chapter11

              第11章 パウロの熱心

 恐らくパウロが興奮したために、フェストはパウロが発狂したのだと思ったのであろう。
その囚人は話を進める内に、その目は輝きその声には感情が増し加わった。

彼の内にはフェストのように冷静な人物には理解しがたい火があった。
生ぬるい血を持った人々にとっては、熱烈な人々は常に謎である。
パウロは熱心で心を燃やすことのできる人物であった。
彼は人間の火山であり、彼のことばはしばしば熔けた溶岩のように流れた。
彼は躍動する炎のよう燃えさかることばで手紙を書くことができた。
1900年間の雪によっても冷やされることのない、燃えている石炭のような彼の唇からでた文
章がある。
生まれつき彼は衝動的であり、せっかちであり、熱心であった。
ものごとに頭から飛び込むのが彼のやり方であった。
彼は何事も中途半端にはできなかった。
彼は自分が正しいと信じた道を進み始めた時には、情け容赦ない、抵抗を許さない火であっ
た。

 私たちはそれを彼自身の唇からも得る。彼がキリスト者になる前、彼はイエスに反対しようと
怒り狂った。

彼はその名を非常に嫌悪し、キリスト者たちに強いてそれを冒涜させようとした。
彼は教会を嫌い、その信徒たちを狩り立て、彼らの家々に押し入り、彼らを牢にひきたてた。

審問のときがくると、彼は彼らをむち打ち、彼らを死刑に投票した。
彼は男も女も区別しなかった。すべて同様に彼らが滅びることを憐れまなかった。
彼は新しい宗教に対してひどく狂気し、その迫害の先を外国の町々にまで広げた。
彼の友ルカは彼を適正に、「脅しと迫害の意気に燃えて」と記述した。
 そのような人がキリスト者になるとき、彼の持ち前の火は彼の内に残っている。
パウロは、はじめから激しい気性と性格であったが、彼は最後までそうであった。
彼は常に炎の人であった。
私たちは、彼についてそれを考慮しなければ彼を正しく評価できない。
私たちが彼の気性を通してそれらを読まないならば、彼の著作を誤って読むことになる。
まず彼の文体を知ることから始めないならば、私たちは彼の神学を解釈できない。
文体は常にその人自身を表すものであって、パウロの文体は彼の人間性を啓示する情報手
段である。
それはあまりにもしばしば単なる文章上の現象であるととられてきた。
学者たちは自分たちの好むヘブライズム、ヘレニズム、シリア主義等々のことを探し求めるこ
とに注力した。
彼らは説教の姿のカタログを作りラベルを付けた。そして言語上の特異性と文章の性格に関し
て日夜研究した。

彼らは彼の語の数さえも数え、新しい語がみつかるとそれから推論を導き出し、その推論から
しばしば彼らの教義を導き出した。そしてそのようにして世は、誰も読みたいと思わないパウロ
の本の洪水となった。

専門用語を計算する人々はパウロを理解できる人々ではない。
そればかりか、彼らのことばは信憑性に関わる疑問に結論を与えはしない。
ひとつの書簡が、ほんの2,3の新しい語が含まれているという理由で拒絶されるとき、聖書学
者はその最も悪いことをしているのである。
パウロを知らない人でもギリシャ語に精通している人はたくさんいる。しかし、人と真に親密な
知り合いとなることなしに、その人の関与した手紙の真正性の判断を適正に判断できる力量
のある人はいない。

専門家たちはその手紙の優れている点、劣っている点、優雅な点、粗野な点、美しい点、不快
な点、ギリシャ文化の証拠やギリシャ語を用いることに対する彼の巧みさをくまなく探し、それ
によって彼らが発見したと思うことに対する議論に陥った。
パウロの文体に関する論争は途絶えることが無く、がっかりさせられる事実はギリシャ語の専
門家たちが決して意見の一致を見ないことである。
今日まで、パウロの文体が文学的であるかないかの判断を下すことが、これらのお歴々の間
の公開問題である。
ある人はツキジデスのように彼は書いたのだといい、一方別の人は優れたギリシャ語からかけ
離れているばかりでなく、人が話す論理から大幅に逸脱していると宣言する。
彼の文体に関する人類にとって重要な事柄は、その文学的な質ではなく、著作者の心が私た
ちに届けられる力である。
彼の文体の中に、私たちは人々の心臓の鼓動を感じる。
彼の文体は急であり、大草原の火のように、増水した山合いの激流のように走る。
それは「速記者によって書き取められた早口の会話、訂正なしの複写」と表現されている。
訂正なく作り上げられたことは幸運である。
彼の、学んだことの無い自然なことばの使用に、私たちはあるがままのパウロを知ることがで
きるのである。
 なぜなら彼は生まれつき激しい気性で、彼のことばの用法は粗っぽかった。
彼は行動の人であり、それゆえ修辞学校の洗練と装飾を好まなかった。
彼は日々世の実際の労働者であって、一室にこもる修道士でも洞窟にすむ隠者でもなかっ
た。

彼は柱上の聖人ではなかった。
彼は最初の週の終わりがくる前に柱から飛び降りたことであろう。
彼は常に何事かを実行していた−−−ものごとを実現させていた。
彼はつねにどこかへ行った。
彼は自分の脚をとどめておくことを知らなかった。
彼はローマを見ることを熱望した−−−彼はスペインに、そして地の果てまでゆくことを心に決
めていた。
 彼はどの動きも急いで行った。そして向こう見ずでせっかちな精神が彼の文体の中にある。
彼は文法にさえ注意を払う時間を持たなかった。
彼の道筋で文法が妨げになるなら、彼はそれを打ち壊した。
彼はしばしば自分が言おうと思ったことを忘れた。
彼はしょっちゅう自分の文章を完成させなかった。

彼には時間がなかった。
彼は自分に誤りがないことを決して夢見なかった。
彼はそれを知っていた。彼は彼が先に書いたことを再び思い起こしたであろう。
彼は自分が代々に渡る人々に書いていることを知らなかった。
もしも彼がそれを知っていたなら、きっと彼は彼が完成しないままにした文章のいくつかを完成
させたことであろう。
彼は首尾一貫しようという望みは持っていなかった。
彼の心はもっと重要なことに固定されていた。
彼は哲学的な体系を打ち立てる時間を持たなかった。
それは労を要する大事業であって、多くの時間が必要である。
結婚のための時間がないと考える人が、神学の大系を建て上げる時間があるとは思わないで
あろう。

彼は彼の血潮の中で火のように燃えるいくつかの理念を持っていたのみである。そしてそれら
の理念を明らかにし、ただちにそれを実行することが彼の務めであった。
そのため彼の文体はしばしば粗っぽくごつごつしていた。
彼の感性の流れはあまりにも充ち満ちており強かったので、破れがありとぎれとぎれの所があ
った。
彼の内から出てくる彼の語は、あたかもいっぱいに入ったみずさしから水が飛びはね、泡だっ
て流れ出るようであった。
王の僕は急がなければならなかった。そしてそれゆえ彼は数多くの文法上や修辞上の失敗を
犯しながら、意気揚々と進んだのである。彼が死んだ後、それに明るい学者たちがそれを書い
た。

このような人は次のような人々には理解され得ない。それは自分の書斎にこもり、冷たい血と
暇に任せて彼の文を分析して、すべての音節から神の教理を絞り出し、フレーズからそれらに
決して意図されていなかった意味を詰め込んで、曲解した結論を引き出す人々である。

霊感に関する伝統的な概念は作り直されなければならない。
実際のところ、不完全さ、誤謬、一方的な主張、真実の見方の過度の強調、矛盾と不一致、過
大視や象徴の混乱、書いた人が後で後悔する表現の余地を残さない新約聖書の霊感はな
い。

多くの人々の心にかかっている、霊感されて誤りのない使徒のイメージは、敬虔ではあるが訓
練されていない人々の幻想の産物である。
私たちはパウロの手紙を通じて彼の品性を学ばなければならない。
私たちはまずその人物を理解しないうちは、彼の神学を適正に扱うことができない。
私たちがひとたび彼を知ったなら、私たちは彼のことばにどんな重さを与えたらよいかよりよく
知るのである。
私たちは彼が体系を建てる能力に欠けていたことが分かる。そして彼の書簡の上に立てられ
ている神学の多くは、切り抜きの山に懸けられているかもしれないことを納得するようになる。
私たちは私たちの知人や友人たちを判断するように彼を判断しなければならない。
私たちは彼ら自身を知っていることを通じて彼らの言うことを解釈する。
彼らが私たちに話すとき、私たちは追加や削除、修正、加減をする。聞くことは彼らの話だけ
でなく、彼らがどんな人物であるかによるのである。

私たちはあるひとに「彼の吠えるのは彼が噛みつくより悪い。」という。
他のひとに、「彼が言っていることは、彼の意味するところ全部ではない。」という。
また他の人に、「あなたは私と同じくらい彼を知るまで、割引しておくべきである。」という。
丁度そのように、私たちはパウロのことばを、彼の人格を私たちが知ることによる光の中で解
釈しなければならない。
彼は熱心で衝動的な人間であった。
彼がかつて「詛われた」人と呼ばれたからといって、そのひとを頑固であると決めつける人はい
ない。
彼が自由主義者ではなかったという一点から、彼を偏狭であるということは公平でない。
彼がかつて自由を滅ぼすことばを使ったからといって、彼を運命論者と呼ぶことは正しくない。

私たちは彼がかつて愚かな投票をしたからといって、彼を愚かというべきだろうか?
パウロの基盤の上に立てられた神学は少なくないが、その神学を建て上げた人々が、パウロ
は衝動的かつせかせかした人物であり、今すぐに助けを要する人々に急いで書いたものであ
ることを悟ったなら、それは決してけっして建てあげられなかったであろう。
私たちはその人を知ることを通して彼の教えを解釈しなければならない。
 パウロは、自分の言うところの意味合いを明らかにするための労を取らないで前進したため
に、常に問題を抱えていた。

彼はテサロニケ人たちに大騒ぎを巻き起こす手紙を書いた。それで彼は第二の手紙で彼の意
味することを説明した。
彼は非常に過激な意見を含む手紙をコリント人たちに書いたが、他の手紙でそれらの意見を
トーンダウンさせる必要があった。

それが他の地方における彼の働きに及ぼす影響を考慮すること無しに、彼はテモテに割礼を
施して前進した。そしてそのため彼の行動が引き起こした印象を修正するため、ガラテヤ人た
ちに手紙を書かなければならなかった。
彼の自由の理念は真実であったが、彼はそれを十分な正確さで伝えなかった。その結果多く
の団体が誤って理解し誤った適用した。そのため彼の敵たちが、彼は無茶で安心できない指
導者であると人々に思わせる格好の機会を与えてしまった。

信仰によって義とされることに関する彼の教えは響き渡っているが、誤った推論に対する保護
手段に欠けていたため、それがしばしば彼自身の生きている間にも誤った働きをした。そして
その誤った働きは今日に至るまで続いている。

彼は熱心であったが、彼はもっと注意深く不適切な表現を排除すべきであった。
彼の感情は、彼が首尾良く自分を守ることのできない主張をしてしまうところまで、しばしば彼
を連れて行った、
彼の魂が興奮の熱に燃えている間に、彼はガラテヤ人たちに手紙を書いた。
「私パウロはあなたがたに言います。もしあなた方が割礼を受けたら、キリストはあなたがたに
とって何の益もありません。
そのとおり。私はふたたび証言するが、割礼を受ける人は誰でも、律法の全体を行う義務があ
ります。」
一方他の時には、彼は割礼を受けても受けなくてもどうでもよい、ということに同意することに
臆さなかった。
人は割礼を受けているいないに関係なくキリスト者であり得る。
彼は彼の第一の働き人に割礼を施すのはよいことであると信じた。
 彼の男女に係わる教えが誤解を招いたことは確かである。

彼は常に、キリストにあって男も女も関係ないと非常に大胆に述べていた。いいかえれば宗教
の分野で性の区別はもはやないということである。
そのような教えを聞いた女たちが自分たちの権利に関して尋ねはじめることは自然である。
彼らは自分たちが教会の集会で男たちと同じように話すべきではないということを理解できな
い。そればかりか男たちが頭にかぶり物をつけずにゆくことが許されるなら、女たちが頭を覆
わなければならないということも理解できない。
パウロはいつもの性急さをもって彼らに当たった。
パウロは彼らがそのような自由を熱望するかも知れないことにぞっとさせられた。
女たちの一部がそのような行動に走ることは軽率で風紀を乱すことは明白であった。それで彼
は愚かと言えるほどの極端なスピーチに陥った。

彼は言った。もし女がヴェールをつけずに教会の集会にいくのなら、髪を剃ってしまいなさい。

その意味は、コリントで身を落とした女性たちと同席すればよいということである。

彼は女がヴェールをまとうことが嫌なら、彼女は髪を切るべきであると述べるに至った。言い換
えれば、街の女と名を連ねればよいということである。
今風の感覚では、そのように話すことは馬鹿げている。
使徒はその時点でとった立場は正しかった。しかしそれを守らせるための命令に関して、彼の
用いた主張はみっともないもので彼のことばは愚かであった。
彼のそのような天性であったので、ある道でひとつ踏み出すと、すべての道にそうしたのであっ
た。
 ある理念が彼を捕らえると、それはしばしば彼と一緒に走った。

彼はそれを見、それのみを見た。
最初の真理が関係することについては他のすべて真理を見失った。最初の真理をもってチェッ
クするためそれは変形させられた。
彼は誇張した表現に陥り、ほんの部分的に真実である表現をした。彼が真実を評価できなか
ったからではなく、彼の熱心で燃え立つ心の衝動のためであった。
彼が主張し教えている真理全体を理解するために、私たちはどの主題についても彼のさまざ
まな表現を並べてみる必要がある。
彼は偏った人間ではなかった。しかし多くの偏ったことを言った。彼がそれらを言った理由は、
彼がその強烈な天性の故に、時には事実の片面のみしか見ることが出来なかったからであっ
た。

私たちと同様に、彼はしばしば不注意で誤りを犯した。そのため彼の誤りを訂正し、不足であ
った点を完成させ、失策を補填することが必要があった。
パウロはペテロと同様に燃えやすく衝動に満ちていたが、彼らの熱情は使徒に相応しくなかっ
たのではない。
イエスは熱心で燃える人々を好んだ。
イエスは、欠点と失策がつきものの熱心な人々を容認した。
彼は炎の人のみが世を征服できることを知っていた。
ヨハネはイエスがラオデキヤの教会について語っていることを聞いたとき、彼はイエスがこう語
るのを聞いた。−−−「あなたがたは生ぬるいから、わたしはあなたがたをわたしの口から吐
き出そう。」
イエスご自身は熱心であったが、罪を犯さなかった。








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