第十三章 パウロの勇気

  普通のキリスト者が、パウロの品性の生き生きとした特色は何かと尋ねられたとき、その人
の答えは10中9まで「勇気」である。これはすべての世代の答えである。
パウロは新約聖書の他のすべての英雄に抜きんでていると普遍的に認められている。
芸術では常に、彼が剣を携えている絵が好まれている。しばしば彼は剣の上に休んでいる。し
ばしば剣を持っている。しばしば二本の剣を。
剣は彼の人生の象徴であり、彼の経歴の紋章である。彼は教会の戦士として油注がれてい
る。幾世紀を通じ、彼は十字軍と改革者を鼓吹した。そして正義のために力ある戦いを戦っ
た。紛争のまっただ中にいるとき、人々は魂を戦慄させる彼の勧めを天からの声のように聞
く。「神のすべての武具を身につけなさい。」 パウロの勇気の姿は、彼の山道での山賊に出会
った経験に、ルステラとエペソとエルサレムの群衆に直面したときに、ローマへ行く途上で難船
したときの彼の行動に、いつも見いだされる。しかし、これらの状況下における彼の勇気は特
別なものではない。盗賊のまっただ中に置かれたときの勇敢な行為は珍しくはない。多くのひ
とびとがひるむことなく群衆に対面している。沈み行く船の甲板上での勇気には、いろいろな物
語にある。肉体的な危険のまっただ中でパウロが示したのと同様の勇気を示した数千の人々
がいる。
世界大戦の経験によって、パウロのスリリングな英雄的行為を偉大なものと思う私たちの印象
が薄れた。世の中のすべての争いの野蛮で恐ろしい経験をし、人類の歴史にある肉体的な勇
敢さを表した武勲を毎日でも読むことができる世代には、1900年前のいくつかの肉体的な危
険に遭遇した説教者の英雄的行為によって畏敬の念に打たれることを期待することはできな
い。戦争は肉体的な勇気がすべての徳のなかでもっとも多く存在するということを証明した。私
たちは他のいかなる優れたものに勝ってそのような勇気の多くの実例を知っている。どの町に
もテルモピレーで死んだ人々の血気を持った青年たちや、シーザーの第10軍団の兵士たち
のような素質を持った青年たちがいる。パウロの肉体的な勇気の記録は、不滅の賞賛のうち
に所を得させるには十分ではない。私たちは彼の勇気を他のもうひとつの分野に探求してみよ
う。
パウロの並はずれた勇気は知的分野にある。彼の知的勇気を越えたものは誰もいない。
世から賞賛を勝ち取り保った彼の勇気は、肉体的なものにではなく道徳的なものにあった。私
たちは彼の最も優れた点を、彼が強盗や宗教上の偏狭者たちと取り組まなければならなかっ
たときや、日夜海の深みの上に浮いていたときに見いだすのではなく、彼のもっとも価値ある
二人の友を叱責したときに見るのである。友の傷ついたまなざしに比べたなら群衆の怒りなど
いかほどのことがあろうか?彼を愛する人々に苦痛をもたらす道を進み行くことによって、良
心によって魂のうちに起きてくる猛烈な嵐と比較するとき、海の嵐はいかほどのことがあろう
か?パウロは彼のキリスト者人生の正に始めの頃に、キリストの神はユダヤ人と異邦人の間
の隔ての壁を打ち砕いたのをはっきり見た。そして異邦人が信仰の家にユダヤ人と同等に立
っているのを見た。
その偉大な真理は彼にとって取り消すことのできない彼に委ねられた事項であった。彼の行く
ところどこにおいても、彼は情熱的な喜びをもってそれを宣言した。全教会がそれを委ねられ
た。ペテロは使徒の筆頭であったがそれを認めそれに従って行動した。彼が割礼を受けてい
ないローマ人と一緒に座り食事をしたのは、彼は彼らが神の霊をその心に得たことを認めた
からである。バルナバもそれを委ねられた。彼はアンテオケにおける急進的な働きの後ろ盾で
あった。そこには大勢のギリシャ人たちがユダヤ教の律法なしに加わっていた。
しかし大きな動きのすべてに、嵐の渦巻きと後ろのつむじ風があった。ペテロとバルナバも彼
らが得た地位を保とうとする日が来た。保守主義者は彼らの良心が傷つけられたと不満であ
った。それでもはや無割礼の人々とは決して仲間にならないと決意した。この感情は非常に強
く、ペテロもあえてそれに抗うことができなかった。ことを荒立てないために、ペテロはもっとも
強硬と見なされる集団と一緒になった。そしてユダヤ教の律法に従うと禁じられている異邦人
と同じ食卓について食べることを拒んだ。彼の影響力の強さから、寛大なバルナバも彼の例に
倣った。パウロが新しい宗教の栄光であるとした偉大な真理が、二人の著名な解説者によって
このように放棄された。宗教歴史に危機の時が到来した。キリスト教の船は岩に向けて進んで
いた。痛みを伴う義務が成し遂げられなければならなかった。パウロこそがそれをなした人物
であった。彼は教会の権威であり柱でありイエスによって岩という名を与えられた人物であると
認められているペテロに対抗して立たざるを得なかった。そして今、パウロは立ち上がり、この
ぐらつく岩を非難しなければならなかった。更にその上パウロはペテロから受けた恩義があっ
た。ペテロはエルサレムにおける2週間の間自分の家で彼をもてなした。ペテロはイエスの地
上生涯のすべてのできごとを彼に語った。ペテロは彼の友であった。ペテロは彼に仲間として
右の手を差し出した。パウロにとってペテロの友であり続けることは価値あることであった。し
かし今パウロは彼を譴責しなければならなかった。彼はペテロの背後からそれをなすことはで
きなかった。彼はペテロに面と向かってそれをしなければならなかった。彼はそれを密かにす
ることはできなかった。ペテロがことを行なったのは公の場においてであったから、譴責が効果
を現すには同じように公になされなければならなかった。パウロは優しい心の持ち主であり、感
受性に富む人のひとりであった。彼は痛みを与えることにひるんだ。彼はペテロの感情を傷つ
けることを思ってたじろいだ。しかし宗教の影響力のある指導者がその根本を誤ったときに
は、誰かが彼を正さなければならなかった。よい人物が一時的な弱さのために高貴な動機が
危機にさらされているとき、誰かが救済のために働かなければならない。そこでパウロはペテ
ロの真ん前に立った・・・それは強盗や敵に面と向かうよりももっと恐ろしい困難なことであ
る・・・そして彼に反対した。キリスト者全部がいる前で、ペテロはキリスト者のひとりとして相応
しくない振る舞いをしていると率直に告げた。これがパウロにとってどんなにあたい高くついた
か、記録は何も語らない。パウロは何も解説しなかったので、ルカはそのエピソードが分かって
大変悩んだ。恐らくパウロはそれを涙のうちに語ったことであろう。 しかしこのペテロへの叱
責はパウロの悩みのほんの一部に過ぎなかった。ペテロを叱責するうちに、バルナバがペテ
ロと同じ側にいたため、パウロはバルナバも叱責しなければならなかった。「それはすべてのこ
との中でもっとも過酷な裁断であった。」パウロのことばのなかに悲嘆がある。「バルナバさえ
同じ道を行った。」「すべての異邦人に対して温かい心を持っていて、食べる前に宗教上の儀
式として手を洗うことに従わない人々を、割礼無しに教会に迎え入れることに熱心であったあ
なたは、世界中で負ける最後の人であると期待したのに。すばらしいデルベへの宣教の旅に
行ってきたバルナバさえ、ペテロが敗北したユダヤ主義の圧力に対抗して立つことができなか
ったのか。」と言っているようである。そこでバルナバも叱責されなければならなかった。・・人
間的な言い方をすれば・・パウロはその人に世界中の誰よりも恩義があった。パウロにチャン
スをくれたのはバルナバであった。パウロの回心したことを信じる人がエルサレムに誰もいな
かったとき、バルナバは彼の偽りの無いことを使徒たちに保証し、彼を紹介したのであった。ア
ンテオケにパウロを招いたのもバルナバであった。バルナバが彼に戸を開いてくれた人物であ
った。バルナバは第一次伝道旅行の危険と困難をパウロと分け合った英雄であった。ルステ
ラで石打ちにあった後、彼を優しく介抱し彼の意識を回復させた。バルナバは決して彼を見捨
てなかった。バルナバはすべての道筋において誠実であった。そして今や、彼の仲間であるバ
ルナバさえも論点が分からなくなった。愛する者に対抗し、友を裁くことは心に深く刻まれる。し
かしパウロは英雄であった。
彼は自分の友人たちにさえ対抗し非難するのに十分に英雄的であった。 パウロの確固とした
精神の大胆さを明らかに示す、考えられるあらゆる形の反対をするために立ち上がった。驚く
べき勇気の持ち主である人のみがなすことのできることを彼は実行した。例えば、彼はキリスト
教を新しいことばで装った。彼は現今の人々の口に登る語彙を持ってキリスト教に刻印した。
彼はイエスのことばを完全に棄て、彼自身のことばで代用した。彼は疑いもなくイエスのことば
を熟知していたが、それらを使おうとしなかった。彼の手紙の中や、説教の記録のいくつかに、
私たちの主の譬えや山上の垂訓、あるいは最後の夜の二階座敷における説教などからの引
用が僅かに認められる。これは驚くべき事である。キリスト信者が集まるところどこにおいても
語り伝えられている福音があった。イエスが語られた多くのことを学ぶことなしに、パウロが語
るに速いペテロと一緒に2週間を過ごすことはできなかった。パウロはイエスの奴隷であった。
イエスに倣うことは彼の誇りであったが、彼のことばのコピーではなかった。彼は古い葡萄酒を
新しい革袋に注ぎ入れた。彼は新しい語彙の組み合わせを探った。彼は世を回心させるため
に新しい武具を鍛えた。使徒書簡のキリストは福音書のキリストであったけれども、誰かが福
音書を通り過ぎて使徒書簡に入っていくと、異なった世界に入っていったように感じる。
古いことばは過ぎ去った。ことばはすべて新しくなった。神の子のことばを使わず、自分が選ん
だ他のことばを採用した。それはもう一寸過ぎると無礼にあたるぎりぎりの勇気である。もしパ
ウロがイエスのことばを使うことなくイエスの宗教を説教することができたのであるなら、私たち
はパウロのことばを使うことなくイエスの宗教を宣べ伝える事ができると言っても過言であるだ
ろうか?救い主としてのイエスについてのパウロの説教に戻るとき、彼の不屈の精神に私たち
はもっとも深い印象を受ける。
彼の大胆さを十分に評価することは不可能である。というのは、私たちは1世紀のユダヤ人で
はなく、私たち自身がパウロの説教を聞いた人々の精神的な態度をとることができないからで
ある。ユダヤ人たちは幾世紀に渡って、力ある常勝の救い主を追い求めた。自分の民を束縛
から救い出し、彼らの敵たちを足下に踏みにじるのが救い主であった。苦難の救い主の理念
は一般人の心に嫌悪された。打ち負かされる救い主の考えは信用されず、反感を持たれた。
ローマ人ごとき不信仰な異邦人の力で悪人として十字架に架けられることを許容する救い主
は、不合理で冒涜の極みであった。イエスが、わたしはエルサレムに行って苦しめられ殺され
ると言われたときのペテロの心に沸いた反感は、十字架に結びつけられた「救い主」という語
を聞いたすべてのユダヤ人の心に繰り返された。十字架はつまずきの石であった。十字架に
関するいかなる言及もただちにユダヤ人のこころを閉じさせた。十字架に架けられたイエスを
救い主と呼ぶ人に、猛烈な怒りと押さえきれない憤りに駆り立てられることなしに聞くことのでき
る敬虔なユダヤ人は誰もいなかった。しかしこれがパウロのメッセージであった。イエスは十字
架に架けられ、そしてイエスは救い主であった。彼は彼が足を踏み入れることのできたどの会
堂においてもそれを宣べ伝えた。彼らが彼を会堂から追い出したとき、彼は個人の家でそれを
説教した。個人の家が得られないときは、通りでそれを説教した。
彼はどこででもそれを説教した。一つの町から追放されると、彼は次の町に行き、そこでそれ
を宣べ伝えた。ある町で拒否されると、彼は他の町に逃れ、彼の説教をし続けた。彼は暴漢た
ちによって騒がれたが、宣べ伝え続けた。彼は自分自身を燃やしてしまう恐れのある火を燃や
し続け、決して彼のメッセージを変えなかった。彼は血に飢え渇いた群衆に追われたが、彼は
機会を得たとき、彼は向き直って群衆に語り始めた。それは常に同じメッセージ・・・「イエスは
救い主である・・・人々は彼を十字架に架けたが、神は彼を死者の中から甦らせた。」これが、
彼がダマスコで宣べ伝えたことであり、そのダマスコは彼が教会の根絶者という名声を勝ち取
るために行ったところであった。彼らはパウロを裏切り者、背教者と呼んだ。しかし彼は彼らが
彼を追い出すまで説教を止めなかった。彼はイエスの敵として高い評判を勝ち取っていたエル
サレムでも宣べ伝えた。エルサレムが熱狂の血に沸騰するまで宣べ伝え続けた。疑いもなく彼
はタルソでも宣べ伝えたことであろう。しかしその地での彼は惨めな待遇を受けたにちがいな
い。というのは、彼は当時のことをどの手紙にも決して言及しなかったからである。彼は行くと
ころどこにおいても、彼はその説教によって恐れられ、嫌われ、呪われた。けれども彼はひる
まず前進し続けた。当時の敬虔で良識のあるほとんどすべてのユダヤ人にとって、彼のメッセ
ージは信じがたく、馬鹿げていて、それは神を汚すものであった。しかしイエスは本当に、預言
者たちの夢、世界の望みである救い主なのだ、そして人々は彼を十字架に架けたが、神はイ
エスを死者の中から復活させたのであると彼は宣言し続けた。最も良い人々も彼が彼の福音
と呼ぶものを恥じたが、彼は言った。「私は福音を恥としない。私はそれを世界の首都で宣べ
伝えたい。」世界の別の場所では、ユダヤ人の地域よりも敵意が少ないとは言い難かった。十
字架は、ユダヤ人には躓きの石、ギリシャ人には馬鹿げたことであった。ユダヤ人たちはパウ
ロの説教を聞いたとき、歯がみした。ギリシャ人たちは彼に聞いてあざ笑った。ギリシャ人の心
には復活の話は馬鹿げたことであった。ギリシャ人はもとより1世紀の他の人々も科学的な考
えを持っていた。彼らは自然の法則をよく知っていた。彼らは、何は起こりえて何は起こりえな
いか知っていた。彼らは、死者は自分の墓から出てくることができないことを知っていた。彼ら
は十字架に架けられた人が神であることはないと知っていた。イエスが死者の中から立ち上が
ったという人は誰であれ非常識なことを述べているのであった。
そしてそのことはパウロが常に語っていることであった。彼は非常にしばしば「復活」という言葉
を使った。それでアテネの郊外の群衆は、それを女神の名だと思った。「神は死者の中からイ
エスを甦えらせた」・・・と彼が宣言したとき、人々は軽蔑の目をもって彼を見つめた。教育のあ
る人々は彼の非常識で納得しがたい物語を受け入れなかった。しかし彼は言い続けた・・・「神
はイエスを死者の中から甦えらせた。」彼のギリシャの聴衆は、それを彼の滑稽な物語の頂点
だとした。憐れみと、そしりと、嫌悪の中で、パウロは語り続けた。「神はイエスを死者の中から
甦えらせた。」ギリシャ文化の中心に根付いていたアレオパゴスの上でパウロは、世界で最も
開けた都市の中の知識のリーダーである学徒の代表者たちに、ユダヤ人が十字架に架けた
イエスは墓からたちあがったと保証し、神は人類の裁判人に神が指定したユダヤ人は、使徒
の働きの書の英雄の最高の見せ場であった。
人類の全歴史のなかで、パウロの行動は人の行ったことのないもっとも勇敢な歩みであった。
教養のある人にとって文化的な聴衆の知的なあざけりは、啓発されていない、知的判断を重
大視しない無知な田舎者の怒りよりももっと勇気を必要とする。
ルステラでの群衆の怒りはアテネの批判的な学徒たちのあざけりほど勇気を必要としなかっ
た。これらの文化の支配者たちの軽蔑をパウロは決して忘れなかった。
彼はアテネには決して戻らなかった。彼はアテネ人たちには手紙を書かなかった。
アテネでの経験から数週間、彼の肉体は弱り、魂は落ち込んだ。しかし彼の勇気は衰えなかっ
た。彼は、人々が十字架に架け、神が死者の中から立ち上がらせたイエスが救い主であると
いうことを宣べ伝える決意をした。
ここに神の子の勇気のごとき勇気がある。


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