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        第2章 私たちが知っていることと知らないこと

あることは知っているがもう一つのことは知らない。知っているか知らないかの間の区別は、鋭
く、明確にしておくべきである。 私たちの知らないことを知っている領域に紛れ込ませること
が、私たちを愚かにする典型である。

もしも私たちが、自分が知らないことを知っていると思ったら、自分自身を欺いており、自分の
考えを台無しにする。
人々が、事実と空想をごちゃまぜにして主張するため、世の中は混乱に満ちている。
人々は自分が望むものを知らないとか知り得ないとき、彼らは推測によって代わりを探す。

世において主張されている知識の大部分は、推量と仮説に過ぎない。
パウロを親しく知ろうと試みるとき、私たちは私たちが知っていることと人々が推測していること
とを厳密に区別しなければならない。
推量は、あるときは害にならないが、また別のときには有害である。
ある推量は心情を歪めたり心を暗くしたりしないが、他の推量は心情を誤った道筋に導き、心
に偏見を抱かせることによって、正しい結論に達すること不可能にさせる。

私たちは、絶えずこれらの混乱を招き害を与える推測から自分を守らなければならない。

たとえば、ルナンがパウロを「醜い背の低いユダヤ人」と言った時、彼はそう推測していたので
ある。
彼はパウロが、背が低かったことも、醜かったことも知らなかった。
誰ひとりそれを知らない。
かつて知ることのできた人は誰もいない。
ルナンは著名な学者のひとりである。それ故かえって、彼は他の多くの学者たちと同じように
度を超えたことを言ったのであった。
彼は明らかにされている真実に自分を制限することに注意深くなかった。
彼は自分の著書のすべてに想像を織り混ぜた。
彼はパウロが好きでなかったから、彼のことを「背が低く醜かった」とした。
そのような方法で彼は他の人々も彼と同様にパウロを嫌うように導いた。
 他の人々はパウロは背が低かったと推測した。彼らはルステラの人々が彼をマーキュリー
(ギリシャ神話の神ヘルメス=伝令の神)とした事実が彼らの推測のもとである。
しかしルカは彼らがなぜパウロをその神だとしたかを注意深く私たちに語っている。
それは彼が語る中心人物であったからである。
彼らはそのひとの背丈についてではなく、彼の話す力について考えている。
同様にバルナバは背が高く威風堂々としていたと彼らは推測する。なぜなら彼らが彼をジュピ
ター(ギリシャ神話のゼウス=主神)と見なしたからである。
それはおそらくバルナバが賢そうに見え、何も語らなかったからであろう。
 パウロが、背が低かったと考えられるもうひとつの理由は、コリントの彼の敵たちが−−−
「彼の体つきは弱い」と述べていることである。
しかしこれを彼の姿に当てはめるのは適切ではない。 コリント人たちが指摘している方法によ
れば、背が高い人も弱いことがあり得る。また200ポンド(約91kg)の体重の人も同様であ
る。

パウロの敵たちは、遠くいる彼は吠る獅子のようだが、すぐ近くにいると彼は子羊のようにおと
なしい、と言った。

彼の肉体も彼の説教も、「面と向かってするときは無能だ。」と、彼らは言った。
ある人の敵のあざけりの上に立って大きな結論をするのは安全ではない。殊にそのあざけり
が本当に意味していることを明確に出来ないときはそうである。
コリント人たちの誹謗は恐らく彼の個性についての考えであって、彼の肉体についてでは全くな
い。

パウロが、背が低かったと推測する第三の理由は、2、3世紀に書かれた「パウロとテクラの働
き」と題する小説である。

この物語の中にパウロの肖像は、ただ初期に彼がいることだけが書かれている。
この肖像では彼をが「小柄で眉毛がつながっており、やや大きい鼻、はげ上がった額、がに
股、がっしりした体躯で、気品があり、時には人間のように、またある時は天使のような顔をし
ていた!」とした。
これは興味をそそるが信用できない。
誰かが死んでから2〜300年を経て書かれた物語を、彼の個人的な姿に関する要素を引き出
す確かな出典とすることは大変難しい。

もしもパウロがこの小説が言っているように見えたら、ルステラ人たちが彼を神だと思ったこと
は驚くべきことではないか。なぜならギリシャの神々はみな気品があり体格が良かったからで
ある。
がに股の神を想像されよ!

私たちは事実のみ真実としよう。
私たちパウロの姿について全く知らない。
1世紀に、彼をペンでスケッチしたり、ブラシで描いた人物は誰もいない。
後の世代の人々が彼を描いたが、彼らの作品は想像の産物であった。
それ故あたながたはあなたがたの望むとおりに考えてよい。
ラファエルはアレオパゴスに立つパウロを描いたが、彼を威風堂々とした姿の人にした。
それが何かいけないのか?
推測する権利は、すべての人が生まれながらに持っている奪うことの出来ない権利の一つで
ある。

私たちはパウロが体に悪いところを持っていたことを知っている。
彼はそれを「肉体にあるとげ」と呼んだ。
それが何であったか、知っている人はいない。これからも誰も知らないであろう。
もう2000年近く人々はそのとげがなんであるか推測し続けた。そして彼らは世の終わりまで
推測し続けるだろうということは疑いえない。

推測のリストは目を見張らせる。
てんかん、眼病、頭痛、歯痛、結石、痔、憂鬱症、らい病、神経衰弱、マラリヤ熱、ヒステリー症
など、他多数である。

ある地方で、彼の病気がてんかんであると推測された。そしてそれが識者たちと学識のある医
者たちによって事実として宣伝された。

見方を変えればそれは推測以外の何ものでもなく、しかもそれはまったく愚かな推測である。
医者はしばしば推測する−−まちがって。
もしもパウロがてんかん持ちであったら、その病気の独特の姿があって、世がてんかん症のパ
ウロの特有の概念をもっと持っていないのはおかしなことだ。
その人が死んでから何百年も経ってから、誰かがてんかんだったということは簡単なことであ
る。

ジュリアス・シーザーとマホメットとチャールズ・V・クロムウェルとナポレオン1世とがみなてんか
んであったとしばしば主張されているが、そのような主張には確たる理由が全くない。
これらの人たちのうち誰ひとりてんかんであったと考えられる十分な理由は存在しない。
これらの見解の一つが非常に多数回繰り返されると、世の中はやがてその見解を事実である
と認めてしまうのである。
もしパウロがてんかんであったら、ダマスコの近くで見た幻は妄想に過ぎないことになり、この
ようにしてキリスト教が真実であるためのもっとも強力な証拠を私たちは捨て去るのである。

しかしパウロのてんかんは推測である。
キリスト教は推測によって破壊されるべきではない。
パウロが慢性的な病弱者であったという推測も同様に存在する。
ベンジャミン・ジョウエットは学者であって、パウロを「ひとりのあわれな老人で、おそらく麻痺に
悩まされていて、神経質で傷つきやすいと人々が見ていた」と彼を描いたが、彼が知っている
十分な証拠は存在しなかった。
これは単なる空想である。そして伝える価値がないものとして捨て去られるべきものである。
コリント人への手紙第2に記述されている困難と迫害に耐えることのできた人は、弱々しく、よ
ろけて歩く病人の姿などどこにもない。むしろ極めて希な丈夫な肉体を備えた人であって、肉
体的に耐える驚くべき力を持つキリスト者のサムソンであり、人類史上類を見ない肉体的なス
タミナを表すことを与えられている。
彼が旅をしたマイル数を計算してごらんなさい。そしてその道路がどのような状態であったか、
彼の進んだ道が通じている地方の風土、1世紀の時代の旅につきものの疲労と欠乏を考えて
みるがよい。あなたがたはヘラクレス、私たちの競技のもっともタフな性格を持っているヒーロ
ー、の前にいると感じるはずである。

パウロは眼病だったと主張されている。
彼が目に何か問題を抱えていたと推測するのは、ただ二つだけ理由がある。
一つは審問を受けた際に、傍らにいたひとにパウロの口を打てと命令した大祭司を認識でき
なかったことである。二つ目はパウロがガラテヤ人たちに「もし可能であったなら、あなたがた
は自分の目をえぐりだして私に与えたことでしょう。」と述べたことである。

最初のできごとは何も証明していない。
認識できるであろうと思われる人を認識できないからといって、必ずしもその人の目がかすん
でいるとか、近眼であるとは限らない。

パウロは長い間エルサレムにいなかった。そして彼がアンナスを知っていたとかどこかで彼に
会ったとかいう証拠はない。
この議会での会合に、大祭司が公式の衣装を身につけていたか不明である。

おまけに、私たちは−−−「私は彼が大祭司であるとは知らなかった!」と言ったパウロの言
葉の意味も分からない。
恐らくこれは皮肉であろう。
パウロは皮肉を言いたくなるような雰囲気の中にいた。だから恐らく−−−「そんな残忍な命
令を出したのだから、大祭司ではなくごろつきであろうと思った」と言ったのである。
ガラテヤ人たちがパウロの自分たちの目を与えようと思ったということは、パウロが眼病であっ
たことを証明していない。
誰かが他の誰かを熱烈に好いたなら、彼は自分の目さえも彼に与えるだろうと言う。
それは最高度の献身の表現である。

ファーラーは非常に弱い病弱者のようにパウロを描いたとき、彼はそこ此処で受け身の行動を
とる人とした。
そして友人たちの案内と守りと彼の手を取って導く助けなくしては、通常の手段でそれをなすこ
とは不可能であったとした。彼は大胆な想像の犠牲者である。
パウロの視野に欠陥があったのかも知れないが、私たちはそれを知るよしもない。
ルカもまたは明らかにそれを知らなかった。
ルカはパウロが魔術師エルマに彼の目をいかにしっかりと向けたかを私たちに語っている。そ
れからパウロがルステラの足なえに彼の目をいかにしっかりと向けているかを語っている
彼は、彼が見ることによって恐怖で打ち、希望を感じさせることができたことは明らかである。
パウロがエルサレムの議会に直面したとき、ルカはパウロが彼の目を用いたことを印象づけ
た。
「彼は議会をしっかりと見た。」
彼は彼の一瞥によって彼らを恐れさせた。
 パウロは結婚していたか?
もし結婚していたら、彼がキリスト者になったとき妻を去らせたのか、それとも死別したのか?
私たちは知らない。
どちらが結論であるか何の証拠もない。
すべての答えは推測以外の何ものでもない。

パウロはイエスが生きていたとき会ったことがあったか?
答えることは不可能である。
この点における推測は殊に能動的である。もっとも疑いのない、もっとも支持される答えは、あ
るのは推測だけだということである。

パウロは牧会書簡を書いただろうか?
ある団体ではそうではないというのが流行である。
誰かがパウロはそれを書かなかったというとき、彼らは推測をしているのである。
彼らが、現在の形の牧会書簡は全部がパウロの作品ではないというのではなく、牧会書簡の
中に純粋にパウロ的な事柄ではないと疑われるものを一つでも見つけると牧会書簡はパウロ
が書いたのではないというのであるが、それもまた推測である。
現在生きている人で牧会書簡から、パウロ以外の人の筆になる文章を拾い上げることができ
る人はいない。
そのように主張された研究のすべては推測の産物である。
私自身がどう考えているかというと、私は三つの牧会書簡がすべてパウロによって書かれたと
思っている。
私はこの50年間にその問題について、発刊されたすべての重要な著作を読むことによって、
そして夏と冬の私的な期間を日々、1世紀の3分の1に渡ってその使徒と一緒に過ごすことに
よって、推理する私の権利を獲得した。

私は彼を知っていると言う権利を主張することをお許し頂きたい。
私は彼のアクセント、イントネーション、口調、小声での話し方、潜在的なマンネリ、彼の個性
の香りを知っている。

であるから私は彼を知っている。私は彼が牧会書簡を書いたと確信している。
私にとって彼が牧会書簡を書いたことは、彼がヘブル人への手紙を書かなかったことと同様に
確かである。
私は自分のパウロは牧会書簡を書かなかったと宣言するすべての大胆でもっとも研究をした
エキスパートな人々に対して大胆に私の推測を提供しよう。
人々が牧会書簡を投げ捨てるとき、彼らは確かな根拠のある推測をしていない。

それらを論争することが現在の流行であるが、その論争は過ぎ去ることを私は疑わない。

パウロはユーモアのセンスをもっていない、彼は自然を愛さなかった、彼は子どもたちを好か
なかった、彼は全体的に動物の感覚と同じであった、彼は芸術を評価しなかったとよく言われ
る。
これらすべては、私たちが持っているわずかで粉々になった素材から、理論家の願望によって
引き出された、多かれ少なかれ気まぐれな推測である。

ルカの視野の中にはパウロが何を好んだかはもちろん、何を好まなかったかを語ることは入っ
ていなかったし、13の短い手紙にはパウロ自身のことは何も示されず、ただ重要な霊的テー
マのみ書かれた。

これらの手紙には、ユーモアは許容されず、自然の情景を記述する余地はなく、芸術に関する
たわごとはよしとされず、動物や子どもたちを愛する表現は呼び出されていなかった。

沈黙によって示される賛意は、すべての賛意の立証の方法の中でもっとも貴重なものである。
私たちはある人が語らなかった物事によってその人を判定する権利はない。

パウロは自然の栄光に盲目であり、芸術の美に無関心であったかもしれないが、私たちはそう
であったかどうかを知らない。
まったくの推測に過ぎないことをもって、彼を非難しないようにしようではないか。
彼が笑わず、ユーモアのセンスを理解できなかったという可能性はあるが、しかしこれをもって
彼を責めることはできない。
私たちはそれを全く知らないのである。

彼はギリシャの学問に造詣が深かったのか?
彼はギリシャの詩、哲学や歴史に広い知識を持っていたのか?
私たちは知らない。
なぜなら彼は私たちに三つの異なる詩を引用しているが、私たちは彼がギリシャとクレタの文
学全体に精通していたかどうかは知らないからである。
ほとんどすべての人が、世に伝えられ、人類共通の所有となった詩の一行を引用することがで
きる。
パウロは手紙を書いたときギリシャの哲学や詩を取り扱わなかった。だから私たちは彼の文
学に関する教養が広いとも狭いとも言えないのである。
人々が彼を律法学以外の教養に無知であるというとき、彼らは全くの推測をしているのである
し、広く昔の文化に精通していたいう時も、同様にそれは推測である。

どうして私たちは知らないと率直に言わないのだろうか?

パウロは傲慢であっただろうか? 
多くの人々が、彼がそうであったという理由で彼を嫌う。
しかし彼らはどうしてそれを知っているのだろうか?
ある学者は彼が傲慢であったと決めつける。
しかし、いかにして彼らはそれを見いだしたのか?
「傲慢」というのは不愉快な言葉である。だから彼について確かな根拠がないならそれを使うべ
きではない。
パウロは第2次伝道予行にヨハネ・マルコを連れて行くことに関してバルナバと別れたという理
由でパウロは傲慢に振る舞ったと主張されてきた。

しかし彼はそうであっただろうか?
裁判において誰かが他の人と別れたからといってその人を傲慢だとするだろうか?
ある人の意見が他の人の意見と違ったからといって、その人の魂が傲慢であるとして有罪を
証明することはできない。
パウロが正しかったのか間違っていたのか知るものはいない。
私たちはすべての事実を所有しているのではない。
私たちが判断を下すとき、それが正しいことを示すデータに不足している。
パウロが悪く、バルナバが正しかったかったと考える理由それ以上存在しない。

バルナバの見識についてよりもパウロの見識についての方が、私たちにとって判断しやすい。
その理由はパウロの判断は新約聖書の中でより頻繁に示されていて、パウロは非常にしばし
ば彼自身が卓越した見識を示しているという事実がある。これは彼のヨハネ・マルコに関する
決定を非難することには注意をすべきだということを示している。

パウロがヨハネ・マルコは特別な旅行の効果的な奉仕を担う品性に欠けていると決めつけたこ
とによって、たちが悪く横暴な精神を示したのだとすることは単なる推測であって、その上に信
頼出来る結論を何一つ打ち立てることのできない脆弱なものである。

パウロが傲慢だったというのは彼を好かない人々の推測に過ぎない。

パウロの人生について私たちが知っていること、彼の品性について私たちが知っていることの
程度は、驚くほど僅かである。
私たちは彼がタルソの生まれであることを知っている。しかし彼の父とか母の、名も性格も知ら
ない。
私たちは、ルカによって記されたひとりの姉妹のほかに、彼に兄弟たちや姉妹たちがいたかど
うか知らない。
彼自身は自分の家族についていかなる言及も決してしなかった。
私たちが知っているのはただ−−「ガマリエル」−−という教師ひとりだけである。
私たちは彼の生涯の最初の35年間について何も知らない。
イエスは最初の30年間に1度だけ私たちに語られている。
パウロは全く何も告げていない。
彼の会話に従えば、およそ12年間の完全な空白がある。

これによると使徒の働きと書簡の中に、素早く、とびとびの17年間の彼の姿をちらっと見るだ
けであり、しかも使徒の働きの最後に来るとカーテンが降ろされて、私たちは闇の中に残され
る。

彼はローマの郊外、オスティア門から南へ2マイルのところで斬首されたというのが通説であ
る。
私たちはひとりの百人隊長と派遣された近衛兵のひとりが、野次馬連と一緒に付き添ったこと
を知っている。
では友人たちが彼と一緒に行ったかどうかは、私たちは知らない。
彼らは何を言ったのか?
彼の最後のことばはなんであったか?
語ることができる人はいない。
私たちはいつ彼が生まれたか知らない−−日も月も年も。

私たちは彼がいつ死んだか知らない、年も月も日も。
彼がそこで死んだと伝えられている場所にひとつの教会が建っている−−三泉教会が。

同じくローマ城壁外の彼が葬られたとの伝承の場所にも教会、聖パウロの教会が建っている。

彼の伝記は誰にも決して書くことができない。
私たちは十分には知らないのである。
しかし彼の品性は太陽のごとく明らかである。




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