chapter20

              第20章 パウロの喜び

パウロの手紙は苦悩の現実に満ちているが、それらは読者を憂鬱にさせない。
パウロは悲しみの人であって、悩みを知っていた。

彼の経歴は時々降りかかる困難のために山坂があったのではなく、常に悲劇であった。
パウロは人間が経験し得るほとんどすべての悲しみを経験した。
誤解、讒言、冷淡、忘恩、誹謗、中傷、猜疑、嫌悪、軽蔑、孤独、飢え、労苦、窮乏、疲労、疾
病、変節者・裏切り者・社会の敵・神を冒涜する者と見なした罵倒、入牢、むち打ち、殺すぞと
いう威嚇、これらすべて、いやそれ以上のものを忍ぶように彼は召された。

彼の受けたなやみの列記が彼のコリント人への手紙第二に見いだされる。
それは恐らく彼の死の12年前に書かれた。
彼の生涯の最後の12年間はそれに先立つ12年より容易であったとは言えない。

ルカは、難船と二度の入牢について私たちに語っているが、どちらもコリント人たちに手紙を書
いた後2年を経ている。しかし、ルカは彼の友の困難を全部書こうとはしていなかったので、ル
カの解説が完全なものであるとは思われない。

パウロはユダヤ人の会堂で5回むち打ちにされたと言っているが、ルカはそのどれをも記載し
なかった。
彼はローマ人から3回むち打ちにされと述べているが、ルカはそのうち1回だけを記述してい
る。
彼は3回難船したというが、ルカは過去の3回については沈黙している。
新約聖書に言及されているパウロの困難はおそらく半分にも満たないであろう。しかしそれら
は私たちの心を打つに十分である。

誰かがパウロの困難は計り知れなかったことを知ることなく彼の手紙を読むことはできない。
彼はそれを覆い隠す努力をしなかった。
彼は自分のなめた辛酸を全くあからさまに語る。

彼は自分自身について語ることを少しもためらわなかった。そして彼の艱難を大胆に前面に出
した。

 私たちは彼が老年になったときに初期の伝道旅行の時に受けた迫害や、アンテオケ、イコニ
オム、ルステラで陥った困難を思い返していることを見いだす。テモテがそれらすべての物語
を熟知していることが彼の慰めであったことは明らかである。

パウロは自分の苦難について黙ってはいなかった。
それらは彼の生涯にとって、異彩を放つ必須の部分であった。

しかし彼の困難の詳述が私たちを憂鬱にさせることはない。
私たちは自分が最も落ち込んだとき、パウロの手紙に戻る。
それらは最も憂鬱な気分から私たちを元気にさせ、彼が通過したことによって助けられる。
彼の手紙は闇に光を投ずる。
私たちは彼の悩む心近くに引き寄せられることによって強さを味わう。
私たちは彼の生涯の悲劇を黙想することによって一層元気になる。

それは、他の人々がそれらの出来事に遭遇したときの精神状態のように、私たちを落ち込ま
せる陰鬱なできごとではない。
もし艱難に遭遇した人々がどうしようもない無力とか失望に泣き叫ぶ状態に陥ったなら、私た
ち自身のこころも穴に引きずりこまれる。
しかしたましいが勝利の内に迫害を忍ぶことができたら、その魂は大空に光を溢れさせる。
迫害の中であっても、パウロは超勝利者であった。
彼は決してうめかず、愚痴をいわず、つぶやかなかった。
彼はすすり泣いたりため息をついたりしなかった。
自分自身の悩みについては決して涙を流さなかった。ただ他の人の悩みにのみ涙した。
彼は私たちが自分の艱難を知ることを望んでいる。しかし、それらを私たちが嘆くためではな
い。
彼は私たちの勇気が増大し私たちの喜びが深まることを熱望した。
彼がコロサイ人たちに・・・「私の鎖を忘れないで下さい」と言うとき、彼はこうは言わない・・・「ど
うか私の不幸を嘆いて下さい。」
かれはただ・・・「もしあなたがたが私の腰の周りに鎖がついていることを覚えているなら、私の
悪筆を許してください。」・・・と言っているだけである。

彼は自分の苦難を英雄的な忍耐を鼓舞するために用いている。
「私をみてください」と彼は常に言っている。「あなたがたの経験していることは特別であると思
わないで下さい。」
あなた方の遭遇することはイエスが生きたことと同じように生きようと願うすべての人々が遭遇
することです。
私が受けた迫害を見なさい。
迫害なしに神の王国に入ることができる人はいません。
キリストにあって宗教生活をすることを望む全ての人は迫害を受けます。
イエスと同じように、パウロは憂鬱な事実をごまかさなかった。

彼は人生のいばらの面を見ぬふりしなかった。
彼は自分も茨の冠を被らされ、他の人々も同じようにそれを被ることを知っていた。
彼は苦い杯を味わい、それが彼ひとりののくちびるのためだけでないことを知っていた。
彼の受けた迫害は私たちを落ち込ませはしない。なぜなら彼がそれらに勝利したからである。
彼の手紙は私たちに力と元気を与える。なぜならそれらは勝利のこころから生じたものだから
である。
それは喜ぶ魂によって非常に広く行き渡り、私たち自身の心もそれを捉える。なぜなら私たち
も同じように喜ぶことができるようになるからである
彼パウロは征服されることがなかったし、征服され得ない存在であった。
彼の喜びの秘訣は以下のような叫びに常にあふれ出している。
「私たちに勝利を与える神に感謝しなさい。」
「常に私たちを勝利のうちに導かれる神に感謝しなさい!」
「私は福音を恥としません。なぜならそれは信じる者すべてに救いを与える神の力だからで
す。」
(ローマ1:16)
ローマは征服の力を賞賛する町であった。
ローマは凱旋門のある町であった。
勝利した英雄たちはみな、議事堂に歩み入った。

パウロはそれと同じようにその町に行きたいと熱望した。なぜなら彼もまた勝利者であって全
ての人々を勝利に導くことができるメッセージを携えていたからである。
 彼はそれを打ち消そうとする非常に多くの敵に遭遇した。そのため時には彼のことばがほと
んど誇張であるように見えるほどであった。
「私は弱さ、打ち傷、窮乏、迫害、キリストのための苦痛の中にあって喜びます。なぜなら私は
弱いときに強いからです。」(2コリント12:10)

「私は私を強くしてくださるお方によってすべてのことができるのです。」(ピリピ4:13)
どこにいても私たちはパウロの存在を感じ、トランペットの音を聞く。
多くの人々がフルートを吹く。
パウロはパウロはラッパを吹き鳴らして私たちが行軍に倦み疲れ血を流すことを忘れさせる。
そして勝利の夢を持って私たちを満たすのである。

悲しみにある間にも、彼は常に喜んでいた。
彼の魂の外庭ではしばしば痛みがあり時には苦悩と言えるものであったが、魂の内庭ではつ
ねに音楽とダンスの音があった。
彼の手紙の表面下に深い痛みと共に厳粛な喜びが流れている。
再々それは耳目から隠されている。しかしそれは破れ出ることが保たれている。
詩篇23篇は彼の心のなかに書かれた。そして彼の杯は常にあふている。

彼は群衆が常に探し求めている喜びの泉にひとつも接しなかった。
銀も金も彼は持たなかった。けれども彼の心は明るかった。
彼は妻も子どもも持たなかった。しかし家庭無しでも彼は幸せだった。
彼は報酬も名誉ある地位も得なかった。しかし彼はどこにおいても快活な精神を持っていた。
群衆の喝采は彼の耳に決して届かなかった。そして世論を創り出す黄金の見解も彼のもとに
は来なかった。しかし彼は歌を歌う心をもって彼一人の道を歩んだ。

彼は深い泉から飲んだ。
彼は感謝の心の中にわき出る喜びを知っていた。
感謝はあらゆる情緒の中で最も輝いているものの一つである。
感謝に溢れている人は容易く陰鬱になることはない。
感謝に帰る事のできない人はしかめっ面をしている。
唇が「ありがとう」というとき、目は本能的にほほえむ。
パウロは快活であった。なぜなら彼は常に感謝していたからである。
喜びと感謝は互いに離れることは決してない。

「常に喜びなさい。決して祈りをやめはいけません。すべてのことを神に感謝しなさい。」(1テサ
ロニケ5:16−18)・・・そう彼はテサロニケ人たちに書いた。このように感謝と祈りと喜びをひ
とまとめにするのである。

彼は望んで喜ぶことを知っていた。
望みは常に人に輝いた顔を持たせる。
彼は期待につま先立っていた。
彼は前方によりよいものがあることを知っていた。
彼は常に地平線のかなたを見つめていた。
現在あるものもこれからくるものも同様に彼に属した。
確実に苦い経験もあるが、しかしそれらによって私たちがくじかれることはない。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすか
らです。」(2コリント4:17)
彼はローマ人たちに手紙を書いたとき私たちに彼の生涯の秘訣のひとつを告白している。「あ
なた方の望みをあなた方の喜びとしなさい。」(ローマ5:2)

彼は喜びは記憶されるものであることを知っていた。
彼は過ぎ去った年々を心にとどめた。
彼は常に過去のことを考えた。
彼は同国人たちの歴史を愛した。
彼らの経験は彼の心の糧であった。
彼は2、3の本・・・彼の国民の歴史と最も著名な教師たちのことばが書かれている・・・以外は
持っていなかった。
彼は彼の書以外は、安易に得ることができなかった。

彼はテモテに「私の本と古い私の上着を持ってきて下さい。」(2テモテ4:13)と書いた。
その上着は彼の身を温めるもの、本は彼の心を温めるものであったろう。
読む喜びを保ちながら、みじめでありつづける人は決していない。
彼はしばしば彼自身の生涯の最初に帰った。そしてダマスコ市の近くで彼の上に起きた驚くべ
き経験を考えることに飽きることは決してなかった。

彼はそのことを考えるといつも彼の心には新しい喜びが溢れた。
彼は他の人々にも自分たちの過去を思い返すよう熱心に勧めた。
彼はエペソ人たちにこう書いた。「あなたがた世にあって神無く望みのないものであり、キリスト
の血から遙かに遠いものであったことをを覚えていなさい。」(エペソ2:12)
それは彼が自分の過去によって自分が感謝に涵養されるからであって、彼の感謝は彼の喜び
を増し加えたからである。

彼は友情の喜びを十分に経験していた。
彼は多くの敵があったが、同様に多くの友がいた。
彼の敵立ちは強烈に彼を嫌悪したが、彼の友たちは彼を献身的に愛した。
彼は彼の友たちへの愛を注ぐ時以上に喜びをもって書いたことは決してない。
「私たちの望み、私たちの喜び、私たちの誇りの冠は誰でしょうか?」と彼はテサロニケ人たち
に書いた。(1テサロニケ2:19)
「なぜなら、あなた方が私たちの栄光と喜びだからです。」(1テサロニケ2:19)
ピリピ人たちに彼はこれ以上はない輝かしいことばを述べた。
「私の愛し恋い慕っている、私の喜び、私の冠である私の兄弟たち、主にあって固く立ちなさ
い。私の愛する人々よ!」(ピリピ4:1)
テモテに彼はこう書いた。

「私は夜も昼もあなたにまた会いたいとこいねがっています。
それが私の喜びを満たすでしょう。」(2テモテ1:3−4)
彼の友の幸せが彼を幸せにしたのであった。
彼はよい出合いに狂喜した。
彼は彼らの進歩を得意がった。
彼は彼らが喜ぶことはなんでも喜んだ。
彼はコリント人たちにこう書いている、「私はあなたがたがテトスを安心させてくれたので、この
上なく喜んでいます。
私は彼をあなた方に誇りを持って推薦しましたが、失望に終わりませんでした。」(2コリント7:
13−14)
世界中で愛に優って喜びの溢れるものがあるでしょうか?
感謝の喜びと望んで喜ぶこと、思い出して喜ぶこと、そして愛の喜びです!」

これら全てを持ちながら、自分は惨めだと主張する人はいない。
彼は他の人々の喜びを助けることを楽しんだ。
彼らの行いがいかに煩雑であっても問題なく、彼らは彼の幸せ失わせることは全くなかった。
彼は彼らを助けることを倍加する努力によって新鮮な幸せを引き出した。
コリント人たちは彼の忍耐をひどく試みさせたが、以下が彼らにパウロが書いたことである。
「死にあっても生きていてもあなた方は私の心の中にいます。
私は完全にあなた方を信頼しています。
本当にあなた方は私の誇りです。
あなた方は私にとって完全な慰めです。
私は私が忍ばなければならなかった全ての困難の中にあって喜びが溢れています。」(2コリン
ト7:3−4)
そのような姿勢の人は、幸福に生きているふりをすることは決してできない。
彼の回心者たちが信仰に富み、成長したとき、彼の喜びは限りなかった。

彼はテサロニケ人たちにこのように書いた。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるな
ら、私たちは今、生きがいがあります。
私たちの神の臨在の中であなたがたが私に感じさせてくれた喜びに対して、どうしたらあなた
方のために十分に神に感謝できるでしょうか。」
(1テサロニケ3:8−10)
コリント人たちに彼はこう書いた・・・「私があなたがたに威張り散らしたいと思っていると考えな
いでください・・・私はただあなた方の喜びを助けるものでありたいのです。」(2コリント1:24)
 彼は神と共に働くことによって喜びの感覚を持った。
神は遠くに達する計画を持っておられ、パウロはそれらを実現した。
悩みの時に彼は自分が悩むことになお喜んでいる。ちょうどイエスの苦難が永遠者の目的を
果たす助けとなったように。
彼がこのことを黙想することによって、彼は時には有頂天になっている。
彼が肉体にあってか肉体を離れてか分からないが非常な喜びをもった。
彼はそのとき自分ががパラダイスにいたことを確信していた。そして人間の唇が語ることので
きない奥義を聞いた。
それは、それらについて語ることが冒涜になる非常に奥深い神聖な経験である。
喜びの天に高く昇ってパウロが到達した彼の祝福がどのような高さであったのか私たちは知る
ことができない。
彼は語ることができなかったが、もし彼が語ったとしても私たちは理解できなかったであろう。
彼の最も深い苦悩の中でも、最高に誉れ高い恍惚の中にあっても、彼の魂は常に一人であっ
た。

彼は勝利の喜びを知っていた。
彼は肉体上の敵対する全てのものに勝利した。そして精神的な苦悩に対しても同様である。
死の陰の谷を見つめて彼は叫ぶ・・・「死よ。おまえの棘はどこにあるのか?・・・墓よ。おまえ
の勝利はどこにあるのか?」(1コリント15:55)
彼にとって生きていることも死ぬことも変わりがない。なぜなら彼は死を足の下に踏んでいたか
らである。
彼はついに勝利の叫びをもって死の門をくぐる・・・「私はよい戦いを戦った。私は走るべき道
のりを走り終えた。それ故私のために冠が備えられている!」
(2テモテ4:7)
彼の手紙のなかに非常に語調の強い部分があるが、それは彼の喜びの感情の成熟した経験
の故である。

彼は言う「神の王国は義と平和と喜びである。」(ローマ14:17)と。
彼は聖霊の最初の二つの実は愛と喜びであると宣言している。
愛のあるところには、喜びが続くであろう。
キリストにあって喜びのないことは彼には考えられなかった。
人間の生活は、喜びによって飾られなければ完全でない。
憂鬱なこころは神を喜ばせることのできない心である。
神は元気を与える人を愛する。
不愉快な心は善い行いの美しさから遠く離れている。
もしあなた方が憐れみを示そうとしたなら、それは愉快さをもたらす。
困難にある男女は不機嫌な心と望みの薄い顔のひとびとによって助けられることはない。
人を高揚させたかったなら、喜びに溢れなさい。

どうしたら幸せであるかは、人のつねに迷わされる問題のひとつである。
私たちの世は悲嘆にくれた世であることは、何世紀もの経験である。それは人間が未だに喜
びの秘訣を学んでいないことを告白している。

非常に悲哀に満ちた世の中で、幸福でるのは正しいのか否かとしばしば問われる。
平均的な人々にとって、喜びは希でつかの間のものである。
私たちは時折栄光の時間を持つが、それらは日の光がかすかに注ぐ大洋の中の小島のよう
である。

私たちはこう結論する。喜びは天使のものであると。
それはいくばくかの幸運な世の幸運な人々によってのみ知られる経験である。
しかしここにどうしたら幸福であるか知っている人がいる。
彼は私たち自身のそれよりも、もっともっと惨めで腐敗した世代に生きた。
貧困と苦難、不正と残虐、悪徳と残虐性があらゆる面で溢れていた。しかしこれらすべては彼
の喜びを打ち消すことはなかった。
彼は日々死んでいた。しかし永続的な十字架は彼の心にハレルヤの叫びを沈黙させることは
なかった。
彼は深い憂鬱jに陥る世に歩んだが、彼の顔は闇が打ち勝つことのできない力をもっている光
に向けられていた。

多くの人々は年数が経つと憂鬱に陥る。
多くの勇敢な働き人たちが自分の働きに疲れ、ついには(エリヤのように)エニシダの木の下
に伏すのである。
パウロは老年になってなおこれからの世が一層悪くなると思っていた。しかし彼の全ての手紙
の中で最も明るいのものはローマの獄中にあって書かれた。
ピリピ人たちに宛てた彼の手紙は、喜びが鍵の語である。
彼は彼の友人たちに彼らを祈りのうちに覚え、どのような意味での喜びを感じるかを語ること
から始めている。

彼は鎖につながれた囚人であったが、このことすべてはそんなに悪くはなかった。
彼の鎖さえも新しい自由の福音のメッセージを与えた。つまり皇帝の宮殿さえも貫いたのであ
る。
悪い心根でねじ曲げた福音を語る人々がいる。しかし、これもキリストの名がより知られること
になるから落胆すべきものではない。

彼はまもなく死ぬことであろう。しかしこれも憂鬱の原因ではない。
「たとえ、あなたがたの信仰のために神に供えられる聖なる犠牲として私の血が注ぎ出された
としても、私は喜び、あなたがた全てを祝福します。ですからその代わりにあなたがたは喜び、
私を祝福しなければいけません。」(ピリピ2:17−18)
テモテとエパフロデトを賞賛した後で、彼は読者たちに喜びを強く求めている。
彼はその語を書くことに決して飽きなかった。繰り返し繰り返しそれを書いたことはよいことで
あった。
彼は悪い人々がどのように行いどのように語るかを忘れることはないと言っている。しかし彼ら
は彼ら自身が天の植民地であることを忘れてはならない、そして救い主が彼らを栄光の体に
変貌させて下さるのを待つようにと言っている。

彼は次に二人の主立った働き人たちの間に生じたいくばくかの喜べない差違に言及している。
しかし彼らが以前に輝かしい奉仕をしたことも書いている。そればかりか彼らがいのちの書に
名を連ねていることを疑わなかった。

こうして彼は自分の手紙を要約する・・・「いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)

非常に繊細な神経のこの人が、自分が援助しようと思った世からそんなに打たれ踏みつけに
されて、なお大変幸福であると言うことは奇妙に思われるかも知れない。
彼は深い罪の意識を持っていた。
彼は、褪せることのない色でそれを塗りつぶすことはできなかった。
彼はその力を知っていた。その罪も知っていた。しかしこれは彼を陰気にはしなかった。

彼は清教徒であり、ホーリネスに熱中したが、厳格ではなかった。
彼は改革者であった。
彼は世の生活の装いを変えようと試みて挫折したが、不平を言ったり哀れな調子で語ったりし
なかった。
彼は聖者であり神のために生きたが、彼の声はもの悲しくはなく、彼の目が陰ることはなかっ
た。

彼は外国の地の牢獄の中においてさえ非常な喜びに満ちていた。彼は眠ることもできない状
況にあって、讃美があふれ出た。
 私たちはこの人を必要としている。
世は常に彼を必要としている。
私たちは彼の思想を必要としているが、彼のムードをより一層必要としている。
私たちは私たちを喜ばせそれを保ってくれる誰かを必要としている。
私たちは私たちの心を笑いにみちびく強壮剤を必要としている。
私たちは私たちの側に勝利の喜びを刺激してくれる人を必要としている。
「元気を出しなさい」と神の子は失望した人々の一団に言われた。・・・「わたしはすでに世に打
ち勝った。」・・・と彼らが元気でいられる理由を与えた。
世は彼を完全に押しつぶしたが、それは失敗に終わった。
悪魔はあらゆるかたちで彼を猛攻撃したが、それらは空しかった。

彼は言った、「元気をだしなさい。わたしは世に勝つことをあなたがたに示した。
わたしは世に勝った。それゆえあなたがたも同様に世に勝つことができる。」
 それはほとんど不可能に見える。
しかし見よ! 普通の人間性の階級の出身で、脆弱さ、不完全さが明白に押印されている人
物が、神の子の霊感によって勝利の人となるのを。

イエスは喜びの人であった。
彼の望みは彼の喜びが弟子たちに宿ることであった。そして弟子たちの喜びが満たされること
であった。
彼は彼らがそれをひとたび得たなら、それを取り去ることの出来るものはいないと保証した。
彼の主のように、パウロは世に打ち勝った。
世は彼を落胆させたり、耐え難かったり、あきらめたりさせることはできなかった。
彼は彼の主の喜びに入ったのであった。





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