第二十一章  イエスの忍耐

 「いたんだ葦を折ることもなく」 ・・・マタイ 12:20

 私たちはイエスの忍耐について考えよう。最初に、この語の意味を扱うことがよかろう。もち
ろんだれでも忍耐という語を知っている・・・少なくともそう思っている。・・・そして非常に単純
で、私たちがよくなれている語であるが、誤って理解されており、私たちがそれを捉えようとす
ると定義しにくく、その意味を捉えることをあきらめさせる。それがその人のもっとも目立たない
徳であるかも知れないのに、忍耐は誰でも知っている語の一つである。私たちは、「私は忍耐
を完全に使い果たした(堪忍袋の緒が切れた)」、「そのような人に対する忍耐は持っていない
(そんな人には我慢ならない)」、「私の生涯でそんなに忍耐を試されたことはない」と言わない
だろうか。そしてもちろん、私たちは自分の言っている意味を理解している。では忍耐とはどう
いう意味だろうか?私たちはこの昔からなじみの深いことばにもう一つの意味を発見すること
であろう。ことばはしばしば星のようである。あなたがたは空に星が輝いているのを見る。そし
てその星はあなたがたの目にはひとつである。天文学者が望遠鏡を持ってくると、あなたがた
の驚くように、それは一つの星ではなく二つの星である。二つの太陽が互いの力で結ばれ青い
空の中に一点の光を造り出しているのである。全く同様に、スピーチの大空に星のように輝く
語があり、私たちが吟味するまでその語はただ一つに見えるが、その短い音節の中に二つの
意味が焼き付けられていることを発見するのである。この「忍耐」という語は、ただ一つではなく
二重の星である。真っ先にそれが意味すること、それは何かを望んで静かに待つことである。
この意味では、動物さえも忍耐という徳に恵まれている。猫がネズミの現れるのを待って何時
間も見張っているのを見よ。彼女は犠牲の現れる幸福な瞬間を待って、毛も滅多に動かさず
まばたきすらほとんどしない。その動揺せず待つという徳は人間の魂の偉大な徳のひとつであ
る。人はそれを多少にかかわらず持っており、ときには天才のレベルにまで登る。その魂に静
かな心で何事かを望み待つ忍耐を持っている人は祝福されている。私たちは人間の生涯のあ
らゆる分野にこの徳を見いだす。人はそれを用いて自分の幸せを建てあげる。ある人は自分
のお金を一区画の森林に投資するがその土地は長年彼に何の利益ももたらさない。木々は
小さく、のこぎりを入れるに十分な大きさになるには恐らく1世紀の3分の1はかかるだろう。し
かしその人は自分のお金を投資して静かに何年も待つ。それはやがて豊かな人生の終わりを
迎えることができることを知っているからである。
 しかしこの意味だけでは忍耐の重要性を言い尽くしてはいない。向こうの病気に苦しめられ
ている女をごらんなさい。彼女は長年病弱であったがその間大声で泣くことも、不平を言うこと
も、自分の定めに反抗することも決してなかった。事実ここに、先に述べた例とは異なった何
かがある。・・・私たちはまだこれを忍耐とは呼ばないが、私たちはその女を、驚愕を、そしてほ
とんど畏れをもって見る。そして言う、「私はこれまで生きてきたなかで、そのような忍耐を決し
て見たことがない。」と。あるいは大きな改革運動の先頭に立っている向こうの男を見てご覧な
さい。彼は教会、国家あるいは社会に何か力ある変化をもたらすことに熱心であって、どの段
階についても反対に遭遇する。彼はしばらくの間は前進するがやがて道は閉ざされる。敵は多
く、友は彼を見捨て、心は冷たくなり、彼は誤解され、誤り伝えられ、悪意をもたれ、嫌われる。
しかしそれにもかかわらず、彼は勇敢に進み、反対者にも不機嫌にならず、罵詈雑言にもめ
げず、決して不平を言わず、常に望み、批判する者たちにつぶやきも抗議もせず妨害と非難
を忍ぶ。ここにもまた忍耐がある。忍耐とは何か?苦しい試練をつぶやかずに耐えることであ
る。それならば、これらのふたつの考えは私たちのことば「忍耐」の限界内にある。先のもの
は、何事かを望んで静かに待つことである。第二は苦痛と困難を動揺せずに忍ぶことである。
それは魂の気質であって、耐え、待ち、望むことである。ある人は忍耐のうちの一つは持って
いるかも知れないが、他を持っていないのである。彼はなにごとかを望んで静かに待つ能力を
有するかもしれない。しかし、肉体的な苦痛や社会的な迫害の苦悩には全く耐えられないので
ある。体の病気にはまるで大理石の彫像のように静かにしているかも知れない一方で、いろい
ろな形での社会的な反対には恐れずに立っていられず、大きな目標の完成まで固く動かされ
ずに待つことができないのである。忍耐には様々な質と程度がある。あなたがたはヨブの忍耐
を聞いた。彼は歴史上不滅の実例である。しかしそれは如何に不完全であることか。彼の忍
耐は何かを望んで待つことであったが、静かに待ってはいなかった。彼の忍耐は悩みに耐える
ことであったが、つぶやくことを拒絶する忍耐ではなかった。彼は耐え、待ちつづけ、身を委ね
たにもかかわらず、彼の定めに悲嘆にくれ、わめき、金切り声を上げ、自分の生まれた日を呪
った。彼は自分の苦悩に沈みうなった。忍耐とはこころと魂を構成するところの忍ぶ気質であ
って、彼の非常に多くの不完全さにもかかわらず、忍耐のヒーローとしてのヨブの名は不滅な
のである。しかしもしあなたがたが、なんの表面の傷も内側の欠陥もない最高の力をもって高く
掲げられるその両方の形の忍耐を見たいなら、ナザレのイエスの内にそれを発見するであろ
う。
 もしも忍耐の意味が何事かを望んで静かに待つ意味であったら、イエスは最上級の程度で
それを所有していた。彼の様に待った人物が誰かいただろうか?彼はガリラヤの小さな田舎
町で、神が彼になすべく与えたことを感じながらその仕事に入る前に30年間待った。私たちは
これがいかに彼に価値あるものであったか自分自身に問うことをしない。私たちアメリカ人は、
諸国民のなかでもっとも忍耐できない民のひとつである。多くの若者たちを彼らの一生のため
に十分な備えをするために待たせることは困難である。教育を受けることを完成できないから
ではなく、仕事がしたくて忍耐に欠けるために、数千の少年たちが中学校の段階で中退する。
大学に入った若者たちの多くが一年生の終わりに、他の者は二年生で、更に他の者は三年生
で脱落する。学位を受け取る人は入学者の中のほんの一かけらである。アメリカの若者はそ
のようにせっかちであり、人生の荒波と戦いに飛び込むことに熱心である。それ故アメリカで
は、いかにカリキュラムを短くするか、成功と富を得ることを手っ取り早くできるようにするか
が、絶えず課題とされる。部分的な教育のみをするいろいろな種類の学校や研究所が生まれ
た。これらの学校は速く得ようとする忍耐不足の若者によって支援されている。さてこの性急さ
はしばしば、血気の旺盛さの顕著な指標となる。人々は生命力に溢れ、世の仕事を助けること
に熱心であり、伝統的な教育が持っているいつ終わるか分からないようなのろさに我慢できな
いのである。イエスにとっては物事の遅れは何を意味したか。小さな眠っているナザレで、彼が
なすべき壮大な事業を夢み、また巨大な競技場に立っていると感じて、彼の血はいかに沸き
立ったことであろうか。ひとびとが次々と彼の傍ら疾駆するとき、彼の魂は扇動され、彼もまた
急がなければならないという熱を感じていたに違いない。彼が夢見たものは何であったか考え
てご覧なさい。そうすればあなたがたはそれが彼を駆り立て、退屈で平凡なナザレでの歳月は
あきあきするほど長いものに見えたに違いないことを理解できるであろう。しかし彼は待った。
21歳の時彼は言った。いや、まだだ。25歳で、いや、まだだ。28歳で、いや、まだだ。20代
はもっとも血がたぎり、魂は行動にもっとも熱心である。イエスは燃えたぎる若い時代をすべて
ナザレで待った。彼は30歳になるまで、時が来たとは言わなかった。
 人は、30歳で人生の3分の1以上を過ぎたのであり、それ以後イエスは多くのなすべきこと
があったから、ただちに彼は洗礼を受け、早速彼の仕事に飛び込み、彼の時代の人々を仰天
させるほど力に溢れて仕事を推し進めたのであっただろうか。そうでもない。彼は彼の時代、
彼の世代の助けとなる最善の方法を静かに考えたのである。人々の指導者たちは、古来、国
の命運を左右した人物たちの方法を踏襲してくれる人物を捜し求めていた。剣という手段にた
よれば最もあざやかに実行され、軍事力は最も迅速に大きな結果に到達させることができ、政
治的な天才によって悪は打ち負かされて退けられることは誰の目にも明らかであった。イエス
はこれらの声を聞いた。彼らはあらゆる方向から彼のもとにやってきて彼の耳にわめいた。彼
は自ら高い山に登り、世の王国が彼のあしもとに広がって横たわって見えることを想像した。
彼は、彼の時代以前に生きた人々の使った方法を採用することによって、彼らが持っているも
のを得ることができることが分かった。しかし全体の状況を考えて彼は言った。「いや。わたし
は他の人々がしたことはしない。わたしはのろく骨の折れる方法を選ぶ。わたしは結び目を切
ってしまうのではなく、それをほどく。わたしは世を押すのではなくそれを引く。わたしは軍事的
手段によって世を従わせるのではなく、人の心の共感によってそれを癒そう。」と。彼の魂のう
ちに堅く打ち立てられたこの確信によって、彼はガリラヤにおける宣教を開始した。彼の周囲
に立っていた人々に対して彼は常にゆっくりであった。「どうしてあなたは進まないのですか?
急がないのですか?認められることをしないのですか?あなたが言おうと思っている事を全部
いったらどうでしょう?なそうとしていることを全部やってしまわないのですか?それをいましま
せんか?・・・これらは行く道に沿って彼の友人たちと敵たちみなが彼に投げかけた質問であっ
た。しかし彼らが彼に急ぐようにせきたてたとき彼は答えた。「一日には24時間あるではない
か?」とか「わたしの時はまだ来ていない。」と。その地に火を投じる代わりに、彼は自分を伏
せ、弟子たちを抑制し、彼の名を輝かせないよう努めた。病気の人々を癒した時彼は彼らに言
った。「誰にも言わないように。」
 山の上で弟子たちが彼のすべての輝きを見た時、彼は彼らにまだ誰にも言わないようにと注
意した。その結果、彼はほんの百二十人の弟子のみをつくってその生涯を終えた。これほど労
苦し、そんなに精力的に休む間もなく働いた人生の報酬は、なんとわずかであったことであろう
か!しかし百二十人の人々という状況は決して彼を失望させなかった。彼はこころから満足し
て死んだ。「元気をだしなさい。わたしはすでに世に勝ったから。」いつ?それは彼の死から百
年後でも千年後でも一万年後でもなかった。それにもかかわらず彼の声は勝利者の響きをも
っていた。すべての見えるところの、遅れ、後退にもかかわらず、結果は完全に確かであるこ
とを知っていたからである。ローマ総督ポンテオ・ピラトの前で彼は言った。「わたしが生まれた
のはこのためであり、このために世に来た。すなわち真理を証しするためである。」と。彼は自
分の業を成し遂げて死んだ。歩みはのろい。しかし彼の忍耐の心は未だ乱されてはいない。そ
して彼の栄光の王座から、彼はゆっくり進んでいる時代、彼に従う人々がわずかの努力でしか
ない忍耐と、いやいやながらの服従の心を見ている。しかし、どこかで彼の王国が打ち立てら
れ、すべての夢が満たされることを。それが忍耐の頂点である。
 しかしこれはイエスの忍耐を使い果たさなかった。改革者の道は決して平坦ではない。イエス
が歩んだ道は人間の脚がいまだ踏んだことのない最も茨に満ちたものであった。それは文字
通りの真理である。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかっ
た。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」彼の心に育った愛を持っ
て彼はエルサレムの戸をたたいたが、人々はそれをあけることを拒んだ。彼はナザレの戸を
たたいたが、その戸はいったん開いたが彼の面前で閉じられた。彼はガリラヤを巡り歩いた
が、町では拒絶以外のなににも出会わなかった。しかし彼は決して失望せず、決して不平を言
わなかった。彼の行くところどこにおいても、彼の敵であるひとびとに追いかけられた。彼らは
彼を陥れようとの目的で彼を見張った。彼らは彼を罠にかけようとして質問した。なんとか語り
手が誤りを犯すのを捕らえようと意を決して、すべてのことばを監視する人々のいるなかで話
すことはなんと困難であることか。彼が行くところどこにおいても彼の行為は妬みに満たされた
目によって吟味された。彼が行ったすべてのことは批評され、すべての行動は新たな非難の
嵐を巻き起こした。彼の敵たちは彼のまわりを、彼を刺す蚊の柱のように取り巻き、すずめば
ちの柱のように彼を苦しめた。・・しかし彼は決して不平を言わなかった。彼らは彼に文句をつ
け、非難の言葉を浴びせ、その地に彼に関する偽りの種を蒔いたが、彼は決して憤慨しなかっ
た。私たちは多くのよい人が、少数の人々に誤解されたことが原因で意固地になったことを知
っている。多くの善良な婦人が教会における彼女の仕事仲間との不幸な経験のために辛辣に
なった。このガリラヤの人は、誤解と忘恩と批評と非難以外にはほとんど知られるところがな
かった。しかし彼は決してつぶやかず、終わりまで朝明けのようにさわやかだった。彼が来る
ずっと以前にあるものがこう言った。素晴らしい人がやってくる。彼は苦難を忍んで決して不平
を言わない、と。このガリラヤの人を仰ぎ見て、彼らは偉大な預言者の一節を思いだした。「毛
を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。」
 もしもイエスが彼の敵たちに対して忍耐深くあったのであるなら、おそらく彼の敵たちに優って
彼の友人たちにも同じように忍耐深いことであろう。彼の友人たちは彼を理解しなかった。彼
自身の母と兄弟たちでさえ彼と共感しなかった。彼が身を捧げてご自身を与えた弟子たちは、
彼が彼らに語ったことの重大さを常に捉えそこなった。彼らは鈍く愚かで、狭量で、利己的であ
って、彼が語るべき大いなることを持ち得なかった。・・・しかし彼は彼らに忍耐深かった。地上
生涯の最後の夜においてさえ、彼が彼らに最後に語ったエルサレムの個人の家で彼らに会っ
た時に、彼らはテーブルの席順について争った。しかしこれさえも愛のこもったいさめ以上のも
のを彼から引き出すことはなかった。彼はただ水の入った洗い桶を持ち通常は奴隷によって
なされる彼らの素足の泥を洗い落とす仕事をした。・・・この行為によって彼がはじめから彼ら
に教えようとしたものはなんであるか教えた。それは一番大いなる者となろうとするならすべて
の人に仕えなければならないということであった。使徒マタイが彼の福音書のなかに記した旧
約聖書からのすばらしい引用文がある。それが、イエスが彼のもっとも近くに来た人々に示し
た印象に光の洪水を投じている。イエスが彼らの視界から消えた後に、彼の謙卑の時代(人で
あられた時)には決して理解できなかった彼の品性の麗しさが彼らの記憶に甦った。そして先
の時代の人が描いた理想の品性の麗しい姿の肖像画を、マタイはそれ以上にナザレのイエス
の肖像を顕すものはないとその中に感じた。すなわち「彼はいたんだ芦を折らず、くすぶってい
る灯心を消さない。」これが敵に対しても友に対しても彼が対応したところの彼の気質であっ
た。彼は自分の弟子たちに多くを要求したが、それらを全部一度に求めたのではなかった。彼
はいった。人が小さな信仰でさえも持っているなら、からし種のように小さな種であっても、その
人がスタートするに十分であって、この方法によってその人は奇跡の働きができるであろう、
と。偉大な人々はしばしば、弱い人々、能力のない兄弟たちに対して寛容でない。彼ら自身が
強いので弱い人々を思いやることができないのである。彼らの自身の概念が明瞭で、靄と霧
の中にまごまごしているひとびとの愚かさを忍ぶことができないのである。彼らは傷んだ芦を用
いることができず、くすぶっている灯心を彼らは軽蔑し消してしまうのである。しかしガリラヤの
人の忍耐は全く違っていた。彼は弱い人々に共感し、知的鈍さを考慮した。彼はモラルの未熟
さの存在を長く忍んだ。いたんだ芦さえも折ることなく、くすぶっている灯心を炎に入れて燃え
立たせた。 イエスが生き教えた時から、人々は神の忍耐について考えることを好むようにな
った。イエスに従う人々にとって、全能者は忍耐深い神である。彼は時代を貫いて走る遠大な
計画を持っていた。そしてかれはそれらが成就するのを喜んで待っている。人々は彼らのまわ
りの悩みと破壊、苦痛と悲哀を見て言う。「なぜ神は世をこのように作られたのか?どうして神
はものごとがこのように進行することに耐えられるのか?」彼らはイエスが忍耐深いこと、無限
に忍ばれること、人の心が明け渡され、彼らが従うことによって長く苦い夜が終わりをつげるま
で喜んで待つことを理解できない。彼は待つだけでなく、私たちの手の無礼さを怒って責めるこ
となく、私たちを弱らせることなく忍ばれる。私たちは忘恩で、無礼で、不敬で、反抗するかもし
れない。私たちはイエスが私たちに行うように求めていることを拒絶するかも知れない。そして
イエスの意志に反することをするかもしれない。私たちは自分自身を害し隣人を傷つけるかも
知れない。それにもかかわらずイエスは私たちを打ち倒すことはなさらない。イエスは私たちの
次の日をお与えになり、また次の日をお与えになる。そして言われる。「恐らく明日、罪は悔い
改められ、放蕩息子は家に帰るであろう。」と。



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