chapter22

              第22章 パウロの望み

 昔の人々は希望を信用しなかった。
彼らがそれに何の信頼もしなかったわけは、それらがあまりにもしばしば彼らを失望させたか
らであった。
希望は彼らの徳の一覧表には決して載らなかった。

彼らは将来を考えることから心を奮い立たせるたせるものを引き出すことは、ほとんどなかっ
た。
過去は常に期待を裏切るものであったから、彼らは未来を信頼しようとはしなかった。 私たち
もまた自分の幻滅を感じる経験に振るわれて、望みに信頼が持てないでいる。
私たちは、期待しては失望させられた。
私たちは希望が弱くなり死んでいくのを見た。
そこには非常に多くのみせかけだけでねじ曲げられた形の望みがある。それがキリスト教以前
の世界に行き渡っていた憂鬱な懐疑の考えに人々を引き入れる危険をはらんでいる。
 パウロはときどき悲観論者と呼ばれた。その理由は彼のローマ人への手紙の中の人間性に
関する記述と、晩年のテモテへの手紙第二にある描写に基づいている。

彼は両方とも黒く描いた。
しかし暗い事実に直面し認識することが悲観論者なのだろうか?
もしパウロがキリスト教以前の世界を描いたのであったら、彼は悲観論の非難には当たらな
い。

もしキリスト教の敵たちがパウロがテモテに書いた通りの存在であったことが判明したら、誰が
彼を責めることができようか?
私たちが不愉快な事実を無視することによって得るものは何もない。
ある人々は無知が原因で楽観論者となっている。

彼らは知らないが故にほほえんでいる。
他の人々は臆病であるために楽観論者となっている・・・彼らはあるがままの状況に直面しよう
としない。
彼らの目を閉じることによって太陽の光が彼らの心に差し続ける。
また他の人々は人生に関する浅薄な哲学の故に楽観論者となっている。
彼らは罪性は成熟していない信者にのみ存在すると信じている。そしてその進展は自動的で
あって、人々が成功しても失敗しても関係なく、すべてのものごとは良い結果になると確信して
いる。
この世の多くのいわゆる楽観論は愚かである。

 パウロは正直な人で、勇気をもって憂鬱な現実に直面した。
彼は世の悲しむべき状態を知っていたが、決して人間性に対する望みを棄てなかった。
異邦人の霊的な価値に関する鈍感さも彼を圧倒することはなかった。
異邦の世界はいつの日か福音を受け入れると信じていた。
彼らはそれを確信していた。その理由は神の憐れみには境界がなく、神は長く忍ばれるからで
ある。

ユダヤ人に対しても、彼は決して彼らのことをあきらめなかった。
彼らは彼らの救い主を拒絶した。しかし現時点では彼らの不信仰に頑なにとどまっていても、
その態度がいつまでも続くのではない。
彼らはついには信仰に入る。
パウロの望みは、暗さに取り囲まれている中でのものであるが故により一層すばらしい。

一世紀の世の中の状況では、明るい期待を持たせるようなものはほとんどなかった。
 
異邦人たちはイエスのメッセージに無関心であった。ユダヤ人たちはそれに対して猛烈に拒否
した。しかしパウロは彼の望みを棄てなかった。

彼は言った。「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までです。
「それ(異邦人の完成)がなる時、イスラエルはみな救われます。
神の賜物と召命とは変わることがありません。(神がその賜と召命を撤回されることは決してな
い)。」
ローマ人への手紙は悲観論者の長ったらしい話ではない。それは希望の証書である。
文章全体が期待の雰囲気のなかで生み出された。

パウロが「希望の神」という新しい名を神に与えたのはこの手紙においてである。
その手紙は、ローマ人たちが希望に豊かであるようにという祈りで閉じられている。
憂鬱な事実を無視しただけであるというのではなく、パウロの希望は非常に強く、人間の堕落
に関する広大な広がりの上を高く飛翔し、キリストに贖われた世の輝かしい頂点に達してい
る。

 テモテへの手紙第二は暗い色がないわけではないが、栄光の望みが貫き通している。

憂鬱な事実が並べられているけれども、それらは絶望へと導かない。
フゲロとヘルモゲネのような脱落者がいるが、同じくオネシポロのような栄光ある魂もいる。

ヒメナオとピレトのような異端者がいる。
彼らはある人々の信仰を覆したが、全員をではない。
彼らの努力は空しく終わることはない、なぜなら「神の基礎の上に堅く立っているからである。」
(2テモテ2:19)
耐え難い時が先に横たわっている。そして悪い人々が信仰に反抗するだろう。しかしその反抗
は空しくなるだろう。
彼らの行く末はモーセの権威に抗った悪漢であるヤンネとヤンブレのそれのようになるであろ
う。

多くの人々が長ったらしい価値のない思想を与える教師に追従して走る貪欲な耳をもっている
が、真理の教師たちは最後に彼らに冠が待っている仕事を続ける。

デマスはパウロを見捨てたがルカは真実に留まった。
銅細工人アレキサンデルは非常に悪いことをなしたが、彼はそのなしたこと全てに対して神に
申し開きをしなければならないであろう。
最後の審判は必ずある。
第一の審問には誰も列席しない・・・神以外には。・・・神が彼とともにおられたので、大きな祝
福がその審問からもたらされた。イエスについていまだ聞いたことの無かった人々の多くはが
イエスのことを聞き、その救いに与ることを許されたことである。
手紙全体が希望に満ちた心の光によってライトアップされている。
失望の痕跡はどこにもない。
手紙はこの輝かしいことばで終わっている。
「主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄
えがとこしえにありますように。」(2テモテ4:18)
 信仰においてと同様に希望において、パウロはアブラハムの例から霊感を得た。
アブラハムは希望に関して素晴らしかった。
「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(ローマ4:18)

彼の希望を助けるような外的条件は何もなかった。
それにもかかわらずアブラハムは希望を保った。
信仰によって彼の希望は色褪せなかった。
彼は望むことができたので信じることができた。

アブラハムのように、パウロは期待の分野に彼の本拠地(縄張り、ホームグランド)をつくった。
「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:24)・・・彼はローマ人たちに
そう書いた。
「私たちは自分たちがどうなるのか、はじめから知ることはできません。
見えている望みは望みではありません。
自分が既に見ているものを誰が望むでしょうか?」
私たちが望むものは常に視界の外に横たわっている。
私たちの望みはそれを追い求める力を私たちに与える。
「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ロ
ーマ8:25)
希望は忍耐の母であり、他の多くの徳の母である。

 パウロは将来を大きく扱った。
彼は常にいつの日にかそうなるであろう自分を見つづけた。
彼は後ろのものを忘れ、前にあるものを獲得することに熱心であった。
彼は過去の問題を温めていることはできなかった。なぜなら彼の喜びは約束された賞を獲得
する予感にあったからである。
彼の足を軽やかにし、彼のこころを浮揚させたものは望みの精神であった。
私たちはただその精神の最初の実を持っている。そして私たちの中で成長している。なぜなら
私たちは約束されたものを待っているがそれはまだ到着していないからである。

 彼は望みの故に、死も何の恐れをも持たなかった。
神を愛する人には全てのことが一緒になって良い働きをする。それ故死も彼の道の良い助け
をするだけである。
神がそのように多く私たちを助けて下さるという事実は私たちがもっと期待するのを正当化す
る。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と
いっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来る
ものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエス
にある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)
これが彼の望みである。
 彼は教会が成長していく望みを抱いていた。
彼の教会についての望みは、彼自身に関する望みと同じように、キリストの上に建てられてい
た。
キリストはご自身の血をもって教会を買われた。そしてそれゆえその未来は栄光に満ちてい
た。
今はまだひ弱で賞賛に値しないとしても。
小さな集会は激しい嵐の吹くなかのろうそくのように揺らいだ。

勝手がわからずへまをしでかす男女のよく分かっていない仲間たち、何が彼らを成長させ完成
させることができるのだろうか?
聖なる召命をうけているけれども、彼らは世によって弱くされ、罪によってしみがついていた。
そして世の支配の下で肉と悪を繰り返した。

しかしパウロは決して望みを捨てなかった。
事実の頂点を越えて、あさましく、失望させる教会に、彼はしみもしわも、そのような傷のない
天の栄光に輝く理想の教会を見ていた。

それが彼があえて望んだ教会であった。なぜなら神はご自身の教会を聖く傷のないものと宣言
しておられるからである。
 パウロはキリストの教会に望みを持つことができたから、すべての人類に関して望みを持つ
ことができた。
人類は罪に沈んでいる。しかし一人の人が罪から救われたなら、すべての人に望みがある。

一人の人が救われた、それ故未来は確かである。
しかし世界の贖いの証拠は目に見えない。

ローマ帝国はイエスの真理を受け入れることに反対を示している。
ここ彼処にいる人はイエスに彼の心を明け渡しているが、人々のほとんどは関心を払わずに
過ごしている。
しかしこのこともパウロの望みを曇らせはしない。
神は王座におられる。神の目的はやがて実現するであろう。
神の御子は言われた・・・「もしわたしが上げられたなら、人々を私のもとに引き寄せます。」だ
から、
「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべて
が、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめ
たたえられるためです。」(ピリピ2:10−11)という時がやってくるであろう。
これが彼の望みであった。
それは彼の心の中心で燃え上がる神秘の炎であった。そして荒れ狂う風もそれを吹き消すこ
とができなかった。
 パウロは宇宙にも高い望みを持っていた。
それは多くの暗く不可解な姿をしているが、神の決勝点に向かって動いていた。
苦痛でため息とすすり泣いているが、その苦痛には目的があった。

宇宙はあることを待っている・・・いと高い方の降臨を。
宇宙は神の意志の支配下にある。それ故いつか朽ちるものの束縛から解放されて神の子た
ちの栄光の自由にいれられる。
これが彼の望みであった。

 パウロは希望に豊かであった。
彼は人間の生涯に働くすべての力のうちでもっとも強いものの一つが希望であることを知って
いた。
畑で農夫の労苦を保たせるものは望みである。

収穫を期待せずに鋤をかける人は誰もいない。
収穫の実を家に持ち帰ることを計算に入れることができずに脱穀する人は誰もいない。
勝利の望みがない戦争を喜んでする将軍は誰もいない。
人が自分の頭を上げることを保つことができるのは希望があるからである。
兵士は頭を上げることなしに戦うことはできない。
そのためにパウロはキリストの兵士の武具をスケッチし、希望を兜に喩えている。

それはある人を立ち上がらせ決意を持って戦うことを可能にさせる徳である。
失望した兵士は既に打ち負かされた人である。
パウロは練達して兵士のように強かった。その理由は彼が常に兜を冠けていたからであった。
 パウロは恥じにいたることのない希望の教えを私たちにたくさん教えている。
私たちの希望の多くは無に帰す。
私たちは起きないことを期待している。そしてそれが起きないと、世界はあるがままなのであ
る。
世界を闇に導く誤った望みがある。

大きな望みが無に帰したとき、地の基が木の切り株の上に建てられていると見なす。
パウロの望みは神の上に建てられていた。
彼の望みは宗教によって涵養されていた。

宗教の信仰の上に基づいていない望みは長続きしない。
私たちが自分の望みを、文明の進歩、科学、教育、経済的な繁栄、数、武力、人本主義、など
の上に建てるとき、私たちは砂の上に建てているのである。

望みにはただ一つの確かな基礎があり、それは神である。
イエスのように宇宙の神の王座に座ることなしに私たちは人類の無限の未来のためにどんな
栄光あるものを期待する権利があるとういうのだろうか?
人は神の姿に造られず、神の霊の導きの下になく、地上のすべてのものが私たちを愛し私た
ちのことを気遣って下さる神の手に保たれていなかったなら、どのような正義を私たちは期待
できるだろうか、いかなる正義を私たちは期待できるというのであろうか、また帝国と今日の私
たちの共和制国家の行く末はバビロン、テーベ(古代エジプトの首都)、ローマの行く末と違っ
ているというのだろうか?
欲しがるだけでは不十分である。
欲することは希望ではない。
私たちは望むとき、欲するだけでなく期待する。
期待だけでは不十分である。
私たちは、イエスがそうされたのと同様に、神が与えてくださることだけを期待すべきである。
私たちは、愚かな振る舞いを繰り返すとき霊的成長を期待することはできない。
私たちは戦争に備えて国家の富を浪費しながら平和を期待してはならないし、私たちは強欲で
利己的であり続けながら幸福であることを期待してはならない。そして私たちが猜疑と悪しき意
志という火山の斜面に自分の家を建てながら持ちこたえることの出来る文明は期待できない。

キリストのような神の上に建てられている事を期待することなしに、恥じをもたらさない望みは
存在しない。

 パウロは、この期待の態度は魂の永遠の態度であると宣言している。
次に世において、この一つと同様に、私たちは望み続けるであろう。
希望は天の喜びの一つである。
それは個々においても喜びを与え、彼処においても喜びを与えるであろう。
前方を見る私たちに常に何かがあり、常に私たちが未だ経験していないよいものがあり、常に
未だ到達していない高いものがあり、常にいままで知らなかったより大きな栄光があるであろ
う。

私たちが入っている天よりも高い他の天があるであろう。
永遠から永遠まで私たちは望むことができる。ちょうど私たちが信じ愛するように。
パウロは今もなお望んでいる。
 パウロが信仰、希望、愛はという語を使うとき、彼は単数の動詞を使っている。
この方法で彼はこれらの三つが一つとなって魂を構成する力があるという概念を示している。

それらを他のものから離してひとつだけ保つことは不可能である。
希望なしに信頼することはできないし、信頼無く望むことはできない。
希望なく愛することはできないし、愛なく望むことはできない。
私たちが信頼しているなら希望をもっているし、希望をもっているなら愛している。
私たちが愛しているなら希望をもっている。
私たちのいのちは信頼と希望と愛なしに完全ではない。
パウロの希望の深さから信頼深さを分離することは困難であり、彼の愛から希望の深さを分
離することは一層困難である。

彼は信頼の中で偉大であり、同様に希望の中で偉大であるという。

愛はすべてを信じ、愛はすべてを望む。

パウロは信仰と希望と愛に偉大である。
彼は信仰において素晴らしい。しかし彼は希望にもひとしく素晴らしい。
彼は失望の時間があった。しかし彼の希望は死ななかった。
彼は常に前を見ていた。
彼は毎夜朝がくることを確信していた。そしてどの冬にも夏が来ることを。

苦難のあとには喜びが来、悩みの後には平安がくることを。
彼は希望によって救われていた。
 彼は自分のためにも他の全ての人々のためにも望んだ。そして彼のすべての希望は神に根
ざしていた。
彼は全ての被造物のために望んだ。

もし誰かがキリストに属するならすべてのものはその人に属する。
「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また
現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたは
キリストのものであり、キリストは神のものです。」
(1コリント3:22−23)
現在の神の摂理がその道程を走り終えた後、「キリストは彼の父なる神に彼の王国へと私たち
を引き上げてくださるであろう。
彼はすべての法律全ての権威と力を終わらせるであろう。
彼は全ての敵を足下に従わせて統治するであろう。

万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神
が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(1コリント15:24−28)
この栄光の望みのなかで、パウロは働き悩み勝利した。




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