さ、考え深さと寛大さ、気品と忠誠、彼はキリストの学校において訓練され飾ら
れた紳士であった。
彼の内にはつまらないものとか卑しいもの、陰で立ち回るとか下品なもの、出し惜しみするとか
意地悪さは無かった。
彼の衝動は高貴であり、彼の目的は高かった。
主人の如く彼は善い業を行った。
他の人々を助けることが彼の望みであった。
彼は自分のために何の名声も得ようとしなかった。
彼は僕の姿をとった。
彼は死に至るまで従順であった。
そして神はそのように彼を高くし、彼に永遠の星のように輝く名を与えた。

 パウロはいつも最大の愛される人であった。
彼の冠たる賜物は彼の愛の能力であった。
彼のもっとも高い喜びは愛することによって引き出された。
エマーソンは人類は自分を愛す人を愛すといった。
では私たちはパウロは愛する助けをするだろうか?
彼は愛したし、愛されることを望んだ。
それだけでは彼を理解するうえで十分ではない。
彼は愛されることを熱望した。
彼は、尊敬を受けたり、賞賛されたり、崇敬されたりすることでは満足しなかった。
彼はただ愛されることによってのみ満足した。
彼が喜んだもののすべては愛であった。
このように遠く、キリスト者の大部分によって理解されると彼は考えたのであった。
彼を理解することは彼に最も関心を与えられた人々の願いである。
人々は彼を理解する力を誇る。

しかし彼を理解することに不十分である。
彼は愛の人である。
彼がそのように少ししか愛されなかったことは歴史上の悲劇のひとつである。
彼の墓は壁のないパウロの墓に下にあり、ある者が本当にこういった。今日その人は「壁の外
に」留まっている、と。

教会はいまだに彼を内に入れない。
個人のキリスト者はパウロが彼の心の外に留まることを許容している。
しかし主のように、彼は戸の外に立ち、ノックする。
パウロがコリント人たちに述べたことは、彼が私たちに言っているのである・・・「私はあなた方
の所有物でなく、あなたがた自身を求めている。
私はあなたがたの魂のための費用を喜んで費やそう。」
コリント人たちに彼が指摘した問題を、彼は私たちに対して指摘している・・・「もし私があなた
がたをもっと豊かに愛したら、私の愛が足らないのだろうか?」
彼のコリント人たちへのアピールは、すべての世代に通じる・・・「私の心はあなたがたに対して
広く開いている・・・あなたがたのこころを私に対して開いてください!」というアピールである。






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