第二十四章 イエスの畏敬

 「聖名が崇められますように。」 ・・・マタイ 6:9

 畏敬(神を畏れること)を考察することに欠けたイエスの品性の研究は完全ではない。それは
すべての観察者の注目を惹く特質である彼の愛に、最も大きく寄与する特性のひとつである。
畏敬の定義を書くことは容易ではない。それは心が感じることができる何かであるが、知性で
は簡単に定義できない。私たちは畏敬がなんであるかを知っている。しかしそれを定義しようと
すると失敗する。それは尊敬、尊重、高い評価、敬意である。その通り、そしてこれら以上のも
のである。これらの薄っぺらで活気のないことばは「畏敬」ということばが語られるときに心の
感じるすべてを表現してはいない。畏敬の根底には尊敬と敬意がある。しかしそれは尊敬とか
敬意のまれな力の働きである。それは魂の深い動きである。それは尊敬とか敬意の平方(2
乗)とか立方(3乗)である。そして更に再び「畏敬」という語の中には、尊敬や敬意という語が
持っていない高揚がある。
 畏敬は、尊敬や敬意を高い高度まで揚げたものである。それは魂の動きの最も高貴なもの
のひとつである。そしてそれが、私たちが定義の網の目にそれを捉えようと試みるとき、難しく
する原因である。それは主従関係、敬礼、敬虔である。然り、それ以上の何かである。それは
畏れと恐れと崇拝である。然り、これらさえも内容を十全に告げてはいない。事実、畏敬は複
合された感情であって魂の感覚が混じり合って形成されている。その中に尊敬と愛着そしてま
た恐れがあり、これらに沿って依存の意識が結びあわされている。おそらく、旧約聖書のこと
ば「神を畏れる」以上によく畏敬の意味を定義する表現は無いであろう。イスラエルの賢者たち
は神を畏れることが知恵のはじめであると悟った。彼らの努力は人々に無限の力と知恵と良
善の神の存在の意識を持たせることであった。彼は高く聖なるお方であって永遠を住処とされ
るが故に、不注意や軽い考えで近づいてはならないのである。エルサレムの神殿は、人々の
心の中に神を畏れることを打ち建てる方法によって建設された。その建築物は常に、彼らに賢
くあるためには畏敬が必要であることを思わせ続けた。すべてのヘブル人が神殿の外庭に入
ることができた。内庭や聖所にはほんのわずかの特別な階級の人々のみが入ることができ
た。さらに再奥の聖域、至聖所にはただ一人の人が入ることを許されていた。そしてその人も
一年のうちの大いなる日のみにであった。この方法によって、神は威厳があり聖であって、遜
り、平伏する心によってのみ近づくことができるという基本的な真理が宣言されていた。この神
への畏れはイエスの内に大きかった。神は常に彼の目の前にいた。彼の魂には神の存在の
感覚が満ちていた。そして彼が語ったこと、行ったことは、すべてこの永遠者と友であり親密で
あるとの意識によって創り出された雰囲気に浸っていた。
 このことを描くことは容易いことではない。イエスの生涯全部がそれらの描写なのである。誰
も「見よ。彼はなんと神を畏れていたことか!」という以外に、なにかのことばや行為をそれら
から分けることはできない。人は間隔をおいて神を畏れることはできない。彼はすべての時あ
るいは全てに神を畏れていなければならない。もし彼が月曜日に神を畏れ水曜日にはそうでな
かったら、彼の月曜日の神への畏れはそういうふりをしているだけか偽っているのである。神
への畏れは衣のように着たり脱いだりすることはできない。それは正に魂の血液として駆けめ
ぐるのである。それを部分的にすることはできない。それはあたかも人格を取り囲んでいる大
気である。それは魂の常習的な習慣であり、固定された心の態度であり、神に対するすべての
流れの普遍の傾向性である。イエスが何を語り何をなしたかは問題でない。私たちは神を畏
れる人物の存在を感じている。皆さんが彼の畏敬のイラストを見たいなら福音書を読みなさ
い。
 イエスが常に他の人々に神を畏れるよう勧めることにきわめて熱心であったことは、彼にとっ
て神を畏れることは神聖で、無くてはならないものであったことの証拠である。彼は自分の所有
していないものを他の人々が持っていることを好むことはできなかった。「あなたがたは祈ると
き、私たちの父よ、あなたの名が崇められますように。」と言いなさい。恐らく主の祈りの中の
「あなたの名が崇められますように」ほど、非常にしばしば軽く口にされ、見過ごされる言葉は
他に無いであろう。それらは神の偉大な名と探し求められ待ち望まれている栄光の王国の間
の谷間に、そのまま置かれていた。私たちはそれらがほんの括弧書き程度であるようそれを
通り過ぎ、パンと私たちの最大の悲哀からの救いを求めるのに忙しい。しかしイエスはこの願
いを私たちのすべての祈りの先頭におくことに注意を払った。この願望無しには、私たちのこ
ころは祈りの雰囲気に欠けるのである。もしも私たちの最初の考えが神ではなく私たち自身で
あったら、私たちはイエスの方法に従って祈ってはいない。彼が私たちにこの嘆願を最初にす
るよう教えるとき、それは彼自身が常にそれを最初においたからである。彼の父の名が美しく
聖く保たれることは彼の最高の願いであった。「あなた方は祈るとき、まず」彼は弟子たちに言
った「神の名が、崇められ、畏れられ、聖く保たれるよう祈りなさい。悪い世の影響による汚染
からそれを隔離し、あなたがたの唇に登るすべてのことば、こころに抱くすべての思いからそ
れを分離しなさい。神についていかなる低いとか無価値であるといった考えは、イエスの思い
には嫌悪すべきもの品位を傷つけるものであった。常に神の栄光のためというただ一つの視
点で生き、彼はどこにおいてもそう語り行い生きた。それらのよい行いによって他の人々が天
の父に栄光を帰すためであった。彼の目の前に絶えず神を置き、彼はすべてのことに永遠者
との関係を見た。彼の人々への尊敬は、彼らがどのような人物であるかによるのではなく、神
の目に彼らがどのようなものであるかによった。彼らは神の子どもたちであり、彼らがいかに
貧しく品位の低いものであっても問題ではなかった。彼らは尊敬と名誉に値した。人間に対す
るどんな苛酷なことばもどんな薄情な行為も、イエスの心にとってはぱっと燃え上がる炎であっ
た。その理由は神の子らに対するそのような取り扱いは、彼の思いとしては、神ご自身への侮
辱であったからである。父なる神に対する彼の畏れは世をすべて聖とし、彼の創造者への尊
崇の故に、いかなる造られたものにも彼は背をむけることができなかった。「すべての人に親
切でありなさい。」が彼の弟子たちに対するいちばん最初の説教であった。その根底にはイエ
スの神に対する測り知れない畏敬があった。
 彼は彼の父のすばらしい名の宣言を、いかに注意深く考慮して話したかが明らかにされてい
る。彼の当時の宗教のリーダーたちは、特定の畏敬の形式を持っていたが、それは周囲に線
引きをすることであって狭いものであった。彼らは神の名の綴りを彼らの唇にのぼらせること
は決して無いことをもって敬虔とした。しかし他のことばの空白を埋めることをためらわなかっ
た。彼らは神の名によって誓わないけれども、神が作られたものの名による誓いに満ちてい
た。イエスの父に対する畏敬は、父が造られたものすべてに広げられていた。ユダヤ人たち
は、天を指して誓う習慣があった。しかしこのことはイエスにとって天は神が造られたものであ
るために冒涜であった。彼らはしばしば地を指して誓った。しかしこれはイエスにとっては、地
は神に属するため不作法にあたるものであった。しばしば彼らはエルサレムを指して誓った。
しかしこれもまた、その町は神が愛された町であるから許されるべきではなかった。彼らが自
分の頭を指して誓うなら、それもまた悪いことであった。というのは彼らの頭は全能者が造られ
たものだからである。ここに本当に感じやすい心がある。彼はそのように鋭く永遠の父の至上
の権威と威厳を感じている。すべての造られたものは父のみ顔の栄光を反射して輝いている。
そしてそれ故不敬に扱ったり、品位を落としたり、冗談に変えてよいものなど一つもないのであ
る。
 彼の神殿に対する敬意は確固たるものであった。その中のすべての石は彼に神を語り、庭
で執り行われるすべての儀式はその内に彼の心を満ち足らせ、慰めるものであった。神の栄
光を促進するために建てられた建物に対するいかなる冒涜も彼にとっては恐るべきもの我慢
ならないものであった。王の麗しさを見るために、目が開かれ、心を潔められたのはこの建物
のなかにおいてであった。それを取り囲んで聖なる会衆が集い多くの年々の楽しい記憶があっ
た。それはイエスにとって真の聖なる所であった。彼の同国人の多くがそうではなかった。道徳
が退廃していく過程において、神への畏れは一番はじめに失われる徳のひとつである。天国
の花はいやしく浅ましい冷たい雰囲気の中で咲くことはできない。金を愛することはイエスの同
国人の多くの心を食い尽くしていた。彼らは神に対してなすこと以上に利得に関心があった。
神に対しては何の関心もないのに、どうして神の宮に心遣いができるだろうか?彼らは神殿の
庭を市場に変え、讃美と祈りとをお金のちゃりんと鳴る音と牛の鳴き声に変えた。イエスはそ
れに耐えられなかった。他の人々はそれを耐えたかも知れないが・・イエスにはできなかった。
不敬虔は神を畏れる人の心には剣である。イエスが宮潔めを為して示したような感情の嵐をな
すものは誰もいなかった。傍観者にとっては彼が正気を失ったかに見えた。彼は一気に報復
の怒りに燃え、堕落した人々の前で彼らのコインが神殿の床に散らばり彼らの山羊や牛は通
りに追い出された。嵐の説明はこのことばの中にある。・・「わたしの父の家。」それは普通の
家ではない。それは神の家である。それは神を礼拝するために建てられた。それは神を崇め
るこころの聖所である。それは人々の悲しみと悩みを慰めるために意図された、まさに天の門
であった。「これらのものをここから持ち去れ。わたしの父の家を商売の家とするな。」彼の目
に燃える炎は彼の神への畏れであり、彼のことばにはダガーナイフのように刺し通す力があっ
た。
 イエスは神を崇めることを信じた。彼は常にこころの高い情緒を涵養し守る姿勢を保つことに
注意深かった。彼の儀式に対する態度は、しばしば表面だけを観察し、彼が行ったことの重大
性を捉え得なかった人々から誤解された。彼は、儀式の油を注がれた管理人たちであったパ
リサイ人たちと、たゆむことのない戦いをなした。彼は彼らの断食と献金と祈りと着衣の方法を
批判した。そして彼らのすべての生き方を譴責した。その故にしばしばイエスは儀式のなかに
いなかったと信じられているが、これは誤りである。イエスは形式主義を信じることはなかっ
た。形式主義は儀式の死骸である・・・いのちの霊はその中から失せている。イエスはどこで見
つけても死を嫌った。彼はそれに関するすべてのもののなかで、礼拝の儀式にそれをみること
を最も嫌った。礼拝は敬虔がそれ自身のなかに内蔵されている実体である。敬虔な魂が礼拝
の中に生きている限りその礼拝は意味があり美しい。しかしその霊が失われると、その礼拝は
堕落し腐敗したものとなる。パリサイ人たちの礼拝には神を崇める精神が失われていた。それ
は切られ、枯れ、死に、機械的で、心も魂も込められていなかった。それ故神とすべての正しく
考える人々にとっては嫌悪すべきものであった。神への畏れは美しく献げものはどのような形
がとられてもその中に敬虔が表されているなら美しい。しかしひとたび神への畏れが失われる
と、敬虔の形は死体のごとくなりそれを扱うすべての人々を汚すのである。イエスは儀式を信じ
た。それらは、正しく用いられるなら、いのちの管理者である。もしあなたがたが親切と礼儀正
しさの精神に生きることを保つことを望むなら、礼儀正しさと親切の形式を投げ捨ててはならな
い。もしあなたがたが愛の燃える炎をたもつことを欲するなら、愛を喜んで表現する形式を消し
てはならない。もしあなたがたが友情の精神を保つことを願うなら、そのすべての形式を確か
にあなたの宝としなければならない。彼は賢い人であって私たちの友情をかたく保つように忠
告する。これを行わない人々はついには彼らの友情は衰え過ぎ去るであろう。あなたがたが神
を畏れる精神に生きることを保とうとするなら、もっとも魂の内の精神を養い発展させることに
適切な儀式を用いるべきである。
  イエスは形式主義と熾烈な戦いをなしたが、彼は儀式に関する鋭いオブザーバーであった。
彼は安息日にはいつも会堂にいた。彼は礼拝の秩序に忠実に従った。彼は祈りを復唱し、讃
美歌を歌った。彼は聖書の朗読に聞き入った。彼がヨルダンの向こう岸で五千人に食事をさ
せたとき、彼は食べ物が配られる前に注意深く神に感謝を返した。彼はラザロの墓の前に立
ったとき、「出てきなさい!」と言う前に、まず祈りのうちに神を見上げた。二階座敷の中で彼は
過越の祭を見た。非常に多くの世代が過ぎた故、儀式は神聖で何一つ省略されなかった。イ
エスの魂は敬虔であった。彼にとっては膝をかがめることはたやすいことであった。神を見上
げることは彼にとって自然であった。彼は彼の父の顔を見、どの段階に於いても言った。「見て
ください。わたしはあなたのみこころを行うために来ました。ああ。神よ。」 従ってここに私たち
はその美しさに私たちがしばしば目をとめる徳をもつ。私たちは持っていなければならない神
への畏れに達していない。私たちは生まれつきにおいても訓練においても敬虔な人々ではな
い。年を経るにつれて敬虔が薄れてきたという人々がいる。年をとった人々は、確かな美しいう
やうやしい態度とすばらしい敬虔が、昔はもっと一般的だったといつも嘆く。アメリカ社会の広
い地域において、敬虔の精神が消え失せた。数多くのサークルの男女は賢く、面白く、輝いて
いる。しかし彼らは3次元の人生に欠けている・・・彼らは上方には達しない。彼らの会話は火
花を発する。しかしそれは浅薄でしばしばぶしつけである。彼らの会話は機知に富んでいる。し
かしその機知はしばしば高いこと、神聖なものを失っている。彼は彼の力を表すために、すべ
てのよい人々の賞賛を得たこれらのものごとを嘲る必要があることを見出した。誰かが現代の
私たちの世に入ったとき、上を見ることに欠けた多数の人々によって印象づけられるであろ
う。これらの人々の多くはものすごく熱心であって、世の悪しきものについて叫ぶのを見る。彼
らの共感は広く彼らの熱心は熱い。しかし彼らの頭上にある空をもたない。彼らの目的は天の
父の栄光ではない。彼らの内のあるものはナザレの人を崇めることを主張する。彼らはイエス
の品性とイエスの教えをほめそやす。しかし奇妙なことに、彼らはイエスの神への畏れを見習
わない。あるいはイエスの目が常に見ていた方向をちらっと見るだけである。あるものはこの
神への畏れが教会の中においてさえ欠けているのを見いだす。どの団体にも、神の家を路面
電車のごとく扱い、意のままにそこを出入りする人々がいる。生まれながらの教会出席者さえ
も、しばしば祈りの家における不敬虔な振る舞いによって人を驚かせ衝撃を与える。これらの
人々は無知でも未開人でもない。彼らはひとえに神を畏れる徳に啓発されていないのである。
  なぜ神への畏れが明らかな退廃の状態になったのか?それは私たちの聖書の読み方の不
適切さによるのか?新聞はつねに人間の天性の下劣な面を促進し、私たちをモラルの崩壊と
衰退へと呼び寄せている。そして恐らく変形された儀式が私たちの感受性の角を丸め、悪に親
密にならせる。そしてもはや高貴で高いものごとには反応しないのである。何を為すべき段階
だと・・あなたがたは思うのか・・私たちの神への畏れの欠落に対しては?非常に多く比率の祈
りが、適切なものと不適切なものとの境界の地を彷徨っていることは嘆かわしい。公然とモラ
ルに反する祈りはまだ耐えられなくもないが、最も一般的な祈りがしばしば俗悪な領域の縁を
巡る。劇場の観客は今風のセンテンスを好むように見受ける。そのため汚れた方向を見てお
り、偶発的な迎合を好み、狂気に引き込むものに注目する。私たちの想像力は、それがたど
る領域に関して、私たちの畏れの感覚が破壊されたために感じ取る能力を失って、恐らく非常
に粗雑になっているのである。
 私たちが誰かあるいは何かを恐れることを恥ずかしく思うために、神を恐れることが失せて
いくのであろう。恐れは神への畏れの要素の一つであって、そこにすべての畏れを色あせさせ
る一般的な印象がある。恐れには二種類がある、・・・一つは信仰による畏れ、そして信仰によ
らない恐れである。後者は恐怖を伴い蔭と冷たさを投げかける。
 しかしすべての恐れには、損なわれていない魂に、高さと聖さとの存在を感じさせるものがあ
る。もしも罪によって汚され傷つけられて朽ちていく人間が、聖なる神を思うことを恐れなかっ
たなら、それは感じる力を失っているのである。堕落し無感覚になった恐れがあるとしたら、同
様に潔く精神を高める恐れもある。主への恐れは人々の切望する徳であるのみでなく、それが
欠けたなら天使と天使の長たちとを不完全なものにする恩寵である。神への畏れは天の雰囲
気である。それゆえ天の父への畏敬の念に打たれて服従したナザレの人の畏敬に、しょっち
ゅう行こうではないか。 それが私たちの不敬虔を変えて、心からひざまずかせるもっとも容易
な方法である。


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