第二十二章  イエスの勇気

 「恐れるな。」  ・・・ルカ 5:10

  勇気について語る人は生きた主題を話しているのである。それは誰しもが驚嘆する徳であ
り、それはすべての人々がはじめから驚かされたものである。勇敢な人を称えない国は存在し
なかった。歴史上知られている時代で、英雄的行為が愛すべき貴重なことであると見なされな
い時代はなかった。古代エジプト人たちは勇敢さで栄誉を得、アッシリア人も、バビロニア人
も、ペルシャ人も、マケドニア人も、ローマ人も、そしてギリシャ人も同様であった。そしてまさに
その特性はイエスから数千年を越えて19世紀のボーア人に、20世紀の日本人に称えられ
た。それ故、私たちは勇気によって、特定の人種、特定の世代、あるいは特定の宗教によって
だけ認められるところの徳ではない徳を取り扱っているのである。
それは人間の魂の根幹的な特質のひとつであり、品性を形造る礎石のひとつであり、人間とし
て知られる素晴らしい存在の輝かしい特性のひとつである。勇気を欲しがらないなどという下
劣な人がいるだろうか?勇敢であることを誇りに思わないそんなに下劣なひとがいるだろう
か?私たちが英語で話すとき、人の心の中心を突き刺すたったの三語がある。一つは泥棒、
第二は嘘つき、第三は臆病である。臆病はこれらすべてのうち最も忌まわしいものである。
 それゆえ、私たちが理想的な人物に関して研究をするとき、私たちはその人が素晴らしい勇
気を示してくれていることを期待すべきである。そして事実私たちはそれを見いだす。ナザレの
イエスの内に私たちはその最高の勇敢さ、至高の勇気、雄々しさの頂点を見いだすのである。
 勇気にも異なった種類が存在する。私たちが肉体的な勇気とよぶものがある。それは血の
中を駆けめぐる、一種の本能である。この主の勇気は人間に限ったものではなく、けものたち
も同様に持っている。ブルドッグもそれを持ち、イタチも同様に持っている。それは人のあらゆ
る発達段階にもたれている。それは危険を顧みないことの一種であり、苦難や死にどう向き合
うかの概念である。しかしイエスの勇気はそれとは異なっていた。彼の勇気はより高く、より高
貴なものであった。彼の勇気は心情のそれであり、心の英雄主義であった。それは冷静で道
理にかなったことであった。彼は慎重に代価を数えてそれを支払った。彼の勇気は軍隊のそ
れではなかった。軍隊の勇気は世の中の勇気のなかでもっとも一般的なものであり、もっとも
早く育ったものである。軍隊の勇気は戦争時の兵士の勇気である。戦争の時には人々は集団
で動くが、その動きは非常に重要で彼らを前進させるのである。そこには精神を戦慄させ血を
熱くさせる興奮がある。人々は彼らの傍らで彼ら自身のものではない力によって動かされる。
戦争時の勇気は壮観で、戦いの装備は華麗であるため人の目に訴える。翻る旗、隊列と太
鼓、閃く剣、行軍する男たちの規則正しい足音・・・これらすべてが危険を顧みず死をも辞さな
い心の助けをする。こういった雄大さは普通のことであって、常にたくさん存在するのである。
もっとも低い民族でもそれを最も高い人々が非常に発展させたものと同じ勇気を持っている。
日本の軍人が最近の戦争で示した勇気を越えた勇気をあなたがたは決して持つことができな
いだろう。そしてその勇気はゲティスバーグで示された勇気を少しも越えてはいない。そしてゲ
ティスバーグの勇気はバンカーヒルやワーテルローの勇気を越えてはいない。そしてそれらも
テルモピレーの勇気を凌駕するわけではないし、かつてヘンリー・ハドソンが遡上した現在では
彼の名が付けられている川で、この地のインディアンが示した死を笑う勇気を越えてはいな
い。軍人の勇気はこの世のはじめから少しも前進してはいない。戦闘の時の勇気ははじめか
ら十分に姿を現し完璧であった。私たちの主の勇気は軍人のそれとは異なる。それは孤立し
ているなかで顕される勇気であった。彼と行進した人はだれもいない。彼はただ一人で行進し
た。パレスチナは悪で満ちていたが彼はただ一人で彼らを打つ勇気があった。不正はその恐
るべき頭をもたげていたが彼はただ一人それに抵抗した。偽善者たちが宗教を形式だけに作
り上げていたので、彼はただ一人それを突き刺した。彼はただ一人ブドウ絞り機を踏んだ。彼
が自分のもとに惹きつけることに成功した人々さえ、最後の時には彼を残して逃げ去った。彼
はひるみもよろけもせず言った。「わたしはひとりであるがひとりではない。なぜなら父がわたし
と一緒にいるからである。」 また偶発的な勇気と言えるものがある。・・・その勇気はなにか圧
倒されるような災害によって心から引き出される熱に浮かされたような瞬間に生まれるのであ
る。大火事あるいは大洪水、あるいは海での大事故の時に示される勇気がある。燃えさかる
ビルから男女を救うために自らの命をも危険にさらす消防士たちはなんと素晴らしい勇敢な行
為をしていることか。救命ボートに飛び乗り、怒る海から船員たちをすくい上げ、沈みつつある
船の船具に登っている彼らを救うことはなんと血を沸かせるスリルであることか。これは確かに
崇高な勇気には違いないが、平静な時の勇気と同等ではない。災害は血を熱し心の火を燃え
立たせて魂が偉大なことをすることを容易にさせる。しかしナザレのイエスの勇気は静かなあ
りふれた日々における勇気であった。その勇気は、血を熱くするもの、心情を高貴な雰囲気に
煽るものが何もないほこりっぽい道路に沿った時に顕された。
 もしもあなたがたがイエスを英雄として描こうとしたら、どんな状況の彼をスケッチするだろう
か?あなたがたは牛を追い払い、両替のテーブルをひっくり返し、鳩を売る商人たちに「ここか
らこれらのものを取り去れ」と言って、神殿を潔めた大いなる日の彼を思うであろうか?あなた
がたはエルサレムの通りに現れ、彼の執念深い敵たちである律法学者、パリサイ人たちと対
峙して立ち、1900年を隔てた今日でも雷のように焦がすことばを彼らに浴びせた時の彼を描
こうとするであろうか?あるいはゲッセマネの園で彼を捕縛するためにやってきた人々の一隊
をぎくっとさせ、「わたしがあなたがたの探している人だ」と言った彼を描こうとするだろうか?あ
るいはゴルゴタへの途上で彼の上に定められたことを嘆き悲しむ女たちに「わたしのために泣
くな。あなたがた自身とあなたがたの子どもたちのために泣きなさい。」と言われた時の彼を描
こうとするだろうか?これらすべての状況は描くに相応しく、わくわくさせるものであるとすること
に同意する。新約聖書のすべての読者はこれらの状況を捉え、決して忘れないであろう。それ
らのどれをとっても気高く麗しい英雄の姿を私たちは見る。しかしこれらは今私があなた方の
注意を惹き起こそうとしている情景ではない。
 あなたがたがイエスの心の勇気の挿絵を示すようにと私に求めるなら、私はすべての最初
に、彼を少年の時から知っている男女に対して彼の使命を最初に告げたナザレでの日にあな
たがたを連れて行きたい。それは彼らの感情を害することであったが、彼にとって必要なことで
あったから彼はそれらを述べた。彼は真理を説教したが、これらの人々の偏見と斬り結ぶこと
なしに説教することはできなかった。彼は静かに進んでゆき、真理を説いた。長年私たちが知
り尊敬している人々の心を離れさせること、彼らの友情に私たちが慰めと喜びを持つような
人々の尊敬と共感と愛から自らを切り離すこと・・・それは全く困難なことである。しかしそれが
その日ナザレにおいてイエスがなしたことであった。真理を率直に語ることによって、彼が育ち
大人になっていった際に彼の周囲にいた人々、彼のすべての地上の宝の最も価値あるものと
みなすべき人々の心情と心が、彼から疎遠になった。かの日の彼は勇敢な人であった。そして
ガリラヤ湖を渡った荒野においてわずかなもので食させた五千人の群衆に語ったカペナウム
の通りにおいても同様に勇気ある人であった。彼は真理を証しするために世に来たが、人々
はそれを受け入れようとはしなかった。彼の説教に、はじめは熱心であった多くの群衆も彼が
語りすすむにつれ去っていった。五千人は四千人に縮小し、四千人は三千人に減り、三千人
は二千に落ち込み、二千人は五百人になり、五百人は百人に、百人は五十人に、五十人は二
十五人になった。そしてこれらの二十五人も最後に二十人に、ついには二十人も彼の側に立
つ十二人のみとなった。その十二人さえもイエスが彼らに「あなたがたも去ろうとするのか?」
と問うほど意気消沈し、動揺していた。この世においてこれよりも困難なことがあるだろうか?
宗教の教師は、彼の語ることを聞く人々のその耳と心に喜びを見いだす。彼らを惹きつけ、彼
らに語り、彼らに霊感を与える・・・これこそ彼の栄光、彼のすべてである。しかし真理を語るこ
と、そして非常に気高い魂の気質を求めるその説教によって会衆はどんどん少なくなっていく。
それこそ正にイエスの持っていた勇気と同じ種類のものであった。カペナウムで彼によって示
された勇気は、どこにおいても示された。  世の機嫌を損ね、自らの地位と特権をかけて世
に逆らうことは決して容易ではない。イエスの時、人々は断食に非常にやかましかった。イエス
は断食の価値を小さく見積もった。それらは安息日の律法に照らし過度に綿密であった。イエ
スはそれらを守ることはできなかったし、それを保つことを信じなかった。彼らは座って食事す
る前に自分の手を洗う回数に几帳面であった。イエスはそのような仰々しい愚行のための時
間はもたれなかった。彼の時代の最も善良な人々は、ものごとを潔いものと汚れたものとに、
人々を潔い人と汚れた人とに分けていた。・・・イエスはそのような区分には目もくれなかった。
すべての人々は彼の兄弟であり、特権を失ったひとびとも彼の友であった。そうすることによっ
て彼は自分の評判を落とした。だれかそうする勇気をもっているだろうか?彼は当時の社会の
上流階級の人々によって打ち立てられていた慣習とは反対に進んだ。彼は永遠の律法のよう
に神聖なものと見なされていた風習を踏みつけにした。そしてその結果彼は注意人物とされ、
避けられ、嫌われた。しかし彼はそれ以上のことをなした。彼は多くの人々が彼について抱い
ていたよい見解を打ち壊した。彼が最初に現れた時の雰囲気は喝采に満ちていた。人々は約
束されたメシヤを彼の上に見た。その地は熱狂で燃え上がった。人々はある理想を持ってい
たが、イエスは彼らとは一致できなかった。彼らは目的を固めたが、イエスはそれらを実行で
きなかった。彼がその熱狂の炎に冷水を注いだ結果、それはだんだん小さくなり、ついには大
きな黒く焦げた灰以外何もなくなった。そして彼は人々から捨てられ嫌われたその灰の真ん中
に立った。自分の名声を捨て、人々に喝采される喜びを放棄することには格別の勇気がいる。
しかし彼はそれ以上に勇敢であった。彼は当時の上流社会からよい評価を得ることをあきら
めた。彼は敬虔で、宗教的であり、感受性に富んでいた。しかし彼にとっては真理であることは
語る必要があった。であるから彼はそれを彼らに告げた。それを彼らに言うことは、涜神の疑
いに自分をさらすことであったが、彼はそれを彼らに言った。彼は自分の義務をなすべきこと
を、たとえそうすることによって冒涜者、狂人、裏切り者と見なされる屈辱を受けることになって
もそれをなそうとした。
 もっとも気高い英雄のみがそのような試練に直面することができる。しかし私たちはまだクラ
イマックスには到達していない。人は自分の敵に対抗することは困難であるが、自分の友に対
抗することは一層困難である。自分に敵対する人々に抵抗することのできる人々はたくさんい
るが、彼らは自分の友人たちの意見や願いには抵抗できないのである。私たちの多くは自分
を嫌う人々の非難は受け流すことができるが、私たちによくしてくれる人々の優しい言葉には
ただちに負けてしまうのである。ペテロはイエスの最愛の友であった。しかしペテロがあるとき
イエスに「主よ。そんなことは避けるべきです。それはあなたに起こるはずがありません。」と言
った時、雷の光のようにすばやく答えが返された。「わたしのうしろにどいていなさい、サタン。」
ヤコブとヨハネが、自分たちには当然だと思った求めをイエスにしたとき、・・・イエスは言った。
「わたしは、それ授けることができない。」ユダは使徒仲間の最も信頼できるもののひとりであ
ったが・・・一行のお金を彼に任せるほど信頼されていた・・・しかしイエスが単純に真理と完全
な生き方を語ることによってこの人物に影響し、ついには彼が裏切り者になるに至った。あな
たがたのうちの多くが自分の敵に対抗できるに十分な勇気をもっているであろう。しかし、自分
の友たちの影響と望みに抵抗できる人はいったいどれだけいるだろうか?しかしあなたがたが
イエスの勇気の挿絵を望むなら、あなたがたは新約聖書全体をとらなければならない。なぜな
ら福音書のすべては一人の英雄の肖像画だからである。イエスの生涯の物語はかつて記録さ
れたすべてのもののなかでもっとも英雄的であり、自分の心の勇気を増したいと願う人は誰で
も日夜この書を読むべきである。顔を固くエルサレムに向けていたときの彼をご覧なさい。そこ
で彼らが彼を苦しめ、ツバキをかけ、殺すことを彼は知っていた。彼の友たちは彼に思いとど
まらせようと熱心であった。彼らは彼に引き返すよう働きかけた。エルサレムで彼のいのちを
多くのひとのための贖いとして与えることを知っていたので、イエスは固く自分を保った。今世
紀のイギリス人で最も著名な人物の一人、ロード・ランドルフ・チャーチルは、1891年に彼の
妻宛の手紙を書いたが、彼は妻に政治家を直ちにそして永久に辞めると語っている。彼は言
った。「どうみても、おそらく私の人生の3分の2以上は過ぎた。そして私の人生の残りを、自分
の頭を石の壁に打ち付けながら過ごそうとは思わない。」政治には何の同情もなく、迎合もな
く、記念も喜びもない・・・軽蔑と、悪意と非難以外には何もない。私は全く疲れ、それら全ては
死の病であって、もはや政治生活を続けるつもりはない。」何と自然であり、なんと人間的な響
きであることか!あなたがたは誰かがそう言うのを聞いたことがないだろうか?恐らくあなたが
たの何人かは自分自身そういっているであろう。あなたは何かの改革に従事した。そして讒言
(ざんげん)され、非難された。あなたは「私は疲れた。私は病気だ。」といいながらそれを止め
る。あなたは教会の働き人かもしれない。あなたは讒言され、挫折させられる。あなたは「私は
疲れた。私は病気だ。」といいながらあなたの働きを放棄する。なぜ人々はこう言うのか?そ
れは彼らが臆病だからである。臆病な人だけが屈服し、臆病なひとだけが疲れて病気になる。
イエスは自分の顔をエルサレムに堅く向け、十字架に到達するまで決して後ろを振り返らなか
った。前進していく彼を見よ。地の宝を踏みつけ、他の人々の心の熱望する野心を彼の足下
にし、名誉も人生の楽しみも塵芥として踏みつける。あなたがたがお金と時間をかける価値が
あると思うものごとのリストをつくってご覧なさい。だがイエスはそれらすべてを彼の足下にした
ことを。「わたしは父の喜ばれることを常に行っている。」といいつつ、彼は勝利の道をすすみ、
死に赴いた。 そして彼の勇気は決して行き過ぎることはなかったし、ずうずうしくなったり無鉄
砲になったりすることはなかった。ある人々はイエスが時には逃げ隠れしたのは欠点であると
指摘する。彼はへんぴな田舎に逃避したがそれは彼が臆病だからではなく勇敢だからである。
イエスが生きたような人生を生きることよりも死ぬ方が容易である。彼はしばしば敵たちの激
怒を逃れた。それは彼が世を贖い人々のこころに真理を打ち立てる目的でいましばらくとどま
ることを望んだからであった。幾千の人々が自殺してこの世を去る。彼らは臆病だからそうす
る。イエスは彼の業が完成するまで重荷を負い十字架を忍んだ。そのような気質を有している
のだから、彼がどの段階においても、彼がそうであるとおりの英雄のように振る舞ったことに私
たちは驚くことはない。兵士たちが彼をこぶしで打ち、平手で打ち、つばきをはきかけたとき、
彼は決してひとことも話さなかった。彼は静かにそれに耐えるほど勇敢であった。毛を刈る者
の前に沈黙する羊のように、彼は口を開かなかった。
 最後にポンテオ・ピラトの前に来たとき、彼が毅然と立っていたのでピラトは彼を畏れた。そし
てイエスが彼に「わたしは真理を証しするために生まれこの世にきたのです。」と言ったときこ
のローマ総督の心は動揺した。そしてついに彼らが彼を十字架に釘付けしたとき、彼が口にし
たのはただ「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわからないからです。」
だけであった。「もしソクラテスの生と死が聖人のそれであるなら、イエスの生と死は神のそれ
である。」と言ったルソーの不滅のことばは正しかった。


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