第二十六章 イエスの偉大さ

 「その名は不思議と呼ばれる。」 ・・・イザヤ 9:6

 偉大とはなんだろうか?誰が偉大な人なのか?人の内にあって、その人にこの誇るべき特
質を与える独特の要素はなんであろうか?辞書は私たちの助けとならないであろう。偉大な人
とそうでない人との間に言葉の上で線引きをすることは困難である。歴史の女神は彼女がそ
の頭上に冠を置くにふさわしい人々をここかしこに拾い上げることに困難はない。歴史は大胆
な手を持って輝かしいリストに特定の名前を刻み、これらの世に不滅の名を尊敬するように次
の世代にうながす。偉大さの定義を書くことは困難であっても、人々の心に偉大であると数えら
れる人々を見いだすことは難しいことではないように見受けられる。
 私たちがこの不滅の仲間の顔をよく見るとき、私たちはその賜物と恩寵の多様さに打たれ
る。これらの人々のうちに、そっくり同じような二人はいない。ホーマー(ホメロス)はフィディアス
のようではなく、フィディアスはペリクレスのようでなく、ペリクレスはプラトーのようではない。ヴ
ァージル(ヴェルギリウス)はシーザーとは異なり、シーザーはダンテと異なり、ダンテはスキピ
オとかラファエロあるいはジャスティニアン(ユスティニアヌス)とは全く異なる。ゲーテはフレデリ
ック大王(二世)とは違っているし、後者はカントやヘーゲルとは違っている。そしてこれらの二
人はメンデルスゾーンとかビスマルクには似ていない。ナポレオンとラプラスとラシーンとパスツ
ールは皆違ったタイプの人である。
征服王ウィリアムはシェイクスピアのようでなく、バトラー司教はニュートンのようでなく、ウェリ
ントン公はグラッドストーンのようではない。フランクリンはワシントンとは異なり、リンカーンは
ロングフェロウとは異なり、フルトンとモールスは他のすべての人と異なっている。けれどもこれ
らの人々はみな偉大な故人たちの間にある。いかなる点で彼らは似ているのであろうか?ど
のような特質が彼ら全部に共通なのであろうか?そのような異種の集団にあって、彼らを同類
とするため何かの目印を見いだすことが可能であろうか?それは可能である。ものごとを達成
するための並はずれた能力を有したことがこれらすべての人々に共通の特質である。これら
の人々は皆、物事に耐え、事を行った。その後の世の中に、彼らと同じ仕事を成し遂げた人物
がいないのである。彼らは彫刻を刻み、絵を描きあるいは軍隊を率い、国を支配し、音楽を作
曲し、法律を定め、詩を書き、発見をなし、人々の生活と家庭を豊かにする発明をなした。彼ら
は価値ある何かを成し遂げた。彼らは世の人々のこころに印象を刻んだ。彼らの天才の産物
は、私たち人類の不滅の所有である。
 イエスは偉大であったのだろうか?彼は何を達成したか?いったい彼は何をなしたのか?彼
は一個の彫刻をも刻まず、一枚の絵画をも描かず、一篇の詩をも書かず、一曲の音楽をも作
曲せず、哲学の一体系をも組み立てず、一冊の本をも出版せず、一団の軍隊をも率いず、ひ
とつの議会をも導かず、一法律をも制定せず、一発見をもせず、一発明をもなさず、輝かしい
名の他の人々がなしたものごとを何一つ行わなかった。彼は冠を頂かず、笏を持たず、彼の
肩に紫の衣をまとわなかった。彼は教会にも国にも何の公職をも持たなかった。彼は、この世
の偉大な人々が彼らの冠を勝ち取った七つの分野である芸術、文学、科学、哲学、発明、政
治、戦争について完全に何もしなかった。それでもなお、誰でもイエスを偉大だという。今日、
彼を称揚する形容詞を拒絶する知識人はこの世のどこにもいない。彼は偉大であると数えら
れただけでなく、この世の大部分の地域で彼は最大であると数えられている。・・・彼はあまりに
も偉大であって、彼に比肩しうる人はだれもいない。チャールズ・ラムは私たち全部についての
感じをこう表現した。「もしもシェイクスピアがこの部屋に入ってきたら、私たちは彼に会うため
に全員が起立するであろう。しかしキリストがここにきたら、私たちは全員ひざまずくであろう。」
彼の偉大さは他のすべての人々に勝って偉大であって、しかも全く異質のものである。
 他の人々は芸術家、詩人、将軍、政治家などとして偉大であった。一方イエスは偉大な「人
間」であった。彼の偉大さは品性の分野の人格の領域ある。彼が成し遂げたものは、絵によっ
て、彫刻によって、剣によって、ペンによってなしたのではなく、勝利の意志による天来の奇跡
よってなしたのである。彼の人間性以外にはなにもないのである。彼は地のスパンコール(金
ぴかの衣装)を身につけなかった。私たちは、「この詩人、哲学者、将軍、政治家、帝王を見
よ」とは言わない。私たちは、「この人を見よ!」という。ある人は偉大な将軍であり得るかも知
れないが、偉大な人ではない。アレキサンダー大王は、大王というタイトルを、彼に対抗する軍
に対して、あらがうことのできない攻撃をする、彼の兵士の集合方陣を使うという才能によって
獲得した。ひとりの人間としての彼は弱者であった。壮年にならないうちに激情が彼を滅ぼし
た。皇帝ナポレオンは軍の指導者としては偉大であったが、ひとりの人間としては卑劣で軽薄
で狭量であった。彼は殺人者、強盗としては偉大であったが、人としては小人であった。偉大な
政治家たちが常に偉大な人々であるとは限らなかった。しばしば彼らは非良心的であったり、
臆病であったりする。彼らの内的な生活の全体の姿はその好みと情によって色あせる。それ
が彼らを端役や奴隷にした。この世の偉大な芸術家たちはみな男や女の恵みの中に王であっ
たり女王であったりするのではない。この世に不滅の業績を残した人々が、実は狭量で迷信
深く、利己的で、ねたみ深く、野望にどん欲であり、自分の目的にはいつくばったということを、
伝記を読んで見いだすことは、すべての驚くべき事の中で最も悲しいものの一つである。ひと
つのめざましい業績とか美しい働きの断片が、彼らの品性のみすぼらしさを飲み込んだのであ
る。
 イエスの偉大さは彼の精神にあった。彼の心情と彼の心の大きさは広大であった。彼の精神
は上品かつ堂々として高貴であった。
  彼の時代の指導者たちの上に、彼はなんとはるかに高くそびえていることであろうか!19世
紀前、パレスチナ地方には有名な人々がいた。イエスは、彼の国と時代のもっとも偉大な人々
によって自分の強さを評価した。しかし福音書に記されたこれらの人々はなんと欠けの多いこ
とが、いたるところで暴露されていることであろう。彼らは基本的な質問に口ごもり、批評的な
点にはためらう。彼らは自ら見通すことや習熟することのできない問題の迷路に自分を見失
う。イエスはすべての問題の核心、すべての状況の中心がなにかを見抜く目を持っていた。彼
は必須の点を逃すことや、付随的なことに導かれることは決してなかった。彼は魂にとって必
須のことを、付随的なものを取り除いて明らかにした。そして込み入っていたり複雑であったり
する物事も全く問題でなかった。彼は支配的な原理を捉えてすべてのものごとをはっきりさせ
た。律法学者とパリサイ人たちは彼と比較すると、真昼のまぶしい光の中で見えない目をもっ
て騒ぎ立てるフクロウであった。洞察は偉大さの特徴のひとつである。偉大な人々だけが物事
の深みを見る。質問によって彼を試み、わなに陥れようとした人々にとって手強いものとさせた
のは彼の洞察力であった。彼らは繰り返しそれを試みたが決して成功しなかった。彼は常に彼
らの機微の裏をかき、彼らが有利であったはずの試合で彼らを敗走させた。彼らが彼を一敗
地にまみれさせようとの意図を持って質問を用いて彼に押し迫るときはいつでも、彼はそれを
捉え、質問した人の上に焦点を転換し、彼は勝利の道を進んだ。彼らは、議論や主張におい
て彼に対して優位に立つことは決してできなかった。かつて生きていた人で彼よりも聡明な人
はいなかった。彼らが彼を攻撃したときはいつでも、彼の一撃が攻撃者を沈黙させた。彼の聡
明さは彼と格闘したもっとも鋭い知者たちにはるかに勝った。彼は頭の回りが速く、巧みで、機
敏であった。それでも私たちが彼について考えるとき、彼の聡明さについて考えない。というの
は聡明さというものは知性の閃きであるが、他の多くのひとびとのうちにある知性の輝きに私
たちは目をくらまされるからである。また私たちはイエスの持っている聡明さに印象を受けな
い。というのは彼の聡明さが彼の高貴さ、卓絶した人格のもっている輝きが結合した多くの才
能や素質のひとつにすぎないと思うからである。望みと理想について彼を彼の民の指導者たち
と比較することは、シャレー地方の農民たちが建てた山小屋とモンブランを比較するようなもの
である。
 彼の偉大さは弟子たちに対する彼の交わりにも現れる。弟子たちはすべて強く有能な人々で
あった。彼らは後に世をひっくり返した。しかし、彼らは彼らが主と告白する人の前ではみすぼ
らしい姿に見えた。彼らは哀れで救いがたいほど愚かであった。彼らは主の語る単純な物事
のあるものを理解できなかった。彼は彼らの上に非常に高く、彼らは彼のところまで登ることが
できなかった。イエスが繰り返しした質問、「あなたがたはまだ分からないのですか?」には哀
感がある。弟子たちの気性と野心はそれらの中でも最悪である。彼らは狭量で、ねたみ深く、
利己的であった。彼らは誰が一番高い席を占めるべきか論争しており、イエスの最後の夕食
の時においてなおテーブルの席を争った。イエスが彼らのことを「小さい子どもたち」と呼んだ
のも不思議ではない。なぜなら彼らはみなそうだったからである。彼らはその気性においても、
野心においても大多数の人々がそうであるのと同様に子どもっぽかった。彼らは年齢ではイエ
スに近かったが、その考えと目標、望みと理想においては、イエスと比べると赤ん坊の類であ
った。
 私たちが新約聖書を離れて地上の諸国民の間を歩いたとき、ナザレのイエスに比肩しうる人
物をいったいどこで見いだすことができようか?あなたがたは、イエスと結びあわせる価値の
ある名を、イタリア人、ドイツかフランス人、イギリス人かアメリカ人に考えることができるだろう
か?そのようなことは考えただけで身震いし尻込みする。偉大な人物たちが来ては去り、彼ら
は力ある行為をなし、不滅の名を残した。しかしいかなる人種いかなる国民もそのもっとも利
己的かつもっともうぬぼれてみても、たとえ自分たちの子らのなかで最も著名だとされる人であ
っても、イエスの王座のように高い王座に座るにふさわしいとは思わない。彼の魂は星のごとく
離れて存在した。彼は独一で近づかれなかったし、近づき得なかった。彼は比較しえない存在
であった。彼の名は不思議である。イエスがその達成したところの長さ広さ深さはいかに偉大
であったであろうか。偉大さはその生み出したところの効果によって測られる。人は姿とか肉
体的な特性をもって測ることはできない。あなたがたはある人が偉大であるか否かを彼の容貌
や肉体をもって語ることはできない。すべての人は肉体的にはおおかた同じである。彼らは同
じ欲望、感情、器官をもっている。彼らをくすぐれば笑うし、刺せば血が出る。人の偉大さがい
つもそのことばによって見いだせるとは限らない。すべてのひとびとが同じ名詞、形容詞、動詞
や副詞を使うからである。同じ文章が二人の人によって語られたとしても全体としてことなった
結果となる。ある人がそれを語ると、それは何の印象ももたらさない。そのことばはその生まれ
た瞬間に死んでいる。もう一人の人がそれを語り、それが心を燃やしいつまでも記憶される。
偉大さはことばにあるのではなくその魂のうちにある。人の行為さえも彼がどのような人物であ
るか完全には表さない。その行為においては偉大な人々も通常の人々と同じようである。どん
な人も、側近の人々にとっては英雄でないのはこのためである。側近の人々は主人のことばを
聞き、彼の身につける衣類を見、彼が食べるもの、彼が保つ契約を知る。そしてこれらを知る
とき彼の主人が英雄であると信じられないのである。従者の目は物事の終わりを見、従者の
心は効果や影響の足跡を測ることができる。彼は彼の主人が世の中で達成したものを知らな
い。彼が偉大であるかそうでないかを私たちが語るのは、その人の生涯の全体としての効果
である。偉大な人物はこの点で類似している。彼らは優れたものごとをもたらした。彼らが存在
するとき物事が起こり、彼らがいないときには起こらなかった。彼らは人々の思考の流れを変
え、世界に新しい流れを置いた。人々は彼らの周りに集まり彼らを批判し、彼らが不足してい
る点を拾い上げ、他の方法を持ってことをなしたならもっとうまくいっただろうにという。しかし、
批評者たちは死に絶えて忘れられ、偉大な人物は永遠に生きる。彼がどのようにしてそれを
達成したか、その結果はなにも語らない。彼がなぜそのように影響力を発揮したか、私たちは
決して知らない。偉大さの秘密は伝達できない。それは底知れない人格の深みに隠されて横
たわっている。
 もしイエスが、彼が及ぼした影響、そして今なお創造し続けているその創造によって判定され
たなら、彼の名は正真正銘の不思議である。彼の時代の人々の上に彼は目を見張るような力
を発揮したが、それは気味が悪いほどであり、魔術のようであったので、ある人々は彼が本当
に悪魔の世界の大きな力と組んだに違いないと思ったのであった。彼は人々に語るとき、理想
と感情とにあふれた・・・時には愛の感情に、また時には嫌悪の感情に。彼の存在の前に無感
動で立っている人はいなかった。人々は夢中になって彼のもとに行った。ある者は賛嘆して、
ある者は嫌悪して。彼はその行くところどこにおいても、沸騰してわきかえる人々を残した。数
人の人々・・彼の弟子たち・・が彼の近くに来た。弟子たちの上に、彼は彼の存在の根源を拡
大する影響力を残した。弟子たちの一人・・トマス・・は普段はのろく冷めていた。彼は燃えやす
いスタッフになれてはいなかった。彼は容易く感情を表さなかった。というのは彼の感情の傾向
性は強くなかったからである。しかしこの人物は、あるときイエスが危険のせまる場所に行くこ
とを示したとき、こう叫んだ。「私たちも彼と一緒に死のうではないか。」30歳で死ぬことは容易
いことではない。ふつうの人で、通常、太陽が絶頂期に至る前に死ぬことを望む者は誰もいな
い。しかしこの人トマスは、イエスの人格によってイエスと一緒に直ちに死んでもよいと思う人に
されていた。使徒たちは皆そうであった。二階座敷でペテロは、自分は牢獄でも死でもイエスと
ともにすると備えがあると強調して宣言した。ほんの二、三時間後に彼の勇気はしぼんでしま
ったが、その臆病さは一時のことに過ぎなかった。そして後になってペテロはイエスに宣言した
通りのことを行った。ペテロがしたことは、ただ一人ヨハネのみを除いて、弟子たち全部がした
ことであった。彼は、人の精神と心に強く作用し、彼らを喜んで彼のためにいのちを投げ出す
ようにさせる、本当に非凡なものをうちにもっていた。他の人のためにいのちを捨て、他の人の
ために生きること、彼のために不名誉とそしりに受けすべてを忍んで生きること以上に大きい
ことはない。ここに力の頂点がある。イエスは人々を変えた。彼らの習慣、意見、願望を変え、
彼らの気性と気質そしてその天性を変化させた。彼は彼らの心を変えた。彼らは己のすべてを
彼に明け渡した後は、決して以前のままではなかった。神と人、世と使命は彼らにとってイエス
の顔を常にみるようになった後は異なったものとなった。彼が行くところどこにおいても、人の
人生を変えた。彼はこころの泉をきよめることによって、人の顔を造りかえた。これは真に偉大
である。
 彼がパレスチナで行ったことを、彼はそれ以来ずっと行っている。彼の生涯の物語が語られ
るところどこにおいても、思想と感情の流れが変えられる。彼の名が伝えられたどこの地にお
いても理想と習慣が変えられた。世界の年数は、彼の生誕の日から数えられている。イエスの
刺し通された手が諸々の帝国の蝶番をとりはずし、歴史の流れを新しい方向に導いたとリヒタ
ーは、詩ではなく散文で綴った。このただ一人の人の影響力を考えることなく、あなたがたは東
洋と西洋の違いを説明することはできない。1500年前の中国の文明は、今日のそれと同じで
あった。社会と産業の秩序はこの期間変わらないままとどまった。そしてさらに1500年経って
も中国の社会は高められず、中国人の品性はほんの少しも耕されないであろう。1500年前
の北ヨーロッパは未開の地であったし、ブリテン(英国)の島も同様であった。この未開の地に
多くの野蛮人と言える種族の人々が住み、互いに戦争に明け暮れていた。彼らの多くはただ
野蛮人の勇敢さにおいてちょっぴり優れていただけであった。1500年を経過した北ヨーロッ
パとブリテン島は、今日に至るまで登り、登り、登り、世の頂上となった。一方中国はそのまま
とどまり、西ヨーロッパは上昇した。あなたがたがこの不思議な現象を熱心に分析するなら、あ
なたがたは中国人が孔子の顔を見つめ、西ヨーロッパ人はイエスの顔を見つめたという事実
を見落としてはならない。ナザレのイエスはヨーロッパを力の中心地に押し上げた。これはこの
世の歴史における重要な驚くべき事実である。
 ある人々は一時代の人々に対する影響力において偉大であるが、やがて彼らの力は衰え
る。彼らは一期間王座に座るが、やがて退く。イエスもそうであっただろうか?私たちはただこ
れのみを知っている。1900年間を通して彼はより増大する高さ、広さ、尊さにますます登り続
けているということを。彼の名は高く登り続け、太陽が東から昇ると星々を飲み込んでしまうよ
うに他の名の栄光を飲み込み続ける。今日彼の名はすべての名を超えている。私たちの世紀
はすべての世紀を通じて最大である。今日ほど人々がせっかちである時代はなかった。そして
過ぎさった時代の人々とは非常に違っている。そして今も尚もっともスリルに富んだ私たちの
時代の叫びは「イエスに帰れ!」である。それは世界中あまねく聞かれている。かつて人々が
「宗教改革者たちに帰れ!」と叫んだが、宗教改革者たちは十分ではなかった。それ故その叫
びは「使徒教父たちに帰れ!」となった。しかし、使徒教父たちは助けなかった。それ故その叫
びは「使徒たちに帰れ!」となった。しかし使徒たちはただ反射している光を輝かしているに過
ぎないことが見いだされた。そこで今、世は叫んでいる「イエスに帰れ!」と。「うまくやっていく
ために、私たちの暗い道を照らす光を得、私たちの複雑な諸問題を解く原理を見いだすため
に彼に帰ろう」と。過去50年の間に他のすべての歴史上の人物以上に多くのイエスの生涯が
記された。どの世紀のこの世の最も偉大な人物たちについてよりも多くのページが毎週印刷さ
れている。彼は非常に目を見張るような力を発揮したので、何らかの方法であるいは他のなに
かで永遠者に結びつくことによって人間を越えているに違いないと感じさせる。
 人々は言う・・彼は神の子に違いない。この国だけでも人々は毎年2億ドルを彼の名を広め
る協会を支えるために捧げている。彼らはそれをすることを強制されたのではない。彼らはそ
れを自ら進んでしたのであって、彼らがそうすることを望んだのである。その理由は、彼が彼ら
に作用して、彼らがそうすることを特権と思い、喜びとするようにさせたからである。ナポレオ
ン・ボナパルトがかつてこう言ったごとくである。「この人は1800年間目に見えなかったにもか
かわらず、いまだに人々の品性を万力のように保っている。」その小コルシカ島人はガリラヤ
の人の偉大さと彼の偉大さを比較してものも言えずに座した。ナポレオンの死後、伝記作家は
彼がヒーローとして上っていくことに2巻の書を記し、衰退し倒れる彼に2巻の書を記した。
 イエスの生涯に関するすべての書は、彼の登りゆく物語を記録している。彼は勝利から勝利
へ、栄光から栄光へと進みつづけ、人々の目が潔くなり彼らの心が清められ、彼らが、神はま
ことに非常に高く彼を称揚し、いつの日にかすべての膝が彼にかがめられすべての舌が彼は
真の王であると告白するに至ることを悟るのである。
 彼の偉大さは全天に満ちている。彼は完全であり、その完全さのうちに私たちは彼の美しさ
の説明を見いだす。彼のすぐそばに立った人々は、彼の愛に魅せられこころを揺り動かされ
た。彼は恵みと真に満ちていた。彼は人々を引きつけ魅了する魅力を持っていた。子どもたち
は彼が好きであった。少年たちは彼を讃美した。取税人たちも彼に魅せられた。彼は子どもの
心、女の優しさ、男の強さをもっていた。彼の生命の容積は十全であった。彼は永遠に至るま
で走る走路にそって見ることのできる目を持ち、もっとも外側の縁にいるひとびとをも十分にカ
バーする広い感受性を持っていた。彼はすべての地と時代を包含する目的を持っていた。彼
の王国は宇宙大であってその国は終わりがないのである。彼はいかなる点においても完全で
あった。彼の徳は完全に発達しており、彼の恵みは満開の花であった。あなた方が彼に何か
を付け加えることは、空に何かを付け加えるよりもできないことである。彼は人間の品性のす
べて
の良い姿を極限まで推し進めた。彼の赦しは限りがなく、彼の寛大さは倦むことがなく、彼の忍
耐は無尽蔵であり、彼の憐れみは計り知れなく、彼の勇気は無限であり、彼の知恵は測りが
たく、彼の親切は終わりがなく、彼の信仰は山をも動かし、彼の希望には陰がなく、彼の愛は
無限である。それゆえ彼を超えることは不可能である。私たちが彼に至ることは決してできな
い。彼は常に私たちの前方にいる。私たちは常に彼の声を聞く、「私についてきなさい!」彼は
心の理想である。彼は人間性の目標である。
 この彼の品性の完全さは、彼の美しさに数えられるだけでなく、彼の永遠に続く力の増大に
ある。彼は谷の百合であり、万人に超え、すべての人の愛する方である。彼は神の像である!

「もしイエス・キリストが人であったら、
 そしてただひとりの人であったら、私は言おう、
すべての人類のなかで、私は彼に信頼する。
そしてすべての道で私は彼に縋ろう。 と。 

「もしイエス・キリストが神であったら、
  そしてただひとりの神であったら、私は誓う。
天においても黄泉においても、
  地上でも、海でも、空中でも私は彼に縋ろう。」 
(完)



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