第三章 パウロの限界

  人々はパウロを聖徒と呼ぶ。しかし彼は完全から遙かに遠かった。誤りから解放されてい
る聖徒はいない。世はパウロを聖いという。しかし彼のすべてが完全なのではない。彼には短
所、瑕疵、欠点があった。
私たちの新約聖書は、書中の英雄たちを、その欠点もすべて描いている。
イエスについては「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会
われたのです。」(ヘブル4:15)と言った。
パウロもまた私たちと同様に試みられた。そして彼は私たちと同様それに陥った。彼は罪にお
いても私たちの兄弟なのである。
 イエスとパウロとの間には巨大な深淵が存在する。
イエスは決して罪を告白せず、自責の念や後悔の痕跡すら決して示さなかった。イエスは決し
て恥じなかったし、赦しを求めて叫び出すことは決してなかった。繰り返し塵に口をつけるパウ
ロを私たちは見る。
「私は使徒と呼ばれるに値しない者です。(1コリント15:9)」そうパウロは言った。
「わたしは神の子です。(マタイ26:64、27:43)」とイエスは言った。
「私はすべての聖徒たちの中では最も小さい者です。(1コリント15:9)」とパウロは言った。
「あなた方の主はひとりだけです。そしてあなたがたは皆兄弟です。(マタイ23:8)」とイエスは
言った。
「誰がわたしを罪有りとするのか?(ヨハネ8:46)」とイエスは言った。
「私は罪人たちの頭です。(1テモテ1:15)」とパウロは強調した。
パウロがいるからといって、「私から離れてください。私は罪深い人間ですから。(ルカ5:8)」と
いう人はいない。
一方私たちは彼に愛着を覚え、・・「私は善をなそうと望んでいるのにできず、私が望んでいな
い悪を行ってしまうのです。(ローマ7:19)」・・という彼の告白に私たちも加わるのである。
その生涯が終わりに近づいたときパウロはピリピの友人たちにこう書き送った。・・「私はすで
に完全にされているというのではありません。それを目指して突き進んでいるのです。私はすで
にそれを得たというのではありません。目標に向かって走っているのです。(ピリピ3:12〜1
4)」
彼はイエスのクラスにではなく、私たちのクラスの中にいる。彼が言っていることは、彼を私た
ちに近づける。彼の失敗は私たちを彼に結びつける。彼はイエスがおできにならなかった方法
で私たちを助ける。
私たちは、罪のなかった人と悔い改めた罪人との両方の実例を要する。私たちは決して倒れ
ることのない人の霊感を必要としているし、倒れたけれども再び立ち上がった人によって勇気
づけられる。完全な人は理想は何であるか明らかにする。打ち負かされたが最後は勝利した
人は、神の恵みが私たちに対して究極的になすことを明らかにする。罪に満ちたパウロは罪
のないイエスと同様に私たちの贖罪の一部分である。
私たちが困難で危険の多い道を勝利して歩むためには、私たちは一方の側にイエスを必要と
し、他の側にパウロを必要とする。これはイエスからその高い地位を奪うものではない。その
理由はパウロがいつも、私が生きているのではなくキリストが私にあって生きているのであると
述べているからである。私たちは二つの形に仲介されたキリストの力を必要としている。受肉し
たことばの形と私たちにもある情熱と失意の人の形である。
パウロは倒れ、神の栄光に達しなかったので、私たちはイエスに見いだすものすべてを彼に期
待することはできない。私たちは無謬の判断を期待すべきではない。それは唯一罪のない人
のものである。私たちは絶対に正しい意見を捜すべきではない。それは決して罪を犯さなかっ
た人だけがもっているものである。
もしパウロが気質と行為において理想以下に陥ったとするなら、同様に私たちは彼の考察や
教えにおいても欠陥に陥ったとしても驚くに値しない。
彼自身がすでに告白している彼の限界を認めることを、どうしてためらう必要があろうか?彼
が自分自身に対して決してしなかった要求をなぜ求めるのか?
人々が彼をイエスと同じレベルに置こうとし、彼の言葉に関して神のみ子と同等の権威を要求
するとき、パウロ自身がはじめに否定した、満足のいく正当性の主張のできない地位を彼に与
えることになる。
「それではパウロなにものか?」彼は正当に彼のものでない場所を主張することに驚くというこ
とを述べることに慣れていた。彼の誤りが私たちの眼前に大書されているのに、なぜ彼がもっ
ていなかった完全と彼の無謬の性質を彼に求めるのか?
ルステラの熱狂者たちが彼を神として礼拝しようとしたとき、彼は彼らに猛烈に抗議し、恐れて
身を引いた。彼は誰も彼の前に身を伏せることを望まなかった。
彼が主張した主要な点はキリストの心を持つことがすべてであって、彼の望みは自分の人生
がキリストに対して忠実であることであった。
「すべての人は自分の時代の囚人である」とローウェルは言った。そしてパウロも例外ではな
かった。自分の時代という束縛から完全に逃れることができる人は誰もいない。彼の歴史環境
は避けることのできないものであって、彼の上に刻印を残した。ガラテヤ人への手紙中で、パ
ウロは私たちにとっては全く議論にならない議論をしている。彼はアブラハムとその子孫への
約束がなされた場合、「子孫(種)」は単数であるという事実が、その約束はユダヤ人に対する
ものではなく、キリストに対するものであることを示している、とパウロは主張している。そのよう
な理由付けは私たちには子供っぽいが、パウロにとっては幼稚ではなかった。なぜなら彼はラ
ビ学校の教育を受け、そしてそれがラビたちの主張の方法であったからである。さらにその
上、人々はそのような主張に馴れていた。そして自分の聴衆を納得させようと望む人は、聴衆
の心をつかむ道具を用いなければならないからである。この主張は私たちの心は掴まない
が、おそらく当時の人々の心を掴んだであろう。ラビ的な解釈は大きくなりすぎていた。後の世
代は私たちをも笑うかもしれない。後日、ラビたちの流儀に従ってハガルとイシュマエルの物語
を例話として使った。ハガルはアラビアにあるシナイ山であり、自由な女はエルサレムであって
ハガルにまさる。そのような解釈はすべて私たちにとっては現実離れしている。しかしパウロに
とっては現実離れしたものではなかった。なぜなら彼はエルサレムの大学に学び、それが当時
の大学の教授たちの聖書解釈の方法であったからである。旧約聖書を使うことにおいて、パウ
ロは自分の時代の囚われ人であった。 パウロは、特に1世紀に流行った啓示書を書いた権
威者たちによって力強い印象が与えられた。
これらの人々は神がある不思議な圧倒的な手段を持って彼の力を約束したという点を、熱烈
に保証することを主張した。思考に関する啓示的な方法に陥ると見られるイエスのことばがあ
り、パウロの熱心で情熱的な性格が殊に予言的外見に呼応している。キリストの神の概念は
優しく憐れみ深い父のように、この世が長く続くことはできないと信じることは、信者たちにとっ
て容易であった。知恵と同情に満ちた神が、人類がそのような悲惨と破滅の中にのたうつこと
を、どうして許されるのか?確かに社会秩序は回復できないまでになり腐敗は焼かれるほどに
熟していた。
キリスト者の困難と試練は彼らの予言の幻を疾駆させた。それが当時の彼らの苦難に対する
主な慰めであった。これ無しに彼らを支えることに、彼らは耐えることができなかった。パウロ
は彼自身イエスが速やかに来ることを期待することを彼の心の慰めとした。そして同じ望みを
持たせることによって他の人々を慰めた。
テサロニケ人たちに彼はこう書いた。「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再
び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してあ
りません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下
って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残ってい
る私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:15〜1
7)」これ以上に明白なことはない。もしイエスがパウロ自身の生きているうちに見える形で不思
議な方法をもって来つつあるのでなければこのことばは意味がない。同じ認識がパウロのコリ
ント人への手紙第一に強調をもって顕されている。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告
げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパととも
に、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち
は変えられるのです。」(1コリント15:51〜54)」
この意味は議論の余地がない。
ローマ人への手紙に彼はこう書いた。「その日は手の届くところにある。(ローマ13:12)」
ピリピ人たちに彼はこう書いた。「主は近い。(ピリピ4:5)」
そのようなことばはただ一つの意味しかない。
ペテロが、「すべてのものごとの終わりは近い。(1ペテロ4:7)」と書いたとき、彼は自分自身
が信じていることのみでなくパウロやすべての使徒たちのそれを表現したのであった。初代教
会はこの世の終わりがすぐ来るという熱烈な期待に生きていた。それ故ここに色あせることの
ない確固たる事実がある。この事実は答えを要するいくつかの疑問を提起する。使徒には誤り
があってもいいのか?然り。パウロがそうであった。霊感を受けた人間が誤った概念を保つこ
とが可能であるか?然り。パウロは霊感を受けていたし、ある部分について彼自身が告白して
いる。新約聖書は権威があると同時に誤りを含むことができるか?然り。新約聖書は誤りを含
んでいる。そして同時に救いの必須の要素のすべてを権威をもって語る。正直な人が新約聖
書は誤りがない書であるといえるだろうか?なぜ事実に面と向かわないのか?何が危険にさ
らされるのか?危険はなにもない。ただ伝統的な霊感の定義にかかわるだけである。
(訳者註:この部分の著者の表現には注意を必要とする。たとえば、パウロあるいは他の使徒
たちが、彼らの時代にしか当てはまらないような事柄やすすめを述べたとか、誤解したことを
書いたからといって、聖書が誤りを含んでいると理解すべきではない。「使徒が誤解した」という
「事実」が記されたのであるとも言えるが、本当に誤解したとか誤っているとか、判定できる人
はいない。その判定は、自分を聖書よりも権威のある人物とする危険をはらんでいる。誤りと
するのは、唯一、聖書の他の箇所における聖書自体の評価でそれが示される場合のみであ
る。)
事実が伝統的な定義に混乱をもたらしたのであるなら、これらの定義の方が変えられなけれ
ばならないのである。危険に陥っているただひとつの貴重なことは、正直と潔白に関する教会
の名声だけである。真理の主題は事実に面と向かうことをしない人々によっては決して前進し
ない。今日、パウロに誤りがあったことを拒絶し、用心して熱心にただちに彼のことばの実現に
立っている、知性があり高貴な目的をもっている人々がいることに失望させられる。むしろ霊感
に関する支持できない論理を明け渡し、60代の世代の経験に彼らの目を閉ざすのである。
パウロと他のすべての使徒たちが信じたこの世が終わるという考えは誤っていたことを、190
0年間を通じて聖霊は人間の経験に証明されたが、ステパノのときのように常に聖霊に逆らっ
た誠実で名声のある人々がいる。
(訳者註:この議論はすでにペテロの時になされており、ペテロはこう指摘している。「・・終わり
の日に、あざける者どもがやって来てあざけり、・・ 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の
約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままで
はないか。」・・しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。す
なわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たち
がおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえっ
て、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての
人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:3〜9)」)
  一つの誤りが他の誤りに導くものである。
パウロがキリストの再臨について誤ったということが、結婚に関して彼の言うことを誤らせた。
パウロは結婚を軽んじた。彼は結婚が罪であると主張しなかったが、人が一人で安全に生き
ていくことができないほど情熱的である場合以外は結婚しない方がよいとアドバイスした。彼は
父たちに自分の娘に結婚をさせないようにアドバイスした。それらすべてのアドバイスは彼の
時は短いという思いに起因している。すべての物事が終わろうとしているときに結婚を考えるだ
ろうか?なぜキリスト者が家庭の責任に係わり、キリストの告白を含む婦人を悩みをもたらし
己の悲しみを増すのか、古い秩序がもうすぐ新しいものにその座を譲るときなのに?
(訳者註:パウロはこのアドバイスをした理由を、結婚すると配偶者のために心を用いるが、独
身ならば主に仕えることに専念できるからとしている。時が縮まっているから変化を追求しない
ようにとも述べているが、別のところで主の再臨が近いからとして仕事をやめている人々に、
仕事をするよう警告している。パウロは再臨の問題に対して、普通の生活をしながら主を待つ
ことを勧めたと考える方がよい。)
家庭の心配を何故重荷とするのか、大きい変化に対して備える十分な時間があったはずでな
いのか?前提を誤てば、私たちの結論は間違ったものとなる。パウロは結婚に関して誤ってい
る。そしてこの点で計り知れない害をなした。
独身の主張者はどの時代においても彼らの見解の聖域のためにパウロのもとに行く。優しい
両親はねじ曲げられ、聖なる結婚は危険にさらされてきた。そしてパウロの結婚に関する誤っ
た指導の為に多くのケースが破壊された。
しかし私たちは夫たちと妻たちに対して彼が述べた多くのことがらとか、後日夫と妻との結びつ
きによってキリストと教会との関係を象徴したことを忘れてはならない。
パウロは自分の意見や判断が絶対に正しいとは決して主張しなかった。彼の結婚を取り扱っ
た記事の冒頭に、彼はこういった。「さて結婚していない娘たちに関して、私は主から命令を受
けていません。私単独に、私の意見をあなた方に述べましょう。私ができることは私自身が思
っていることをあなたがたに伝えるだけです。(1コリント7:25)」
その記事の最後に彼はこういった。「以上は私の見解ですが、私は自分が神の御霊をいただ
いていると思っています。(1コリント7:40)」彼は彼のことばすべてが、永遠に変わることのな
い絶対に正しい見解であると、私たちに対して主張することを意図していなかった。
 時には不条理な議論、しばしば誤った見解、時折の不健全な判断、そして時にはキリスト者
にふさわしくない行為もあった。彼の気性は熱く、それを常に自制の下に保つことができなかっ
た。彼はエルサレムでの裁判で大祭司が傍らに立っていた人に囚人の口を打つように命じた
時、パウロは「白く塗った壁。神があなたを打たれる。(使徒23:3)」とやり返した。このことが
本当に罪であるか否かは疑問が残る。
私たち自身がこの種の応答を非常に多くしている。私たちはひとりの聖徒にそれが許されると
宣言されることを見いだすことを喜ぶべきである。ならずもの扱いされた時、ことばによって戦
うことはたとえ大祭司に対してでもよいことであると私たちは感じる。私たちは不義に対して怒
り、適切な会話をもってそれを訴える人物に感心する。私たちがパウロを正当化することは恐
らくなんでもない。私たちはパウロ自身が誤ったと感じ、直ちに謝罪していることを知っている。
彼は自分の非を認めるため聖書を引用している。
それが過熱してやり返したものであることを、彼は知っていたし私たちは知っている。彼はイエ
スのレベルよりも下であると感じた。イエスもかつて大祭司の前に立った。そしてそこに立って
いるとき裁判所の官吏によって口を打たれた。
しかし、イエスは打ち返さなかった。イエスが言ったことは、「もし私が言ったことが悪かったの
ならその悪い理由を示しなさい。もし正しいことを言ったのなら、なぜあなたは私を打つのか?
(ヨハネ18:22〜23)」だけであった。「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の
前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ書53:7)」
それが理想である。
イエスは子羊、パウロは獅子であった。パウロは怒ったとき吼えた。しかし長くは吼えていなか
った。直ちに鳩の声で自分の非を認め、自身をキリスト者の紳士であることを示した。
 彼は自分の内に偏狭さが造り出す棍棒を持っていた。彼の手紙の中のここかしこでそれが
私たちに鳴り響く。彼の意識は非常に強烈で、自分のことばを限界内に収めていくことができ
なかった。「犬に気を付けなさい。(ピリピ3:2)」彼の納得と違っている人々を心に思い描い
て、そのように彼はピリピの人々に書いた。
それはキリストの大使が使うのに相応しくはなかった。人々はいかにしばしば神のための聖な
る熱意の故に、彼の例に倣っていることであろう。彼のガラテヤ人への手紙の中で、「私たちで
あろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣
べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1:8)」と彼は言っている。最後のこと
ばを書いているとき、パウロは恥ずかしくなってそれを消したかも知れないと想像する。しかし
そのことばは彼が言いたいことにぴったりだったので、読者たちに彼が意味したことを分から
せるために再び全部書いたのであろう。パウロは「呪われている」ということばを非常に好ん
だ。改訳者たちはそれを好まなかったので、それを消し、代わりにギリシャ語で・・「アナテーマ
(呪われた人の意)」と書いた。ギリシャ語の音節の音色に不快さが包まれることの故に、その
方が響きがよいのである。さらにその上、読者の大半は「アナテーマ」の意味を知らない。だが
パウロは知っていた。
彼のコリント人への第一の手紙の終わりに、彼は筆記者の手からペンを取り、自分でこう書い
た。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。(1コリント16:23)」彼はそれを二つの愛すべ
き文章の間に書いた。「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。」と「主イエス
の恵みが、あなたがたとともにありますように。」である。ひとつアザミがふたつのバラの間に付
されている。パリサイ的な古い苦い雑草が、キリスト者の心の花の間に育っている。
「私はまだ完全ではありません。(ピリピ3:12)」と書いたとき、パウロは正しかったのである。


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