第二十章 イエスの謙遜

 「わたしは心優しく、へりくだっている。」 ・・・マタイ 11:29

 マタイの福音書11章にある素晴らしい節から始めよう。「すべて、疲れた人、重荷を負ってい
る人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優し
く、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうす
ればたましいに安らぎが来ます。」この宣言は福音書の中においてたぐいまれなものである。
他にそれに似たものは全く存在しない。それには限りなく貴重な一片の自叙伝である。イエス
が「わたしは忍耐深いから・・、勇敢だから・・、献身的だから・・、わたしのもとに来なさい。」と
言った記録はどこにもない。彼はこの徳あるいは恵みに他の人々が注意を払うようにとうなが
したが、彼自身については彼が謙遜である事実を明らかにしたのみである。この点において彼
は絵筆を片手にして言った、「わたしはこの色をわたし自身に塗る。」と。ある人々は非常にし
ばしばその文章に憤慨する。彼らは、イエスがそれを決して言わなかった、それはイエスに相
応しくない、彼はそう言えるはずがない、なぜならもしイエスがそういったら、彼の品性の傷を
明らかにしていることになるから、と宣言する。これらの人々は私たちに、人は自分を褒めそ
やすことはできない、じぶんを讃美する歌を歌うことは常に誤っているからだという。それは全
体としては真実であるかも知れないが、以下は公正な質問である。人が自分について述べるこ
とはその人の権利ではないのか?ある人にとって、なぜ人々が彼のもとに来て彼のレッスンを
受けるべきであるかを示すことは、相応しいことではないのか?私はそうだと思う。それがこの
瞬間にイエスがなしたすべてである。彼は言う、「わたしのところに来なさい。わたしにはあなた
がたに教えることがある。わたしはあなたがたに謙遜を教えたいから。」
 恐らくキリスト者の徳目の中の他のもので、このひとつほど非常に誤解されるものはないであ
ろう。他のものでそうしばしば誤り定義されたものはなく、他の恵みでそのように繰り返し偽物
がつくられ風刺されたものはない。私たちにとって謙遜ということばは何を意味するであろう
か?もしあなたがたが昔のアテネの通りに立ってその質問をすることができたら、人々はあな
たがたに謙遜とは、何か下劣で、臆病で、へつらい、卑屈であるものだと言うことであろう。謙
遜は卑しい精神であり、低く利己的なもの、奴隷の品性であると。もしギリシャ人が他のギリシ
ャ人に向かって謙虚だと言ったら、そのギリシャ人はそのことばによってののしられたのであ
る。すべての異教の世界では謙遜として知られる徳は存在しない。謙遜にはつねに何らかの
欠乏、恥ずべき事、悪事があった。 しかし私たちは謙遜によって何を意味するであろうか?
その質問はそうたやすく答えられないように見受けられる。謙遜はキリスト者の徳である ・・だ
れしもがそういう。私たちはイエスが謙遜であったことを知っているし、謙遜は彼が私たちに求
めたことをも知っている。私たちはイエスが昔のことばを取り上げ、それを潔め、それを愛すべ
きことばにしたことを知っている。しかしなおその意味の定義を問うとき、それをなすことはいか
に難しいことであろうか。謙遜とはなにかという質問の答えはなんと多様であることか!ある人
は言う、それはそのひとの美点を低く見積もることであると、他の人は言う、それは自分を小さ
くすることであると。他の人はいう、他の人々の存在するなかでの劣等感であると。他の人はい
う、それは不完全あるいは品徳が病んでいることの自覚あると。他の人は、それは柔らかさ、
受け身、喜んで従うことであるという。さてこれらの定義は、新約聖書の雰囲気の中にそれを
入れて見た瞬間、全部誤りであることがわかる。イエスが、従う者に求めた謙遜はイエス自身
も持っていたものであって、確実に彼の謙遜は精神の卑しさではない。彼の内には萎縮したり
卑下したりすることは存在しなかった。彼がこの地上を歩んでいたとき彼がなしていた以上に
自分の頭を高くした人が誰かいただろうか?この世は、そのように高く上げられ、君臨した精
神の人を知ったことがあったろうか?あるいは彼が彼自身を低く見積もったことはない。一方、
そのように高く自分を見積もった人がかつていただろうか。彼の述べていることに群衆は仰天
した。「昔の人によってあなたがたにこう言われている・・しかしわたしはあなたがたに言う」この
ようにして彼は自分をモーセよりも高くした。彼のいうことを聞きなさい。「ソロモンより偉大なも
のがここにいる、」「わたしはよい羊飼いである、」「わたしは世の光である、」「わたしは道であ
る、真理である、いのちである、」「わたしは上から来たものである、」「父を知っているものは子
の他には誰もいない、」「わたしは、挙げられたなら、あなたがたをわたしのもとに引き寄せ
る。」イエスの唇にのぼった謙遜は、ひとの力を低く見積もる事ではないことは確かである。そ
れで彼の言う「わたしは心優しく遜っている」の意味を正しく理解するためにもっと近寄ってみよ
う。
 イエスは彼の弟子たちに謙遜ということがらに関して三つの重要な課題を与えたので、それ
らに私はあなたがたの関心を呼び起こしたいのである。あなたがたはその最初の記録を、マタ
イの18章の最初の5節に見いだすであろう。ある機会にイエスは子どもを取り上げ、彼を真ん
中にして、言った、「誰であれ幼な子のように自分を低くするものは天の王国で偉大なものとさ
れる。幼な子のようにならないものは、天の王国に入ることは決してできない。」そのことばは
非常に頻繁に繰り返されたので、彼らの心の驚きは失せることがなかった。これはこの世の歴
史のなかでの偉大な光景の一つであって、オリジナルな光景のひとつである。それはアッシリ
ア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャあるいはローマの歴史にひとつも記されてはいない。それ
はユニークで、完全にオリジナルである。「誰であれ幼な子のように自分を低くしなければなら
ない」・・では、幼な子の冠たる品性はなんであろうか?それは教えられること、教えられやす
いこと、教えられることを喜ぶことである。こどもは知識に熱心である。彼は質問を絶やすこと
はない。彼は常に探求することを好む。彼はなんでも詮索する。彼はものごとの根源に行き着
くことを欲する。彼はいつもあなたがたにもうひとつ話をしてほしいと思っている。彼はただ彼の
問う質問によって半ダースのおとなを疲れさせる・・そのように彼は知識に飢え渇いている。こ
の教えられやすさが謙遜である。
 子どもは自己満足からだけでなく虚栄からも解放されている。幼子はその両親を虚しいと思
わない。彼はダイヤの飾りも絹の着物も、褐色石で飾った家も、乗り物も意に介さない。通りに
いるこどもにとっては、両親が、自分がダイヤモンドを持っていないのと同じように貧しくて、乗
り物をもっていなくても、完全に安心しきっている。虚栄から自由であるとき、同様に野望を持
たない。社会的な願望は何も知らない。子どもを英国の女王と自分の母親の前に置いたら、た
とえ母親が洗濯女に過ぎなくてもいつも彼女を選ぶ。・・子どもの心はそのように単純で美し
い。イエスが愛したのはこの子どもの心である。パリサイ人たちはそれを持っていなかったた
めにイエスは彼らを批判し叱責した。彼らは教えられやすくなかった。彼らはすべてを知ってい
た。彼らに何かを語ることができる人はいなかった。彼らは虚栄心に満ち、ラッパを吹き鳴らし
て彼らの飾りに注意を喚起した。彼らは挨拶して貰うことを好んだ。彼らは野望に満ちていた。
彼らは常に祭りの主席を占めようと自分を前に押し出した。彼らが謙遜でなかったのでイエス
は彼らと一緒にできることはなにもなかった。それにひきかえ、イエスはこどもの心を持ってい
た。福音書の記者たちはイエスの最初の十二年間に関することを私たちになにも語らない。し
かし彼が母の膝に座り彼女の唇から語られる知識を吸収した姿を思い浮かべることができ
る。ナザレの小さな学校で学び知識に飢え渇く彼を思うことができる。私たちは家に帰らず、神
殿で偉大な教師たちにもうひとつの質問をたずねるために居残った十二歳の時の彼をちらっ
と見ることができる。いつも彼は教えを受けることができる人であった。彼の内には尊大さや傲
慢な心情の痕跡がない。彼は常に神と語っており、質問を問い、新しい光を求めて祈ってい
る。彼は祈りなしに生きることはできなかった。祈りは謙遜のことばである。従順な心のみがい
つも祈る。私たちがイエスを祈りの人というとき、私たちは彼を心優しく遜った人といっているの
である。
 マタイの20章、25節から28節に戻ろう。イエスの弟子たちは、彼の訓戒や教えにもかかわ
らず、野心に満ちていた。彼らは皆一番であることを望んだ。彼らは上に登ることを望んだ。彼
らのうちの二人がイエスの王国での最高位のポストを求めた。イエスは彼らに、彼らの求めに
応じることはできないと言った。残る十人の使徒たちは、二人のやったことを聞いたとき、十人
とも憤慨した。これは彼ら自身が野心に満ちているためである。・・・彼らは彼ら自身がそのポ
ストを占めたかったのであった。イエスは十二弟子を側に呼んで言った。「あなたがたは異邦
人の君主たちが彼らの上に支配者であることを知っている。そして彼らは彼らの上に権力を振
るう。しかしあなたがたの間ではそうであってはならない。誰であれあなたがたの間で大いなる
ものであろうと思うなら、その人はあなたがたの間で仕えるものとなりなさい。そして誰でもあな
たがたのあいだで頭であろうと思うならあなたがたのしもべになりなさい。ここにわたくしたちは
謙遜の恵みに関するもう一つの知見を得る。謙遜は教えられることができ、虚栄や野心から解
放されているだけでなく、喜んで仕えることができることもそうである。謙遜な人とは自分をだれ
かの用に備えている人のことである。へりくだった精神の人は、彼の兄弟たちを助ける。そして
ここにもうひとつイエスが述べたことがある。「わたしは心優しくへりくだっているからわたしのと
ころにきなさい。誰であれ、頭となろうと思うならしもべになりなさい。人の子さえ仕えられるた
めではなく仕えるためにき、多くの人々のために己のいのちを与えるために来たのであるか
ら。これは彼の人生を彩るものではないのだろうか?霊感を受けた使徒はそれをこう語った。
「彼は行って善い業を行った。」彼は決して後援を受けたり、見下されたりしなかった。彼はた
だ助けを要する人々を助けただけであったから己を責めることはなかった。彼は自分の力を
低く見積もることはなかったし、彼自身を小さい者とか価値のない者とはしなかった。彼はただ
彼らによくするために来た。
 それがキリスト者の謙遜である。彼は二階座敷における彼が裏切られた最後の夜に、弟子
たちに謙遜の第3の課題を与えた。あなたがたはヨハネによる福音書の第13章にその出来
事の記録を見ることができる。弟子達はまだ野心に満ちていた。彼らは仕えることの喜びをま
だ学んでいなかった。彼らは自分の望む席を占めることができなかったのでいらいらしてい
た。そこでイエスはそのまま宴を進めることを喜ばれず、席を立ち、自分の腰にタオルを巻き、
洗い桶を持って弟子たちの足の汚れを洗い始めた。彼らの物わかりの悪さを知っていたの
で、イエスは自分のしたことの意味を説明して彼らに言った。彼が彼らに仕えるために奴隷の
仕事を喜んでしたように、彼らもまたお互いに喜んで仕え合うようにと。ここに再び私たちは謙
遜の真の意味を知るのである。それは自分の地位を脇に置き、自分を名声のないものとし、
喜んで自分を低くし、仕えることを喜ぶことである。なぜイエスはこのことをなしえたのであろう
か?ヨハネは私たちにそれをすばらしいことばで説明している。「彼は自分が神から出たもの
であること、そして神に帰って行かれることを知っていたので。」彼は自分が低い者と思ったの
ではなく、彼自身を小さい者としようとしたのでもない。それは彼が神から出たものであることを
知っていたからである。そして彼の高い地位の意識が洗い桶とタオルという奴隷の仕事を喜ん
でさせたのである。これがどこにおいてもつねに謙遜の秘訣である。人は神に近づくことなしに
謙遜ではありえない。永遠者を考えることによって他の人々が困難だの不可能だのいうことを
喜んでなすものとなるのである。私たちが神から出た者であることを知らず、神に帰ることを忘
れているので、私たちは地位、名誉、高い声望を得ようと骨折り、非常に横柄であったり大変
高慢であったり、みせかけの姿で満足するのである。神を信じている人だけが謙遜の秘訣を
所有しているのである。
 キリスト者の謙遜は、私たちがもう十分見ているとおり、なんとみじめな謙遜の風刺画に変え
られやすいことであろうか。この世でいわゆる謙遜と呼ばれるものの多くは全く謙遜ではない。
それは下劣、卑屈、卑しむべき、陰湿なもので、虚栄心と偽りの混合物である。自分は何にも
値しないという人々は、何事をもなしえず、なんの才能も持たず、何事をも知らない・・・決して
真理を語らないのである。彼らは真理を語る努力をしないし、真理を語ることを知らない。それ
は謙遜に変装した彼らのエゴイズムである。謙遜をまねた虚栄ほど、虚栄である虚栄の姿は
ない。イエスが望まれた謙遜は、イエスの生涯の中に実現され、それは力の姿である。力ある
人だけが真に謙遜であることができる。自分の権利を喜んで脇に置き、自分の力を用いること
を拒絶し、自分の栄光を求めることなく低いところに下る備えがあることである。イエスは常に
自分の権利を放棄した。彼は常に自分の力を用いることを拒絶した。彼は繰り返し彼の敵に
復讐する機会を持ったが、彼は非常に謙遜であったが故に、それを実行しなかった。十字架
に架けられたイエスを彼の敵はあざけっていった。「自分を救え。」と。彼が自分を救わないの
を見て、彼らは彼が出来ないのだと思った。そして彼らは私たちの忌み嫌うあざけりがでてしま
った。「彼は他人を救った。しかし自分は救えない!」しかし彼らは誤りを犯した。イエスは自分
を救う力を持っていた。彼はそれを用いようとしなかったのである。イエスは十二軍団の天使を
呼ぶことができたが、彼らを呼ぼうとはしなかった。彼は優しく謙遜な心であったから、彼の命
を多くの人々の贖いとして与えることを喜んでなした。パウロはこのことを考えたとき、それがイ
エスの最も神聖なものであり、彼の謙遜の恵みであると思った。パウロはピリピの改宗者にこ
のことを思い起こさせた。イエスは彼の高貴な身分にもかかわらず「自分を卑しくし、死にまで
従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての
名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にある
もの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「誠にイエス・キリストは
主である」と告白する・・・」と。




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