chapter06

               第6章 パウロの正気

しかし真実であるだけでは不十分である。

人は真実であってもなお信頼できないことがある。
歴史上のもっとも危険な人物たちのうちのある人々は、疑いもなく正直であった。
人は真実であると同時に、狂信的であったり、空想家であったり、変人でありうる。
精神の損なわれた人々はしばしば善意をもっている。
精神の狂った人は、自分は神のしもべであるという考えに支配されることがある。
宗教的な人々はしばしば幻覚の犠牲になり、それによって彼の真実さがより活動的で危険なも
のに変えられる。

ひとがパウロの頭脳の健全さを疑うようになるいくつかの理由が存在する。
彼は幻を見る人であったが、私たちは通常それを見る人々を疑う。
彼は神の声を聞いたが、私たちの聞かないことを聞く人々を私たちは信用しない。
彼は恍惚状態になることがあったが、それは明らかに通常はあり得ないことである。
彼自身の証言によれば、彼は一度恍惚状態となって第3の天にまで、そして別の時には第7
の天に引き上げられた。そのように高くされた人々は私たちに不快の感覚をもたらす。

彼は異言を語ったが、異言を語る人々はしばしば精神病院で生涯を閉じる。

彼は肉体に自分で棘と呼んだものがあったが、それが何であるか知っている人はいない。ある
理論家はそのすぐれた見識を駆使し、完全に自信を持ってそれがてんかんであったと主張す
る。

誰かがパウロはてんかん持ちであったということを一端納得すると、少なくとも彼が見たり声を
聞いたりすることは説明がつく。

しかしこの理論にとって不幸なことに、パウロはその思考、行為、執筆を通して彼が正気であ
ることを示している。
彼は正に常識の化身であるように見える。

彼の良識は顕著であり、もし私たちは彼の普通の行為を判断するなら彼の頭脳は強健である
ことが分かる。
 パウロが調べ上げられたほど数々の探りに耐えられる人はほとんどいない。

人々は常に彼に難しいことを問い、数々の問題で悩ませたが、彼の回答の多くが記録された。
それらは才気に溢れ賢い人物の回答である。
彼はしばしば忠告をせがまれたが、彼の忠告のひとつひとつは彼の手紙で私たちに公開され
ている。
彼が正常であることの証明のために、彼のコリント人への手紙第一を読む必要がある。
その手紙にはパウロが顕著に明瞭な視野と遠くを見通す思考力があったことの証拠に満ちて
いる。
宣教運動のリーダーとして、障害と危険に満ちた森を通り抜ける道を進んだが、彼は複雑で非
常にやっかいな問題に取り組むことを余儀なくされた。

彼の回答は彼の手紙に書き記されており、彼が驚くべき洞察力を有する人物であったことを証
明している。
彼は付随の問題と必須の問題、一時的事柄と永続する事柄を素早く的確に区別したが、それ
はただ一番よく整理された心の持ち主のみが示しうることであった。
そのような事実の中に、彼が病気や損なわれた知性の持ち主であったという説は、放棄され、
誤っていたと判断されるべきである。
  パウロは実行を伴わない夢想家ではなかった。
彼の手紙は宝石の原石のように輝きをはなつ道徳の金言に満ちている。
教会はそれらを教会の最も価値ある所有であるとし、世はそれらを常識の古典的表現である
と認める。

例えば−−「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりませ
ん。」
(1コリント10:23)
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリント8:1)
「怠け者に注意しなさい。」
「誰に対しても腹を立ててはいけません。」(テトス1:7)
「悪に対して悪をもってやり返してはいけません。」(1テサロニケ5:15)
「お互いに対しても世の中のすべての人に対しても常に親切であるよう心がけなさい。」(1テサ
ロニケ5:15)
「常に喜びなさい。」(1テサロニケ5:16)
「決して祈りをあきらめてはなりません。」(1テサロニケ5:17)
「すべてのことについて神に感謝しなさい。」(1テサロニケ5:18)
「日が沈むまで怒り続けてはいけません。」(エペソ4:26)
「悪魔に機会を与えてはいけません。」(エペソ4:27)

「悪いことばをあなたのくちびるを通らせないようにしなさい。」(エペソ4:29)
「愛の生活に導かれなさい。」
「あなたがたの時間を最善に用いなさい。」
「決して失望してはいけません。」
「あなたがたの愛を現実のものにしなさい。」
「熱心を失ってはいけません。」
「あなたがたの望みを喜びとしなさい。」(ローマ12:12)
「もてなしを実行しなさい。」(ローマ12:13)
「あなたがたを責める人々を祝福しなさい。」(ローマ12:14)
「身分の低い人々の友でありなさい。」(ローマ12:16)
「決してたかぶった思いをもってはいけません。」(ローマ12:16)
「誰に対しても悪に悪をもって仕返ししてはいけません。」(ローマ12:17)
「あなたがたの善を悪に変えてはいけません。よい行いによって悪を善に変えなさい。」(ローマ
12:21)
「すべてのことを確かめて、それが善であるならしっかり保ちなさい。」(1テサロニケ5:21)
これらすべて、そして多数の他のことばは、永遠に鳴り響き永久に新鮮である。
この世がそれらから脱却することは決してないであろう。
てんかんの作の合間の短期間に、そのような格言を書くことはできない。
 パウロは思考の達人であった。
彼のローマ人への手紙は、人間の理性の不滅の産物のひとつである。
何世紀にも渡るキリスト教の最大の知識人たちのある人々は、そのビジョンの流れに時を費
やし、その支配的な考えを習熟する試みに彼らの力を費やした

人は、このようなスタイルで書くために、弱らせるひきつけから抜け出すことができるものでは
ない。

パウロは幻覚を見る人ではなかった。
彼は空想的なイメージや無益な詮索に費やす時間を持たなかった。
彼は空を打つことを恐れた。
彼は天とか地獄に関する絵図を私たちに提供しなかったし、祝福されることの喜びや失われる
悲哀についての丹念な記述をしなかった。
彼は覆いを除けるため気の触れた熱心さに苦しめられることはない。
彼は死者の世界のだれかと交信する望みを全く持たなかった。

エンドルの霊媒は彼を惹きつけなかった。
彼の精神はどこにいっても常に健全であった。

パウロは熱狂者ではなかった。
彼は殉教者にあこがれを持たなかった。
彼は逃げることが可能な限り敵から逃げた。

彼はダマスコの城壁から籠によって吊りおろされたことを浅ましいと考えなかったし、テサロニ
ケの敵から闇に紛れて逃げ去ったことを恥じなかった。
彼は苦難のために苦しみを望む愚かさを持ち合わせてはいなかった。
彼は痛みが何であるか知っており、それから尻込みした。
彼は可能な限り打たれることを避けた。
これらすべての中にあって、彼は賢明な人の行動をした。

パウロはヒステリー持ちの人々がすぐに陥る緊張や興奮をしなかった。
彼はどきっとするような火急の状況に遭遇した。
彼は興奮させる危機を平静に通過した。
彼は予期しない状況に直面したが、彼の魂は平静を失わなかった。
ピリピの地震は牢番を狼狽させたが、パウロにはそうではなかった。
エルサレムの群衆は、彼の知的力を萎縮させなかった。
彼を殺すかも知れない人々に対する彼の説教から、私たちは彼の頭脳の灰色部分のどの細
胞も機能していたことを私たちは知ることができる。
恐ろしい嵐の中の甲板で、彼は全く取り乱すことなく威厳を持っていた。それ故彼の旅仲間で
ある275人の人々が彼の周囲に集まり、彼の忠告によって元気づけられた。

彼は少々困難な仕事を成したからといって、有頂天になることは決してなかった。
彼は人々を相手にする事態の時に、天使と会話することは決してなかった。
彼はどんな状況下に置いても変わらなかった。それは彼の神経は強く、彼の心は決して虚偽
を演じることはなかったからであった。

彼は決して誇大妄想に悩まされなかった。
彼は彼自身と彼の使命を値高く見たが、自分を大いなる者とした魔術師シモンの役割を演じる
ことは決して無かった。それは神の力こそが「偉大な力」であることを知っていたからである。

彼は自分が人間であって、自分には限界があることに対する鋭い意識を持っていた。
彼はすべての状況下で何が適切である読み取ることに注意深かった。そして常に彼の聴衆の
感受性を大切にした。
彼は、ルステラの無学な人々に対しても、アテネの知識人たちにも、カイザリヤの頭に王冠を
つけた支配者に対しても、正しい方法で正しいことを述べるすべを知っていた。
病んだ心はこの繊細な識別力に欠ける。

パウロは自分の考えの奔流に流される過激な熱狂者ではなかった。
彼は、キリストはすぐに来ると信じていたが、それをいつも語っていたわけではないし、それが
彼らの日々の義務から解放するという考えをしていたのではない。
テサロニケには主の再臨意外に何も考えず何も語らない熱した頭脳の人々がいた。彼らはあ
まりにもこれに熱中したため何の仕事もせず他の人々に食べさせて貰っていた。

パウロはそのような怠け者たちに愛想を尽かした。
「もし誰かが仕事をしないなら、そんな人は食べるべきでない。」
それが、彼が直ちに決めた彼らを扱う実際的な方法であった。
臆病なテサロニケ人たちはそのような大胆な処置をすることに気乗りしなかった。しかしパウロ
は彼らにそれを強く勧めた。
パウロは涙の溢れるセンチメンタリストではなかった。
彼はコリントの他の誰よりも異言を語ることができたが、彼はこの賜によって自制心を失うこと
はなかった。
彼は人が「俗識」と呼ぶものを持っていた。
コリントで荒れ狂うまとまりのない群衆を扱ったとき以上によく彼の平易な常識を示すものはど
こにもない。
以下の文は彼が書いたものである。
「もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを
話す人も私にとって異国人です。(1コリント14:11)
私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
 14:19 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五
つのことばを話したいのです。(1コリント14:18−19)
兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。」(1コリント14:20)

パウロはきまぐれな妄想を語る吟遊詩人ではなかった。

彼は高い自由の教義を維持していた。
彼はキリストが人間を解放した自由を強調した。
しかし彼は空論家にはならなかった。
いかに栄光に富んだ理想であっても、他の人々の理想を押し出すことを許されはしない。
「誰かが真に自由であるなら、その人は他の人々のためにその自由を制限するべきである。」
彼は自由の意味を学び始めた人々にそう書き送った。
鋭い洞察力を与えられた人のみが真理をそのように理解することができる。
現今の人々は、大変怜悧であるが、それを理解できない。

パウロが律法を重んじているユダヤ人たちと議論して、神との関係を正しくするために割礼は
必須ではないと主張したとき以上に、熱心に強調して述べたものはない。

「割礼は無である。」と彼は言った。
しかし彼は理性を失ってはいなかった。
割礼を受けていないことを誇る人々がおり、彼らは神に特別に喜ばれていると思っていた。
パウロはそのような妄想に所を得させなかった。
「割礼は無であり、無割礼もまた無である。
重要なことは人であることである。
新に造られたもの、これこそが神がさがし求めておられる高い次元の人である。
愛以外のものは、彼の目には何も評価されない。」
パウロは決して雲の上を歩くことはなかった。
彼は常に地面に両足をおいた。
彼は思考に制限を設け、興奮を制御した。
そのようなことは狂った頭脳の振る舞いではない。

パウロが正気であることを示す14の証拠がある−−−彼の手紙とルカによる伝記に。
ルカは医者であってパウロを身近に観察する機会を持っていた。
ルカにとってパウロは錯覚の犠牲者ではなく、彼の全霊を尊敬するに値する、正しい精神と勇
敢さを有する英雄であった。
あなたがたはこのことをルカの解説しているすべてのことばに感じることができる。
ルカがパウロに関して書き始めるとき、彼は他のいかなる人物をも書くことができないことを知
った。

私たちに対するパウロの手紙とルカの解説は、パウロの精神が不調であったことを世に納得
させることは決してできない。

多くの人々は使徒の経験のいくつかを説明することに困難を覚えるであろう。しかし私たちが
彼を理解することができないからといって、彼が正気でないとは言えないのである。
たとえある人が、私たちが経験しない経験をしたからといって、私たちはその人を精神病院に
送る権利をもってはいない。
私たちの心理学で夢見ていることを超えることが、天と地にはたくさんあるのである。
パウロがてんかんであったと確信をもって主張し、パウロが高潮した気分のうちに見聞きした
ことを退ける人は軽率な人である。

それはこの使徒の信用を失わさせる容易い方法であり、キリスト教に対する非難を引き起こ
す。
ある人々は天才である人はすべて正気ではないという。そして他の人々はすべての宗教を空
想の世界だと分類する。また他の人々は地上の生活は苦しい夢以外のなにものでもないと結
論する。しかし健全な精神の人々は、それらすべての突飛な考えや仮説を捨てて実践的かつ
有益な仕事に従事する。
精神はそれが正常であるとき他の人々の精神の健全さを認識する。そして大部分の人々は狂
っているという皮肉な格言に同意することを拒絶する。
 キリスト教の起源に関して偏った考えをもつ人々の間に流行している、神秘主義説と発狂説
という二つのばかばかしい解釈がある。

最初の論に従えば、新約聖書の大部分の記録は、詩と神話である。
超自然的なすべての物語は空想の産物であり、誰もそれを確かめられないわずかな出来事
のまわりに空想を集めたものということになる。
この思弁の才能をもった学徒の行き着くところは、−−「ナザレのイエスは本当にいたのか?」
−−という議論を真剣に提示し議論するのである。そして骨折って到達する結論は、イエスは
神話中の一人物であるというのである。
第二の理論は、同様に軽薄であって、人の騙されやすさと辛抱強さに関する虚弱体質によると
位置づける。
発狂説に従えば、キリスト教は十字架の後でイエスを見たという女の幻覚によって生まれたも
のであり、実際は、彼女は何も見ていなかったというのである。

彼女は使徒たちに狂ったことを伝え、このようにして新しい宗教がスタートして世に勝利したの
だという。
貧しいマグダラのマリヤはただの女であって、不幸にも私たちに何も書いて伝えられなかっ
た。そこで私たちは彼女について質問に答えることはできず、彼女に関する精神鑑定はできな
いのである。

彼女を、精神を患うひとりの女として捨てるのは簡単である。
私たちはある女たちが興奮し、その興奮している最中には、自分の頭の中以外には何も存在
しないものを思い描くことを知っている。それでマグダラのマリヤが正にその種の女でなかった
とどうして言い切れよう。
この例は次のようにして容易に却下される。
しかしパウロはそのようにすぐさま捨てられない。
彼の批評家たちの妨害に対して、彼は確固とした誤りのない品性の人物であって、彼が絵空
事を宣伝したとあえて言うことを注目に値するとするひとはいない。
そのように彼について論ずる人々のさらなる敗北は、パウロが多くの手紙を書き、私たちはそ
の中の13通を手にしているが、それらの手紙の中に彼が正気である証拠が数多くありそれら
は決して反論されえない。
これらの手紙の中で、たまに見られる以外には、彼は概念的なことや抽象的な分野に足を踏
み入れることはなかった。そうではなく日々生活の複雑な具体的な事柄に生きたのであった。
彼は質問に答え、アドバイスを与え、叱責をし、タイムリーに警告を発し、内外に日々起きてく
る突発事項の大群に動かされず、コメントを提供し、行動の指針を与え、どの変化にも先見と
思慮をもって素早く対応している。

20世紀の無知な批評家はフェストとともに叫び出す−−「パウロ。あなたは狂っている!」(使
徒26:24)と。しかしこれらの手紙から、はっきりと静かに、確信に満ち、説得力のある一つの
声があがる。「もっとも卓越した批評家の皆さん、私は狂っていません。真実で冷静なことばを
もって語っています。」と。




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