第二十五章  イエスの聖潔(神聖)

 「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める(有罪だと宣言する)者がいますか?」
 ・・・ヨハネ 8:46

 さてこの一連の説教中、私はここに来てはじめて、いままで使っていない他の語彙に属する
ひとつのことばを用いよう。勇気、謙遜、忍耐、均整、兄弟愛、怒り−−−これらすべては同一
のグループに属する。しかしあなたがたは、あなたがたが「聖潔(神聖)」という語を使用すると
き、その境界を越えて他の領域に入ることになる。私がこれまで使用した他のすべての語は、
地上の他の偉人にも適用できるが、「神聖」という語はただ一人にのみ用いられうる。偉大な
詩人たちの名の前に「神聖」を書き入れてご覧なさい。これらのことばを口にしてみなさい。「ホ
ーマーの神聖」、「ダンテの神聖」、「シェイクスピアの神聖」、「テニソンの神聖」。心はそれらを
嫌悪する。「神聖」という語を偉大な哲学者たちの前に書いてみなさい。「ソクラテスの神聖」、
「プラトーの神聖」、「カントの神聖」、「ハーバードスペンサーの神聖」。私たちの魂に腹を立た
せる何かがある。「神聖」という語を偉大な科学者たちの前につけて書いてみなさい。「ニュート
ンの神聖」、「ケプラーの神聖」、「パスツールの神聖」、「ハクスレーの神聖」、その語はこれら
の名を飾るには適さない。
ウェリントン公の神聖、ゴードン将軍の神聖、ウリッセス S.グラントの神聖、ストーンウォール
 ジャクソンの神聖といってみなさい。そこには再び何か抵抗を感じさせるものがある。非常に
偉大な政治家たちのまえにその語をおくことをためしてみよう。「ピットの神聖」、「カヴールの
神聖」、「グラッドストーンの神聖」、「ウェブスターの神聖」。ここにまたしても適切な語が使われ
ていない。しかしあなたがたが「イエスの神聖」というとき、それは完全に適切であると思われ
る。ここに歴史上この栄えあることばと結びつけることが出来るただひとつの名がある。
 「聖潔(神聖)」という語は何を意味するか?十全性、偏りが全くない完全を意味する。聖い人
とは、しみもしわもなく、傷も錆もない品性の持ち主のことである。イエスの無罪性について考
察しよう。私たちがイエスの無罪性について話す時、考え深い人はこう質問するかもしれない。
「彼には罪がないということを、あなたがたはどのようにして知ったのか?」あなたがたは彼の
ことばと行為に関する記事のみしか持っていない。これはすべての批評を越えるかもしれな
い。あなたがたは彼の心の部屋の中で何が起きたかをどのようにして知ったのか?彼のすべ
ての感情には罪がなく、ただのひとつの思いにも瑕疵がなく、こころの最奥の動機もすべて神
のみこころに従っていたということをどのようにして知ったのか?ここに完全に罪のない人がい
たとあなたがたがいったとしてもそれは推測の領域をでないのではないか?さらに事実私たち
は彼の生涯のほんのひと断片しか知らない。彼は33歳で死んだが、30年間は完全に空白で
ある。たとえ彼の公生涯は完全であったことに同意したとしても、彼がヨルダン川においてヨハ
ネによって洗礼を受けるために現れる以前の生活に関して、なんの根拠に基づいて語ること
ができるのか?彼が少年であったとき、青年であったとき、若い人であったときの生活がどの
ようであったかどのようにして知り得るのか?この全期間を通じて私たちにかろうじてひとつの
ことばが語られているのみである。「新約聖書中に記録されている彼が行い語ったすべてのこ
とが、神の目に完全に正しかったと、どうして確信できるのか?」と誰かが言うかもしれない。
彼がパリサイ人たちを公然と非難し、彼らに対して辛辣な非難を浴びせたとき、感情の行き過
ぎがなかったとどうしていえるのか?神殿から商人たちを追い出したとき正義と義憤の境界を
踏み越えなかったことがなぜ確かなのか?彼がいちじくの木を呪ったとき彼のことばに忍耐に
欠けるところがなかったのか?彼がスロ・フェニキヤの女を、子どものパンをとって犬に投げ与
えるのはよくないとの皮肉を持って追い払ったとき、彼の多くの同国人たちの名誉を毀損し恥
をかかせたのと同じ罪に有罪ではなかったのか?そして彼はすべての義務を満たしていたこと
がどうして確かなのか?たとえ非難すべき何かの罪を犯していなかったとしても、為さなければ
ならないことをしなかった罪がなかったとどうして言えるのか?義務は無限である。神に対する
義務があり、同胞に対する義務があり、自分の魂に対する義務がある。イエスは自分自身に
対し、人に対し、神に対する義務を完全な水準で満たしたとこの世の誰かが言えるのだろう
か?これらは自然な疑問であり、回答を求めるに値する疑問である。これらは、いつの世にお
いてもイエスの神聖の問題について考察するとき、思慮深い人々のこころに生じる疑問であ
る。これらの問いに対してまず言われることは、イエスの意識の中には、いかなる罪について
も自分が有罪であること示すものが全く見いだされないことである。後悔の痕跡はどこにもな
く、自責の念を示すものもどこにもない。最初から最後まで、彼はこころ澄み渡り、喜びに満
ち、確信を持ち、自由であって、罪の意識が投げかける曇りから遙かに遠かったことを、私た
ちはみることができる。現在誰でもイエスがよい人物であった、きわめてよい、類をみないほど
よい人物であったことに同意する。かつて存在したすべての人々の中で、彼は最も善良の人
物であったと認める。しかしひとたびこのことを認めたとしても、私たちはもっともっと遠くへ行
かなければならない。なぜなら人は真によいものとなるのに比例して罪に対して敏感になり、霊
的な感覚が鋭くなるのに比例して罪の意識がその人を妨げ身震いさせるものとなるからであ
る。もしあなたがたが欠点を悲しんで告白をしたとするなら、より悪いひとになるのではなく、む
しろよりよい人になるのである。ある人が霊的により高い位置に到達するにつれて、罪の知識
によっていっそう低くされるであろう。聖書を読んでみるとき、あなたがたは聖徒たちがその顔
を塵に埋めていることを見いだすであろう。イザヤは神の幻を見て叫んだ、「悲しいかな。私は
滅びるだろう。」ヨブは神の姿を見、自分自身を地に投げ出して叫んだ、「私は自分自身を忌
み嫌い、粗布と灰の上で悔い改めます。」愛された弟子のヨハネは言った。「もし私たちに罪が
ないといったなら、私たちは自分を欺いており、真実は私たちのうちにありません。」すべての
使徒たちのなかの最大の人物パウロは後悔の苦悩のなかで叫んだ。「私は罪人の頭です。」
ペテロは言った。「主よ。私から離れてください。私は罪深いものですから。」アブラハムから最
後の使徒たちに至るまですべての人物に例外は全くない。すべての心は詩篇のことばで叫び
出す、「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむ
きの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよ
めてください。」それ故もしもイエスが真にこれまで存在したすべての人の中で最もよい人物で
あり、かつ罪人のうちにとどまっていたとしたなら、彼は罪の意識をもったに違いない。そしても
し彼が正直な人物であったら、彼はその事実を自分のもっとも身近にいた人々に隠しておくは
ずがなかった。彼は悔恨の証拠を与え、後悔した痕跡を示したに違いない。悔恨と良心の呵
責の多くの証拠があったはずである。今までに使徒たちの中で、彼の唇から赦しを求める叫び
がもれたことを知った人は誰もいなかった。一方、次のようなことばを彼らに与えた。「わたしを
見たものは父を見たのである」、「わたしは常に父の喜ばれることを行っている」、「あなたがた
のうち誰がわたしを罪に定めるのか?」二、三時間後には死を迎える十字架の上においてさ
え、彼は神の顔を見て叫んだ。「わたしはあなたがわたしにお与えになった使命を果たしまし
た。」永遠の世界の白い光を放つしみなき輝きを見た他の人々は、灰の中に伏して悔い改め
た。イエスは同じしみなき栄光を見て言われた、「わたしはあなたがわたしにお与えになった働
きを完成しました。」これは驚くべきことであり、他にその類を見ない。他の人々に対しては「私
たちの負い目をお赦しください。」と祈りなさいと語った人がここにいる。しかし彼は自分に対し
ては決してそう祈らなかった。他の人々は、たとえ最強の人であっても、他の人々に対して自
分のために祈るよう求めた。・・・イエスは誰の祈りをも決して求めなかった。ではもしもイエス
の意識に耳を傾けることをよしとするなら、私たちはここに罪のなかった人がいたと告白すべ
きである。もし彼には罪がないのではなかったなら、彼はよい人物では全くない。なぜなら彼は
仲間たちから注意深く自分の人生の汚れた部分を覆い隠し、彼らを彼の本当の姿よりよいも
のと思わせたことになるから。それは彼が偽善者であったことであって、私たちの英雄は消え
失せるのである。
 しかしこれが全部ではない。彼は自らを他のすべての人々よりも計り知れないほど高く保っ
ただけでなく、罪を赦し、自らを権威あるものとして語った。そのような特権を発揮した人物は
だれもいない。最悪の罪人でも彼の足下において悔い改めた時、彼から権威ある赦しの保証
を得た。さらにその上、彼には理想とする人間はいなかった。すべてのよい人々は自分よりも
よりよい誰かを見上げるのである。イエスには見上げる人がいなかった。彼は自分をモーセよ
りも高くした。彼は言った。「ソロモンに優るものがここにいる。」彼は人々に言った。「私につい
てきなさい。私が模範である。」そして同じときに彼は言った。「あなたがたは天の父が完全で
あるように完全でありなさい。」これらの二つの勧めを結合することがあなたがたにできるだろ
うか?「私についてきなさい。完全でありなさい!」彼はこの点を決して譲らない、・・・彼は誰に
対しても自分とその魂の間に誰かを置くことを許さないのである。人にとっては彼のために死
ぬ価値があった。・・・その人にとってもっとも親しい友にも第二の場所が当てられるべきであっ
た。彼は第一の座を要求した。もし彼が真に完全であったら、これらのすべては正しいことであ
る。しかし、もし罪人が自分の罪を覆い隠しあるいは自分の罪に気づかないのであったら、「わ
たしに従ってきなさい。」といった宣言は、道に外れたことであって彼の主張は冒涜である。もし
彼が全く良善であったら、彼には罪がなかったのである。
 彼が他の人々に与えた印象について注意を払ってごらんなさい。彼に最も近くいた人々は、
彼には罪がなかったという思いを得た。彼がバプテスマのヨハネのところに来たとき、ヨハネは
彼から身をひいて言った。「私はあなたに洗礼を授けることはできません。あなたが私に洗礼
を授けるべきです。」それは何故?ヨハネは人々の罪のために洗礼を授けたのであった。彼
はイエスに洗礼を授けることができなかった。なぜならイエスには罪がなかったからである。イ
エスは彼に答えて、「わたしも罪人だから、あなたはわたしに洗礼を授けるべきである。」とは
言わなかった。彼が言ったのは、「いまは承知してもらいたい。すべての正しいことを満たすた
めであるから。」であった。洗礼が行われるようになった理由がある。・・洗礼には、罪の告白
の他にもうひとつの要素があった。ヨハネは最も愛された弟子であり、主の心に最も近づい
た。彼の第一の手紙の3章に、彼はこう言った、「彼が現れたのは私たちの罪を除くためであ
った。彼には罪が無かった。」それが、主が彼の心に与えた印象であった。ペテロは彼のもっと
も忠実な友であった。彼は3年間日夜彼と一緒にいた。彼の最初の手紙の2章に、彼は言っ
た。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」さてこれ
らの人々はイエスと一緒にいた。彼らはイエスと一緒におり、一緒に飲み、一緒に寝た。彼ら
はすべての条件下、すべての雰囲気の下での彼を見た。彼らは、イエスの空腹を見、怒るの
を見、断固としたときを見、驚くのを見、がっかりしたのを見、驚嘆したのを見た。それでも彼ら
はイエスには罪がなかったと信じた。ヘブル人への手紙の記者は4章に、イエスはすべての点
で私たちと同様に試みられたが、彼は罪を犯さなかったことを読者に思い起こさせている。そ
れは教会に与えた印象であった。復活されたあと、・・・彼らはイエスを神として礼拝した。もしイ
エスが彼らの上に、イエスは聖なるお方であるとの印象を与えたのでなかったなら、そのような
短期間に数多くの知性豊かな男女が、彼を神として礼拝し、彼に対して讃美をささげることは、
想像もつかないことである。
 それゆえここに私たちはイエスの冠である品性に到達する。イエスをこれまでに存在した他
のすべての人と別かつものはこれである。他のすべての人は後悔の痛みを知っている。他の
すべての人は赦しを求めて叫んだ。シモン・ペテロは記憶に悩まされた。彼は良い人物であ
り、偉大な人物であり、教会の倦むことのない働き人であった。しかし、彼は長年心に咎める
記憶につきまとわれ、ついに死を迎える時に言った。「私の頭を下にして十字架につけてく
れ。」彼がこういったのは、自分の罪を覚えているからであった。パウロは良い人物であり、偉
大な人物であった。しかし彼には罪の記憶がつきまとった。彼は日夜神のために働いた。しか
し教会の迫害者であったことを決して忘れることができなかった。そして彼は、自分は罪人の
頭であると感じながら天国に入った。白い魂、汚れのないいのち、しみのない精神、完全な心
の人はただ一人しかいなかった。この罪のないことがイエスに彼の力を与えた。あなたがたは
イエスが聖であることを知ることなく新約聖書を理解することはできない。彼の生涯は悩みと迫
害であり、果ては戦慄すべき死であった。しかしそれでもなお新約聖書は喜ばしい書である。
その中に憂鬱さはない。なぜならイエスのうちには憂鬱さがないからである。彼の魂は輝いて
いた。この世において罪以外に憂鬱を創造するものはない。私たちが恐ろしいと思うすべての
ことはとるに足らないことで、陰を投げかける力を持ってはいないのである。魂を衰えさせるた
だ一つのこと、それは罪である。彼には罪がなかったことが彼の喜びを説明している。彼は言
った。「わたしの外に父を知っている人はいない。」と。・・それはなぜか?なぜなら「心の清い
人々は祝福されている。なぜなら彼らは神を見るからである。」彼の心には汚点がなかった故
に、彼の曇りなく永遠者の姿を見た。彼は他の誰もが知らなかったほどに神を知っていた。こ
の汚点のないことが彼の魅力の秘密であった。彼は人々を彼のもとに惹きつけ、彼らは彼の
ことばに結びつけられた。彼らは彼らが憎んだ時でさえも彼に魅せられた。彼らは彼を恐れた
ときにさえも彼に引き寄せられた。シモン・ペテロは、「主よ。私から離れてください。私は罪深
い者ですから。」という言葉の中に、彼の心に入り来たった感情の葛藤を表現した。イエスが彼
に、わたしから離れていくかと問うたとき、彼は言った。「私たちは誰のところに行くことができ
るでしょうか。あなたは永遠のいのちのことばをお持ちです。」私たちがイエスに惹きつけられ
る理由は、彼の勇気、彼の共感、彼の忍耐、彼の兄弟愛のためではない。それは、彼が私た
ちよりも遙かに高い方、罪がない方であると直感的に感じるからである。キリスト教会に力をあ
たえるものはこれである。キリスト教会にはただひとつの完全な所有がある。それがイエスであ
る。教会の信条は完全ではない。その語句は人のまごまごしている思想の産物である。(現在
私たちが手にしている)聖書は完全ではなく、誤りのないものではなく、多くの瑕疵がある。教
会はそれ自体不完全であり、罪によっていく度も汚れている。しかし、教会の頭、ナザレのイエ
スには汚れがない。彼には罪がない故に、教会の勝利が実現するであろう。 もしあなたがた
がなぜイエスから離れる人々がいるのかと問うなら、それはイエスには罪が無く彼らには罪が
あるからである。あなたがたのうちのあるものは彼に興味をもたない。それは彼があなたがた
より遙かに高いところにいるからである。あなたがたのうちのあるものは彼に何の共感も持た
ない。それはあなたがたが全く彼に似ていないからである。あなたがたのうちのあるものは彼
のことばを理解できない。それはあなたがたが不従順だからである。あなたがたのうちのある
ものは彼に意志を行う思いを持っていない。それはあなたがたが罪の囚人だからである。しか
し罪なきキリストは私たちから離れて去ることはない。私たちがどんなに罪深くとも彼にとって
はなんでもないのである。彼は言う。「わたしのところに来なさい。わたしに来るものを、わたし
は決して拒みはしない。」彼自身罪がなかったから、彼は罪の中にいる私たちを憐れむことが
できる。そしてその汚れを洗い去ることをよしとされる。彼は世の罪を除く神の子羊である。


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