第二十三章 イエスの義憤

 「そして怒りをもって彼らを見回した。」 ・・・マルコ 3:5

 私たちにはイエスが怒ったと言うことをためらうある種のムードと感覚がある。というのは、怒
りはあまりにも一般的かつ人間的であるからである。私たち自身にとって目立ち狼狽させる品
性を、私たちはただちにイエスに結びつけることはできない。たとえば、イエスは怒ることがお
できになっただろうか?もしそうであったら、彼は驚くほど私たちに似ている。私たちの中で最
も謙遜で最も賜を受けていない人々も怒るという分野には長けている。怒る能力は、私たちが
赤子の時から私たちの内に明らかに顕した。そしてそれを常に使うことによって私たちはそれ
を発達させてきた。怒りほど普遍的で、容易に起こる感情はない。それらが非常に一般的であ
るので、非常に多くの点で私たちを上回る人にそれを帰することをためらわせる。しかしながら
私たち自身のように、多くのことが独一なのである。 さらにその上、怒りは私たちの心情の欠
陥と共に働く。私たち自身の怒りの多くは地のものである。それは血を沸き立たせ、容赦ない
激怒となり、善悪をわきまえない。しばしばそれはかんしゃく玉の破裂であり、神経のエネルギ
ーの爆発、狂気と境を接するある種の異常である。その興奮状態に私たちがいる間は、私た
ちは自分が怒るのは当然であると感じる。しかし血が冷めたとき、むしろと灰に座って後悔す
るのである。私たちは他の人々についても同様に怒りを認める。男も女も怒っているときは通
常よりも愚かであることを免れ得ない。この事実は私たちに深い印象を与える。大部分の怒り
は子どもっぽく、獣のようであり、激情と苦さに満ちていて、強く潔い人の経験としての座を占め
るには、はなはだ困難であることを私たちは認める。
  怒りはそれ自体、卑しく愛にそぐわない要素と混ざっている傾向があり、非常にしばしば魂の
底に潜む狂気をかきたてる。それはしばしば悪い品性と常に卑しい情熱の間に位置する。そ
れ故非難され、抵抗され、抑圧される。禁欲主義者たちはこう教える。怒りに動かされることは
弱さの徴であり、十分に成長した人に相応しくないものである。私たちは禁欲主義者たちの哲
学を受け入れているわけではないが、彼らが考察した結果として導かれた怒りについての評
価は、私たちすべてを動かしている。怒りにはなにか罪がその中に含まれている、あるいは怒
りが真に罪深いものではなくとも何らかの比率で愛にそぐわないものであり、行いの中の欠点
あるいは傷であり、品性のゆがみであって、愛あるものは祈りによって、美しさと良善へと、そ
れから救い出されなければならないという感覚から自由になることは容易ではない。この前提
の故に怒りの本質は罪であると思っている人々には、イエスが心に怒りもっておられると思う
事は不可能であろう。新約聖書がイエスが怒ったと言うとき、彼らはその文を急いですりかえ、
本来とは違った意味を与えてそれらが再び現れたとき彼の優しさと愛を示す句としてほっと安
堵するのである。怒りが罪深いとかけだものの感情であるとひとたび決めつけると、理想の人
物の肖像にそれを置くことを否定することになる。
 しかし聖書記者はストア派の哲学者ではない。彼らは私たちがとまどうとして気遣うハンディ
キャップは持っていなかった。彼らは彼らが見たこと聞いたことを明らかに記すことが必要であ
ると感じた。そして彼らはイエスがしばしば怒りに燃えたことを私たちに伝えることを率直に、た
めらわずに記述した。彼の譴責のいぶきは非常に熱く、その対象となった人々を驚かせ、酷評
したのであった。彼らは、非人情と不誠実に対していつもイエスの心が燃えたことを私たちに語
っている。彼らの同胞の福利以上に些細なことに関する規則に関心を持っている・・民衆の宗
教のリーダーと定められた人々を彼が見たとき、彼の目は聖なる炎に燃えた。かたくなな心の
故に彼が嫌悪した学者たちをゆっくり見回した彼の目の光りを、居合わせた人々は決して忘れ
ないであろう。彼はいのちのない解釈のまわりに積み上げたいつわりの教義、葬儀に出席す
る人々の偽りの嘆きを軽蔑した。死に関する聖なる神秘の存在する中で口にされる偽りの嘆
きに、義憤の抗議が彼の魂にわきおこった。残酷さとか悪巧みで世を暗くするいかなるもの
も、彼の魂に燃える目と敵意をもたらした。彼は神殿を冒涜することに怒らされた。讃美にも祈
りにも関心を払わず、ただ金にしか関心のない下劣な輩に、彼は心中の炎をほとんど使い果
たしてしまいそうであった。彼の前から逃げ去った堕落した人々は、彼の目から放たれる炎を
二度と見ようとはしなかった。神の名を崇める目的で建てられた建物が、商売の場と変えられ
ていたことは、彼の偉大な魂にとって非常に嫌悪すべきものであって、彼はそこを掃き清める
行動をとったが、それは彼の弟子たちを仰天させ、人々からかつて無いほどの反感を買うこと
となった。正しい怒りの力と心の義しさを経験したことのない人で、神殿を清めたことの意味を
理解できる人はいない。彼の唇から数多くのことばが話されたが、それらは1900年の距離を
おいてもなお熱烈なこころに燃えているのである。誰が金持ちとラザロのたとえ話を、聖なる叱
責の炎を感じることなく読むことができようか?彼のうちに火山の熔けた溶岩の存在を認める
ことなく、パリサイ人たちへの譴責を読むことができる人がいるだろうか?燃える怒りを持つこ
との出来ない人々で、聖書記者たちが記したようなことばを語ることが出来る者はいない。そ
れは人の怒りを越える憤怒である。新約聖書の目的のひとつは、私たちに怒りに関する新しい
啓示をあたえることである。怒りの能力をイエスから取り去ってごらんなさい。そうすることによ
ってあなたはイエスの福音を破壊するのである。彼の怒りは、彼が行った業をなさせた力のひ
とつであった。彼の燃える怒りは彼の品性の最も栄光ある姿のひとつである。もし彼が感情に
欠乏していたなら、彼がなしたように人々を揺り動かすことはできなかったであろう。もし彼の
情熱が強烈さを欠いたなら、世は彼を「主」とは決して呼ばなかったであろう。
 それゆえここに、私たちはイエスのうちに、ある種の相入れないものを見る。彼は子羊である
と同時にユダの族の獅子である。彼は母のように抱擁すると同時に雷のように打つ。彼は優し
いが同時に恐ろしい。彼は愛情豊かであるが、同時に一息をもってものを打ち砕く。どのように
して私たちは彼の怒りと彼の愛を一致させることができるであろうか?これより簡単なものはな
い。彼の怒りは彼の愛の産物である。彼の憤怒は彼の聖の顕れである。彼の憐れみは彼の
計り知れない怒る能力なしには意味をもたない。彼の義憤を取り去ってごらんなさい。それは
彼のホーリネス、彼の義、彼の憐れみと愛の基礎を打ち壊すことになる。愛と怒りは敵対関係
にあるのでもなく競争関係にあるのでもない。それらは常に共に働き、一方なしに他方はあり
えないのである。怒りに対する心の能力を理解できる人には、愛を理解することは困難ではな
い。愛する者が悪漢に対抗しているのを見て、彼の心の首座を軽蔑するであろうか?世のは
じめから愛は愛する者を攻撃する存在に対して静かな衝動に達しなかっただろうか?母親は、
彼女の子どもたちの間にあって優しく親切であるが、子どもたちに害を加えようとする敵の顔
に、激怒をもって復讐に走るであろう。彼女の怒りの大きさは彼女の愛の深さと熱さによって決
まる。それは最も熱い、他の人々の幸せを願う愛であって、火山の噴出物のように敵対するも
のを焦がす力である。愛の力と嫌悪の力は常に共に働く。正義があり悪がある時、正義は賞
賛され悪は非難される。譴責は、冷たくではなく、熱くなされるべきである。それは魂の力全部
によって実行されなければならない。地上で義憤として知られる天の火が心になければならな
い。それ故イエスの内に、私たちは普通の存在であり普通に感じるひとりの人物を見る。彼は
円熟しており、完全である。彼は魂のどの感情にも完全である。彼は心の園に、引き抜いてし
まうべき父が植えなかったいかなる植物の存在も決して許さなかった。全能者が私たちに授け
たすべての衝動、願望、情熱には、成し遂げるべき使命がある。いのちの仕事はそれらを抑
圧するのではなく、訓練することである。
 イエスは怒ったが罪を犯さなかった。怒りは、その熱によってすぐ限度を超える。すべての種
類の火と同様、それは危険で制御することが難しいものである。しかしイエスはそれを制御し
た。彼は言った、「ここまでのところ、もうこれでたくさんだ。」白熱し抵抗できない熱を持って燃
えるその怒りには、いかなる罪の要素も混入していない。私たちが非常にしばしば感じるいら
だち、心を引き裂き砕く憤怒、私たちが恥じ入る心の苦さ・・これらすべてはイエスの怒りには
存在しない。イエスの憤怒は私たちの世に知られている最も熱いものであった。しかしその怒
りが燃えている心に罪は存在しなかった。私たちの怒りはしばしば私たちの自分本位さの現れ
である。私たちは些細なことで怒る。路面電車が止まらなかったとか、誰かがうっかり帽子に打
ち当たってしまったとか、召使いががっかりさせたといったことで私たちはみな怒ってしまうので
ある。私たちの楽しみを阻害されたとか、権利を侵害されたとか、品位を侮辱されたとかで、私
たちはただちにひどく怒る。糸のほつれやひげそりでさえも私たちに怒りをもたらす。しかし助
けのない弱者に対して働く巨大な悪の存在にも、私たちのあるものは夏の朝のように静かにし
ている。悪人は、私たちの個人的な事柄を侵害しない限り、私たちを怒らすことはない。誰か
が他の人に悪を働いても私たちは彼らを許容し、情状を酌量して彼らをカバーしていう。「可哀
想な人々、彼らは罪に対抗しなければもっと罪を犯しただろう。彼らは時代が産んだもの、シス
テムの犠牲者だ。」と。こうして私たちはへつらいのほほえみと自己満足した顔をもって罪から
その悪さを取り去ってしまうのである。
 つまり私たちの怒りは、イエスのそれとは全く異なったものである。彼の怒りはその根底に利
己心を持たない。人々が彼を非難したとき、彼は冷静であった。彼らが彼について偽りを言っ
たとき、彼の脈拍は速くならなかった。彼らが彼の手を十字架に釘づけたとき、彼の顔を曇ら
す怒りの痕跡はなかった。彼の静かな唇は祈りを保った。「彼らをお赦し下さい。彼らは自分た
ちが何をしているか知らないからです。」彼が彼の兄弟たちが非難されているのを見たとき、彼
の偉大な魂に憤怒が生じたのであった。誤った取り扱いをされた望みのない人々のために、
彼の義憤の火はより熱くなった。貧しい人々を虐げる富んだ人々に対して、無知な人々に対し
て優位な立場にある知識人たちに対して、無実の人々に罠にしかける悪い人々に対して、彼
の魂は熱く燃えあがり不滅の権威ある記憶を使徒たちの教会にもたらした。無防備の人々に
働く残酷さを見たとき、彼の義憤は大暴風の波ように生じた。悪い者が無実の魂を罪に陥れよ
うという考えは、彼を暖炉の炎と変えた。彼の唇を通して語られたことばはなんと炎のつむじ風
のようであることか。「わたしを信じているこれらの小さいもののひとりを躓かせるものは誰で
も、その首に石臼をつけられて海の深みに沈められることが彼にとって相応しい。」事実、思い
やりはそのような稲妻のような心に存在する。
 それではもしも、私たちがイエスの怒りに醜悪と数えられるものがかつてあったと思っていた
のなら、私たち自身を探り、人がイエスのように怒りによって燃えることができるという考えを避
けるべきである。イエスのことばと行いに私たちが完全な正義の標準であると思っている事か
ら離れるものを私たちが見いだすときはいつでも、立ち止まって正義の標準を研究し刷新すべ
きである。なぜなら私たちが彼のうちの欠点と思うところのことは、私たち自身の限界の顕れで
あるかも知れないからである。もし私たちが、彼が燃える怒りのために誤っていることを見出す
としたなら、それは私たちの血気が失われていることから生じた私たちの批評であるにちがい
ない。もし私たちが残虐性や不義の存在に怒りに燃えることを欠くなら、それは魂の更に高い
機能が罪によって萎縮しているからである。もし木が燃えないなら、それは生木であるか腐っ
ているからである。もし心が悪人と彼らの悪い行為に対して聖なる火に燃えないなら、それは
その人の心が人の心が通常感じる事柄を感じることができるようになることに対してあまりにも
啓発されていないからであるか、よくない生活の基本的な行為によって心の核心部分が食わ
れているからである。
 私たちの怒りへの無能力・・・それは私たちの時代の嘆かわしい徴のひとつである。私たちの
多くが想像を絶する巨大な悪の存在の中で生ぬるく生きている。私たちのうちのあるものは無
関心である。悪しき行いに対する無関心は常にモラルの低下の徴である。もし私たちが悪党ど
もの所行に対して怒りに燃えないなら、私たち自身の内に同じような悪人がいるからである。も
し私たちの手が汚れていなければ嫌悪を持って汚職を軽蔑するであろう。健全な魂はいかな
る形の悪をも嫌い抵抗する。スポイルされていない心は、悪の力に対して怒りに燃えている男
のように現わされる。今日、正しい義憤の能力を強める以上に必要なものはない。聖なる怒り
に熱くされた心の中の心ほど雰囲気を明らかにするものはない。非常に巨大で、根の深い諸
悪がある。雷以下のもので、それらに打ち勝つことができるものはない。善人が雷を発しなけ
れば、悪人がさらにのさばる。善人が義憤に燃え、彼らを権力の座からたたき出すまで、罪人
たちがずうずうしくなり、悪をなす者たちが横柄に歩き、悪ガキたちが高い位置を占める。もし
私たちが真実に怒る力を持った男女を得るなら、社会はその汚れを清められるであろう。それ
ゆえ私たちは、日々新しい義憤によって、世を清めることを祈ろうではないか。昔のプルターク
のように「怒りは、魂の航海において帆をはらませる風のひとつである。」としよう。もし怒りが
完全にその働きをすることを許されたのであったなら、遙か昔に多くの旧式の帆柱の帆船も港
に到着していたであろう。善い人々を相応しい怒りから遠ざけておくことは悪魔の欺きである。
私たちはキリスト者が怒ることを許容するだけでなく、折に触れて、この火の波が自らの魂を動
かすことを許容することは私たちの義務である。マルチン・ルーテルは彼が怒ったとき、より多
くの業を行った。そして私たちの多くの業に対する歩みが鈍いのは士気の力の要素のひとつを
失っているからである。あるイギリスの賢人がこう書いた。「怒りは魂の力のひとつである。そ
れを欠く者は眠りこけた精神の持ち主であって、ヤコブの精神は萎縮し、その太ももは虚ろで
添え木を要する。」
 イエスの怒りのうちに私たちは神の属性に関する光を得る。この方の怒りは永遠者の心の
泉から流れ出ている。私たちはしばしば「子羊の怒り」を誇張だと思っているが、それはすべて
の聖書中の比喩的表現と同様に永遠に開かれている窓である。イエスの怒りは神の怒りの啓
示である。それは最も愛された弟子にとって意味深いものであった。その人は心の常に愛と優
しさについて伝えた。そのもっとも言いたかったことは「子羊の怒り」であった。彼が数年のイエ
スとの交わりを通して心に抱いたように、彼の前に繰り返し起きてきた一つの特徴があって、
それはイエスの怒りであった。彼がそれを語るとき、それは常に心をしずめる音節である。「神
は愛です。」と宣言した人は、「子羊の怒り」から私たちが逃げるように勧めた。
 新約聖書は栄光ある書物である。その行は真っ直ぐで、その区分は精細、そして真実をかき
鳴らす。それは感傷主義から完全に自由である。それは悪い人々の病的な好みを含まない。
それは言い逃れや情状酌量を取り扱わない。それは異常な優しさを持たない。世は感傷主義
者で満ちている・・・男も女も愛についてしゃべりまくる、しかし愛が何であるか知らない。彼らの
軽薄な弁論によれば、すべての悪い行為に対する非難は停止され、悔い改めないなら恥に圧
倒されるすべての悪い人も刷新されるという考えである。福音書の中には、柔らかいとか締ま
りがない、粉のようなとか粥状の感じ方はどこにも存在しない。すべては気高く直裁的で精細で
堅固で真実である。そのような空の下では、人生は威厳があり、荘厳で美しいものとなる。そ
れには奮闘し、労苦し、忍耐する価値がある。神が天におられると確信している人は、悪はい
っとき栄えるかも知れないが、神の心はそれに対して消されることのない火によって焼き払い、
そして偽りを愛しそれを為す者は黄金の通りと真珠の門の町の外に自分を見いだすことにな
る。



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