第十九章  イエスの喜び

 「喜び、この上なく喜びなさい。」 ・・・マタイ 5:12

 私たちはナザレのイエスを知ろうとしている!私たちの問いはただこれ一つである。彼はど
んな人だったのか?私たちは彼の人格とか思想を研究しているのではない。・・・私たちが知り
たいと願っていることは、彼がどんな人であったか、彼に会ったガリラヤとユダヤの人々の間
にどんな印象を残したかのみである。私たちは画家たちや私たち自身の想像によって私たち
のうちに造られている印象を捨てようと試みている。そうであった通りの彼を見ることは決して
容易ではない。彼と私たちの間には霧がかかり、彼の容貌は曇らされている。四福音書の記
者たちの描いた肖像画には埃が積もり、その人は私たちの目におぼろである。詩人、哲学
者、画家・・といったあらゆる種類の人々が、非常に多くの人間クモのようにその肖像画上に巣
を張り巡らしたため、私たちはそのクモの巣をブラシがけして取り除くまで彼を見ることは不可
能である。慣れ親しんだ讃美歌の歌詞に「私たちは主を見たい」とあるように、私たちは彼を陰
からお連れして、あるがままの彼を見たいのである。私たちがしていることは興味ある企てで
ある。というのはすべてのキリスト教会はその名をこの人から取っているからである。礼拝の形
式、政治体制、教義には各教会の間に幅広い差異がある。・・・多くの種類のプロテスタントは
互いに離れているし、カトリックは多くの階級があってそれらも同様にお互いに離れてい
る。・・・しかしこの一事、世の中のすべてのキリスト教会はこの人の衣にしっかりとすがりつい
ていることは特筆すべき事である。彼らは皆例外なくイエスを主と呼ぶ。彼らはみなイエスを完
全な生きかたの模範であるとする。彼らはいう。「イエスは私たちの模範である。私たちは彼に
よって表わされた品性を再現すべきである。」それ故、単に興味ある人物であるというだけでな
く、この彼がどのような人であったか発見する努力は、途方もない重要性を持っているのであ
る。もし私たちが彼についてねじ曲げられたイメージを抱くなら、私たちは己を傷つけ、世を失
う。私たちが彼をはっきり見、正しく理解する程度に従って、私たちの人生は彼に倣うものとな
り、神が私たちに望んでおられる姿になるのである。
 だからすべての詩人や哲学者たちを脇に押しのけ、私たち自身で質問しよう。ナザレのイエ
スが人々に与えた印象は、楽しげあるいは哀れっぽかったか、陰気であったかそれとも輝いて
いたか、喜びに満ちていたかそれとも憂鬱そうであったか?画家たちが与えた答えは疑いよう
もない。彼らはほとんど常にイエスを悲しげに描いた。彼らは十字架上の彼を描くことを好ん
だ。彼らは非常に憂鬱そうな目をして死に行くイエスを描いた。・・あるいは、もしも十字架上の
彼を描かないとしても、額にいばらの冠をいだき、ゴルゴタの階段で重荷に身をかがめ、十字
架に向かってゆく途上のイエスを描いた。世界中のすべてのカトリック教会において、あなたが
たは十字架の苦難の十二の絵を見るであろう。キリスト教歴史のイエスは、悲しみの人であっ
て嘆きをよく知っていた。彼の顔には悲哀があり、彼の心にはひどい心痛がある。キリスト教は
悲しみの宗教である、とゲーテはいい、カーライルはゲーテの判断を正しいとした。画家たちが
彼を悲しく描いただけでなく、私たちのイメージもまたそうである。私たちはイエスを考えると
き、十字架に架けられている彼を考えるのである。ホルマン・ハントによって描かれた素晴らし
い絵では、その上でイエスが死に行く十字架の陰が、エルサレムから末の世にまで投げかけ
られている。そのためその絵の中の十字架が、私たちの心に生きておられた当時のイエスを
印象づけるのである。・・私たちは常に十字架の上のイエスに陰を見、常に痛み悲しむイエス
を考えるのである。しかし私たちは画家たちに従っているわけにはいかない。彼らは後光のさ
しているイエスを描く。エルサレムで後光なぞ見た者は誰もいない。彼らはイエスの顔に陰りを
描くが・・あなたがたはパレスチナの人々がその陰りを見たと思っておられるか?私たちはそう
であった通りの彼を見たいのである。
 彼の当時の人々の上に彼が真に与えた印象を見いだすために、彼の敵たちが彼についてな
んと言ったかに耳を傾けることは有益である。もちろん彼の敵たちは歪曲されていない真実を
語ろうとは思わなかった。彼らは常に偽りを述べたことであろう。しかしその偽りさえも人を真
理に導く重要な手段であるのだ。証人を尋問する時、かたく沈黙を守られることほど裁判官を
困らせるものはない。たとえ偽りだけを述べたとしても、もしも証人が発言したなら、彼の述べ
たことは沈黙を続けるよりも物事を明らかにするのである。並べられた偽りは真実の方向を指
し示す不思議な手段となるのである。ある人が嘘をつき始めると、あなたがたが十分長く彼の
偽りを保っていることができるなら、彼はやがて何が真実であるか発見できる道にあなた方を
導くであろう。イエスの敵たちも同様である。彼らがあることがらについて述べたことは、私たち
がイエスの品性に関する信頼に値する知識を探求する上において、計り知れない価値をもっ
ている。彼らが述べた他のことの間に、彼らはイエスが食いしん坊だと断言した。もちろんイエ
スはそうではなかった。しかし彼らはそういった。さて食いしん坊は決して陰気でもなければ悲
しげな顔をした人物ではない。大食は快楽のひとつである。
人が食べ過ぎるのは過食が楽しさを与えるからである。大食漢はたいてい元気が良く活発で
ある。イエスの時代の人々が彼を食いしん坊と言ったとき、私たちは彼がその風姿も生活習慣
も禁欲主義者のようではなかったと確信してよい。もちろん彼は食いしん坊ではなかったが、
彼らがイエスをワイン浸りと非難したその事実は正に彼がどのような種類の人であったかを指
し示している。大酒飲みは通常愉快な人間である。ワインはその唇をほころばせ、いっときここ
ろに楽しさを与える。ワインの影響下にある人は非常に社交的で話し好きかつ愛想がよい。画
家たちの誰かが彼を描いたようにイエスがもし陰鬱で悲しげであったら、イエスの敵たちは決し
て彼を大酒飲みとはいわなかった。彼らはまたイエスを取税人や罪人たちの友と呼んだ。取税
人罪人たちということばによって、私たちはそれらの人々を教会に行かない人々と理解する。
イエスは教会に行く敬虔な人々と交っただけでなく、全然敬虔の念をもっていない人々とも交っ
た。彼らがイエスをこれらの教会に行かない人々の友であると宣告したとき、彼らにとっては、
イエスが教会に行かない人々たちと同じ種類の人であることを意味した。・・つまり「同じ姿の鳥
たちがいつも一緒に集まる。」というわけである。もしイエス自身が神を信じない心を持っている
のでなかったら、そのような神を信じない人々と決して交際してはいなかったであろう、と。その
ように彼の敵たちは決めつけた。もしイエスが無口で黙っており、愛想が悪く気むずかしかった
ら、彼の敵たちは陽気な人々の愉快な仲間であるとは決して言わなかったであろう。彼らの偽
りはもう一つの別の形でも示されていた。それではこれらの偽りの断片を俎上に置こう。さてそ
れらが指し示している方向はなんであろうか?それらは下劣な唇から漏れた誹謗中傷の断片
であるが、最も貴重なものである。それらは紛れもなくイエスがどのような人物であるかないか
を証明している。イエスは気むずかしくもなく、不機嫌でもなく、陰気でもない。
 彼の敵たちの証言を聞きながら、今私たちはそれらのことばのひとつをイエス自身に当ては
めてみよう。イエスは決して断食せず弟子たちにも断食は義務であると教えなかったことは、
パレスチナの敬虔な人々を非常に憤慨させた。断食はユダヤ教の要であると思われていた。
パレスチナの普通の敬虔な人々はだれでも毎週2回断食をした。断食は最も偉大な教師たち
によって決められていた。それはバプテスマのヨハネ自身によっても求められていた。
ある日幾人かの人々がイエスのもとに来、非難してこう言った。「何故あなたの弟子たちは断
食をしないのか?」イエスの答えは明快であった。彼は言った。「婚礼の席にいる人々は、花婿
が一緒にいるのに断食できようか?」これまで、あなたがたは「花婿」という語が使われている
ことに着目していただろうか?イエスは自分が花婿であると言っている。彼は人間の喜びの象
徴である語を捉えている。誰かにとってこの世における最高の喜びは、彼の婚礼の日である。
イエスは結婚の喜びの雰囲気に生きているといっている。そして彼の弟子たちも同様である。
それゆえイエスにとっても弟子たちにとっても断食という厳しく陰気な敬虔の古い姿をとること
は不可能であった。イエスは彼を批判する人々に、自分の生き方はバプテスマのヨハネの生
き方とは異なり、またパリサイ人たちの生き方とも異なるのだと言った。あなたがたは二種類
の敬虔を混ぜ合わせることはできないし、二つの生き方の形式も混ぜ合わせることはできな
い。あなたがたにひとつふたつの描写を示そう。かれは言った。「人は古い衣類に新しい布切
れで継ぎを当てはしない。なぜなら新しい布きれが古い布きれを引き裂きその結果いっそう悪
くなるからである。古い形式の敬虔にわたしの生き方を継ぐことはできない。二つのものは一
緒に保つことはできない。強い方、それはわたしの生き方だが、弱い方である古い敬虔の形を
こなごなにする。もうひとつの描写を提供する。人は新しい葡萄酒を古い革袋には入れない。
なぜならより豊かで活動的で醗酵して泡立つ人生は、古い革袋にとっては新しい葡萄酒である
からである。もしあなたがた新しい葡萄酒を古い革袋に入れようとしたら、古い革袋は張り裂け
葡萄酒も失われる。だからあなたがたはわたしが生きている新しい生き方、わたしの弟子たち
に生きさせようと願っている生き方をパリサイ的な古いやり方に押し込めようと考えてはならな
い。なぜならそれは不可能だからである。わたしは新しい種類の生き方に生きており、わたし
が求めているのは新しい種類の人、新しい精神、新しい形の宗教である。
 つまり、イエスは豊かな喜びの人であったものと思われる。喜びは彼の品性の特徴のひとつ
であった。彼が説教で語るのを聞いてごらんなさい。そうすれば、あなたがたは繰り返し彼の幸
福の特徴に気づくであろう。彼はいつもこう言っていた。「あなたがたは幼いこどものようになら
なければ、神の王国に入ることはできない」・・・一体幼いこどものなにがイエスを惹きつけたの
であろうか?イエスを惹きつけたもののひとつは、こどもの明るい心であった。心配事やため
息を追いやるこどもたちの笑い声無くして、私たちはこの世でどのようにするであろうか?あな
たがたはこれまで葬式の行列が通り過ぎるとき、こどもたちが通りで笑うのを聞いたことがきっ
とあることだろう?意気消沈した男女が集まっている部屋の真ん中で、金髪の幼いこどもが明
るい顔をしているのをこれまでに見たことがあることだろう?遺体安置所・・それは暗いこの世
の陰にいるキリスト者の挿し絵であるが・・の真ん中にこどもがいるのをご覧なさい。またもうひ
とつ、イエスが思い煩いについて言うことを聞きなさい。彼はそれをすべての罪のもっとも致命
的なもののひとつであると定義する。
私たちは現在について、必要なものがあることについて、明日について、私たちが私たちに向
かってくる大きな危機の時にしなければならないこと、言わなければならないことについて、思
い煩うべきではない。それは正しいことではない。イエスはこう言った。それは神の法に逆らっ
ている。自然を見よ。百合と鳥たちを見よ。すべての自然の愛らしい顔には何の心配事の痕
跡もない。今一度、彼が弟子たちに語った勧告を聞かれよ。イエスは語る。人々があなたがた
を責め、偽ってあらゆる悪口をあなたがたに言うとき、喜び、非常に喜びなさい。英語訳はギリ
シャ語を正しく表現していない。彼はこう言っている。「喜びなさい。喜んで飛び跳ねなさい。」あ
なたがたの喜びをそのまま表現しなさい。事が最も悪かったとき、あなたがたはしあわせに飛
び跳ねるべきである。確かに悲嘆にくれている人がそのようなアドバイスをすることができる訳
がない。イエスが大群衆に向かって語るのをもう一度聞いてみよう。「すべて、労している人、
重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま
す。」陰気な顔をした預言者には、そう語ることが決してできない。彼は極みまでも喜んだ。数
時間後には死を迎える二階座敷においてさえ、彼は正しく彼自身の心を沸き立たせる喜びを
もって語り、同じ喜びが彼を愛する人々の心に豊かであるように祈っている。彼は弟子たちに
こう語る。彼の教えのすべてを彼らに与えた。彼の望みは彼の喜びが彼らの内にとどまり、彼
らの喜びが満たされることであるからである、と。二階座敷にいた夜、イエスの顔にはなんの陰
りもなかった。十字架は間近であるが、それは何の陰も投げかけていない。
 しかし新約聖書は、イエスが泣いたと述べていないだろうか?そう述べている。それから、イ
エスはどこかで笑ったと述べているだろうか?述べていない。それ故、私たちはイエスがしばし
ば泣き、決して笑わなかったと推論するのだろうか?その推論はまったく根拠がない。なぜ新
約聖書はイエスが泣いたと述べるのか?それは恐らく、それが非常に希なことであったからで
ある。書き記されるのは普段はないでき事である。ニューヨーク市には4百万人の人々がい
る。その中の一人が別の一人を殺したとしよう・・・彼はただちに新聞に載る。殺人は普通では
ないことである。だから常に注目される。通りを何千人もの人が歩いている。それらの人々の
ひとりが転んで脚を折ったとしよう。するとその事故は注目される・・事故のなかった数千人の
人には何の注意も払われない。イエスはしょっちゅう笑った。だからそれは注目に値しなかった
のであった。イエスが泣くことは非常に希であった。彼が泣いたとき弟子たちは驚きに打たれ
た。ヨハネはそれを決して忘れることができなかった。ラザロの墓のところでマリヤと彼の姉妹
とすべての親族や友人たちが泣いていた日のことをヨハネは記憶していた。イエスが泣いたの
は正にそのときであった。非常に優しく愛情深いイエスの心は破れて・・非常に強く、輝いてい
て、元気いっぱいの人が泣いたのであった。ヨハネは言う。イエスの語ったこと行ったことの凡
てを書き記そうとしたら、それを記した本は世界もそれを入れきれないであろう、と。ヨハネは
百万のできごとを脇に置いて、ラザロの墓の側でイエスが泣いたという驚くべきできごとをとり
上げた。その文章はイエスが涙もろかったとか憂鬱であったとかということを証明するものでは
なく、イエスは朗らかで喜びの人であった事実の雄弁な証言である。
 だからキリスト者は、もしイエスに従おうとするのであれば、楽しく喜びに満ちた人であるべき
である。ある人々は直ちにこう言うであろう。「ああ。私は幸せ以外の何かであって、この世の
ものでもっとも悲嘆にくれている多くのキリスト者を知っている。彼らはめそめそとすすり泣く。
彼らはむせび泣く。彼らの顔は正に悲嘆を表している・・あなたはその事実をどう説明するの
か?その説明は、そのような人々は皆イエスに従うと告白してはいるが、イエスからまったく遠
く離れてつき従っているのである。あなたがたは「陰気で気力のないキリスト者たちは全くキリ
スト者ではない」と言ってしまう誘惑にかられることであろう。それは恐らく幾分厳しすぎる。彼ら
は成長したキリスト者、成熟あるいは円熟したキリスト者ではないという方がより正しいであろ
う。非常においしいリンゴも、その成長過程の早い段階ではすっぱく緑色をしている。太陽がま
だそれらのリンゴを金色で甘くする働きを完成していないのである。魂についてもそれと全く同
じで、成長の初期の段階では・・彼らはしばしば緑色ですっぱく、意地が悪く、辛辣さに満ちてい
る。しかし彼らが彼ら自身を太陽の輝き、非常に喜びに満ち、豊かで、陽気な太陽に委ねさえ
すれば、彼らの天性のすべてのジュースが甘く香り豊かに成長し、彼らはついに自分たちが平
和と喜びの王国の中にいることを見いだすであろう。
 喜ぶことができない非常に多くの人々がこの世にいることは悲劇である。あなたがたは本来
の自分よりも幸福でないのは一体どうしたわけか?恐らく何か間違いがあるに違いない!この
世でそのように楽しくない生き方をするとは何と哀れなことであろう!だれしもが非常に栄光に
富んだ宇宙に生きるべきであるのに、喝采を感じることなく生きるとは驚くべき事ではないか!
もしあなたがたがもの悲しくうなだれているなら何か間違いがあるためである。体か精神が健
康でないとか、その両方が病気かも知れない。あなたがたはまだ生き方の高い技術をまだ学
んでいない、つまりあなたがたはまだイエスのもとにきていないのだ。なぜ来てかれの足下に
座らないのか?なぜイエスのくびきをとり彼に学ばないのか。なぜなら彼のくびきは負いやすく
彼の荷は軽いからである。





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